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生き直し
山本昌輝
藤原秀造の一周忌が藤原家の十畳の客間で行われている。秀造は一年前の八月十四日、胃ガンのため、病院のベッドで永眠した。享年七十であった。初老の僧が仏壇の上の遺影の前に対座している。秀造の親族十二名が僧の背後に二列になって座っている。
仏壇にはキキョウやオミナエシなどの精霊花が飾っている。そうめん、団子、果物、野菜なども供えている。その中にはキュウリやナスビに割り箸の足を付け、トウモロコシの毛を尾に見立てて後ろに付けたりして、牛や馬の形を作っている物もある。そうするのは盆には精霊は馬に乗り、牛に荷物を背負わせて現世に帰って来る、と伝えられているからである。
秀造の妻佳代は僧の右後方に座っている。正座している足の上に両手を重ねて載せて、冷たくなってしまいそうな自分の手を平常に保たせるために、時々それを擦り合わせた。六十五歳になる佳代のひからびた両手の摩擦音が、物悲しげに聞こえる。やがてそれは読経の中に静かに消えていく。
佳代は首を少し曲げ、大きな目を半開きにして、線香の煙を見ている。煙は初めは濃い尾を引いてスーと上昇していくが、途中でよじれる。そして、次第に透明度を増し、いつの間にかはかなく空中に霧散していく。佳代はそれが火葬場の煙に見えて、目頭が熱くなった。目前の秀造の遺影までもが火炎に包まれている幻覚を見て、慌てて目を擦り、在りし日の姿を凝視した。
それは秀造がまだ四十代前半の時に撮った写真だった。黒々とした髪は光を照からせて、オールバックにしている。細面の精悍な顔をさらに引き締めている太い眉の下の意志の強そうな目が優しく微笑んでいる。
佳代はそれを見ているうちに、秀造の生前を思い出した。秀造は自分勝手な人だった。何でも自分の言っていることが正しいと思い込み、佳代の意見を聞こうともしなかった。佳代は自分が秀造のために、炊事、洗濯、掃除だけをしている家政婦に思うことがしばしばあった。秀造が死んだら、さぞかしせいせいして、羽を伸ばせるだろうと思った。
現に秀造と同じような夫を持った隣のおばあさんは、夫の死後、青春を取り戻すんだと言って、ゲートボールで知り合ったおじいさんと残り少ない人生を、旅行などして気ままに楽しんでいる。佳代もその日を密かに待ち望んだ。
しかし、秀造の死後、佳代はそんな気持ちにはなれなかった。日増しに寂しさが募り、秀造の存在の大きさをかみしめた。虐げられた生活の苦しみが甘美な思い出となり、懐かしくなる。もう一度秀造が自分の前に現れて、怒鳴り声を上げる姿を夢見る。くそジジィ、と悪態を付きながらも、命令に従っている自分を取り戻したくなる。
けれど、最近はそれを空想する場さえも破壊されつつある。秀造没後、家の中の雰囲気が微妙に崩れ、透明な断層ができたからである。同居している嫁の態度が大きくなったように思われる。家族が自分の生活空間を侵食し、最後には自分を家から排除しようと企んでいるのではないかと疑う。
佳代は単調なお経を聞いているうちに、意思が遠くなった。今ここにいながらここにいないような、まるで現世から他界に足を踏み入れている気分になった。そのためか、佳代は窓にかかっているレースのカーテンから差し込んでくる陽光を、感じることができなかった。ただ佳代の目の前には、棺の中の暗闇が無限に広がっているだけだった。
次第に佳代はお経の音響が、死の世界ですすり泣いている秀造の声に聞こえてきた。また、秀造がその世界に自分を誘惑しているささやきにも思えた。佳代はお経の音律を秀造の声と重複させていたので、久し振りに夫の声を聞いている気になり、恍惚の状態になった。
