京阪奈ぶらり歴史散歩
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 平安京の遺跡をめぐり東寺から二条城へ
 
桓武天皇が唐の長安にならって造営した平安京。

叡暦十三年(794年)に、遷都されてから、明治になるまで、発展と衰えを繰り返しながら千年の都は今も生きつづけています。

今回の歴史散歩はそんな平安京の造営当時のメインストリート朱雀大路(現在の千本通)を歩いてみます。

ただ、平安京の遺跡で当時から変わらない位置に、当時の面影を残した史跡はとても少なく、ほとんどが石碑のみになってしまっていますが、栄枯盛衰を実感するのも、また、良いものです。
二条城・二の丸庭園
神泉苑 そして、平安京の遺跡巡りとは言っても、せっかく前を通るのに素通りというのも寂しいので、壬生寺と二条城の拝観もプラスしました。

当時は幅85mあったといわれる朱雀大路を羅城門から大極殿まで、約5時間の歴史散歩です。

(注:17番・前川邸と18番・光縁寺は2度目に行きました)
近鉄:東寺駅
1 東寺
2 羅城門跡
3 西寺跡
4 六孫王神社
5 梅小路公園
6 島原・西門跡
7 壬生寺
17 前川邸
18 光縁寺
8 梛神社
9 朱雀院跡
10 朱雀門跡
11 西町奉行所跡
12 神泉苑
13 二条城
14 ニ条公園・鵺池
15 朝堂院跡
16 大極殿跡
市バス:千本丸太町
         16、大極殿跡         番号をクリックすると写真にとびます
        15、朝堂院跡
             10、朱雀門跡     14、二条公園 
             11、西町奉行所跡         13、二条城
                      12、神泉苑 
 
 
 
               8、梛神社
    9、朱雀院跡           18、光縁寺  
            17、新撰組屯所・前川邸 
                7、壬生寺  
 
              6、島原・西門跡
                 5、梅小路公園 
 
                 4、六孫王神社  
       3、西寺跡   2、羅城門跡  1、東寺
                
 
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平安京のお話
平安宮復元図
二条公園にある平安宮復元図
奈良時代の中頃から、東大寺や興福寺をはじめとする仏教勢力が強くなり、政治にも圧力をかけてくるようになりました。加えて飢饉や疫病の流行といった不吉な事が重なり、桓武天皇は長岡京に遷都します。
しかし、その後も不吉な事が止まず、10年後にこの四神相応(四神相応については、古墳のページをご覧ください)の地・平安京に遷ります。
しかし、資金不足と、東北への出兵が重なり、工事は思うように進まず、桓武天皇の描いていた平安京は未完のまま造営を中止する事になります。


歴史散歩の地図と平安京の比較
関連ページ:平安京魔界マップもあわせてご覧あれ
1東寺(拝観:500円)
東寺・難ダウ門と金堂
南大門から金堂を望む
正式名称は教王護国寺ですが、平安遷都の時、桓武天皇が羅城門・朱雀大路を挟んで対をなすかたちで東西に建てた官寺の東側なので、東寺と呼ばれるようになりました。

その後、空海が真言密教の道場としたお寺です。
なんと言っても、日本最高最大の五重塔が有名です。
東寺・五重の燈
東寺・金堂
金堂正面部分
文明十八年(1486年)の土一揆で焼失してしまい、現在の建物は、講堂が一揆後すぐの再建、金堂は豊臣秀頼による1603年の再建。
五重塔は徳川家光で1644年の再建です。

←金堂は華麗なる桃山様式の建物ですが、わずかに、正面の部分に平安様式を覗かせています。
東寺・五重塔と南大門
南大門と五重塔
東寺・金堂
↑東寺のおみやげ・『油とり紙』は、
京都一だというウワサも・・・
2羅城門跡
羅城門は、平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の南の端にあった言わば正面玄関であり、合戦に勝利した武将が都中の人に歓喜の拍手で迎えられる凱旋門でもありました。

しかし、平安中期以降は右京(西側)が衰退し、いつしか荒れ放題になり盗賊の住処になっていまいました。
羅城門跡 羅城門・模型
現在は公園の一部と化している羅城門跡。
西隣の矢取地蔵堂に復元模型があります。

芥川龍之介の小説は平安後期の荒れた頃をモデルに書いています。
3西寺跡
西寺跡
かつては、羅城門・朱雀大路を挟んで対をなしていたもう一つの官寺・西寺も、平安末期には衰退し、鎌倉の頃には姿を消し、現在は、公園に礎石のみ残っています。
4六孫王神社このあたりは源氏ゆかりの地
六孫王神社
清和源氏の祖・源経基を祀った神社。
その子源光仲が、応和年間(961〜963)に、邸宅跡に社殿を建立しました。
六孫王神社・社殿
光仲誕生水
境内にある光仲誕生水は、古くから京都名水の一つに数えられています
5梅小路公園
梅小路公園
JRの線路を挟んで北側にある梅小路公園。こちらは、平氏の本拠地・西八条殿の跡地です。
公園の花
公園内にある朱雀の庭
6島原・西門跡

