あの世はこの世無料お試しページ
山本昌輝
ゴーという激しい音が聞こえてきた。バリッという何かが弾ける音が響いた。私は気が
付いた。五十一歳で胃ガンで死亡し、きっと棺の中に入れられているのだ。火葬炉の中で
燃やされているに違いない。絶叫した。
(助けてー。ここから出して。私は生きている。死んじゃいない。ちゃんと生きている。
蓋を開けて!)
しかし、声にはならない。気ばかりが空回りしている。炎の音と破裂音が一段と高くな
る。おそらく棺は崩れ落ちて、私の白装束は焼けてなくなっているだろう。表皮が黒焦げ
にただれ落ちて、筋肉が縮み上がっているだろう。内臓が破裂して、霧散しかけているか
もしれない。あの音は骨が弾け、砕けていく音かもしれない。
しかし、私にはその猛火の熱が伝わってこなかった。破壊音だけが聞こえてきた。それ
が私を少し冷静にさせた。別の私は肉体とは関係のない所で生きているのではないか。焼
け崩れた肉体から脱出することができるのではないか。
突如、頭蓋骨が破裂した。その瞬間、私はふわっと浮き上がった。自分でもびっくりす
るぐらい軽く舞い上がった。さらに驚いたことに、黄色い火炎の下に灰と化している私の
残骸があった。
もう間違いない。私は幽体離脱したのだ。こうなったら、早くここを脱出しなければな
らない。この地獄のような業火に完全に焼き尽くされる前に。煙突口が見える。あそこか
ら抜け出そう。
私は曲がりくねった煙突を上り、さらに狭くなった装置のような所も通り抜けた。やが
て、上空にポッカリと開いた天国のような所が見えてきた。あそこには第二の人生の世界
が広がっているかもしれない。次第に明るくなってくる。期待を込めて、外に飛び出した。
上空には白い雲が流れている。煙突から出ている煙が風になびいている。屋根が日光を
反射している。駐車場にはミニバンやセダンや霊柩車が停まっている。喪服を着た人々が
出入りしている。
ここはあの世ではなく、この世だ! 下から見るはずの風景を、屋根の上から俯瞰して
いる。天国に行けるかもしれないという淡い夢が、瓦がガラガラと落ちて行くように崩れ
て消えた。そして、この逆転の光景が変わり果てた私の証拠として、突き付けられた。そ
れを確かめるために、下へ向かった。
ミニバンのバックミラーの前にきた。後ろの車の左側と道路と建物の一部が映っている。
私の姿はどこにも映っていない。鏡に付くぐらい目の前にいるというのに。私を無視して、
後方の物体が映っているだけだ。
もう認めざるを得ない。私は霊になったのだ。私にも正確には分からないが、たぶん大
きさは耳の穴よりも小さい。透明で極小になった私には、もはや誰も気が付かないだろう。
しかし、私の方は今まで以上に見たり、聞いたりすることができる。これは私にとって
不幸中の幸いなのだろうか。それとも、この世の地獄を見聞きすることになるのだろうか。
私はこれからどうなるのだろうか。どう生きて行けばいいのだろうか。
まさか私が霊になるとは思わなかった。霊になって、一番驚いているのは私自身なのだ。
生前、将来自分が霊になると思って生活している人間は少ないだろう。私もその一人だっ
た。第一、私は怖がり屋で、夜一人で寝る時は、電気を点けていないと眠れない質だった。
その幽霊を恐れていた私が霊になるとは、何と皮肉なことだろう。
幸い私の姿は誰にも見えないはずだ。ということは、誰も怖がらない、ということだ。
そっと忍んで暮らせば、私が生活する場はできるのではないか。霊生活を開始することが
できるのでは。人生が終わり、霊生が始まる。私にも一縷の希望の光が差したような気が
した。とにかくここにいても仕方がない。火葬場に入ってみよう。
私はそこへ向かって飛んで行った。地上約一メートルの所を、人間がゆっくりと歩くよ
うな速度で。考えてみれば、こうして飛行していることも驚きだ。小学生の時、鳥になっ
て空を自由に飛んでみたい、と思ったことがあったが、まさか霊になって、その夢を実現
するとは思わなかった。人間とは不思議なものだ。私は他人事のようにそう思いながら、
前へ進んで行った。
人が火葬場のドアを開けて中に入った隙に私も進入した。火葬炉の前に参列者がいる。
どうやら火葬が終わり、私の骨を骨壷に入れているようだ。私は天井近くまで高度を上げ
て、そっと近付いて行った。
