THE BEST THERE WAS,
   THE BEST THERE IS,
   THE BEST THERE EVER WILL BE.
  ヒットマンの休息

゛ヒットマン " ブレット・ハート/引退コラム&ミニ・フォトギャラリー

゛ヒットマン " ブレット・ハートは、チャンピオンベルトをこよなく愛し
たレスラーだった。WWF在籍14年間でヒットマンが獲得したタイト
ルは世界タッグ王座通算2度( パートナーはジム・ナイドハート)、
インタコンチネンタル王座通算2度、世界ヘビー級王座通算5度。
90年代のWWFマットはヒットマンのデケードだった。

いま改めてデータを分析してみると、ヒットマンはやや遅咲きの
スーパースターだったことがわかる。ヒットマンがWWFと専属契
約を交わした84年は、ハルク・ホーガンがアイアン・シークを下し、
初めてWWF世界王座を奪取した年だった。ホーガンは83年12月
に旧AWAからWWFに移籍。翌84年からWWFによる全米マーケット
侵攻作戦がスタートを切った。

ヒットマンはこのとき、まだ27歳。メジャーWWFの契約選手といっ
ても若手レスラーのひとりでしかなかった。ホーガンは84年1月か
ら93年4月まで、じつに9年3カ月にわたる長期政権を築いた。この
間、チャンピオンベルトは一時、ランディ・サベージ、アルティメット
・ウォリアーらの手に渡ったが、いずれも短期間でホーガンが王座
奪回に成功している。

ヒットマンがJ・ナイドハートとのコンビ、ハート・ファウンデーショを
解散し、シングル・プレーヤーに転向したのは91年春。この年の8
月26日、ヒットマンは「サマースラム」マディソン・スクウェア・ガー
デン大会でカート・ヘニングを下し、シングルでは初めてメジャータ
イトルとなるインタコンチネンタル王座を獲得した。

 

90年から91年にかけては、ホーガンが ゛引退 " を公言し、ホーガンとビンス・マクマホンとのあいだで虚々実々の政治的かけひきがおこ
なわれていた時期だった。映画俳優への転向をめざしていたホーガンは、90年4月の「レッスルマニア6」トロント大会でのU・ウォリアー戦
を最後にWWFを脱退。約半年間の゛休業 " を宣言した。91年9月にはWCWから大型移籍でリック・フレアーがWWFに合流。ホーガンがい
なくなったWWFのリングでショートリリーフ的な主役をつとめたのはサベージとフレアーだった。

ヒットマンがそのフレアーを倒して初めてWWF世界王座を手にしたのは、それからさらに1年後の92年10月。メインイベンターとしてはまだ
知名度の低かったヒットマンを第1コンテンダーに指名したのは、ビンス・オーナーだった。これがヒットマン時代の静かななる幕開けとなる。
ビンスにとっては先行投資的な゛人選 " だったのだろう。93年1月、WWFは毎週月曜夜の全米生中継番組「マンデーナイト・ロウ」( USAネッ
トワーク系) をスタートさせる。この番組の誕生こそが2年後のライバル団体WCWとの゛月曜TV戦争 " の遠因となる。

ヒットマンは世界王座獲得なら6カ月後の93年4月、「レッスルマニア9」ラスベガス大会でヨコヅナに敗れ王座から転落してしまう。FA宣言
( WCW移籍 ) で揺さぶりをかけていたホーガンは同日、ヨコズナを下してあっさりと王座奪回に成功する。ホーガンとビンスの゛暗闘 " の
時代だった。94年から97年までの4年間は、ヒットマンのWWFマットでの゛円熟期 " にあたる。94年6月、ホーガンは公約どおりWCWへ移籍
し、WWFのリングにはヒットマン、ディーゼル( ケビン・ナッシュ)、ショーン・マイケルズ、レーザー・ラモン ( スコット・ホール)といった90年代
のスーパースターたちがいっきに出揃う。
  
  

94年から97年までの4年間は、ヒットマンのWWFマットでの゛円熟期 "
であろう。ヒットマンはWWFのスポークス・パーソン的なポジションに
も積極的に取り組んでいた。ビンス・オーナーとの゛蜜月 " も、また
この時期だったのだろう。
  
  
  
左上★93年第1回キング・オブ・リングで見事、初代キングに輝く
右上★94年ロイヤルランブルでは最初で最後のオーエンとのタッグ
左下★94年レッスルマニア10では2度目のWWF世界王座獲得
右下★ヒットマンのWWF時代のライバルといったらこの人ショーンだ

