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東大寺の西の門・転害門。ここから西へのびる道が、平城京の南一条大路。
法華寺までを佐保路と呼び、その先は左紀路となって西へのびています。
山というよりは丘のような佐保山と佐紀山の裾は、かつて平城山(ならやま)と呼ばれ大宮人の憩いの場でした。

静かなたたずまいの奥ゆかしいお寺と古墳群が魅力の全行程4~5時間のぶらり散歩です。 |




朱雀門
番号をクリックすると写真に飛びます
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| 市内循環バス:県庁東 |
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| 1 転害門 |
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| A聖武天皇皇后佐保山東陵 |
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| 2 興福院 |
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| 3 狭岡神社 |
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| 4 不退寺 |
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| 5 法華寺 |
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| 6 海竜王寺 |
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| 7 佐紀盾列古墳群B~D |
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| 8 平城宮跡 |
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| 9 秋篠寺 |
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| 7 佐紀盾列古墳群E~H |
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| 近鉄:平城駅 |
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花の写真はフォトアルバムへGo |
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転害門(てがいもん) 東大寺創建以来の転害門は天平式の八脚門。戦火にさらされた痕も生々しい。門がなければ通り過ぎてしまいそうな道が佐保路です。 |
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法蓮町は昔ながらの街並みが続く。つきあたりに見えるのが転害門。
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春日より流れ来る佐保川は万葉集にも詠まれています。 |
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興福(こんぶ)院

静かなたたずまいの尼寺には、小堀遠州の手がけた庭が・・・。 |
狭岡神社
神社には、垂仁天皇の皇后・沙本昆売(さほひめ)が姿を映した鏡池が残る。 |
不退寺(拝観500円)
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伊勢物語の主人公のモデルとなった平安のプレーボーイ・在原業平が建立の不退寺は、レンギョウでも有名。石棺も展示されていました。 |
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| 遠くに大仏殿や若草山、興福寺五重塔を望むこの景色は、かつて平城京の大宮人が愛した佐保路の風景 |

当時は一面の天平のいらかの波だったのでしょう。今は、平成のいらかの波かな? |
こちらのボタンをクリックするとパノラマ画像がご覧いただけます。画像の表示に少し時間がかかるかもしれませんが、アップにして若草山・大仏殿や興福寺・五重塔など確認できます。 |
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大仏殿 五重塔 |
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法華寺
国宝・十一面観音は春と秋に特別公開
(拝観800円) |

今回特別公開されている慈光殿は、光明皇后の作った国営の病気療養所だ。 |
皇后自ら千人の病人の垢を洗った浴室(からぶろ)もある。
| 千人目の浴室訪問者は、膿にまみれた病人で皆が近づくのをためらったが、光明皇后はためらう事なくその膿を吸い取った。 |
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| するとその病人の姿は阿閦如来に変わったという伝説が残る。まるで千と千尋の○○ |
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海龍王寺のユキヤナギも今盛り。秘仏十一面観音も春の公開中でした。
西金堂には、国宝の五重小塔が納められていて、当時の建築様式を知る貴重な遺産です。(500円)
海竜王寺 |
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佐紀盾列(たたなみ)古墳群
奈良三大古墳群の一つ。この中で最大なのはBの宇和奈辺(ウワナベ)古墳で5世紀頃の物。埴輪3000体に取り巻かれている。
古墳については『古墳を知ろう』のページへGo

A 聖武天皇皇后佐保山東陵 |

B 宇和奈辺(ウワナベ)古墳
全国で第13位の大きさで、全長268メートルもあります。 |

C 小奈辺(コナベ)古墳パノラマ撮影 |
D 平城天皇陵
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E 垂仁天皇皇后
日葉酢媛命狭木之間陵
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F 成務天皇
狭城盾列池後陵
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G 称徳(孝謙)天皇陵 |
H 神功皇后
狭城盾列池上陵
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| 表記の都合上、「盾列古墳群」の写真を一つにまとめて掲載していますが、コースの順番としては、最初にA、海竜王寺の次にB~D、秋篠寺を巡った後E~Hを見物しています・・・くわしくは、一番下の追記をご覧ください。 |
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平城宮跡
あおによし 奈良の都は 咲く花の 薫がごとく今盛りなり
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現在も東朝集殿の発掘中 |
遺構展示館:遺跡が発掘されたそのままの形で手に取れる近さで
見物できます。だからって、手に取ってはいけませんよ。
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東院庭園:貴族たちが優雅に歌い踊った庭園。発掘された遺跡の上にみごと再現されています。