明(二十一)がいる。私の一人息子だ。三年前、明は進路のことで私と夫と大喧嘩をし
て、家出をした。それ以来、一度も会っていない。そんな明が私の葬式にきてくれた。私
は嬉しくなって、明の上に行った。
また身長が伸びて、百八十センチは越えたようだ。髪は長髪から短髪にしている。目鼻
立ちが整っていて、相変わらず精悍な顔をしている。場所のせいか、顔色は少し悪いが、
私といる時よりも頬がふっくらとして元気そうだ。それが何よりも嬉しい。
明は火葬炉の前にある小さな机の方を見ている。机の上には二本のロウソクや私の位牌
や遺影がある。どうやら明は私の遺影を見てくれているようだ。遺影の私は真面目な顔を
して映っている。右側に白髪が混じり始めた短い髪、少し頬がこけた四角い顔、薄い眉の
下の垂れ下がった細い目、小鼻がちょっと膨らんでいる低い鼻、下が厚目の唇。美人とは
言えないが、笑うともっと愛嬌のある顔になる。どうして笑顔の写真にしてくれなかった
の、と不満に思った。
しかし、明を見ているうちに、それが消えた。明は私を懐かしむように遺影を見詰めて
いる。そして、夫と二人一組になり、長い箸で私の骨を拾って、骨壷に入れている。小さ
く粉砕された白い骨が、音も聞き取れないぐらいの軽さで入る。鳥の骨よりもちっぽけな
物が、小さな骨壷に楽々と納まっている。私はあんな物だったのか、と少し悲しくなった
が、それもすぐに吹き飛んだ。明が仲の悪かった父親といっしょになって、私の骨を手厚
く納めてくれたことに感動した。遺影の私は笑っていないが、今、明に見とれて、微笑ん
でいる。私は決めた。明の所に行こう。明がどんな生活をしているのか見に行こう。
葬式が終わると、私は明が進む方へ飛んで行った。明が白のミニバンのドアを開けた。
私はその隙に車内に入った。明はラジオや音楽もかけずに沈んだ顔で運転している。
(そんなに落ち込まないで。お母さんは明といっしょにドライブができて、楽しいよ。明
が小学生の時、家族で日光に行ったよね。車の中で歌を歌って、盛り上がったよね。日光
のサルを見て、大はしゃぎをしたよね。あの時と同じぐらい楽しいよ。だから、もう悲し
まなくてもいいんだよ。いっしょに楽しもうよ)
私は必死に訴えたが、明の固い表情が変わることはなかった。
ミニバンが団地の前で停車した。明はコンクリート製の階段を登って、301号室に入
って行った。私も後から飛んで付いて行った。台所の他に四畳半と六畳半の部屋がある。
本や雑誌が散らばっていて整理整頓ができていないところは、以前の明と変わっていない。
部屋を片付けろ、と叱りたくなった。他にも言いたいことがたくさん出てきた。声に出
せないなら、せめて私がここにいることだけでも、それとなく知らせたくなった。直接分
からせるには、まだ刺激が強過ぎる。また、そんな手段は思い付かない。間接的に私がそ
ばにいることを知らせるいい方法はないだろうか。
明が六畳間の窓の前にある机の前に座り、何かカタログを見始めた。私は机の上に止ま
って、それを見た。どうやら食品宅配業者の商品カタログのようである。明は申し込み用
のマークシートに鉛筆で印を付けている。カタログをめくって、黒い棒印を次々と付けて
いる。後ろのページにコーヒーの欄があった。
私は、これだ、と思った。私は生前コーヒーが好きで、よく飲んだ。一方、明はコーヒ
ーが嫌いで、一滴も飲まなかった。私は何度も、コーヒー飲む?、と勧めたが、いや、と
断わった。
明は未だにコーヒーは飲んでいないようである。もし、申し込んでもいないコーヒーが
届いたら、変だと思うだろう。私の仕業だと確信しなくても、半信半疑の状態になるだろ
う。コーヒーを飲んでいる私の姿を思い出し、もしかしたら、私が頼んだのではないだろ
うかと疑うだろう。
これは私の存在を匂わす絶好の機会だ。宅配日は明日のようだ。宅配の車に乗り、業者
のコンピューターに忍び込んで、コーヒーを申し込んでみよう。かなり難しい仕事だろう
が、やるだけのことはやってみよう。
翌日、私はドアの右横に出された宅配の箱の上で、宅配業者を待った。正午過ぎ頃、宅
配業者が新しい箱を持ってきて、代わりに空き箱を持って行った。私は後から飛んで行っ
て、トラックに忍び込んだ。その後、宅配業者は各会員の住所を回って、夕方に会社に戻
った。
