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 太閤下水と豊臣時代の石垣の公開に行ってきました
 
2006年10月14日に開催された大阪城のイベント
『豊臣時代の石垣公開』と『太閤下水公開』に行ってきました!

石垣つながりで、徳川時代の大坂城建設の時、各地の大名から送られた刻印石についても紹介します。
地図は『大阪城公園周辺散歩』の地図を参考にしてください→地図を別窓で開く・印刷する
幻の豊臣時代の石垣
豊臣時代の石垣とは?
豊臣秀吉が天下統一の拠点として石山本願寺跡に築城した難攻不落の大坂城。

しかし、大坂夏の陣で焼け落ちた後、新たな天下人・徳川家康の息子・秀忠と孫・家光の手によって2度目の大坂城建設が行われました。

豊臣の大坂城と徳川の大坂城・・・現在の大阪城には、同じ場所にふたつの大坂城がある事は歴史好きのかたなら、もうご存知ですよね。
ではその、2度目の大坂城建築で、秀吉の築いた壮大な堀や石垣はどうなったのか?

すべて徹底的に破壊されたのか?
それとも一部が再利用されているのか?
石垣や堀などの土台はそのまま使われているのか?
それは、長い間の謎でした。

ある時、堀の一部の水が干上がってしまう・・・という事態が起こり、その原因究明をきっかけに、本格的な地質調査が行われる事になりました。

それが、昭和三十四年(1959年)の大阪城総合学術調査です。
最初は、地上から簡単な調査が行われましたが、すでにその時点で、定説はくつがえされます。
強固な地盤の上に直接造営されていると思われていた大阪城。

しかし本当は、もともとあった土地の上に10m以上の盛り土をしてその上に築城されている事がわかったのです。

そして次に、本丸・天守閣前(
印)で、コア・ボーリング調査が行われたのです。

やがて、ついに地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されました。

石は、現在の大阪城の物と比べるとかなり小ぶりで、積み方も『野面積(のづらづみ)』と呼ばれる古い様式でした。
    (野面積については、大和郡山城をご覧ください
←当時の新聞写真

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、秀吉時代の物と断定するには至りませんでした。
なんせ、このあたりは石山本願寺もあり、難波の宮もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡ですから・・・。

ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家のご子孫のお家から、豊臣時代の大阪城本丸図が発見されたのです。
その図と地下の石垣の位置を照合した結果、この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定されたのです。

現在の大阪城は、秀吉の築いた大坂城ではなく、表に出ているのは徳川時代の物で、その徳川時代の石垣の下に、豊臣時代の物がまるまる埋まっている・・・という風に、歴史が塗り替えられた瞬間でした。

今も、天守閣の前の広場に、この調査の時の穴が井戸のように残っているのですが、調査後ずっと蓋がされています。

その蓋を30年ぶりに開け、一般公開する・・・というのが、今回のイベントでした。
さすがに、はしごで中に下りさせてはもらえませんでしたので、上からの撮影で見にくいとは思いますが、なんとか石垣が判別できるかと思います。

いつの日か、地下に眠る石垣を、「常時公開・展示できるようにしたい」と、おっしゃっておられました。
刻印石
今回は、石垣公開のイベントで大阪城を訪れましたので、せっかくですから表面に出ている徳川時代の石垣についても、時間をかけてじっくり見てまわる事にしました〜。
ただし、刻印石を探して歩いていると、天守閣周辺だけで、まる一日かかるかもしれませんよ!
刻印石とは、石垣に使用されている石の中で、誰が寄進したのかわかるように印が付いている石の事です。

たとえば、この天守閣の下にある石垣・・・刻印がしてあるのが見えますか?
矢印のあたりですよ。

コチラをクリックしてアップでじっくりご覧あれ→
おお!天守閣の真下にも刻印が・・・。
この刻印は、加賀百万石・前田家の家臣たちがみんなで使用した刻印。
島津ではないそうです。
家紋とは別物なのね。
残念ながら、現代人の刻印もちらほらと・・・↓

