いっそのこと全てなかったことにして
この愛おしいと思う気持ちすらも
お前が三橋か、と男は唐突に現れてそう言った。 何の変哲もない日だった。世の中で特に目立ったニュースがあるわけでもなく、学校で特別な行事があるわけでもない。生徒はみな日常を過ごし、野球部員もまた普段と同じように朝練があって授業があって、放課後も練習という習慣を辿っていた。 敢えていえば、その日の午後は雨上がりでグラウンドの土がぬかるんでいたというコンディションが普段とは違っていたが、それはそれで練習の一環なのだと誰もそれに対して不平を言うわけでもなく練習に勤しんでいた。 練習メニューを全て終えて、部員が着替えを終えて部室から出てくるころには辺りは暗闇ばかりで、時々遠くで車の排気音がする以外にはほとんど何の物音もなかった。 しかし、それもまた日常になっており、しんみりとするわけでもなし、それぞれが疲れた早く飯食いたい寝たいと、覇気のないぼんやりとした声で半ば呪文のように言い合っていた。 そんな会話の中で、いち早く正門を出た水谷が、「明日の英語の予習、すんのめんどー」と嘆くように言う。続いて正門を出た栄口が「どうせ女子に頼んで写すくせに」と呆れた口調で言った。ひどい、と大げさに被害者ぶった水谷の声が聞こえると、誰もが何となく予想していた。しかし、水谷どころか栄口の声すら続かない。 ピタリと、まるで会話を途切れさせてしまった二人のことを怪訝に思いながら、それでも適当に雑談を続けている部員達が次々と正門を出る。 その度に声が減り、ついに後方の泉、阿部、田島、三橋の四人が出る頃になると、不審に思った泉が「なにかあんの?」と声を掛けた。 のぞき込むようにして正門から出る。 コンクリートで作られた正門のその少し先、内側からは丁度影になって見えない場所に見慣れない人影があった。 遠目からでもはっきりと分かる体躯の良さに、泉は自分が無意識のうちに萎縮していくのが分かった。 そして泉までも黙ってしまったことに、他の三人も何事かと駆け寄ってくる。 男は不貞不貞しく腕を組んだ格好で、じろりと部員たちを睨み付けるような視線を向けてきた。誰もが、不用意に言葉を口に出しては行けないという、警告めいたものを内心持っていたのだろう。誰一人として、声を発するものはいなかった。 そして男もまた、声を発することはなくただじぃと一人一人を判別するようにゆっくりと視線を動かす。 そしてその視線が、身を小さくして阿部の後ろに隠れるようにして立っている三橋を捉えると「お前が三橋か」と冒頭の言葉を発したのだ。 その言葉は、三橋とは面識がないことを表していた。 まず過敏に反応したのは、すっかり怯えて涙目になっている三橋ではなく阿部だった。 「何か用ですか?」 敬語なのはあくまでも建前だけで、その声質は険のあるものだ。 男は阿部の態度に憤慨するわけでもなく、ただフンと鼻を鳴らして阿部を一瞥した。 「用がなきゃ来ないだろ。偵察だよ偵察」 初対面の遠慮というものをまるで感じさせない不躾な口調に、雰囲気だけでも分かるほどにはっきりと阿部が神経を尖らせた。 どこの学校だと聞く口調は、既に敬語ではない。 男はニヤリと、本人はニヒルなつもりなのか歯茎をむき出しにして笑ってみせると、俺は利央の兄ちゃんだよと、阿部ではなく田島を見て言った。 なんだよそれ誰だよ、と水谷が甲高い声で言ったのを阿部がうるさそうに横目で見ながら桐青の一年だろと律儀に答えてやる。 そんなやり取りには目もくれず、男は田島に改めて視線を向けていた。ぐりんと瞳を大きく見開いている田島に、好意的とは言えない笑みを浮かべる。 「お前、田島だろ」 その野太い声は、確認というよりは既に決定付けられているものに有無を言わせないような口調だった。 そういう物言いをする男なのかもしれない。 片手を腰に当てて、がっしりと上背のある体つきで見下ろすような態度でいる呂佳はとても威圧感がある。しかしそれを意識的にしているのかというと、田島に近づこうとして肘を当ててしまった西広に対して「悪いな」と律儀に(やはりそれは不遜な口調ではあったが)謝るので、人を見下したように見えてしまう性分なのだろう。 「利央が、田島のことをすごく評価してたんだよ」 誰にともなく、呂佳は田島の隣に立つとそう言った。それから、三橋を見ると「それから、そっちのエースのことも」と付け加える。 