京阪奈ぶらり歴史散歩
トップページへ 京都・古都探訪へ 大阪・そぞろ歩きへ 奈良・大和路へ
 
 

 
応仁の乱ゆかりの地を訪ねて相国寺から千本釈迦堂へ
 
日本の歴史上屈指の大乱・応仁の乱

将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いが絡み、その配下にある全国の武士をも巻き込んで十一年に渡って行われた戦いは、京都を焼き尽くしました。

今回は、奇跡的に残った大報恩寺(千本釈迦堂)をはじめ、戦場となった場所や、ゆかりの人々の跡を巡る約4時間前後の歴史散歩です。

時間がたっぷりとあるなら、西陣界隈や上七軒のの京都らしい町並みも楽しみたいですね。
   番号をクリックすると写真にとびます
 
                                            4、擁翠園
 
 
                                  7、宝鏡寺 
                                     6、百々橋古戦場跡               3、上御霊神社
 
 
                                        5、持明院跡
                            8、山名宗全屋敷跡                    2、相国寺
            13、大報恩寺(千本釈迦堂)         
     14、上七軒        12、五辻殿跡11、本隆寺
                 
 
 
                       9、世阿弥屋敷跡  10、西陣跡                            1、室町第跡
 
 
 
 
 
 
地下鉄:今出川駅
 05分
1 室町第跡
 07分
2 相国寺
 06分
3 上御霊神社
 15分
4 擁翠園
 15分
5 持明院殿跡
 10分
6 百々橋古戦場跡
 05分
7 宝鏡寺
 08分
8 山名宗全屋敷跡
 05分
9 世阿弥・屋敷跡
 10分
10 西陣跡
 05分
11 本隆寺
 08分
12 五辻殿跡
 07分
13 大報恩寺
 05分
市バス:上七軒

歩行時間:約1時間50分
ご紹介のコースの中には、細い路地が含まれており、たいへんややこしいです(私はけっこう迷いました(ToT))・・・なので、コースの途中に散歩のヒントを書かせていただき、間違えそうな場所にチェックを入れた詳細地図をご用意しました。
詳細地図は
【地図を別窓で開く】でご覧ください
地図を別窓で開く・印刷する
ちょっとより道 14 上七軒
室町第跡
地下鉄・今出川駅から、今出川通を西へ・・
室町通との交差点・北東角に室町第(むろまちだい)の石碑が立ちます。

現在は石碑のみになってしまい、豪華な寝殿造や美しい池などは、もはや想像するのみになってしまいましたが、かつてここには、室町殿、あるいは花の御所と呼ばれた足利義満の館がありました。
室町第跡の石碑
もちろん、応仁の乱の時は、義政・富子夫婦が住んでました。
休憩タイム・・・応仁の乱とは
関東出身者でありながら、京都を拠点とした幕府を開いた足利尊氏・・・そのため、遠く離れた地元に鎌倉公方や関東管領なる役職を設けた室町幕府は、尊氏の孫・3代将軍・足利義満の代に名実ともに確立する事になりますが、この3代目を頂点にして、徐々にその基盤は揺るぎ始めます。

将軍家の下であるはずの公方が、関東を独立国家にするほどの力を持ち始めるとともに、そのサポート役であるはずの管領も力を持ち、地方支配をゆだねられている守護大名ものし上がってきます。

やがて、嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の乱で、赤松満祐(みつすけ)が6代将軍・足利義教(よしのり)を暗殺するに至って、幕府・将軍家の軟弱化が露呈する一方で、その赤松氏を追討した守護大名・山名宗全が力を見せはじめます。

当初は、名門管領の細川勝元を婿に迎え、良好な関係を築いていた山名と細川でしたが、やがて、両巨頭が対立し始める中、もともと後継者を巡って、家内で争っていた管領の畠山氏・斯波氏の対立が激化し、さらにそこに、8代将軍・足利義政の後継者を巡って、義政の弟・義視(よしみ)と、妻・日野富子の間に生まれた実子・義尚(よしひさ)との争いも勃発!
富子が宗全を頼れば、義視が勝元を頼る・・・そこに、両巨頭を後ろ盾とする管領家がからみ、さらにその配下の大名が、それぞれの派閥に真っ二つに分かれる事になります。

かくして、応仁元年(1467年)1月18日、畠山氏の当主を巡って、宗全派の畠山義就(よしなり)と、勝元派の畠山義長が、上御霊神社で激突・・・
応仁の乱・関係図
応仁の乱の幕が切って落とされました。

戦局は、勝元の策略によって将軍と天皇家を取り込んだ東軍が、いわゆる官軍となりますが、戦闘事態は、西軍が優位に立つという構造で、十一年に渡るこの応仁の乱は、京都の市街地を舞台に繰り広げられ、決着がつかないまま、宗全・勝元の両大将の病死によって幕を閉じました。

