水滴で曇ったガラスは不透明に向こうの景色を遮る。ツルリと重なり合った水滴にガラスが耐えきれず丸い雫を表面に滑らせた。 瑞々しい、果汁の溢れ出る果物の皮が剥けたようだと、慎吾は思う。思ったところで感慨に浸るわけでもなく、ただそう思っただけだった。小さな羽虫がその曇った窓ガラスの上を垂直に右往左往しているのが見えたが、それも見たというだけでやはりそこには何の感慨もない。 重たそうに何本もの細い足をうごめかせる虫にとって、水滴はまるで押し寄せる波のように感じられているのかもしれない。もう息も絶え絶えで余力なんでほとんど残っていないのに、子孫を残すという本能の為だけに同じところを行き来しながら逃れようとしているのだ。 それはまるで無駄なことだと、そう言ったところで虫は所詮は虫だから理解する知能もない。お前はさっきから同じところを行っては戻ってと繰り返しているだけなんだよ、と嘲笑ったとしても怒りすらしない。 それはとても哀れだな、とここで初めて慎吾は視界に入る景色に対しての感想を得た。 たかだか虫一匹、と思いながらも優越感さえ覚える。 楽しそう、と不意に声をかけられる。 実際にはそれが独り言なのか会話なのかは曖昧だった。か細く消え入りそうな声は蚊の羽音にも似ていてとても耳障りだ、と慎吾は思った。 振り向くまでもなく、それが三橋の声だと慎吾は分かっていたので別に楽しかないよとぼんやりと篭もった声で返しただけで、ちらりとも声のした方を見ることはない。 「楽しいわけがない。なぁんで他人の痴話喧嘩に巻き込まれないといけないの」 三橋の肩が大きく跳ね上がる。しかし声はない。泣き声もない。 そのことに安堵を覚えながら、先ほどまで三橋が呼吸困難になりそうな程に泣いていたことを思い出してまだ完全には安心出来ずにいる。 部室に本来ならばいるはずもない他校のエースがいて、異常な泣き方をしているのを見られでもすればどんな妙な噂が立つか分かったものではない。 噂が立ったとしてそれは誤解なのだから弁明すれば良いのだが、そんなことをしても人の好奇心は消えるものではない。高校生なんて世間に出たことはないくせに、一丁前に世間体だけは理解したようなふりをしていて、小さな学校という社会の中にその世知辛い風潮を反映させる生き物なのだ。社会が狭い分どんなに些細で小さな相違点も見逃さない。 ふぅんそうなの、とこれ見よがしに面白がった顔をされるだけに決まっている。 男同士で何をやましいことがあるもんか、と言い放つことも出来るはずだ。 しかしそれは、はばかられる事情があった。 三橋の痴話喧嘩の相手は慎吾と同じチームにいる高瀬準太だ。男同士の恋愛を気持ち悪いと避けるつもりは慎吾には毛頭なかったが、それでも自分がその火の粉を浴びるのは御免だと常々思っていた。 他人事だから同性愛も許容出来るのだ。 自分に関わることであれば必死で逃げる。逃げて逃げて、世間一般的な日常を抱きかかえて生活する。 準太と三橋の事情を知ってもなお、悪びれずに慎吾はそう公言していた。準太はそれは慎吾さんの尺度なんだから構わないんじゃないですかね、とどうでも良さそうに笑っていたが、あれは本当にどうでも良かったのだろう。 少なくとも準太の中で慎吾は安全な人間と判断されたのだ。 厄介事さえ持ち込まずに、真面目に野球をしてさえくれればあとは慎吾にとっては何の問題もないし、興味もなかった。 それが準太に悟られたのかどうか、本人に聞いたわけではないから慎吾には分かりかねるが何も聞かない慎吾のスタンスを準太は好んでいるように見受けられた。 慎吾にしてみれば、他人の恋愛事なんて男女間でも面倒なのに、男同士でのなんて仮に相談されても答えようがない。というか、答えたくないことだ。 向こうだってお前のこと好きだよ分かるよ俺、とかなんとか。 