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周りの建物はどんどん変わってもお城だけは、いつも変わらず堂々と・・・ビルに囲まれた大阪城天守閣の誇らしげな姿は、まるで、十勇士を従えた真田幸村のよう・・・。
豊臣時代は、シルクロードを通ってやってきた、ヨーロッパのガラス細工の技術を取り入れて作った"にしき"の瓦でおおわれていたらしい・・・相当美しかったことでしょう。
難波宮跡からスタートする場合は・・・地下鉄谷町四丁目から・・・
青屋門から行く場合は、環状線大阪城公園駅。
また、環状線と京阪電車の交わる京橋からビジネスパークを通って、未来都市を思わせる高層ビルの向こうに現れる天守閣の姿を見るのも一興かと・・・ |
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★さらに、パーフェクトをめざすなら、【太閤下水と大阪城石垣めぐり】のコースも合わせてご覧ください。
ボタンをクリックすると写真へ飛びます



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| JR:大阪城公園駅 |
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| 1 水上バスのりば |
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| 2 青屋門・梅林 |
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| 3 山里曲輪 |
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| 4 大坂城・天守閣 |
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| 5 桜門 |
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| 6 豊国神社 |
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| 7 蓮如袈裟懸の松 |
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| 8 西の丸庭園 |
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| 9 大手門 |
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| 10 教育塔 |
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| 11 大阪歴史博物館 |
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| 12 大村益次郎の碑 |
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| 13 難波宮跡 |
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| 14 城中焼亡埋骨墳 |
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| JR森之宮駅 |
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大阪城とその周辺の見どころは天守閣だけではありません・・・縄文時代の集落に始まり、難波宮→石山本願寺→豊臣→徳川→そして東洋一の近代軍事拠点・・・と、大阪城が歩んできた歴史の数だけ史跡が存在します。
さぁ、思う存分大阪城周辺を楽しんでください!
追記:森之宮ピロティホールの閉鎖にともない、
少しコースを変更して、よりパーフェクトに
近づけました。 |
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| ちょっとより道 |
| 15 旧化学分析場 |
| もっとより道 |
| 16 白山神社 |
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水上バスのりば
水都・大阪の川めぐりをして同じ場所に戻ってもよし、淀屋橋で降りることもできます。桜の季節は川側からの花見も一興。
低い橋の下を通るとき、船の天井が下がる仕掛けになっているのもおもしろい。 |
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青屋門&梅林
徳川時代には引橋(押し出し、引き入れ自在の装置)が架かっていました。 |
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青屋門を入ってすぐ左手に梅林があります。 |
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●極楽橋
何となく雰囲気のいい極楽橋は、よく時代劇でも使われています・・・遠野黄門も助さん格さんをお供に、例の笑い声高らかに渡ってましたよ。
青屋門から極楽橋を渡って、少し階段を登ると、山里曲輪と呼ばれる天守閣の北側に到着します。 |
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山里曲輪周辺 下記詳細地図@〜D参照

@刻印石公園には徳川時代に、各大名から謙譲された刻印石(印の入った石)が並べられています。 |
天守閣の南側は沢山の観光客のかたがおられますが、北側のこの山里曲輪あたりは、あまり多くなく、特に秀頼・淀君の石碑は、訪れる人も少なく、物悲しさを感じます。
刻印石公園については、ちょっとマニアな大阪城「大阪城刻印石・石垣巡り」へどうぞ |

↑A秀頼・淀君
自害の地 |

B機銃掃射による弾丸跡は、太平洋戦争の遺物で、これも後世に伝えねばならない大切な史跡・・・見逃し度90%!山里曲輪から出枡形へ登るの新しい階段の横にあります。 |

C山里出枡形・会所跡
2006年に徳川時代の新たな遺構が発見された現場・・・石のある所が新発見の会所の部分です。
発掘中の様子やくわしい調査報告は・・・
フォトアルバムのページへGO |