突然、佳代は魂が略奪されたかのようにふわりと倒れた。親族は驚愕して佳代に近付いた。佳代は安らかな顔して、仰向けになっている。佳代の次男の茂男(四十五)が佳代を揺すったが、何の反応もない。慌てて救急車を呼んだ。この時、すでに佳代の魂は次のような超現実的な世界を彷徨していた。
あたりは夕暮れのような薄暗さである。白い螺旋階段が天上に向かって伸びている。霧が階段をはうようにして、ゆっくりと上へ流れている。佳代は霧に後押しされながら、恐る恐る階段を上って行った。
ふと佳代は下界を見下ろした。僧の後方には親族が座り、秀造の一周忌が行っているのが見えた。親族を見た時、背筋にゾクッと悪寒が走った。なぜなら、彼らの目はみんな頭の後ろに付いていたからである。誰一人として目前の秀造の遺影を見ている者はいない。佳代はなぜそういう現象が発生したのか分からなかったが、とにかく彼らを嫌悪した。そして、もう自分が住む場所は天界しかない、と思い込んで、自発的に螺旋階段を登った。
マンゲリラ
山本昌輝
膣が燃えるように熱い。血管がドクッドクッと脈打っている。内から突き上げて来るよ
うな激痛が襲って来る。何かが膣の中にいる。そいつが粘膜を刺している。しかも、次第
に巨大になりながら、外へ向かってはい上がっている。赤ん坊が急激に成長しつつ、自ら
の意思で生まれ出て来るような感じだ。
吉原実穂(二十六)は真夜中の自室のベッドの上で汗をびっしょりかきながら、その痛
みに耐えた。両手できつくシーツを握り締め、顎を上げてあえぎ声を上げている。奴が上
がって来る。鋭い爪でかき分けるように。大きな爆弾が発射台に向かってゆっくりと進ん
でいるようにも感じる。
ついに奴が膣外に出た。複数の冷たい足が外陰部に当たっている。それがムズッムズッ
ムズッと上がって来る。ヘアーを踏み締めて迫って来る。実穂は全身に鳥肌を立てながら
下を見た。パジャマの下腹部がモッコリと膨れ上がっている。それが急速に大きくなって
いる。今にも弾け飛びそうだ。
ガバッ!何かがパジャマのズボンから飛び出した。
「キャー!」
実穂は上に覆い被さった物を見て絶叫した。それは全身は真っ黒、顔は逆三角形、胴は四
角い偏平形。身長は約三メートル。鋭く尖った三本の指を持った六本の足が、空気をかき
むしるように動いている。肉が腐ったような異臭が襲って来る。細くつり上がった黄色い
目がこっちをにらんでいる。口を大きく横に開き、シーシーシーという音を立てながら鋭
い歯を見せた。よだれがポタリポタリと実穂の頬に落ちて来る。鋭利な歯が目前に迫り、
猛烈に臭い息がかかって来る。
「うっ」
実穂は小さく唸った後、気絶した。
朝、実穂は二階の窓から入って来る夏の風によって目を覚ました。はっとして、あたり
を見回した。何もいない。昨夜のは夢だったんだろうか。しかし、窓を開けた覚えも、ク
リーム色のカーテンを全開にした覚えもない。奴はそこから逃げて行ったんだろうか。実
穂はベッドから降りて、何か証拠となる物は落ちていないかどうか探し始めた。けれど、
何も発見できなかった。
「夢よ、夢。あんなことがあったから、悪夢を見たんだわ」
実穂は思い出したくもない場面を目に浮かべつつ、独り言を言った。それは二週間前大学
生風の四人の男にA海水浴場の小屋に連れて行かれ、レイプされたことだった。彼らは笑
いながら、実穂の体を凌辱した。その日以来、実穂は精神が乱れ、体調を崩した。結婚前