現在は石碑と、規模が小さくなった島原住吉神社が残るのみになってしまった西門あたり。
江戸時代は公認の遊郭が建ち並ぶ大歓楽街でした。
このあたりのシンボルだった大銀杏が、神木として名残をとどめています。
島原住吉大社 島原・西門の図
島原・西門の図
大銀杏
7壬生寺(境内自由)
壬生寺・本堂
本堂と千体仏塔
正暦二年(992年)に唐招提寺の末寺として創建されました。鎌倉時代に復興された時に催された大念仏会が現在も重要無形民俗文化財として残る壬生狂言です
新撰組局長・近藤勇像 壬生塚(入場:100円
文久三年(1863年)に壬生の地で結成された新撰組。
隊士たちがよく兵法の練習をしていた境内の一角に、隊士たちのお墓や局長・近藤勇の胸像・遺髪塔が建立されています。
壬生塚
一度目は平日だったため、門が閉まっていた前川邸に行ってきました。
前川邸、庭
17前川邸
新撰組屯所、刀傷などが残り新撰組ファンにはたまらない!
ただし、一般のお家で現在も住んでおられますので、公開は土日祝のみ、おみやげ物屋さんとして、玄関で営業しておられます。
門には誠の旗
18光縁寺
光縁寺

沖田総司をはじめ新撰組隊士たちのお墓があり、今も訪れる人は多い。
8(なぎ)神社梛神社
梛神社の神霊を八坂神社に遷す時に町の人々が音楽と風流傘で見送ったのが、現在の祇園祭になったと言われていて、元祇園社とも呼ばれています。
朱雀院跡
9朱雀院跡
日本写真印刷の敷地内
10朱雀門跡
かつてその美しさを称えられた朱雀院も、朱雀門跡も、もはや石碑のみ。
朱雀院跡は会社の敷地内に、朱雀門跡は家の前にひっそりと立っています
朱雀門跡
西町奉行所跡
11西町奉行所跡
こちらは、中学校の角にあります。京の街が遺跡ではなく、今も現役の都会である証拠ですね。
12神泉苑
平安京の造営と同時に造られた苑地。
かつては大規模で平安貴族たちの舟遊びや詩歌管弦の宴が繰り広げられていました。
朱塗りの橋は願い事を唱えながら渡ると必ず叶うとか・・・
源義経と静御前の出会いの場所との噂も・・・
神泉苑
13二条城(拝観:600円)
二条城・外堀より
場内地図
二条城は、徳川初代将軍・家康が慶長八年(1603年)に、京都御所の守護と、上洛の時の宿泊所として造営しました。その後、三代将軍・家光が伏見城の遺構を移築するなどして完成しました。
唐門 大政奉還により、明治以降は朝廷の物となり、離宮となります。
唐門
唐門
伏見城の遺構と言われている唐門。
休憩タイム・・・二条城の歴史
天皇の住まう京都に城を持つ事は、天下人の証しとも言える物です。

織田信長も、かつて二条城を築城(後の二条御所)し、豊臣秀吉も聚楽第を築きました。

それは、京都という場所で朝廷を監視する意味と、その豪華さで、武士の力が強大である事を誇示する事になります。

あの天下分け目の関ヶ原の勝利から二年・・・まさに天下を掌握した家康は、慶長七年(1602年)にニ条城の建設にとりかかります。

翌年の慶長八年には、二の丸部分が完成し、家康も初めてこの城に入城しています。

慶長十六年(1611年)には、あの豊臣秀頼との会見が・・・その後、大坂の陣で軍儀を重ね、出陣したのもこの二条城です。

やがて、3代将軍・家光の時代に、本丸や天守が完成し、ほぼ現在の規模となりますが、落雷によって天守を・・・、火災によって本丸殿舎を失う中、徳川の泰平の世には、あまり歴史の表舞台に、このニ条城が登場する事はありませんでした。

そんな、二条城が再び歴史の表舞台に登場するのが・・・そう、幕末です。

文久三年(1863年)、第14代将軍・家茂が、あの家光以来、229年ぶりに二条城に入場し、慶応二年(1866年)には、第15代将軍・慶喜がここで将軍職を継ぐことになります。