そんなことを言えたら、自分にもその気があるような気がするので言いたくないと心底思っている。 それなのに気まぐれに部室に遊びに来た慎吾の目の前で痴話喧嘩が始まったかと思えば、準太は一方的に言うだけのことを言って部室を出て行ってしまったのだ。 いやいや困りますよそんな部外者の俺に何をしろっていうんですか。ふざけた敬語でツッコミを入れても三橋は泣いているし、準太は既にいなくなっていた。 押し殺すように泣く三橋は、見るからに苦しそうで放っておけば間違って喉を詰まらせでもして死んでしまうんじゃないかと思えた程に危ういものだった。 多分、泣き方がヘタなのだ。 慎吾は思って、なんて面倒な男なのだろうかと上から顔を伏せて泣いている三橋を見た。 慰めの言葉はかけなかった。その代わり知らぬ振りをして出て行くこともしなかった。 慎吾の知るところでは、準太は三橋のことを相当気に入っている。当然「お付き合い」をしているのだから気に入っていて当然なのだが、そこで惚れているなどという言葉を例え自分の心中のみでも使いたくないのはどうでも良いと言って思ってもいる慎吾の、もっと深いところにある本心なのだろう。 とにかく「気に入っている」のだから、泣いている三橋を本気で放って帰ってしまいはしないだろうという確信が慎吾にはあった。 あるにはあったが、ただそれだけのことでもだった。 三橋は泣き続け、隣にいるだけでも息苦しい程に噎せ返る。いくら慎吾が我関せずでいたいと思っていたとしても、さすがに何か一声かけずにはいられない状況下に追い込まれてしまったのだ。 あぁ逃げたい逃げ出したいと思って部室の錆びたドアを見る。けれど、そこに足を向けはしない。 だって他校のエースがこんなところに一人でいるの気づかれちゃったとして、こいつ言い訳とかちゃんと出来ないに違いない。それは先に思ったことと矛盾していた。 慎吾自身がそれに気づいて顔を顰めても、余計に感情の行き場を無くすばかりでちっとも気が晴れはしなかった。 出来ることなら関わりたくないという気持ちは変わらぬまま、けれど放っておく訳にもいかないぞという方面に気持ちが動く。 悩んで悩んで、結局行動に移すよりも先に三橋は泣きやんでしまって、慎吾はそれがまた気に入らなかったのだ。 何よりも、関わりたくないと思っている人間に気持ちを割いていることが悔しくて仕方がなかった。 「別に喧嘩でも何でもすれば良いと思うよ。でも、他人のいるところでやるっていうのは、あんまりにも子供じみてるだろ」 第一喧嘩の理由も大したことない。 慎吾は鼻で笑いながら言った。 「とりあえず泣きやんだんなら、もう帰りなよ」 最大限に優しい声を出したつもりだった。お前の面倒を見るのなんて御免だよ、と言い放たずに済んだ自分を内心で褒めまくって、慎吾はもう一度繰り返す。 「帰った方が良いよ。準太には、言っておくから」 「いい人、ですね」 「大袈裟な。このぐらい普通だろ」 「それ、い、言われたことあります。泉くん、とか、」 「いや俺イズミくんとか知らないし。知ってるけど、チームメイトのこと言ってるんだろうから名前は知ってるけど、でも知らないから」 クフリ。 笑った三橋の声に、案外朗らかに笑うのだなと小さく驚く。 でもやっぱりいい人、と三橋は言う。 「泣いてるの、ずっと、ま、待ってくれた、」 「別に優しくしたつもりないよ。ただ、後味悪いの嫌だったっていうかさ。だいたいお前他校生だし、一人にしたら不審者じゃん?」 顔を背けて素っ気なく言う慎吾に、三橋がフと声を漏らした。反射的に顔を見て、笑っているのだと気づいてさらにその顔が赤く染まっていることに慌てた。 「俺ホモじゃないから」 三橋は一瞬首を傾げて不思議そうな顔をしてから、あからさまに感情を高ぶらせたことを表情と肩の緊張に表す。 