の体を汚されて、自殺しようとさえ思った。しかし、あんな獣たちに一回限りの人生まで
も奪われたくないと思い返し、踏み止まった。
今日は婚約者の織田武(三十一)を両親に紹介するため、実家へ行く日。実穂は深呼吸
をして、窓を閉めてから、新たな気持ちで着替えを始めた。パジャマのズボンを脱いで、
パンツを下ろした時、思わず、あっ、と声を上げた。何とパンツには黄色いおりものが付
いていたのである。
「どうしよう。性病移されたのかしら」
実穂は目の前が真っ暗になり、目眩がした。気を取り直し、本棚から産婦人科の本を取り
出して、何の病気か調べることにした。エイズ、尖圭コンジローム、性器ヘルペス、梅毒、
淋病、クラミジア・・・・・・、どれも違う。トリコモナス膣炎かカンジダ膣炎の症状に
近い。トリコモナス膣炎はトリコモナス原虫が膣内に巣くうことによって起こり、黄緑色、
牛乳状、薄い膿汁様のおりものが増える。カンジダ膣炎はカンジダという一種のカビによ
って発生し、黄色の粥状、あるいはカッテージチーズ状のおりものが増える、と書いてあ
る。
実穂は大学時代の生物学科に在籍して時に購入した顕微鏡でパンツに付着したおりもの
を見ることにした。トリコモナス膣炎なら、トリコモナス原虫がピクピクと動いているは
ずである。カンジダ膣炎なら、カビの特徴である菌糸や胞子が確認できるはずである。お
りものをスライドガラスに載せて、接眼レンズに目を近付けて見ようとする。網膜にトリ
コモナス原虫がピクピクと動いている姿やカビが菌糸を張りめぐらしている様子が浮かぶ。
顔を歪めて横を向く。勇気を出して、接眼レンズを覗き込む。
「いない。よかったー」
実穂は首の力が抜け、大きく息を吐いた。安心する間もなく、また不安の波に飲まれた。
「じゃ、これはなんなのかしら。まさか、夢に出てきた奴の仕業では。まさかよね」
奴の卵がスライドガラス上にあるのでは。それが急激に大きくなり、襲って来るのでは。
実穂はそんな妄想を抱きながら、恐る恐る接眼レンズに目を近付けた。
「ドンドン、ドンドン」
実穂はビクッと体が震え、心臓が止まりそうになった。難のことはない。誰かが部屋のド
アをノックしているだけだ。
「どなた様ですか」
咄嗟に実穂は顕微鏡を背中で隠すようにして聞いた。
「俺だ、武だ」
聞き慣れた明るい声が流れてきた。実穂は狼狽した。今この場でもっとも会いたくないの
がきた。これなら、奴が現れた方が増しだ。
幽霊対決
山本昌輝
午後九時、ヤマトテレビ第三スタジオで男女バトル喧嘩の生放送が開始した。正面の左
側に半透明のガラス越しに男女二人が向かい合って座っている。右側にはアドバイスをす
る五人のタレントが着座している。その後ろの席には五十人の客がいる。カメラの右横に
いるディレクラターの田島明夫(三十五)が、バトル開始の合図を送った。中年男の司会
者が、それではどうぞ、と言った。
「昨日の夜見たわよ。あなたと若い女がホテルから肩を組んで出て来るところ。あの女ね。
私を振って、結婚する相手は」
と女は今にも怒りが爆発しそうな口調で言った。
「違うって。仕事先の人だ。打ち合わせをしてただけだ」
と男は上擦った声で言った。
「とぼけたってダメよ。もう調べはちゃんとついてるんですからね。あの女があなたの会
社の専務の娘ってこともね。あなたは私を捨て、出世の道を選んだ。そうでしょ」
女の声が鋭く高ぶってきた。
「誤解だ。正直に言うよ。実は専務に見合いを進められたんだ。仕方なくデートをする羽
目になった。でも、あれ一回切りだ。もう別れたんだ。関係ないんだ」
