車内は騒然としていた。 電車が止まってから、かれこれ三十分は経っている。車内放送では、二つ先の駅の信号故障による為の緊急停止と説明がされたが、だからといってそれじゃぁいつまでも待ちますという訳にもいかない。 電車に乗っている人間は大抵、予定があるから電車で移動をしている。自宅に帰るだけという人間だっているかもしれないが、例え予定が入っていないとしても自分の時間を何かによって削られるということは気分の良いことではないだろう。 だから騒然とした車内には、肌で感じ取れるほどの苛立ちが充満していた。 俺もまた、その一人だ。 既に車内での携帯電話での通話はご遠慮ください、という決まりは無視されていて、あちこちで遅れる旨を伝える声が飛び交う。それに便乗しても良かったのだけれど、何となく普段はしないことをすることに抵抗を感じて、俺は携帯のメール新規作成画面を開いた。 『電車が止まっちゃったから、遅れそうです』 待ち合わせ時間までは、あと一時間近く余裕がある。しかし、ここから目的地までは三十分弱。いつ運転が再開されるかも分からないので、とりあえずそう連絡を入れておくことにしたのだ。 初期設定から変えていない送信画面では、紙飛行機が都会の空へと流れるように飛んでいくアニメーションが映って、それからすぐに『送信完了』の文字が表示される。 とりあえずは安心だ。 俺は椅子に背中を深く預けて目を閉じた。 割とどこでも寝られる体質なのだが、特に乗り物での居眠りは気持ちよく睡眠が取れると満足感すら覚えることがある。 目を閉じて最初のうちは聞こえている周りの会話と機械音は、次には機械音だけになる。それがふとしたときに無音になると、その瞬間には既に寝に入っていることになる。それでも居眠りなので、朧気に体が揺られていることは感じるし、電車であれば停車駅ごとにうっすらと目を開けることもある。 ただ、そうしたまどろみがまた至極魅力的なものに感じられるのだ。 今は残念なことに電車が停車してしまっているのでそれらの楽しみを見いだすことは出来ないが、それでもただぼんやりと過ぎていく時間に苛立ちを感じるよりは寝ているほうがよっぽど効率的な時間の使い方だ。 さわさわと落ち着きのない車内の雰囲気の中、大きな窓から差す日差しの暖かさを背中に感じながら目を閉じていると、それだけでのんびりとした幸せを感じることが出来る。 うとうと、時間感覚も忘れてまどろんでいると不意に肩に小さな衝撃を覚えた。堅い感覚にびくりと肩を上下させて目を見開く。 一体何なんだ、と責めるような目つきになっていたかもしれない。 視線の先には同じ年頃の男が、申し訳なさそうに笑っていた。目を閉じる前までは隣に座っていなかった男だった。 殊勝な表情を浮かべているのだが、元々の顔つきがきつそうなのと端正なことで圧迫感を感じる。つり上がった目尻は、意志が強そうなのと同時に我が儘そうにも見える。 男は、大きな口を薄く横に引いて笑いながら、すいませんけど、と話しかけてきた。 「あの、何で電車止まっちゃってるか教えてもらえます?」 「はぁ。なんか、信号故障らしいですけど」 「あー、なるほどね」 男は困ったなぁ、と独り言のように呟いた。別にその意味を追求するつもりはなかったのだけれど、何となく見ていたら男はあっと気づいたような顔をしていやね、と勝手に話し始めた。 「俺さっきまで寝入っちゃっててさ。気づいたら電車止まってて、誰かに聞こうかなって思って、どうせ聞くなら同じぐらい年の奴がいいかなって。だって多分、高校生、でしょ?」 「高一、です」 「ほらね。俺も高校生」 自分を指さして、何故か少し誇らしげだった。 随分と人なつこい、悪く言えば馴れ馴れしい男だなと思う。前屈みに、覗き込んでくるようにしてすっかり打ち解けたしゃべり方をしてくる男に、あまり見知らぬ人間と話すことを得意としない俺は、辟易としながら曖昧な受け答えばかりを繰り返す。 さっさとどこか行ってくれないかな、というのが正直な気持ちだったが止まった電車の中で行く場所などは限られている。相手にしたって、一旦話しかけてきた以上話すだけ話して移動するようなことはまずないだろう。 だったらせめて、はいどうもと軽く言って会話を打ち切ってくれはしないだろうかと願う。沈黙が気まずいのなら、そのまま寝たふりでもしてくれれば良い。 そうすれば俺もまた、目を瞑ってまどろみに身をゆだねることが出来るのだ。 