残ったのは焦土と化した京の町・・・この火種は全国各地へと広がり、土一揆や国一揆が多発します。

その結果、その地方を支配する守護を倒した新興勢力は戦国大名となり、世は下克上の戦国時代へと突入する事となります。
相国寺
(境内自由)
堂内拝観
   予約制
相国寺

勃発から、9ヶ月後の10月3日、ここ相国寺に陣取る東軍の武田信賢(のぶかた)を、西軍の畠山義就と朝倉孝景(たかかげ)が攻撃して放火・・・3日間燃え続けた相国寺の伽藍はことごとく灰になる一方で、占領の後、また奪回という、戦闘前の状況と変わりなく、ただ、多くの死者を出したのみでした。

特に、蓮池の付近で、西軍の多数の討死があったため、この日の相国寺の合戦は「蓮池崩れ」とも呼ばれます。

この時焼けた法堂は、後に豊臣秀頼によって再建され、鳴き龍で有名な蟠龍図が描かれています。

相国寺は、上記の通り、境内自由ですが、その法堂や方丈・浴室などの拝観は、完全予約制・・・

ただし、春と秋には、予約なしで見物できる特別公開があります。
鳴き龍
蟠龍図
特別公開の様子はフォトアルバムへGo
上御霊神社
(境内自由)
上御霊神社 相国寺の北側には、応仁の乱の口火を切った形となった御霊合戦が繰り広げられた場所。

そもそもは、桓武天皇が早良親王の怨霊から平安京を守るために建立したもの(平安京魔界マップへ

境内には、『応仁の乱勃発の地』の石碑→が・・・
応仁の乱・勃発の石碑
御霊合戦の詳細については、ブログ【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】
ようすいえん
擁翠園
上御霊神社を出て、烏丸通りを北へ・・・地下鉄・鞍馬口駅の交差点を西へ曲がり、そのまましばらく行くと、見えてくるのが擁翠園で、もともと、このあたりは細川満元のお屋敷があったところで、この庭園も、その一部だったのですが、残念ながら、現在は、右の写真の通り、ピッシリと門が閉められたままになっています。

・・・と、いうのも、ここは隣にあった郵便局の管理かでしたが、例の郵政民営化で郵便局ごと廃止になったようです。
擁翠園
散歩のヒント 擁翠園を過ぎてまもなく、新町通りを南(左)へ曲がりますが、この新町通りが、けっこう狭い道で見落としがちなので要注意・・・ポイントは「東南の角にある水道の修理屋さん?を曲がる」です。店頭に蛇口の見本がたくさん飾ってあります
持明院殿跡
持明院殿跡の石碑
持明院殿とは、南北朝時代に、南朝である大覚寺統と皇位を争った持明院統の歴代天皇の御所の事・・・

その場所には、応仁の乱の後、光照院というお寺が建てられ、今は、お寺の門の右側に、石碑のみがあります。
光照院・表門
散歩のヒント 持明院殿を過ぎてさらに南に向かい、同志社大学新町校舎にぶつかったら上立売通りを西(右)へ・・・右側に見えてくる「キングショップ西湖堂・高田店」手前の角を北(右)に曲がり、小川通りを進むと北西角に「寺之内幼稚園」のある十字路を西(左)へ曲がり、寺ノ内通りを進むと百々橋古戦場跡、さらにそのまま進むと右手に見えるのが宝鏡寺です。
どどばし
百々橋
 古戦場跡
西陣跡と室町第跡のちょうど中間に位置する場所・・・ここには、昔、南北に流れる小川(こかわ)という川が流れていて百々橋(どどばし)という橋が架かっていました。

応仁の乱の時、東西の中間であるこの橋を挟んで、数度に渡って両者の激戦が繰り広げられたのです。

当時は木の橋だったのが、後に石の橋に架け替えられ、昭和三十八年(1963年)に小川が埋め立てられて、その石橋もが解体された時、有志によってその礎石が保管され、後に、整備されたもとの場所に戻されました
百々橋古戦場跡
宝鏡寺
(拝観:500円)
宝鏡寺 光厳天皇の皇女・恵厳禅尼が開山した事から、その後歴代の皇女が入られ、別名「百々(どど)御所」とも呼ばれました。

その縁により、代々の天皇が、「寺に入られた皇女のために」と人形を贈られ、歴史ある人形がたくさん収められているところから人形の寺としても有名。

毎年
人形展が開催されている時期のみ、拝観ができます。
建物内は、お庭を含むすべてが撮影禁止のため、多くの写真を掲載する事ができませんが、唯一撮影可能なのが、「使者の間」と呼ばれるお部屋で、宝鏡寺を訪問した客人は、まず、ここのお部屋にてお持ちいただき、奥からのお許しがあって、初めて寺内に通されるのです・・・なんせ、歴代の皇女がお入りになるお寺ですので・・・。