庭園のパノラマ写真は
フォトアルバムへGo |
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平城宮跡資料館
ありし日の平城宮を地図や絵でわかりやすく教えてくれます。
月曜:休館 |
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朱雀門と朱雀大路

幅が74mもあったと言われる平城京のメインストリート朱雀大路。下のボタンをクリックしていただくと、360度パノラマ画像をご覧いただけます。少し重いので画像の表示に時間がかかるかもしれませんが、朱雀門の前に立って、朱雀大路の広さが体感できると思います。
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| 今で言うタイムカード制が導入されていたという事なので、朝の出勤時間などの、官僚たちの賑わいは現在の東京・丸の内みたいな物ですかねぇ~。 |
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休憩タイム・・・平城京はなぜ、ここに? |
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永遠の都を願って造営された藤原京を、わずか十数年で遷都する事になるのは、その広さにありました。
藤原京は、耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・香久山(かぐやま)の大和三山に囲まれた場所にあり、平地の面積が少ない。
律令体制を整え、より強固な中央集権を実現する国家となると、それに比例して都の人口も増えていくものですが、藤原京は、それ以上広くする事ができない場所にあり、人口の増加に対応しきれない状況にあったのです。
その点、奈良盆地は、面積が広く、広大な都を構えるには絶好でした。
もちろん、広さだけではなく、地相という物も考慮されています。
元明天皇の詔の中には「それ平城の地は四禽図(きんと)に叶ひ三山鎮をなす」という言葉があります。
「四禽図に叶い」というのは、平安京にも適用された風水の陰陽思想の『四神相応の地』の定義に叶っているという意味で、東に川=青竜、西に道=白虎、南に池=朱雀、北に山=玄武の四方に住む神獣よって守られる土地という事です。
「三山鎮をなす」というのは、東の春日山、北の奈良山、西の生駒山(または西の京あたりの丘)の三つの山が、悪を鎮めてくれるという事です。
さらに、都造営のための木材の確保という問題もありました。
十数年前に藤原京を造営した事で、付近の良質の木材は底をつき、当時はすでに、新たな寺院の建築などは、遠く近江(滋賀県)から木材を調達している状態でした。
琵琶湖の南から宇治川、木津川を経て運ばれてきた木材は、藤原京だと陸揚げしてからの距離が非常に長く不便でしたが、奈良盆地なら、その悩みも解決できます。
広くて、土地柄が良く、資材の運搬に便利・・・しかし、何よりこの遷都を推し進めたのは、時の実力者・藤原不比等で、そこには、藤原一族の大きな思惑も秘められていたのです。
一つ前の藤原京を造営したのは、ご存知、第41代・持統天皇・・・壬申の乱で勝利して頂点に立った亡き夫・天武天皇の遺志を継がせようと、持統天皇が、幼い孫の文武天皇を上皇という立場からサポートし、数多くいた天武天皇の息子たちも、それを支える・・・つまり、その時代に政治の中心にいたのは、皆、皇族の人たちという事になります。
ところが、その文武天皇の夫人であった藤原不比等の娘・宮子が、男の子を出産し、その首皇子(おびとおうじ)が将来、天皇(聖武天皇)になる事が決まると、政治の中心は臣下の藤原氏へと移るのです。
しかし、臣下の者の中には、まだまだ古い体制を維持しようという者や、もともと、中臣氏の中でも下層にいた鎌足の子孫である藤原一族に反対の姿勢をとる昔からの名門氏族たちもいました。
彼らの多くが飛鳥(明日香)の地に根をはった豪族たちですから、そんな飛鳥から離れた土地に都を遷して、「旧勢力を払拭しよう」・・・それが、不比等の一番の狙いだったのではないでしょうか。
天皇を中心に据えながらも、臣下である貴族・豪族が強い発言権を持つ『貴族政治』。
この先、何百年も続く、この政治体制が、今、この瞬間に生まれました。 |
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平城京の予想地図