ヒットマンは94年3月、「レッスルマニア10」ニューヨーク大会でヨコヅナに雪辱を果たし、1年ぶりに世界王座を奪回する。この日、ヒットマン
は異例のシングルマッチ2試合出場を敢行。゛グレた弟" オーエンともシングルマッチをおこなっている。95年になるとライバル団体WCWが
WWFに対して総攻撃を仕掛けてくる。ディーゼル、ラモンの2選手はWCWへの移籍を決意。同年9月にはWCWが新番組「マンデー・ナイト
ロ」をスタートさせ、同時進行プロジェクトとしてWWFからの大がかりな゛選手引き抜き作戦 " に着手する。

おそらく、ビンス・オーナーはこの時点ですでにヒットマンとショーン・マイケルズの゛二者択一" を決断しつつあったのだろう。96年に入ると
ヒットマンに対するWCWの゛引き抜き " の魔の手が迫ってくる。ヒットマンはいったんはWCWへの移籍を考えたが、けっきょくは残留の意志
を固め、改めてWWFと゛20年契約 " を交わす。このあたりのいきさつは映画「レスリング・ウィズ・シャドウズ」にくわしく描かれている。

そして゛運命のモントリオール " が足音をしのばせながら近づいてくる。97年11月9日、「サバイバー・シリーズ」のリングで、ヒットマンは14
年間在籍したWWFに永遠の別れを告げる。ビンスはヒットマンにベルトを落とすように命令し、ヒットマンはこれをきっぱりと拒否する。話し
合いが決裂したままリングに上がったヒットマンは、ビンスの謀略( レフェリーに試合終了のゴングを要請 ) でチャンピオンベルトを盗まれ
てしまう。ヒットマン自身のことばを借りれば ゛強姦 " だった。
 
 
  
左上★97年に入るとヒットマンとビンスの確執がささやかれはじめる
右上★レッスルマニア13でのオースチンとの試合でヒールに転向
左下★ヒットマンはついにニュー・ハート・ファウンデーションを結成
右下★97年11月9日゛運命のモントリオール " 大会。ヒットマンは
試合後もなかなかリングを去ろうとしなかった。

  
ストーンコールドとの試合( レッスルマニア13) を分岐点にヒール転
向。すっかりヒールになっちゃったヒットマンは゛カナダ生粋主義 "
をテーマアメリカの批判、番組の方向性批判、そしてビンス・オーナ
ーとの確執をそのままリングに待ち込んだ。新しいヒール像を誕生
させたのである。


WWFを去った傷心のヒットマンは同年12月、ついにWCWへ移籍する。プロレスをつづけるためには、WWFではないどこかほかの場所を
探すしかなかった。WCWサイドは3年契約6億円( 推定) という破格の条件でヒットマンを迎え入れた。WCWでの3年間は、ヒットマンに
とっては ゛蜃気楼 " のようなぼんやりした時間だった。WCW世界ヘビー級王座を2度獲得したし、フレアー、スティング、ゴールドバーグらと
のシングルマッチも実現した。

しかし、99年12月のゴールドバーグとの試合で脳しんとうを起こしたヒットマンは、ことし1月からサーキットを欠場し、故郷カルガリーへ
帰った。感動的なラストシーンは用意されていなかった。ヒットマンはついに2度とリングに上がることなく、みずからのホームページ上で
引退を正式にアナウンスした。WCWからは速達郵便で ゛解雇通知 "が送られてきた。ヒットマンは地元紙「カルガリー・サン」に連載して
いるコラムのなかでこんなことを書いている。

「もし、キミが幸運にも愛すべき生き方を発見することができたとしたら、いつかその生き方に別れを告げる勇気を持たなければならない」

おそらくヒットマンが再び観客のまえにその姿をみせることはないだろう。いまヒットマンはカルガリーの自宅で自伝本の執筆活動に入って
いる。゛ヒットマン " というニックネームはもう使わないことにしたらしい。

                                   AMERICANA century

             
 
           
左上★'97年12月15日、ついにヒットマンがWCWマットに登場
右上★同年7月20日にUSヘビー級王座に輝いた
左下★ヒットマンのイライラがピークに達した゛トロントの乱 "
右下★'98年7月、悲しみのヒットマンが実に4カ月ぶりに登場
左上 ★ オーエン・メモリアル・マッチでのヒットマンvsクリス
右上 ★ '99年11月21日、「メイヘム」大会で念願の世界王者に
左下 ★ 2000年に入ると、まさかのNWOを結成してしまった
右下 ★ 2000年9月、ヒットマンのWCW最後の映像のワンシーン