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北は、大阪城から南は住吉あたりまでの南北に長い台地、ここは神代の昔から陸地でした。
神武天皇が東征し、仁徳天皇が夕日を眺め、聖徳太子が四天王寺を建て、難波津には遣唐使船が行きかい、豊臣秀吉は城下町を築きました。
今も地名として残る東成・西成の基準もこの上町台地です。
そんなロマンあふれる上町台地の北半分・天王寺駅より北側を4~5時間のぶらり散歩です。 |
仁徳天皇と高津宮(高津の宮)
川の氾濫を防ぐため茨田の堤や堀江を造って河川を海に通わせた仁徳天皇は、ある日、高津宮から四方をご覧になり、「見渡す限りカマドの煙の立つのが見えないには、民が貧しいからであろう」と、その後の三年間、税の徴収を行いませんでした。
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そのため、宮殿は傷み雨漏りがする状態となりましたが、果たして、その三年後、もう一度眺望したところ、国中カマドから煙が立ち昇っていたのを見て「民のカマドは賑わいにけり」とお喜びになりました。 |
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昔の大阪平野は、現在の上町台地の部分が半島のように伸びていて、河内湖というた大きな入り江になっていました。 |
番号をクリックすると写真にとびます 大阪城

難波宮跡






 
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| 1 一心寺 |
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| 2 玉出の清水 |
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| 3 四天王寺 |
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| 4 夕陽ヶ丘 |
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| 5 生國魂神社 |
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| 6 高津宮 |
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| 7 久本寺 |
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| 8 近松門左衛門の墓 |
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| 9 真田山公園 |
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| 10 聖マリア大聖堂・越中井 |
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| 11 玉造稲荷神社 |
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| 12 鵲森宮 |
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一心寺
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遺骨で作るお骨仏で知られる一心寺の仁王門はものすごくモダンです。 |

玉出の清水
この付近は昔からの名水が多く、増井・逢坂・玉出・安居・土佐・金竜・亀井の清水は七名泉と呼ばれています。 |
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夕陽ヶ丘 このあたりは、寺町で神社・仏閣がひしめきあっていますので詳細な地図で
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A合邦辻(がっぽうがつじ)

浄瑠璃の名作・摂津合邦辻の舞台の閻魔堂 |
| B安居神社 |

真田の松↑と安居の清水↓
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安居神社は、菅原道真が大宰府へ旅立った場所で、大阪・夏の陣では、真田幸村の戦死の地でもあります。
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C清水寺
京都の清水寺から本尊を迎えた言わば分家。音羽の滝を模した玉出の滝は大阪市内唯一の滝です。寺からの眺めはまさに太古の昔ここから西は海だった事を物語るみごとな物。
クリックするとパノラマ画像が見れます |
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D清水坂
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夕陽ヶ丘には、『天王寺七坂』と呼ばれる多くの坂がありますが、すべて松屋町筋へ下る坂道です。それも太古の昔ここから西が海だったなごりです。
E金龍水
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F愛染坂

坂を上った所に、愛染堂の呼び名で知られる勝鬘院(しょうまんいん)があるのでこの名前がつきました。 |

H勝鬘院(愛染堂)
縁結びで親しまれている『あいぜんさん』は、大阪の夏祭りの幕開けとなる愛染祭でも有名。

愛染かつらの木
大きくどっしりした男性的な『桂』の木に寄り添うようにつたう『かづら』が、男女の愛を形造っていると言われ、往年の映画でも知られる縁結びの霊木です。 |
G大江神社
聖徳太子が四天王寺の鎮守として建てた七宮のひとつ。ここから見る海に沈む夕陽は絶景だったそうで、芭蕉さんも句に詠んでいます。夕陽ヶ丘の地名の発祥の地だとのこと。
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I家隆塚(かりゅうづか)

鎌倉時代の歌人で『新古今和歌集』の選者でも知られる藤原家隆のお墓です。 |
J真光院
聖徳太子の建てた真光院には、民衆救済のために作られた6万体のお地蔵様が今も健在です。
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K清地蔵(さやじぞう)

元紀州藩の重臣で、幕末に尊皇攘夷派として活躍した伊達千広の墓所。彼の遺言で家隆塚のそばに鎮座します。 |
L口縄坂
坂の下から見ると『くちなわ(蛇)』に似ている所から名前がつきました。
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M大平寺
虚空蔵菩薩に、かぞえ年13歳の子供がお参りすると、学力が授かるという『十三まいり』で有名なお寺です。江戸時代の名医・北山寿安のお墓もあります。 |
N西方寺