「俺も、ホモとか、じゃ、ないです。そんなに気が多く、見えるんですか。おれ、ちが、う、のに、」 三橋が泣くこと以外で感情を高ぶらせるのを見るのは初めてのことだった。 そうは言え、そもそも試合以外で直接会ったことは今回が初めてなのだから、何にしても慎吾にとっては初めてのことばかりになるのは当然のことだ。 それでも、泣くということに関しては容易に予想も想像も出来た。聞きかじった性格だけでも、異常な後ろ向きの性格が伺えていたからだ。 しかし怒りを顕わにするだなんて、そんなことは予想だにしていないことだった。 目を見張ったのはその驚きからだったのだが、三橋には性癖を否定したことへの意外性と思えたのだろう。 先ほどまでとは違う、怒りと悔しさから赤く染められた頬はわずかに震えていた。 「お、男が、男と話すのって、ダメなんですか?誤解、さ、されるんですか?」 上擦った声が所々掠れて震える。 「準さんも、す、すぐ怒るんだ、」 それは付き合ってるんだから嫉妬だろ、と慎吾は言いかけたが三橋がほとんど泣き声に近い震えた声でそれを遮った。 「心配してもらえて、お、俺なんかの、心配、してくれて、でもおれだれとも、そんなんじゃないのに」 「準太は?」 意地が悪いことだ、と自覚はあった。 痴話喧嘩の愚痴めいてきた雰囲気に、自分には聞くつもりがないということを言外に表したつもりだった。最も、三橋がそこまで聡いとも思ってはいなかったが。 それでもとりあえず、わずかに腹の底に溜まっている苛立ちを発散する為に、口に出して言ってしまいたかったのだ。 三橋が息を詰まらせる。 準さんはいい人です、とたどたどしく返ってくる。 「いい人です、がっこう違うのに、気に掛けてくれて、い、いやだけど俺の、誤解されるようなとこ、おこってくれて、い、いいひとです」 「え、そうなの?」 いい人ですよ。 慎吾の言葉に三橋はさらに同じ言葉を繰り返した。 それを聞いて、ちょっとおかしくはないかい?と思わず芝居台詞めいた疑問が慎吾の脳裏をよぎる。 付き合ってなんかいるわけないですよねぇ、と聞いた言葉が思わず敬語になってしまったのは少なくとも自分の知っている世間ではマイノリティかつ非日常的な同性愛についての質問を自らしていることへのぎこちなさと、準太がこれまでに慎吾に伝えていた事柄との不一致からだ。 「おれ、ほ、ホモじゃない、です」 「だよなー」 間延びした返事をするのは、自分の動揺を隠すためだった。 (三橋と付き合ってるってはっきりと確かにそう言ったのに、そうじゃないってことはつまりそれは準太の勝手な言い分ってことで三橋はホモじゃなくてだけど準太はホモで、付き合ってるって思いこんでしまってる可哀相な男ってことで) 三橋ったらね、と破面して言う準太の三橋話題はいつだってそれなりにリアリティがあった。 (どうしよう、後輩がストーキングとかしてたりしたら) そりゃマズイ。 慎吾は思った。 (っていうか、何よりヤバイでしょ) ホモなんかじゃないよなぁそうだよなぁ悪かったよ、と内心で覚えた不安や疑問や多少の怯えを全て隠してやけに明るい口調で三橋に謝る。 安堵したように体の力を抜いた三橋は、窓ガラスが水滴で曇っているのも構わずに背中を凭れさせた。 あぁ羽虫が。 慎吾はぼんやり思った。 三橋の背中には小さな黒点のような死骸が張り付いているはずだ。湿ったワイシャツに湿った死骸が張り付いている様は、惨めで不潔なのだろうと想像して腕に嫌悪感からの痒みすら覚える。 その窓ガラスの向こうに、人影が映り込んだ。 準太が戻ってきたのだ。水滴に遮られて表情までは分からなかったが、ちらりと一瞬こちらを気にしている様子で顔を向けていたのだけは分かった。 慎吾は不意に、自分が三橋の背中に押しつぶされた羽虫になったような気分になった。 |
とても不本意。