眠気に体が温まってくる中で久しぶりに会う幼なじみに話したいことを箇条書きのように頭の中に挙げていって、きっとこんな反応をするんじゃないかなと想像して悦に浸りたい。 ぼんやりと、男の話に相づちを打ちながら何気なしに窓の外を見る。 運転が再開する気配はまるでなかった。あーぁ、とため息の代わりに腹を引っ込めて深呼吸をした。その拍子に大きなあくびが出てしまって慌てたが、男は「あれ、眠いの?」とそれ程気を害した風でもなく聞いてきたので正直にそうだと頷いた。 昨夜はあまり寝て無くて、なんてありきたりの言い訳ぐらいは用意していたのだが、意外なことに男はあっさりと俺を解放した。 「そうだよな。寝てるところ起こしたわけだし、そりゃ眠いよな」 大袈裟に身を逸らして乾いた笑い声をあげた。引きつったような笑い方は、特徴的であると同時にあまり好意の持てないもので、俺は愛想笑いを浮かべながらすいませんと(別にそうする必要もないのかもしれなかったが)謝って会話を打ち切った。 会話が終わった途端、車内が急に静まりかえった気がした。会話を打ち切ったことよりも、その静けさが気まずくて俺は目をきつく閉じて寝入ったふりをした。 そうしているうちに本当に眠気が襲ってきて、またしばらくすると今後は電車が動き出した振動を感じた。 車内放送が、運転再開を告げていよいよ電車の速度が速まる。 薄目を開けて携帯のデジタル時計を見る。 これなら、時間に間に合いそうだ。 メールを送ろうかとも思ったが、何となく面倒で時間通りに着くのなら問題ないのだからとそのまま再び目を閉じた。 カタンカタン。揺れる電車の振動が、眠りをますます心地良いものにしてくれる。 停車するたびに目をうっすらと開けて、まだ大丈夫だと確信がありながら駅を確認する時には優越感にも似た気分にすらなる。 なんとかなりそうだぞ、と思った。 メールでのやり取りはわりと頻繁にしているが、語彙が極端に少ない幼なじみからのメールと言うのは数える程しか今までになかった。 それでも一度はよそよそしくなってしまった関係が修復されたことは嬉しかったし、自分からメールを送ることは苦ではなかったのでその現状に満足していた。 幼なじみからのメールが届いたのはつい一週間前のことだ。前々からこっちの休みを把握していたこともあってか、これもまた珍しく積極的な誘いのメールだった。 舞い上がったのはその一文を読んだ時。その気持ちが急激に冷えたのは、次に続いた「会わせたい人がいるから」の文を読んだからだ。 会わせたい人。 すわ恋人でも出来たのかと思って、すぐにそれは有り得ないなと打ち消した。 彼は一にも二にも野球優先の男であるし、それは自分もそうであるからとてもすぐに納得出来た。だから、一体どうして俺にわざわざ会わせたい人がいるのだろうかと、とても不思議に思ったし、不安でもあった。その人物に会いたいようで、会いたくないと思った。 その不安定な気持ちのまま、俺は延々電車に揺られて埼玉まで足を運んできている。 正直なところ、居眠りをすることで不安な気持ちから逃げようとしていたのかもしれない。 電車での居眠りは心地良い。 だから、それを実行することでせめて着く間ぐらいは不安な気持ちから解放されたかったのだ。 電車が停車して駅の名前を車掌が独特の声で告げる。 あと二駅。 なんとかなるかもしれない。 不安な気持ちは盛り返してきたものの、当初ほどでもない。 「もしもし」 不意に車内には相応しくない、はっきりとした声がした。 隣の男が携帯電話の着信を受け取ったようだった。目を瞑ったまま、俺は眉間に皺を寄せて、聞き耳を立てる。 男は通話を打ち切るつもりはないらしく、遠慮のない明瞭な声で話し続けていた。 「今、そう、電車動いてさ。予定通り着きそう」 あぁ、男も待ち合わせをしていたのだ。 割と整った顔立ちだし、彼女にでも会いに行くのだろうか。そんなことを考えながらも、浮かれた声が止まないことに少し苛立ちを覚える。 「は、何、きこえない、ミハシ」 三橋。 男は確かにそう言った。 三橋。それは俺の幼なじみの名前だった。 心臓が跳ね上がり、耳まで熱くなるのを感じる。目を瞑っているのに、目が回る感覚にまで襲われた。 あと二駅だから。 男はそう言った。 あぁ、こいつか。 電車内で平然と電話をするような男か、と思うとなんだか情けなくて泣けてきた。 男は蕩々と話を続ける。 その無神経さに腹が立っているのは確かなのに、その声が耳によくなじむのが悔しくてしかたがなかった。 |