新商法で越後屋呉服店を築いた、あの大財閥の三井高利さんのお墓があります。 |

O青蓮寺
竹田出雲の墓所 |

P銀山寺
秀吉が、ここからの絶景をほめて銀山寺と名付けました。 |

P齢延寺
適塾と並び称される名門私塾『伯園書院』を開いた藤沢東畡のお墓があります。 |
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この他にも、夕陽ヶ丘には、芭蕉ゆかりの梅旧院(ばいきゅういん)や、新撰組の屯所があった萬福寺、豊臣方の武将・『岩見重太郎』の別名で知られる薄田隼人の墓のある増福寺などまだまだたくさんのお寺があります。
とにかく、ここでものすご~くたくさんの、お寺とラブホを見ました。 |
生國魂神社

大阪人に『いくたまさん』と親しまれている、生國魂神社。その歴史は古く、まだ、文字もなく、まわりが海だった2700年前、初代・神武天皇が国土の神を祀った物。 |
高津宮(こうづぐう)
仁徳天皇の難波高津宮ゆかりの地。ここから町を見下ろして『民のかまどは、賑わいにけり』の名セリフです。 |

高津宮HPは
リンク集へ |
ここには、通ると悪縁を断つ事のできる坂があります。↓
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久本寺
(きゅうほんじ)
住友家繁栄の基礎を築いた住友友以のお墓があります。 |
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近松門左衛門
の墓
妙法寺が移転しお墓だけ残されました。『曽根崎心中』などを書いた日本のシェイクスピアですね。 |
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真田山陸軍墓地と三光神社
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明治時代の始めに作られた日本初の陸軍墓地。
西南戦争から、第二次世界大戦まで、5千基以上。 |
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| 三光神社は、大阪冬の陣で真田幸村が築いた出城・真田丸の跡地。境内には、真田幸村像と彼が掘った『真田の抜け穴』があります。 |
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←抜け穴にはあの『六文銭』の旗印!
抜け穴関連記事:
『大阪城で新発見』へGo |
真田幸村については
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休憩タイム・・・細川ガラシャと越中井 |
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細川ガラシャ=お玉は、明智光秀の三女として生まれ、天正六年(1578年)に、織田信長の薦めで、同じ16歳だった細川忠興と結婚しました。
とにかくお玉さんはものすごい美人で、和歌などもたしなむ才媛、忠興さんはそんなお玉さんにぞっこんでした。
ふたりの運命が変わるのは、天正十年、お玉の父・明智光秀が主君・信長を襲った本能寺の変と、その後山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れてからです。
父親の謀反のとばっちりで、お玉は夫に丹後の山奥で軟禁状態にさせられます。
この時の夫に対する不信感や、精神的苦痛から徐々にキリスト教にのめり込んでいきます。
そして天正十五年に正式に洗礼を受け『ガラシャ』と称するようになります。
これには、さすがにお玉スキスキの忠興さんも激怒、改宗するように迫りましたが、お玉さんの意志は固かったのです。
そして、慶長五年(1600年)徳川家康は会津の上杉景勝を討つために伏見城を離れ、夫・細川忠興もこれに同行します。
しかし、亡き豊臣秀吉に取って代わろうとする家康に不満を抱いていた秀吉の家臣・石田三成が家康が留守の間に伏見城を攻撃。
これが天下分け目の関ヶ原です。
家康に同行している忠興の妻であるガラシャはに人質として大坂城に入城の命令が下ります。
この時、大阪・玉造の細川家の屋敷にいたのは女ばかり。
夫の負担にならないよう死を選んだガラシャは自分の娘・二人を大阪教会のオルガンチノ神父に預け、息子の嫁をお隣さんの宇喜多家へ非難させてから、自分はキリスト教信者であるため、自殺は許されないと、留守家老の手によって、その生涯をとじたのです。
ちるぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ |
| 細川ガラシャ 辞世 |
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聖マリア大聖堂と越中井 |

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大聖堂の北側にある越中井は細川忠興の屋敷にあった井戸。
ガラシャは、ここで最期を迎えました。 |
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玉造稲荷神社

名前の由来は、4世紀頃このあたりが、玉造部(三種の神器などの勾玉を作る人)の移住地だったからだとのこと。
| こちらの鳥居は豊臣秀頼の寄進。大阪夏の陣、第二次世界大戦の戦火をくぐり抜けた鳥居も、'95年の阪神大震災で、損傷してしまいました。 |
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環状線・森之宮駅のすぐそばにある鵲森宮は、聖徳太子が父の用明天皇のために建てた神社。新羅から献上されたカササギを飼育した事からその名前が付いたとか。
境内には太子命名の『亀井の井戸』があります。
鵲森宮(かささぎもりのみや)

このあたりは縄文時代から近代までの複合遺跡で『森ノ宮遺跡』と呼ばれ、大阪市民第1号と言われる縄文人の遺骨も出土しています。 |
| 時間があれば、この後、大阪城や難波宮跡への散歩も近い!
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