天守閣・山里曲輪周辺詳細図 |
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D天守閣下のズレた石垣
太平洋戦争時、壊滅状態になるほどの砲撃を受けた東洋一の軍事施設・・・それでも、天守閣は倒れませんでした。
こちらは見逃し度95%!東側を覗き込むようにしないと見えません。 |
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天守閣(拝観:600円)
徳川の石垣の上に、豊臣デザインの天守閣が、昭和の大阪市民によって建てられ、平成の大修理が行われた、まさに時空を越えたコラボ作品・・・アメリカの砲撃にも耐えた天守閣は、大阪市民の誇り・・・
(くわしくは、下記囲み記事:大坂城の歴史で)。
5層8階建ての天守閣は、最上階が地上50mから大阪の町を一望できる展望台。
7階は、ジオラマやミニチュアで再現する秀吉の生涯。
5階は大阪城天守閣秘蔵の「大坂夏の陣屏風」を細かく紹介。 |
| 各階展示物 |
8F
展望台 |
7F
豊臣秀吉の生涯 |
5F
大坂夏の陣屏風 |
4F
歴史資料展示 |
3F
歴史資料展示 |
2F
お城情報パネル展示 |
1F
ミュージアムショップ |
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3階・4階は貴重な宝物が定期的に入れ替えられる常設展示と特別展覧会スペース。
2階は現在の発掘状況やお城の基礎知識をパネル展示。
1階はミュージアムショップと大阪城と秀吉をビデオで紹介するシアタールームがあります。 |

↑最上階からの展望

F金明水の井戸
抜け穴の噂が・・・ |

G号砲↑
昔はお昼にドーン鳴って |
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天守閣3階には、大阪城ゆかりの有名武将の兜と陣羽織を試着して写真撮影ができるコーナーがあります。 |
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「大坂夏の陣図屏風」について
天守閣の3・4階では、甲冑や古文書など天守閣秘蔵の品々が数多く展示されていますが、やはり、天守閣秘蔵のお宝の中での一押しは「大坂夏の陣図屏風」・・・なんせ、5階の1フロアすべてを使って紹介してくれているほどですから・・・
ただし、それだけ貴重な品ですので、ホンモノが展示されるのは、年数回・・・あとは、パネルやレプリカの展示で、かくいう私も、まだホンモノは2回しか見た事がありません。
しかし、5階のフロアでは、ミニチュアやビデオを使って、その屏風に描かれた内容を事細かく紹介してくださり、いかに、そしてなぜに、この屏風が貴重であるのかが理解できる仕上がりになっています。
| この「大坂夏の陣図屏風」は、徳川家康配下の黒田長政が、その戦勝の証として書かせたものですが、他の合戦図屏風と異なるのは、武将同士によるによる合戦の様子だけでなく、戦いに巻き込まれた一般市民の悲惨な状況や、殺戮を繰り返す雑兵の姿が描か |

襲われる女性 |
れているのです。
平成20年(2008年)6月にはNHK「その時歴史は動いた」で、「戦国のゲルニカ」として紹介され、一気に注目を浴びましたが、武将のカッコよさだけでなく、戦争の悲惨さをも伝える作品として一見の価値ありと思います。 |
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天守閣前のこの井戸のような物が、昭和三十四年(1959年)の地質調査跡・・・これによって豊臣時代の大阪城が地下に埋まっている事が判明、くわしくは豊臣の石垣のページへGo |

E旧市立博物館↑もともとは旧陸軍第四司令部だった建物を博物館として使用後、現在は、大阪に現存する最大の戦争史跡として保存。 |
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桜門

本丸の正面を守る重要な枡形で特に大きな巨石が用いられれています。 |
桜門横には、大きさ第1位の蛸石と第3位の振袖石があります
石垣の大きさベスト10は石垣めぐりのページへGo
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豊国神社

神社のドまん中に秀吉像・・・まぁ、出世開運の神様だからなぁ |
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境内には、秀石庭と呼ばれる枯山水の庭園があり、ボランティアガイドの案内所もこの境内にあります。
神社では結婚式もOK! |
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蓮如上人
袈裟懸の松
大阪城の歴史でも書かせていただいたように、ここは、もともと浄土人宗の中興・蓮如上人が住んだ大坂御坊のあった場所・・・
今は何代目かの松が青々と茂り、初代は根本のみとなってしまいましたが、数少ない石山本願寺時代の史跡です。 |
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西の丸庭園周辺 下の地図の青字番号を参照してください
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@石山本願寺伝承地
←写真に写っている櫓は六番櫓・・・このあたりが石山本願寺の中枢部分だったとされています。
太鼓櫓のところには、二ノ丸の出入口に城門があり、平時には時刻を、戦時には出陣を知らせる太鼓が収納された二層のやぐらがあったので、太鼓櫓と呼ばれていたそうです。 |
A太鼓櫓跡