男が両手を振って必至に説得している。
「嘘よ嘘。あなたはあの子に結婚指輪も買って上げたじゃない」
「どうしてそれを」
「後を付けて、それもちゃんと見てたのよ。みんな専務にばらしてやる。私が妊娠三カ月
だってことも」
「おまえ、妊娠してたのか」
男が驚きの声を上げた。
「そうよ。なのに、あなたは他の女と。許せない。全部ばらしてやる」
女が狂ったように絶叫した。
「待て、こらっ」
男がヤクザのように怒鳴った。
田島は真っ青になって、両手で×を作り、止めさせろ、という合図を送った。慌てて司
会者が二人を止めた。田島は回りの音が聞こえなくなるぐらい動揺した。あの二人がリハ
ーサルとは違ったことを言ったからだけではなく、その会話の一言一句が田島が女と別れ
た時のとまったく同じだったからである。
(なぜだ。なぜあいつらは俺たちの会話を知ってるんだ。偶然か。いや、あんなにピッタ
リ合うはずがない。あいつらはどこかで俺たちの話を盗みやがったんだ。そして、俺に脅
しをかけに来やがったんだ。何を企んでいやがるんだ。どこまで知ってるんだ。まさかあ
の後、俺がネクタイで秀美を絞め殺し、埋めたことも知ってるんじゃないだろうな。そん
なはずない。誰にも見られていないはずだ)
田島は一年前の夏のある日を思い出した。夜の十一時頃、商社OLの岡本秀美(二十八)
が田島のマンションの部屋にいきなり入って来た。そして、さっきのように言い争ってか
ら、小走りで玄関へ向かった。田島は首から紺の地に白の水玉模様の入ったネクタイを外
し、秀美の首にかけて、思いっ切り締めた。秀美は白目を剥き出しにし、苦しそうに口を
歪めてから、ダラッと床に崩れて死んだ。秀美の死体を地下の駐車場まで持って行き、乗
用車のトランクに入れた。山林奥深くまで行って、スコップで穴を掘り、秀美の死体を埋
めた。
その一か月後、田島はヤマトテレビ専務の娘と結婚した。二か月後にはアシスタントデ
ィレクターからディレクターになった。十一か月後には男の子にも恵まれた。秀美の家族
が彼女の捜索願を出したが、今のところ発見されていない。田島は秀美と隠れて交際して
いたので、誰も田島を疑う者はいなかった。すべて順調に進んでいた。
(何で今頃になって。あいつらの目的は何なんだ。金か?金なんてねえぞ。復讐か?だと
したら、あいつらは秀美の家族か友達か。よし、こうなったら、徹底的に調べて、あいつ
らの化けの皮を剥がしてやる)
田島は台本のプロフィール欄を見た。男は坂本浩一、二十九、会社員、東京都渋谷区・
・・・、電話番号・・・・。女は川口恵美、二十九、会社員、東京都世田谷区・・・、電
話番号・・・・。これらは虚偽である可能性の方が高い。実際に確かめなければならない。
田島は番組が終わり次第、主犯と思われる坂本の後を付けることにした。
五十五分後、番組が終了した。田島はスタッフに、用事があるから、と言い残して、坂
本の後を追いかけた。坂本が乗用車に乗って行ったので、田島もタクシーで追跡した。坂
本はプロフィール欄の住所通りの所に到着した。アパートの左から二番目の部屋に入って
行った。
田島はその様子を外で見ていた。坂本の部屋の半透明のガラス窓には、カーテンが引い
てなかったので、坂本の影が動いているのが見える。突然、別の影が現れた。髪が背中の
中程まである女のようである。いきなり女が後ろから坂本の首に紐のような物を巻き付け
た。坂本は後ろに両手を回し、のけ反っている。女は身を横に傾けて、紐を締め上げてい
る。
「ヤベー」
