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東金御殿とその周辺 |
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今、御殿はないが2つの古いお寺が当時を思い起こす
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八鶴湖の周りに由緒あるお寺が2つ、本漸寺(ほんぜんじ)は東金城主、酒井氏一族の菩提寺として知られ 本堂裏手にある横穴は土気城まで続いているとされている。
また、最福寺は807年に最澄が建てたとされる古いお寺である。この寺は天正年間に「西福寺」と改め、 宝永6年に現在地に移転が行われ、昭和20年に元の寺名の最福寺に戻った。この寺は家康と関係が深いとされる。
東金城は前に記した本漸寺の裏山一帯(現在は御殿山となっている)にあった山城で、現在は何も残っていない。
酒井氏の居城で東鏡城(とうきょう)、鴇ヶ嶺城(ときがね)と呼ばれていた。 天正18年に小田原の北条氏が秀吉に敗れたとき酒井氏も運命をともにし、その後この城は廃城となった。
そして、この城跡に東金御殿や陣屋等が建つ事になった。
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御殿跡の東金高校正門(門柱は明治に建てられたもの) |
| 東金御殿は慶長18年(1613年)から19年にかけ建てられたもので、船橋御殿や千葉の御茶屋御殿より広く 40を超える部屋があり、内部には番所など7ヶ所も設けられて、厳しい警備が施されていたようである。 (御殿古絵図) しかし寛文11年(1671年)に取り壊され、明治にはいってからは民間の手に渡り、高等女学校(東金高校の前身) の創設の際、この御殿山の一部分が譲り渡されてでき後に東金高校となり現在に至っている。 また、当時この土地を管理していた小川荘次郎氏が残りの土地1町8反を買取り、歴史的に由緒深い場所を一般に 広く開放しようと、昭和4年に私財を投じて私園を開いた。 現在も御殿山「碑林」として本丸跡の山頂に行く道中に22もの 詩碑、歌碑、句碑などの石碑が建っており、市民が自由に散策できるようになっている。 |


左は最福寺本堂・中央は最福寺境内にある与三郎の墓・右は本漸寺正門
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家康にまつわるお話
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家康が最後まで見せた政権安定への“道” 御成街道が短期間に多くの農民を駆り出して造成された街道と3ヶ所の大きな御殿を建てた。 しかし家康や秀忠が鷹狩に使った回数は20年の間、僅か13回しか行われなかったと記録されている。これは鷹狩の目的だけでなく、やはり各地の様子を探る目的が大きかったのではないかと思われる、 ここ東金の鷹狩だけでなく家康や他の将軍は関東一円に鷹狩をした事からも言えるのではないかと思う。 そして、この街道を早急に作らねばならない事情が当然あった。房総で唯一の外様大名である安房里見氏が目障りな存在であったことや、 大久保忠隣(ただちか、小田原藩主)の処遇のことなどが有り、徳川政権の安定のための布石の一つであったと思える。 幸い家康の側近の老職、佐倉藩主・土井利勝の領地に近いこともあってスムーズに出来上がった。 このようにしてできた、この街道が軍用道路としての意味を持ち、そのために直線な街道に仕上げることが必要であった。これにより工事期間の短縮もできたと思う。 尚、街道はこの先、御成新道として成東町小松まで約8キロメートルの長さで作られた。 現在、御成街道は場所によっては名称が変わっているが、結構便利に使われている。 今後、拡張されたりして益々昔の面影が薄くなってしまうが、将来もズーッと我々の記憶の中に留めておきたい。 また、この御成街道に興味が湧いた方や更に詳しいことは、本保弘文著・東金御成街道(聚海書林)を一読されたい。 |
本保弘文著:東金御成街道(聚海書林)・清水浦次郎著:鶴の御成街道と東金御殿・資料提供:東金市教育委員会