右側の石垣の上に太鼓がありました |
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大手門・西ノ丸庭園周辺詳細図 |
●西の丸庭園 入園料:200円
西の丸庭園は、中央が広場となっていて、子供たちがボール遊びに興じれる家族連れに最適な空間です。

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@冠木門
西の丸庭園へはこの門から入園します。
北側の高麗門からは入園できませんのでご注意を・・・ |
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A千貫櫓(せんかんやぐら)
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大手門の多聞櫓側からはそばに近づけない千貫櫓は、西の丸庭園側からどうぞ・・・
こちらからだと、加藤清正の息子・忠広さんの刻印石も確認できます↓

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B大阪迎賓館
米大統領をはじめ、各国のVIPをお迎えする事もある、ここが噂の大阪迎賓館です。 |
C乾櫓(いぬいやぐら)→
上記の千貫櫓とともに、現在の大阪城最古の建物。
西の丸の乾(戌亥)・・・つまりは、北西部分を守る重要な櫓で、L字型という珍しい建て方で昔は「三方正面の櫓」とも呼ばれていたそうです。
徳川幕府の大阪城再建の初期の元和六年(1620年)の段階で、小堀遠州総指揮のもと建てられました。 |
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石造の硝煙蔵・・・日本で唯一つの現存です。 |
←D焔硝蔵
(えんしょうぐら)
徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていました。
徳川大阪城再建初期の頃は土蔵造りでしたが、青屋口の焔硝蔵が落雷で大爆発を起した万治三年(1660年)以降に石造で再建されました。 |

E高麗門
今は、ちょっと寂しい感じの高麗門ですが、門の前には、あの夜桜が楽しめる桜があり、春には大変賑わいます。 |
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大手門 左から千貫櫓・多聞櫓・大手門・・・外堀の正面玄関です(上記、西の丸庭園付近の地図参照)

| 見逃し度90%! |
★大手門の謎の柱継ぎ

大手門を正面から見て、右側の柱には、いつの時代にほどこされたのかわからない謎の柱継ぎがあります(右写真・左端の柱)。
おそらく、柱の下部分が焼けるか腐ったかで損傷したため、新しい木で継いだものですが、片面は谷間と山間を継ぎ合わせ、もう片面は鉤型・・・どうやって組み合わせたのかは、現在も謎となっています。 |
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今回のルートだと、反対側から来る事になりますが、大手門を正面から入ると、前方に大きな石垣の行き止まりで、ほぼ直角に曲がる形で多聞櫓の下の城門となります。
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直角に曲がる・・・つまりは、猛突進してきた敵は、ここでスピードを遅さざるえお得ない。
しかも、正面の続櫓からは、鉄砲で狙い撃ち |
B多聞櫓(たもんやぐら)

写真左が大手門、正面が多聞櫓の渡櫓、右に続櫓見えます。 |
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←多聞櫓(渡櫓)の屋根・・・確かに、槍落しの穴が・・・しかし、よく見ないとわかりません。 |

↑続櫓の窓からの眺め・・・大手口が真正面です。
A
千貫櫓
こちらは、大手を出て堀の向かい側から見た千貫櫓 |
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公開されていない時は多聞櫓側からはそばに近寄れませんので、普段は、上記の西の丸庭園側から見る事をおすすめします。 |
多聞櫓と千貫櫓の内部
普段は外側からしか見られない多聞櫓と千貫櫓の特別公開で中を拝見させていただきました。
多聞櫓は、大手門を入って正面の石垣の上に造られた続櫓と鉄の城門を下に備えた渡櫓でL字型になった長屋です。
この建て方の櫓を多聞と呼ぶのは、織田信長の傘下となった松永久秀が、自身の多聞城を建築した際に、この方式の櫓を設置し、その防御力の高さと建物の美しさを気に入った信長が、自分の安土城にも、この方式の櫓を設置し、それ以来戦国武将の間で、城にこの櫓を設置するのが大流行・・・で、この方式の櫓を最初に設置した多聞城の名をとって、多聞櫓と呼ばれるようになったのだとか・・・。 |