宅配業者は会員の申し込み用紙だけが入った箱を持って行った。私はその後を追った。
宅配業者は事務所に入り、女の前にその箱を置いて出て行った。女は箱の蓋を開けてから、
申し込み用紙を一枚一枚ビニール袋から取り出して、ダンボール箱に入れている。申し込
み用紙は箱に曲がって入っていたのが多かったせいか、重ねても隙間ができている。私は
その隙間に入り、明の申し込み用紙を探した。それには各自の名前がプリントされている
ので、簡単に見付かった。
私はいったん外に出た。壁に貼っているスケジュール表から、申し込み用紙をコンピュ
ーターに入れるのは、明日であることが分かった。まだ十分に時間がある。その間に自分
の能力を試し、作戦を練ることにした。
私は事務所の天井に下がっている長形の蛍光灯へ向かって飛んで行った。その周りを回
転してみた。すると、蛍光灯が点滅し出した。二人の女の事務員が上を見上げたので、慌
てて止めた。蛍光灯は元に戻り、事務員は何事もなかったかのように仕事を再開した。
どうやら私には電気が帯びているようだ。光は通さないようだ。体長は約五ミリ。とい
うことは、申し込み用紙のコーヒーの欄にへばり付いているだけで、鉛筆で細長く塗りつ
ぶした効果があるのではないだろうか。コンピューターはコーヒーを申し込んだものと判
断するだろう。これは意外と簡単な作業かもしれない。私は事務所を観察するぐらいの余
裕を持って、次の日を待った。
翌日、女の事務員が大型コンピューターに申し込み用紙を大量に入れ始めた。私は急い
で明の申し込み用紙に潜り込んで、コーヒーの欄にピッタリとくっ付いた。昨夜の余裕は
消えて、緊張と不安が襲ってきた。他の申し込み用紙との摩擦の関係で、コーヒーの欄か
らずれてしまうのではないか。コンピューターがうまく作動しなのではないか。
他の申し込み用紙がどんどん少なくなり、明の申し込み用紙がコンピューター内に入る
時が近付いて来る。ついにその瞬間がきた。一瞬、強い風と光が通り過ぎた。あっという
に外に出た。
私は見事に成功した。心配なのはコンピューターがうまく作動するかどうかだ。やるべ
きことはやった。後は運を天に任せるしかない。もうここには用はないので、明の所に戻
った。
五日後の午後六時、明が帰ってきた。鍵でドアを開けてから、右横の宅配の白い箱を二
個ずつ二回に分けて、流しの前に持って行った。右側の箱の蓋を開けて、引っ繰り返った
声を上げた。
「何だこりゃ! コーヒーじゃねえか。何でこんな物入ってるんだ。頼んでねえぞ」
明は一番上にあった白いコーヒーの箱を持ち上げて、訝しげに見ている。私は、ヤッター、
と心の中で叫んだ。明はコーヒーの箱を左横に置いて、食品を冷蔵庫の中に仕舞っている。
眉根を寄せて、時たまコーヒーの箱をにらんで、何か考え事をしているようだ。
半分ぐらい入れた時、突然手を洗ってから、六畳間に行った。私も付いて行った。明は
電話番号表を見ながら、電話をかけている。
「もしもし、あのー、申し込んでいないコーヒーが届いたんですが、調べてもらえますか。
もしかしたら、コーヒーの欄に間違えて印を付けたかもしれないので、お手数ですが、マ
ークシートを点検して頂けますか。商品番号と会員番号と住所と名前は×××××です。
よろしくお願いします」
明は右手の人差し指で電話機を軽く叩きながら待っている。
「えっ、コーヒーの欄に印が付いてないっ! じゃ、どうして届いたんですか。間違えて
配達したかもしれないって。返品するにはどうしたらいいんですか。いや、ちょっと待っ
て下さい。返品はしません。これ、購入します。手続きの方、よろしくお願いします。で
は、失礼します」
明は真っ青になって、電話を切った。しばらく呆然としてから、ゆっくりと壁に貼ってあ
るカレンダーに近付いて行った。私が死んだ月の辺りをにらんでいる。
「まさか母さんの霊のせいじゃないよな。まさかだよな」
明は引きつった笑いを浮かべた後、残りの食品を冷蔵庫に収納した。手を洗ってから、コ
ーヒーの箱を冷蔵庫の上に置いた。
私は嬉しかった。コーヒーを返品するか、ゴミ袋に捨てるかと思ったが、大事に手元に
置いてくれた。明は私の霊のせいでは、と疑い出したようだけど、まだ半信半疑の状態だ
ろう。これで、私の存在を匂わす、という目的はそれ以上の効果を上げて達した。予想よ