からかうような含みのある声に、阿部がいきり立って「お前の弟んとこはもう負けただろ」と怒鳴った。あまりにも不躾な言いぐさに花井と栄口が揃って慌てた。 必要以上に卑屈になって、勝てたのはまぐれだと言うつもりが二人にあるわけではない。勝てたことが喜ばしいからこそ、負けた時の消失感も十分に理解出来る。それは阿部だって、分からないはずはないのだ。口は悪いが相手の気持ちを慮ることの出来ない人間ではない。花井と栄口はそれを分かっているからこそ、一時の感情の高ぶりなどで諍いが起きることを危惧して慌てて阿部を止めようと身を乗り出したのだ。しかし、呂佳がそれを気にした様子はなく、ゲラリと太い声で笑っただけだった。 「そう、情けない。うちの弟と来たら試合にすら出れちゃいねぇ上に、負けて悔しいって泣きやがる」 女々しい奴だろう?と笑いながらひとしきり自分の弟を貶すと、不意に声のトーンを変えて「でも、下手じゃねぇんだよ」と言った。 「見る目もある。なんたって俺の弟だからよ。不出来な弟でも、俺の弟だからまるでダメなわけじゃねぇ」 「あんた結局自分の弟、自慢したいだけかよ」 小馬鹿にするように阿部が言い放ったのを、花井が馬鹿っと小声で諫める。 阿部はそれに鼻を鳴らすと、臆面もなく呂佳を見上げた。 「そりゃ、田島は四番で三橋はうちのエースだから、すごいってあんたの弟が言ってんのは正しいよ」 「だから、見に来たんだよ」 「練習は終わりましたけどね」 「どういう奴か見に来たんだから、別にこれで良いんだよ」 慇懃無礼な阿部の言葉にも、ニィと歯茎をむき出しにして笑うばかりだ。 そして不意に三橋の肩を鷲づかみにした。 田島と三橋との間には、丁度一人分ほどの間隔があったので、呂佳の腕は田島の頭上をまたぐような形になっていた。 三橋が引きつけのような悲鳴を上げ、阿部が睨む。部員は皆それぞれに驚きや警戒心を露わにしたが、そんな中でも田島だけがやけに大人しく呂佳を無感情の瞳で見上げていた。 「三橋に用があんの?俺に用があんの?」 「どちらかと言えば、今日は三橋の方かな」 「なら、俺にしといてよ」 田島は三橋の腕を強く自分の方へ引いて、つい今し方の無表情とはうって変わって全身で威嚇するように目一杯見上げて呂佳を見た。 「そういう訳にはいかない。それに、決めるのはお前じゃなくて三橋だろ?」 なぁ三橋、と呂佳はわざとらしく猫なで声をだして三橋の顔をのぞき込むようにして尋ねる。 俺はお前がスゴイと思ったからちょっと話を聞きたいなと思ったんだよダメかな無理かな?とたたみ掛けるように聞かれて、三橋はますます身を小さくしてうめき声のようなか細い声を出すばかりだった。 「キョウハク、してんなよ」 「馬鹿野郎。このご時世に未成年にそんな真似したら、タダじゃ済まねぇんだよ。頼むから、迂闊にそういうこと言うの止してくれ」 情けない声を出す呂佳に、田島は斜に構えた態度で「だったら、まずその手を離せよ」と言い放った。 「離したら、三橋と話しさせてくれるわけ?」 「俺にしとけって言ってるじゃん」 「じゃ、離さない」 からかっている。 それは明らかだった。しかし、田島はそれに対して冷静に対応するだけの余裕がなかった。 大人げないことすんなよ、と上擦った声で怒鳴る。 それから前触れもなく部員の方を振り向くと「帰れ」と命令するように言った。 ムッとした顔で、花井が何でだよと不平を漏らす。 はっきりとした二重に縁取られている目を見開いたような表情で、田島ははっきりとした口調でもう一度、帰れと繰り返した。 「俺と三橋のこと見に来たって言ってんだから、お前らは帰れよ」 「お前、ちょっと冷静になれよ。この状況ではいよって帰れるわけないだろ」 花井が諫めるのも聞かずに、田島は「お前らには関係ないだろ」と辛辣に言い放った。それが無遠慮に言われたものであれば、田島らしいと思って花井はさらに言い募ったに違いなかった。しかしそれは辛辣だった。 普段の本心かどうか疑ってしまうような、脳天気さなどは欠片もない。花井が用意していた言葉を言いあぐねて口を開閉していると不意に余裕がないんだ、と泉が背後で呟いた。 そこで、さも愉快そうに泉の口元が緩むのを、振り返った花井ははっきりと見た。そして泉は、それじゃ帰ろうかと皆に提案したのだ。 「明日、ちゃんと報告な」 阿部を筆頭に渋る部員たちを半ば強引に促して進みながら、泉は田島を指さして言う。 