↑続櫓内部・・・右側が大手門側で、窓の下に複数の鉄砲用の穴があり左側には、兵が待機する9畳〜12畳の部屋が六つ |

↑渡櫓の内部・・・城門の真上にあたる部分に、槍落しの四角い穴が・・・ |
信長がその防御力に感動するのはムリもありません。
続櫓からは、敵が突入してくるであろう大手門が真正面・・・そこには、鉄砲用の穴が開けられ、ここでスピードを弱めた敵は、直角に曲がった渡櫓の城門の前でその屋根に設置された槍落しから槍の雨に遭遇するのです。 続櫓、渡櫓ともに、外観からの想像以上に、中が広い感じがします

↑多聞櫓・渡櫓の内部 |
現存するのは、この大手門の多聞櫓だけですが、古図によれば、京橋口や玉造口さらには山里曲輪などにも、多聞櫓がありました。
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教育塔
室戸台風で学校ごと犠牲になった教師と生徒たちの慰霊塔。
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教育搭に立ち寄ったら、外堀を挟んで向かい側の六番櫓の下にある「ぬけ穴?」もチェックしよう・・・ |
くわしくは【石垣めぐり】のページへ |
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大阪歴史博物館
(入館:600円)
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各時代の街並みが再現され、大阪の歴史が楽しく学べるようになってます。
原寸大の難波宮大極殿は、圧巻です。
博物館の前には古墳時代の法円坂遺跡があり、高床式倉庫が復元されています。 |
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大村益次郎・殉難報国の碑

明治二年(1869年)、大坂医学校病院として創立された国立病院機構・大阪医療センター。
明治新政府の軍部の近代化に尽力した大村益次郎は、明治二年の9月4日に京都で反抗分子に襲撃され、創設間もないこの病院に運ばれて、右大腿部切断という大手術を受けますが、周囲の看病空しく、11月2日に帰らぬ人となりました。
病院の東南角には、偉大な軍略家・大村益次郎が、ここで亡くなった事を記す記念碑が建てられています。 |
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難波宮跡
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大化の改新のあと明日香からここに都が遷された前期・難波宮と、聖武天皇の時代の天然痘流行で混乱した時代の後期・難波宮が混在します。
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前期・難波宮は、掘立柱の瓦葺ではない建物ではありますが、中国を手本にしたお本格的な都の造営としては、あの藤原宮より古く、歴史的価値のある物です。 (関連記事:大化の改新から壬申の乱までへGO→) |
城中焼亡埋骨墳
慶応四年(明治元年・1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦い・・・その時、ここ、大坂城にいた第15代将軍・徳川慶喜は、官軍の攻撃に、幕府軍が総崩れとなった事を聞き、1月6日の夜、わずかの側近だけを連れて船で大坂城を脱出します。
この行為は、多くの将兵を見捨てての大将の敵前逃亡とも、大坂を火の海から救った戦争回避とも言われ、現在でも賛否両論渦巻いているぼですが、その時、残された多くの兵は、未だ士気高く、城を枕に討死する覚悟でいたのです。 |
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しかし、もはや将軍がいなくなった城は、明け渡すほかないのですが、それをヨシとしない多くの者たちは、城に火を放って自刃したのです。
その後、官軍の物となった大坂城のこの場所に、官軍の主力である薩摩・長州の兵たちが、「敵ながらあっぱれ」と、彼らの遺骨をここに埋葬したのです・・・大阪城は、幕末の歴史の舞台にもなった所なのだと、しみじみ感じさせてくれます。 |