そして、その翌年には、二の丸御殿内の大広間の一の間に諸大名を集め、あの大政奉還の発表が行われました。

維新が成った後、幕府の物だった二条城は朝廷の物となり、現在の内閣にあたる太政官代が置かれたり、府庁が置かれたりしましたが、やがて、天皇が正式に東京にお住まいになるようになって、この二条城は二条離宮と呼ばれるようになります。

そして、昭和十四年(1939年)、二条離宮は、宮内省から京都市へと渡され、『元離宮・二条城』として、一般公開される事になるのです。

二条城・・・まさに歴史の舞台となり、徳川の始まりと終わりを目撃したこのお城は、今、いったい何を語ってくれるのでしょうか?
二の丸御殿
二の丸御殿は、武家書院造で、全33室・800畳。
小堀遠州の手がけた庭園に囲まれ、すばらしい欄間の彫刻や狩野派の襖絵、鴬張りの廊下などまるで時代劇そのままに・・・徳川慶喜が大政奉還を発表した広間や、将軍のプライベートルームも残っています。
本丸櫓門
本丸櫓門をくぐりいよいよ本丸へ・・・
家光によって増築された本丸には、かつて高くそびえた五層の天守閣がありました。
天守閣跡
天守閣跡
落雷と火災による焼失の後、現在の本丸御殿は、京都御苑にあった旧桂御殿を移築した物。春と秋に一般公開されています。
本丸御殿
大政奉還について
下の絵は、慶応三年(1867年)10月14日、ニ条城内の大広間で発表された大政奉還の様子を描いた有名な絵です。
薩摩と長州が手を組み、武力で幕府を倒す方針を固めた時、「このまま幕府が倒されれば、当然、何もかも失ってしまう」と考えた時の将軍・
徳川慶喜は、何とか、『何もかも失わない方法』を模索します。
そんな時、土佐藩・前藩主の山内容堂が提出した『建白書』・・・これは、あの坂本龍馬が発案した『船中八策』を、後藤象二郎が完成させた物で、「まずは朝廷に政権を返し、天皇の下に諸大名で組織された列藩会議なる物を設けて、将軍はその議長となって政治を行う」という物・・・これなら、政治の指図を出すのは朝廷でありながら、将軍という名前はなくなるものの、実際には将軍家を中心に政治を行う事ができます。
この案を採用した慶喜・・・あっさりと
大政奉還をしてしまいます。
討幕派は、これにはびっくりです。
政権が朝廷に戻ってしまった以上、武力で幕府を倒す理由がありません。
このままでは、慶喜は日本の総石高の4分の1にあたる800万石の直轄(ちょっかつ)地と旗本八万騎の兵力を持ったまま、朝廷の傘下に収まる事になってしまいます。

そこで、討幕派が考え出したのが
王政復古の大号令・・・これは、幕府の権限をすべてなくして、朝廷のみで政治を行うという宣言。
王政復古の大号令については、それが成された京都御所のところで説明します。(京都御所のページへ

真ん中奥の少し出っ張った所が天守閣跡です

令然院跡
二条城の外堀横にある嵯峨天皇の離宮・令然院跡
二条城の二の丸庭園、本丸庭園、清流園の写真はフォトアルバムへGo
14二条公園普通の児童公園ですが発掘調査報告や平安宮復元図などの案内板が充実しています。
二条公園
二条公園に整備された鵺池
このあたりは平安の頃、天皇の住まいである内裏、国会議事堂にあたる大極殿、内閣でる太政官があり、いわゆる官庁街でした。

ガイドブックには、『千本丸太町交差点・東南角に平安宮の復元図あり』と記されていますが、人通りの多い交差点の復元図はかなり傷んでいて、個人的には二条公園の復元図をオススメします。
鵺池の伝説
平安後期、近衛天皇の時、深夜天皇の内裏に怪しい鳥の声がしました。
弓の名手である源頼政が射落としたところ、頭は猿、胴は狸、手足は虎で尻尾は蛇の『鵺(ぬえ)』という怪物でした。その時の血のついた鏃を洗ったのがこの鵺池だという。
平安宮の図 15朝堂院跡
現在千本丸太町交差点の北西角のりそな銀行の前にある朝堂院跡の石碑。

朝堂院は、天皇の即位式や、国賓との謁見など重要な儀式の行われた場所です。
この建物内の正面の一段高くなった龍尾壇(りゅうびだん)と呼ばれる所に大極殿がありました。


←千本丸太町交差点にある平安宮の図
朝堂院跡
16大極殿跡
朝堂院の石碑の所の路地を行くと、またまた児童公園の中に大極殿跡があります。

大極殿は平安宮の中で、最も重要な施設で、遷都の翌年(795年)に完成しました。

創建当時は、朱塗りの柱に緑釉瓦に縁取りされた屋根の華麗な建物でした。
大極殿跡 大極殿の図
千本丸太町交差点にある大極殿の図


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