現在では、和宮様に見立てた十二単のお人形が出迎えてくれます。

そうです、皇室と縁の深い宝鏡寺は、幕末、公武合体の象徴として、皇室から徳川将軍家へ嫁がれた和宮様が、幼い頃たびたび訪れて、お庭で遊んだり、貝合わせに興じたり、一時は住まわれた事もあるお寺で、和宮様ゆかりの品々も数多く残ります。
使者の間宝鏡寺・使者の間
宝鏡寺 また、ここ宝鏡寺は、応仁の乱の主役の1人でもある日野富子の木像が安置されている事でも有名・・・
←秋に真っ赤に彩られるお庭は、嵐山や東山に行かなくても手軽に楽しめる街中の紅葉の穴場として人気があります。
日野富子像
日野富子像
以下の日づけ以外は拝観はできません
春の人形展 3月1日〜4月3日
ひな祭りイベント 3月1日:11時〜11時半
秋の人形展 11月の2〜3週間
人形供養日 10月14日:10時半〜
(受付=10時〜15時)
散歩のヒント 宝鏡寺を出ると、すぐ西側には、南北に走る大きな道。堀川通がありますから、信号で向かい側に渡ってから、堀川通りを南(左)へ・・・歩道橋を越えて少し行くと、角にガソリンスタンド・・・道を挟んで手前にあるビルの壁際に、山名宗全・屋敷跡の石碑が立ちます。
山名宗全
  屋敷跡
山名宗全・屋敷跡 山名宗全・屋敷跡

このコースのとおり、北から南に歩いて来ると、手前のビルの死角となって石碑が見えないので注意です。

←の写真の左側がガソリンスタンド・・・コースどおりだと、この写真の右側から来る事になるります。

・・・で、このまま、この堀川通から西へのびる路地を進むと・・・
山名宗全・屋敷跡 ←もう一つ、「山名宗全・邸宅跡」の石碑が・・・

こちらの石碑は先ほどのより古そうですが、あっちからこっちまで・・・

とりあえず、このへん一帯が屋敷だったって事なのだろう・・・さすが、西軍の大将だ!
山名宗全・屋敷跡
散歩のヒント
「宗全・屋敷跡」を見たら、そのまままっすぐさらに西へ・・・道が突き当たりになるので、そこを左、一つめの路地を右、また突き当たるので、そこを左、さらに一つめを右、またまた突き当たりを左・・・すると、すぐ左手に消防署の出張所。

消防署の前にも路地がありますが、そこは曲がらずに直進すると、右手に「西陣中央小学校」が見えてきます。
山名宗全屋敷跡から西陣中央小への地図
世阿弥
  屋敷跡
ご覧のとおりの普通の小学校(いやむしろキレイ!)ですが、この西陣中央小学校のあたりにあったのが、3代将軍・足利義満から、大きな屋敷を賜った観阿弥と世阿弥の父子が住んだ場所・・・。

現在は観世井だけが残ります。

コースは、このまま、まっすぐ南へと進み、広い今出川通に出ます
世阿弥・屋敷跡(西陣中央小学校)
10 西陣跡
京都市・考古資料館
京都市・考古資料館
西陣跡 今出川通へ出たら、少し戻るかたちで、左(東)へ・・・

道路沿いの考古資料館の前に、「西陣跡」の石碑があります。

もちろん、山名宗全率いる西軍がここに陣を敷いたので、「西陣」・・・地名も、西陣織の名前も、この陣跡が由来です。
散歩のヒント この後、「西陣跡」からUターンして、今出川通を再び西に向かいますが、一番わかりやすいルートは、このまま今出川通を、ずずずぃ〜っと上七軒バス停のある交差点まで行ってしまう事・・・その交差点を右(北)に曲がり七本松通りを行けば、右側に大報恩寺(千本釈迦堂)です。

・・・が、しかし、やはり今出川通は、車がビュンビュンの大通り・・・せっかくの京都なのだから京都らしい道を・・・とおっしゃるのであれば、一本北側の五辻通へどうぞ。

先ほどの山名邸跡から西陣中央小学校へ行く途中の消防署の前から西へのびる道が五辻通です。
11 本隆寺
(境内自由)
・・・で、せっかく五辻通を行くなら、通り沿いにある本隆寺にも立ち寄ってみましょう(冒頭の地図の青点線ルートになります)。