分かってる、と帰ってきた答えのトーンもまた普段の田島らしからぬ細いもので、田島の態度に一番憤慨を示していたはずの花井も、また明日と何事もないような挨拶を残すことしか出来なかった。 皆が去って、静けさがその場に馴染むまで十分に待ってようやく口を開いたのは田島だった。 ぶっきらぼうな口調で「それで、用事は」と先を急かす。 「言ったろ。ちょっと話を聞きたいなと思ったんだって」 「だから、」 「特にはねぇよ」 田島の言葉を遮って、太い声で呂佳が言うと三橋がひぃと弱々しく悲鳴を上げた。 途端に、田島がいきり立つ。 「三橋、離せよ」 「なんだってお前、そうムキになるんだよ?」 呂佳は愉快そうに笑って言う。そうしている間にも、三橋を離す気配はまるでない。その図々しさに余計に腹を立てた田島が、コンと音が聞こえる程に強く歯を噛みしめて離せ離せってば!と駄々をこねるように言い募った。 ゲラゲラと、決して上品ではない笑い声を上げて呂佳は身を仰け反らせる。 「どんだけ必死なんだよ。お前、三橋のこと大好きだろ」 「好きだよ」 呂佳はからかったつもりだった。しかし、田島の答えは冗談とは思えない。 どうせ田島がムキになって反論してくるだろうから、それに対して冗談だよと笑い飛ばしてやるつもりだった呂佳は何も言えずに睨み上げてくる田島を笑おうとしてピタリと止まった半端な表情で見下ろしていた。 それをどう思ったのか、田島はさらに「三橋のこと、好きだよ」と繰り返す。 唖然としていた呂佳の腕がビクリと痙攣するように震えた。それは驚きのあまりなのだと呂佳自身が思っていたのに、実際には手を置いている三橋の肩が震えていたのだ。 さすがに手を退かして、悪かったよと謝罪の言葉を口にして田島の方へ背中を押して促してやった。しかし、三橋の足が田島の方へ進むことはなかった。 「い、やだ」 弱々しくではあったが、それでもすぐ傍にいた呂佳には十分聞こえる声音だった。 あぁ、少し触れられているだけでも嫌なのか、と呂佳は思いの外自分がショックを受けていることに驚きながらも、素直に背中から手を離した。 すると、三橋が慌てて呂佳の腕を掴んで縋るような視線を向けてくる。 「いやだ。こ、こわい」 「だから、田島のとこに行けって」 それが嫌なのだと、三橋は首を横に振る。 怖いのだと、三橋は言った。 「田島くんみたい、な、す、すごい人が、俺を好きって言うのはヤ、だ。俺なんか、をす、好きなんて・・たじま、くんまで、お、おれのせい、で」 要領を得ない不明瞭な話し方だった。 気が弱いらしい、という話は利央から聞いていたが、これはあまりにも特殊過ぎる。始めてまともに認識した三橋という人間は、呂佳の最も嫌うタイプの人間だった。それなのに、その飛び抜けた卑屈さぶりに、苛つくことも忘れて大して知りもしない両者の為のフォローすらしていた。 三橋はエースで田島は四番で、どっちもすごいんだから良いじゃないか。 それは阿部が言ったことを繰り返しただけに過ぎなかった。しかし、そんな陳腐で単純なことを言うだけでも、三橋が幾分が落ち着いたのが目に見えて分かる。 こいつもまた単純なんだ。 呂佳は安堵し、その気持ちを田島を分かち合おうと視線を向けた。 すると田島が言った。 「なんであんたばっかり」 体の両脇に拳を握りしめた手をピタリと付けて、田島は震える声であんたのせいだと、目に涙すら浮かべて呂佳を責めた。 「言わないつもりだったのに。言ったら三橋は絶対に泣くって分かってたから、キョゼツされるって分かってたから、まだ言わないつもりだったのに。それなのにあんたが、大人のくせに大人げないことばっかりして俺のことイライラさせて。そうかと思ったら、物わかりの良い大人みたいな態度になっちゃってさ。あんたのせいだ、あんたのせいなんだよ!」 地団駄を踏んで、悲鳴のように責め立てる。 俺のせいじゃないだろ。 呂佳がそう呟いたのを、田島が聞いていたのかは分からない。 あんたのせいだと、半ば狂ったように繰り返す田島を怯えるような目で三橋が凝視している。 その雰囲気からはちょっと想像のつかないゴツゴツと節の目立つ指が、信頼しきったかのように呂佳の腕を掴んでいることにかすかな優越感と、意地の悪い感情が湧き上がってくるのを感じる。 「そうムキになるなよ。怖がってるだろ」 そんなことは微塵も思っていなかった。 敢えて大人びた発言をしたことによって、田島がさらに興奮するのを見たいと思っただけだった。 |