現在・閉館中 |
★森之宮ピロティホール・遺跡展示室
ピロティホールの地下に「遺跡展示室」があります。
このホールの建設中に、縄文・弥生式土器が出土し、くわしく調査をしてみたところ、ここが縄文から近代にかけての複合遺跡と判明・・・縄文時代の人骨も出土し、「大阪市民第1号」と大騒ぎになりました。
そして、その遺跡を壊さぬよう、ワイヤーを渡した上に建物を乗っけるという形でホールが建設されました・・・なので、地下に入ると、遺跡が見物できるわけ・・・だったのですが、残念ながら、現在ピロティホール&遺跡展示室ともに、無期限の閉館中との事ですがいつか再開される事を願って・・・。
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大阪城公園内の移動は
ロードトレインが楽しい(月曜・運休) |
ちょっとより道・・・
旧・大阪砲兵工廠化学分析場

大阪城天守閣の北西にある京橋口・・・その門の名前となった寝屋川に架かる京橋のたもとに、まさに時代の忘れ物・・・時が止まったような空間があります。
メジャーな天守閣には、毎日大勢の観光客のかたが訪れますが、ここはマイナー中のマイナー・・・訪れる人もなく、ひっそりと大阪城公園の一角にたたずんでいます。
右の大阪城の歴史で書かせていただいたように、この大阪城周辺は、明治から太平洋戦争が終るまで壮大な軍事施設でした。
市民の寄付によって天守閣が再建された後も、周辺に移転した様々な施設とともに、現在のビジネスパークのあたりには、東洋一と言われる軍需工場があったのです。
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ここ、化学分析場も、そんな施設の一つです。
近くにあった重文クラスの近代建築・旧砲兵工廠(こうしょう・弾薬などを作る工場)本館は、軍国主義の遺物として昭和56年5月に取り壊されてしまいましたが、その翌年の昭和57年、この分析場が、有名建築家・置塩章(おしおあきら)の設 |
計で、大正八年の建築である事が判明します。
しかし、それでも57年当時は、「悪しき遺構は排除すべき」という意見が多数あったものの、現在では近代史の生き証人として残す方向へ向きつつあります。
| 近くには、工場の鉄塊が、そのまま放置されて、くぼみには雨水が溜まっています。 |
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各地で戦争遺構が文化財として保護される中、大阪は保存状況があまりよろしくない・・・個人的には、戦争の爪あとは爪あとで、歴史の一つとして残すべきではないかと思います。
まして、文化財クラスの洋風建築なのですから・・・ |
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休憩タイム・・・大阪城の歴史 |
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京都・大谷にあった本願寺が延暦寺の弾圧によって焼かれた本願寺八世・蓮如は、文明十一年(1479年)、京都・山科に山科本願寺を復興します。
その後、明応五年(1496年)に摂津・石山に、蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立・・・蓮如の隠居坊だった御坊は徐々に拡大し、周りには寺町が形勢されていきます。
この頃から、このあたりは大坂と呼ばれるようになりますが、やがて、天文元年(1532年)戦国の戦乱で山科本願寺が消失、逃れた本願寺十世・証如らが、ここ大坂御坊を石山本願寺と改め、本願寺の拠点としました。
やがて、ことごとく対立する織田信長との間で十年の及ぶ合戦(石山合戦)の末破れ、本願寺を明け渡します。
交通の要所であり、水運に恵まれたこの場所に、信長は城を築きたかったという話もありますが、ご存知のようにその夢が達成される事なく、本能寺にて自刃します。
やがて、次に天下を取った豊臣秀吉によって、石山本願寺の跡地に大坂城が築かれるのです。
しかし、秀吉の後を継いだ秀頼になって、大坂冬の陣・夏の陣の二度の徳川家康の攻撃によって豊臣家は滅亡し、大坂城は家康の物になります。
天下を取った家康なまもなく病死しますが、2代将軍・秀忠と3代将軍・家光の親子2代によって、豊臣時代の石垣の上に土を盛りすっぽりと覆って、まったく新しい、壮大な徳川時代の大坂城が建設されました。