↑こちらは、「これでもか〜」と言わんばかりのくっきり刻印ですね。
この二つの石は出雲松江・堀尾忠晴さんの寄進ですね。
見えにくいですが下の石にも堀尾さんの刻印が・・・↓
刻印石公園 天守閣の北側の山郷曲輪(印↓)には、刻印石を集めた「刻印石公園」があります。
どの刻印が誰の物かもチェックできるので、じっくり見るとけっこう楽しいです。 刻印石公園の場所
巨大な石垣
やはり、大坂城一の石垣といえば、桜門の側にある蛸石です。
およそ36畳敷き(60u)、推定130tと言われています。

岡山藩主・池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が寛永元年(1624年)に寄進した物で、備前(岡山)産の花崗岩が用いられています。
徳川大阪城・石垣大きさベスト10
順位 石の名前 場所 高さ 横幅 表面積 重量(推定) 石の産地 寄進大名
1 蛸石 桜門 5.5m 11.7m 59.43u 約130t 備前・犬島 岡山藩主・池田忠雄
2 肥後石 京橋門 5.5m 14.0m 54.17u 約120t 讃岐・小豆島 池田忠雄
3 振袖石 桜門 4.2m 13.5m 53.85u 約120t 備前・犬島 池田忠雄
4 見付石 大手門 5.1m 11.0m 47.98u 約108t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
5 二番石 大手門 5.3m 8.0m 37.90u 約85t 讃岐・小豆島 加藤忠広
6 碁盤石 桜門 5.7m 6.5m 36.50u 約82t 備前・沖ノ島 池田忠雄
7 二番石 京橋門 3.8m 11.5m 36.00u 約81t 讃岐・小豆島 池田忠雄
8 三番石 大手門 4.9m 7.9m 35.82u 約80t 讃岐・小豆島 加藤忠広
9 四番石 桜門 6.0m 5.0m 26.90u 約60t 池田忠雄
10 竜石 桜門 3.4m 6.9m 23.0u 約52t 備前・沖ノ島 池田忠雄
 (ほとんど池田と加藤やん!)
京橋口の肥後石 大きさ第2位の
肥後石

  (京橋口)
太閤下水
大阪城公園を出て少し南西に歩いた難波宮跡の近くにあるコチラは天正十一年(1583年)から始まった豊臣秀吉の大坂城築城に伴う町づくりで、道路整備と同時に町屋から排出される下水を排除するために建設された日本最古の下水溝です。

道路と下水溝を備えた町づくりは、現代の都市計画にも通じる、当時としては画期的なアイデアですね。
当時の大坂は、お城に向かう東西の道を軸にして、碁盤の目のように道路が張り巡らされ、道路に面した間口が正面。

その家の裏側の地上を水路のように走っていて、道路と交差する場所には、石の蓋がしかれていました。

建物の背中合わせになった場所を通る事から背割下水とか、秀吉にちなんで太閤下水と呼ばれています。

太閤下水の断面図
大阪市此花区にある下水道科学館には、太閤下水の一部を移設して当時のように展示されています。
(レンガの部分は別の時代の下水道の復元)
下水道科学館
阪神電鉄・淀川駅下車徒歩7分
月曜休館(拝観:無料)
下水溝の維持管理は町民の手で行われ水道浚え(さらえ)と呼ばれる町内一斉清掃の日があったそうです。

このように太閤下水は、約20kmが今も現役で活躍中!・・・なので、大阪市都市環境局の管理下にあり、普段は関係者の人しか入れないようになっています。

普段は、中には入る事はできませんが、2007年2月1日にガラス張りののぞき窓が設けられ、常時見られるようになりました。
天下を取った徳川家康によって、ことごとく破壊されてしまう豊臣秀吉の建造物・・・、この下水だけがそのままの形で残る事ができたのは、やはり、権力(武士)に屈しない『大坂町民の心意気』という物でしょうか。
 
大阪城周辺については『歴史散歩・大阪城公園散歩』のページへGo
よかったらブログも見てください↓(徳川時代の大阪城についても書いています)
豊臣秀吉のエピソード       
真田幸村と大坂の陣のエピソード

 
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