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江戸の風情を残す城下町・大和郡山をグルッと一回り、3時間前後の歴史散歩です。
郡山は城下町特有の細く曲がりくねった道ばかりです。
はっきり言って、県道9号以外は、車のすれ違いに気を配らなければならないような道です。
近鉄・大和郡山駅に「城下町ウォークマップ」というパンフレットが置いてあるので、それを手に入れましょう。 |
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パンフレットには町の史跡が網羅されてます。
時間があれば、藍染めの体験もしてみたいし、新木山古墳を南東へ少し行った所に「金魚博物館」もあるので、足をのばすのもGOODです。 |
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| 近鉄:大和郡山駅 |
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| 1 紺屋 |
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| 2 薬園八幡神社 |
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| 3 外堀緑地 |
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| 4 旧遊楽街 |
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| 5 源九郎稲荷神社 |
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| 6 洞泉寺 |
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| 7 郡山八幡神社 |
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| 8 新木山古墳 |
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| 9 大納言塚 |
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| 10 永慶寺 |
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| 11 郡山城跡 |
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| 12 春岳院 |
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| 近鉄:大和郡山駅 |
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番号をクリックすると写真にとびます



紺屋町






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「箱本館」紺屋
(拝観:400円)
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紺屋町は、豊臣秀長の時代に成立したと言われる藍染の仕事をする職人たちが集まった職人街で、その染物屋の一つ・奥野家を資料館として公開しているのが紺屋です。
道の真ん中には、郡山城の外堀へと続く溝があって、昔はここで染物を洗いながしたそうです。
今は、金魚が泳いでいました。 |
「箱本」とは・・・
「箱本」というのは、豊臣秀長が定めた自治制度で、13の町内に当番製で町政を仕切るようになっていました。
各町には、それぞれ営業独占権や、地代免除などの特権が与えられていて、町が発展するとともにその数も増えました。
治安維持、消火を始め、様々な意見を汲み取りながら、住民自身で考え、対応していました。 |
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館内では、藍染めの歴史や工程を学べるほか、「藍染め体験コーナー」で、手作り体験することもできます。
(ハンカチ:500円〜当日でもOKですが、予約優先。紺屋のHPへはリンク集からどうぞ) |
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薬園八幡神社
奈良時代に大宮人の薬草園があった場所に建立された神社。

本殿や拝殿の桃山時代の彫刻にも注目です。 |
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外堀緑地
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↑外堀にあった柳大門を再現した外堀緑地の南門。 |
内、中、外と三重の堀に囲まれていた郡山城。
今、外堀は公園として整備されています。 |
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旧遊楽街
源九郎稲荷神社、洞泉寺のあたりは、城下町が栄えた頃、一大歓楽街でした。
遊郭だった頃の面影を残す木造・3階建ての建物や細格子の建物が、当時のそのままの雰囲気で建ち並んでいます。 |
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源九郎稲荷神社

秀長が吉野から移して建立した神社。
吉野で、源義経と別れた静御前をここの白狐が守ったとか・・・。 |
洞泉寺
来迎型の阿弥陀如来像と垢かき地蔵さんで有名です。
本堂は、平成十六年に再築されたばかりです。 |
郡山八幡神社

柳八幡とも呼ばれています。
室町の頃からこの地にあって、歴代郡山城主の保護を受けてきました。 |
新木山古墳
(にきやま・丸山古墳)
全長122mの前方後円墳。
現在は、北西部に県道が通り西の部分が破壊されてしまいました。 |
大納言塚

豊臣秀吉の弟・大納言秀長の墓所です。
塚の前には、願をかけて持ち帰り、願いが叶えば返しに来る、という「お願いの砂」があります。庶民の願いをよく聞いてくれた秀長さんならではのお話。 |
永慶寺(境内自由)

徳川5代将軍・綱吉の頃に城主となった柳沢家の菩提寺。
山門は、旧郡山城の城門を移築した物で、もはや郡山城の遺構はこの門だけになってしまいました。 |
郡山城跡
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大阪にも京都にも近い交通・政治・戦略の要所であった郡山城は、時代とともに城主が変わるという定めにありました。
室町末期・筒井順慶が明智光秀の指導のもと、城郭造りを始めましたが、あの本能寺の事件でちょっと間ストップ。
順慶の死後、後を継いだ定次は、すぐに転勤。
本格的に築城がされたのは、その後城主になった豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長の頃、城下町もその頃整備されました。
関ヶ原の合戦の後は、徳川方の水野勝成、松平忠明、本多正勝と移り、江戸中期に柳沢吉里が、金魚と伴に甲府からやってきて、ここでもう一度、お城と城下町に大きな変革がありました。 |
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柳澤神社
城主・柳沢吉里の父・柳沢吉保を祭神とする柳沢家の神社。吉里の後、明治維新まで柳沢家が続きます。
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天守台
神社の裏手には、天守台があります。今は、建物はなく、登っても石碑のみですが、秀長公の時代の石垣が当時のまま残っています。 |
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「野面積(のづら)積み」という方法で積まれた天守台の石垣には、石不足のため、各地から集められた石地蔵や五輪塔、果ては平城京の羅城門の礎石まで使用されています。
←さかさ地蔵もその一つ
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一見わかりにくいですがこういう向きに石垣に組込まれています |
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これだけ、大量の石仏使用は、この郡山城と福知山城の二つだけです。『歴史散歩・福知山』へGo |

天守台からの眺め:城下町を一望です |

↑柳沢文庫(拝観:無料):柳沢家の所蔵する書画や江戸期の郡山城図などを公開しています。
追手門を守るための櫓(やぐら)・追手門向櫓→ |
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明治42年建築の旧県立図書館・堂々たる風格です。 |

秀長公の時代にふさわしい形で復元された追手門 |
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春岳院

秀長公の菩提寺。
秀吉が秀長の菩提寺として建立した大光院は、豊臣滅亡後、藤堂高虎によって京都に移されたため、秀長の位牌を春岳院が預かりここが菩提寺となりました。
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大和大納言秀長という人
秀長(1540〜1591年)は、豊臣秀吉の異父弟で、秀吉とともに戦国時代に活躍した武将です。
天正十三年(1585年)、和泉・紀伊・大和の及ぶ100万石を有し、郡山城主となり、郡山城の建設に本格的にとりかかるとともに、「箱本」という独特な町方自治を行い、城下の商工業を育成し、現在の郡山の基礎を築きました。 |
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地元では、「学問の智将」と呼ばれ、今も市民に尊敬されています。
秀長が、秀吉より長生きしていたら豊臣は滅亡しなかったのでは?・・・と、考えたりしますね。 |
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郡山の金魚について
戦国争乱の時代に、御朱印船に乗って中国からやって来た金魚たち。今や、全国の40%のシェアを誇る、郡山の一大産業となりました。
柳沢吉里が郡山城に移った時、藩士のひとりがペットとして飼っていた金魚も一緒にやってきました。
やがて、藩士の中で金魚飼育が大流行!
その後、明治になって失職した武士が地元農民と協力して養殖を始め、全国へ出荷するようになったのです。 |
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駅前交番はお城の形で、
ちょっとオモシロイ・・・。
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