本隆寺は、法華宗(真門流)の総本山で、正式名称を慧光無量山本妙興隆寺(慧公務りょうさんほんみょうこうりゅうじ)=略して本隆寺です。

開祖・日真大和尚(にちしんだいかしょう)が、長享二年(1488年)に四条大宮に開かれた本隆寺が戦火に遭い、その後、天文十一年(1542年)に、現在の場所に移転しました。
本隆寺
本隆寺 本隆寺。本堂 その後、大火により焼失しますが、万延元年(1658年)再建され、天明の大火(1788年)の時には、山門や鐘楼などえお失うも、本堂は奇跡的に助かり、現在では、京都16山の中で、最も古い建物となりました。

春は桜、夏はサルスベリ・・・そして秋は紅葉と四季折々の美しさを見せてくれます
12 五辻殿跡
本隆寺から、五辻通をさらに西へ進むと「五辻殿跡」・・・ここには、かつて都内に18ヶ所あったと言われる後鳥羽上皇の院御所の一つ五辻殿のあった場所。

元久元年(1204年)から、わずかな期間だけしか利用されなかった院御所ですが、武士の力が強まる中、「まだまだ衰えないぞ!」と、その権威を見せつける意味で、上皇は多くの院御所を建てたようです
五辻殿跡 五辻の昆布・本店
五辻通×千本通の交差点には、有名な五辻の昆布・本店があります・・・大人気の京みやげ
13 大報恩寺
千本釈迦堂
(境内自由)
(堂内:500円)
(境内自由、本堂&霊宝殿の内部拝観:500円)
千本釈迦堂・五辻通からの門 境内の見学は自由なので、五辻通りに面した南の入り口(←写真)と、上七軒バス停から曲がった七本松通に面した西の入り口・・・
どちらからでも入れます。
千本釈迦堂・本堂
千本釈迦堂の名前で知られる大報恩寺は、鎌倉初期の安貞元年(1227年)に義空上人によって創建されたお寺で、京の町を焦土と化した応仁の乱の中、唯一難を逃れたお寺・・・よって、現在では、京都市街で最古の木造建築として国宝の指定を受けています。
大報恩寺(千本釈迦堂)・本堂 それは、このお寺には、山名宗全の父・氏清が、3代将軍・足利義満との戦いに敗れて討死した時、その猛将ぶりに感激した義満が、その氏清を讃えて建立した経王堂があったからでは?と言われています。

「このお寺だけは守りたい」と、敵である細川勝元に働きかけ、勝元も武士の義として、それを約束したのだと・・・

しかし、確かに燃えはしなかったものの、本堂の柱には、応仁の乱の時の激しい戦闘でついた生々しい刀傷が・・・

←この縁側を、室町武士たちが、ヒラリと飛び降りたり上ったりしたかと思うと感動してしまいますね。
ところで、この千本釈迦堂・・・上記の通り、拝観料には、本堂とともに、多くの宝物が展示されている霊宝殿も含まれているのですが、右写真のように、少し奥まった所に看板があるためか、本堂の見学を終えてから、この霊宝殿に入られるかたが非常に少ないです。

仏像や文書はもちろん、足利義満の牛車の車輪など、興味深い宝物がたくさんありますので見逃さないで下さいね。
千本釈迦堂・霊宝殿
経王堂
経王堂には義満直筆の額が・・・
おかめ塚
境内にあるおかめ塚
おかめ塚の由来
本堂造営の際、棟梁となった名大工・高次が、柱の寸法を誤って切ってしまい、悩んでいたところ、妻の阿亀(おかめ)の助言によって名案を思いつき、無事本堂の棟上式が行われるも「女の提言で完成したとあっては、名に傷がつくであろう」と、本堂の完成を見ずに、自ら命を絶った彼女の冥福を祈る行事が、今日のおかめ信仰となりました。
ちょっとより道  
かみしちけん
14 上七軒
上七軒 千本釈迦堂の拝観を終えて、まだ時間に余裕があるようでしたら、バス停上七軒から北西にのびるもう一本の道を約2〜3分・・・上七軒の町並みを歩いてみてはいかが?

上七軒は、足利将軍の室町時代から栄えた京都で最も古い花街です。

文字通り、七軒のお茶屋があった事から名付けられたのですが、観光客が多く訪れる祇園とは、また少し違った雰囲気で、豊臣秀吉をはじめとする戦国武将や、血気盛んな幕末の志士たちが、ひとときのやすらぎを求めた空間が、今も面影を残します。
上七軒の町並み
赤い提灯と格子が目印の花街は今も現役

上七軒のお茶屋さん

ホームページ・ランキングに参加しています、よろしければ応援クリックお願いします→ホームページランキング 旅行・地域部門

このページの先頭へ戻る