しかし、5層6階の豪華絢爛な天守閣は、度重なる落雷で消失し、結局再建されないまま明治維新を迎えます。
明治になって、陸軍・第四師団司令部が置かれ、軍の管理下にあった大阪城跡は、一般市民が立ち入る事は禁止されていましたが、ずっと大阪市民は大阪のシンボルである大阪城天守閣を再建したいと願っていたのです。
そこで、大阪市民のとった行動は・・・、「新司令部庁舎の建築費と移転費、周辺整備を含めた天守閣の建設費のすべてを、大阪市民の寄付でまかなう」という物でした。
さすがの軍部も大阪人の心意気に負けたのか、昭和六年(1931年)、266年ぶりに大阪の空に天守閣がそびえ建つ事になったのです。
その外観は、大阪の基礎を築いた太閤さんの天守閣を再現したいという大阪市民の希望により、黒田家に伝わる『大阪夏の陣屏風』に描かれている豊臣時代の大坂城の絵を参考にして再建されました。
それが、現在の大阪城・天守閣です。
観光にこられた方が、「大阪城は城じゃなく、城の形をした博物館=ビルだ」「復元するなら、中までちゃんと復元すればいいのに・・」とおっしゃる事があるのですが、上記の通り、外観しかわからない状況で再建されているのです・・・それでも太閤さんの大阪城を再建したかった大阪市民の心を汲んでやってください。
徳川が築いた壮大な石垣の上に、昭和の大阪市民が建てた豊臣の天守閣・・・現在の大阪城は、それぞれの時代の思いを込めたコラボ作品なのです。
徳川時代には、何度も落雷し、「秀吉の祟り」とも囁かれましたが、市民の手で再建された昭和の大阪城は、あの太平洋戦争の戦火の中、近くに軍需工場があるのにも関わらず、一発の砲弾も落ちる事はありませんでした。
(石垣には落ちてます・・・上記BD参照)
きっと、明神さん(秀吉)も、権現さん(家康)も、大阪市民の心意気を、見守ってくれてはるんでしょうな |
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関連昔話:大阪城のトラ
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もっとより道・・・
本多忠朝・物見のイチョウ〜白山神社
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大阪城の東側の白山神社には、大阪市の天然記念物に指定されている大いちょうがあります。
幼い頃、母が「昔、合戦の時、この木に昇って敵の様子見ててんで〜」と言ってましたが、あんまり信用してませんでした。
でも本当だったんですね。
先日、大阪城・天守閣の特別展『真田幸村と大坂の陣』の図録に、ちゃんと本多忠朝(ただとも)物見のいちょうとして紹介されていました。
大坂冬の陣の時、本多忠朝はこの白山神社に陣を置きました。
そして、このいちょうに昇って豊臣方の様子を探っていたんだそうです。
たしかに、冬の陣は11月から12月にかけて・・・旧暦なら、まさに一番寒い頃ですから、その頃には、この黄金に輝く葉っぱもすべて落ちますし、このあたりは平野川べりの見晴らしの良い湿地帯でしたから、大阪城を見やすかったでしょうね。
少し北へ行った所にある鴫野(しぎの)小学校は、冬の陣最大の激戦『鴫野の戦い』の戦場となった場所です。
大坂冬の陣に関しては、ブログ:今日は何の日?大坂冬の陣・野田福島の合戦へGo |
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くわしい行きかた
環状線・森之宮駅から中央大通りを東へ、平野川にかかる城東大橋の手前・天理教教会の角を左(北)へ、突き当たりを右(東)に曲がるとすぐに日吉橋。
橋をわたってすぐに左(北)へ行くと公園があります。
公園の所も突き当たりになったいるので、左斜め(北西)へ行くと道が自然に右(北)向きに、すると右側にいちょうの木と鳥居が見えます(★印)。
帰りはもと来た道を戻るか、そのまま行って一つ目の角を左(西)に曲がって、衛門橋を渡ると、突き当たりにマンション。
そこを右(北)に曲がり、大川と平野川の合流する場所にかかる橋を越え、すぐに左(ここを右に行けば鴫野小学校)。
広い道に出たら右(北)へ、まっすぐ行くと、もっと広い道。
そこを左に曲がるとビジネスパークから、京橋・大阪城へ行けます。
ものすご〜くマイナーな場所。はたして、たどり着けるかな? |
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