最近では、大和郡山で平城京の遺構らしき物が発掘され、平城京は現在の大和郡山あたり・十条まであったのではないかという説が浮上しています。 |
壬生門と二条大路
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| 当時の二条大路は幅35m朱雀大路に次ぐ賑わいでした。写真左奥が壬生門の跡です。 |
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現在、平城宮跡では、第一次大極殿の復元工事中!工事現場の2階から南を眺めるとこんな雄大な景色
正面に見える朱雀門まで、多くの建物が建ち並んでいたんですねぇ。
ちょうど下の図(↓)とは逆になりますが、平城宮の広さを目の当たりにできます。 |
第一次大極殿 内裏
第二次大極殿 宮内省
第一次朝堂院 第二次朝堂院
小子部門 東院
第二次集殿院
兵部省 式部省
朱雀門
壬生門
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奈良時代の平城宮の様子 宮の中心部だけでこの広さ都はさぞかし大きかったことでしょう
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秋篠寺(拝観500円)
東洋のミューズと呼ばれる技芸天像は、少し腰をひねったポーズが絶妙の美しさ。
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秋篠寺は木蓮でも有名です。 |
梅と木蓮の競演 |
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| 追記 |
今回、巡ったコースは、一般的な「佐保・佐紀路の散策」に「盾列古墳群」を加えたコースで、通常は海竜王寺から北側の道を通り、平城宮跡に向かうコースが一般的です(上の地図・参考)。
上記の紹介では、表記の都合で「盾列古墳群」を一度に掲載させていただきましたが、巡る順番は、冒頭の地図の右側にあるように、B~DとE~Hを分けて見物しています。
今回は、時間の短縮を図るため、西大寺駅からバスで秋篠寺へ向かい、見物を終えた後、バスで来た道を少し戻り競輪場の前を通り、秋篠川にかかる一番目の橋を渡り、そのまままっすぐで平城駅、駅前あたりから、左前方に見えるのがHの神功皇后狭城盾列池上陵(右の詳細地図・参考)。 |
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平城駅を通り過ぎ、踏み切りを渡ってしばらく南へ向かうとE~Gの古墳が見えてきます。
その道をさらに南に下ると、平城宮跡の前の道へ出るので、西(右)に曲がれば西大寺駅に戻れます。 |
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ちょっとウラ話・・・万葉の悲恋・中臣宅守と狭野茅上娘子 |
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奈良の都に咲いた中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがきのおとめ)の恋・・・
万葉集・巻十五にはこうあります。
『中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬(じょじゅ)狭野茅上娘子を娶(めと)りし時勅して流罪に断じ、越前国に配(なが)す、ここに夫婦別れ易く会いひ難きを相嘆きて、各々働(いた)む情(こころ)を陳(の)べて贈答する歌六十三首』
つまり・・・ 「中臣宅守という人が、宮廷で女嬬をしていた狭野茅上娘子と恋に落ちて流罪となり、越前(福井県)に流された時、別れを悲しんで詠んだ63首の歌をここに収めます」 という事です。
歴史上、二人の事に関して書かれた事は、上記の文章と歌・・・そして、「 中臣宅守が、代々神を司る神官の家系の中臣東人(なかとみのあずまひと)という人物の七男で、晩年に従五位下に任ぜられた」という事だけ・・・
しかし、確かに二人は、奈良の都で恋に落ち、そして引き裂かれ、その愛しい思いを31文字の歌に託しました・・・いきいきと・・・そして美しく・・・
では、少ない史料の中で、ふたりがどのような恋をしたのか?少し紐解いてみましょう。
まずは、上記の目録の文章・・・『娶(めと)りし時勅して流罪に断じ』という事は、「二人が結ばれた事によって流罪になった」という事でしょうか?
今のところの通説では、「娘子の職業・女嬬というのが、後宮の女官である以上、彼女たちは天皇の所有物になるのだから、他の男と結ばれてしまった事で、宅守が流罪となった」という見方が一般的です。
しかし、もう少し身分の高い「采女(うねめ)」は、地方豪族たちが中央の天皇家へ服従の意味を込めて、言わば献上したようなものなので、天皇以外の男性と恋愛関係になる事は禁じられていましたが、女嬬はもっともっと低い身分で、召使いのような位置にいたので、おそらく恋愛は禁じられてはいなかったでしょう。
それが確かなのは、その万葉集にある「娶る」という言葉です。
二人の関係がもし、罪になるのなら、そこは「姧」の文字が使われていなくてはなりません。
『娶りし時勅して流罪に断じ』というのは、二人の関係は合法であったけれども、結婚してすぐに流罪になったという事だと思います。 では、なぜ?彼=宅守は流罪になってしまったのでしょう。
ヒントは『続日本記』のある記述と、『万葉集』に残る彼の歌・・・ 『続日本記』によると、天平十二年に聖武天皇の病気快復祈願の勅命(天皇の命令)で、大赦(罪を軽くする事)が行われていますが、当時、流罪で越前に滞在中の宅守は、その大赦から外されているのです。
この時、大赦から除外される罪として、「業務上横領」「故意的殺人」「計画的殺人」「ニセ金造り」「強盗・窃盗」「姦通」の六つが挙げられていますが、6つめの「姦通」は先ほどの「娶る」という表現から見て無いとするなら、残りの5つのうちどれかの罪という事になります。
そして、『万葉集』にある彼が、配所の越前から都の娘子に送った2首の歌。
♪さす竹の 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ♪
「都の人たちは、昔から“人なぶり”が好きだったけど、今もまだやってるのかな」
“人なぶり”とは、「悪質な噂話」とでも言いましょうか・・・執拗に人をからかったりする、言わば「イジメ」のような事です。
そして、もう一首・・・
♪世の中の 常の理 かくさまに なり来にけらし すえし種から♪
「自分のまいた種は自分で刈り取らなくちゃならないのは当然だからね」
この2首の歌をわざわざ彼女に送るという事は、やはり「それなりに意味がある」と考えると・・・「悪質なイジメ(噂話)によって、彼は何か事件を起こし(罰を受ける事で)その責任をとっている」という事になります。
突発的なケンカのような物であっても、宮廷内で刀を抜いた以上、それは「故意的殺人」とみなされます。 よって、かなり飛躍した想像になるかも知れませんが、おそらく彼と彼女の事が明るみに出て、二人は宮廷内の噂の的となり、悪質なからかいに我慢できなくなった彼が事件を起こしたのでしょう。
そして、彼は流罪となります。
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彼が越前へ旅立つ朝・・・若気の至りとは言え、罪を犯してしまった彼・・・
「やっと一緒になれたのに・・・」
彼女は、奈良の都のはずれまで見送りに行ったに違いありません。
そこで、彼女は歌います
♪君が行く
道の長手を 繰りたたね
焼き滅ぼさむ
天(あめ)の火もがも♪
「あなたが行く長い道を、くるくると折りたたんでたぐりり寄せて、焼き尽くしてしまう天(神様)の火があればいいのに・・・」
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慟哭にも似た彼女の叫びが聞こえてきそうな一首・・・そして、さらに、彼女は歌を送り続けます。
♪他国(ひとくに)は 住み悪しとぞいふ 速(すむや)けく 早帰りませ 恋ひ死なぬ間に♪
「他国は住みにくいと言うから、早く帰ってきてね、私がこがれ死にしない間に・・・」
しかし、先ほどの天平十二年の大赦でも、彼は帰ってきませんでした。
♪帰りける 人来たれり 言いしかば ほとほと死にき 君かと思ひて♪
「罪を許されて帰ってきた人がいたって聞いたから、あなたじゃなかったけど、うれしかったわ」
他人が罪を許されたのを、自分の事のように喜ぶ・・・彼女の性格の良さがうかがえますね。
そして・・・
♪わが背子が 帰り来まさむ 時のため 命残さむ 忘れたまうな♪
もう、解釈はいりませんよね。 文章そのまま・・・彼女は彼が帰る日の事だけを思い、生きています。
この歌を最後に、二人の恋は歴史の彼方へと消え去ります。
この後、彼と彼女がどうなったのかは『万葉集』は語ってはくれません。
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