思わず田島は声を上げて、階段を駆け登って行った。鍵のかかっていない坂本の部屋のド
アを開けて、中に入った。危なく悲鳴を上げそうになった。坂本が窓の側で仰向けになっ
ている。どうやら死んでいるようである。女は部屋中どこにもいない。すぐ上がって来た
ので、外から逃げることはできないはずだ。窓ガラスには鍵がかかっているので、ベラン
ダから逃げたとも考えられない。まるで消えてしまったようだ。それよりも、さらに驚い
たことは、坂本の首に秀美を殺した時のと同じ紺の地に白い水玉のネクタイが巻かれてい
たことだ。
(どういうことだ。何で同じネクタイで殺されているんだ。何で凶器を現場に残して置く
んだ。まるで俺への当て付けみたいじゃないか。まさか俺を嵌めようとしてるんじゃない
だろうな。きっとそうだ。一体誰が。そうか、あの女だ。川口恵美だ。二人は仲間割れを
して喧嘩になった。川口は坂本を殺し、俺に罪を着せようとした。あの性悪女めが。これ
から行って、すべて吐かしてやる)
田島は坂本の首からネクタイを取って、それを背広のポケットの中に仕舞った。ドアを
そっと開け、誰もいないことを確かめた後、ノブに付いた指紋をハンカチで拭き取ってか
ら、外に出た。そして、タクシーで川口恵美の住所へ向かった。冷静になるにつれて、だ
んだん腑に落ちない点が浮かんできた。
(大の男がああも簡単に女に殺されるだろうか。それに、川口が俺が秀美をあれと同じネ
クタイで殺したことなんて知ってるはずがない。凶器を放りっぱなしにして置く意味なん
てないじゃないか。第一、女はどこから逃げたんだ。窓には鍵がかかっていたし、出口に
は俺がいた。川口にできる技とは思えない。男をやすやすと殺し、霧のように消えた。ま
るで化け物の仕業のようだ。まさか、秀美が化けて出たのでは。そう言えば、あの影は秀
美にも似ていた。秀美が坂本を殺し、俺に罪を被せるために、ネクタイを置いた。秀美が
俺に復讐している。そんなバカな。妄想だ)
田島は両手を組んで体の震えを抑えた。タクシーが川口のアパートの前に着いた。田島
は二階の左から三番目の川口の部屋の下へ行って見上げた。半透明のガラス窓には髪が背
中の中程まである女の影が動いている。
(なーんだ。川口だったのか。秀美のわけがないわな。おっと、安心してる場合じゃねえ。
あの女、叩きのめしてやる)
田島が動こうとした瞬間、別の長い髪の女が現れた。その女は前の女の首に紐のような
物を回して締め上げている。坂本の時と同じだ。
「しまったー」
田島は血走った目で階段を駆け上がり、ハンカチを使って、ドアのノブを回した。やはり
鍵がかかっていない。急いで部屋に入ると、川口が居間で仰向けになって死んでいる。首
には同じネクタイが巻かれている。またしても女は煙のように消えている。田島は頭を抱
えて、心の中で絶叫した。
(どうなってるんだ。誰が二人を殺しやがったんだ。あの女はどこから逃げやがったんだ。
どうして俺が行く所に殺人が起こるんだ。誰かが俺を嵌めようとしてるのか。秀美か。や
っぱり秀美なのか。あいつが化けて出て、俺に復讐してるのか。こうしちゃ、いられねえ。
早くここから逃げなきゃ)
田島は素早く川口の首からネクタイを抜き取ってから、駆け足で逃げて行った。川口の
アパートからだいぶん離れた所でタクシーを止めた。タクシーに乗ろうとした時、後ろか
ら軽く肩を叩かれた。
「相乗りしません」
と色っぽい女の声をかけられたので、ニヤッとして後ろを振り向いた刹那、
「わっ!」
と田島は悲鳴を上げて、慌ててドアを閉めた。女は秀美だったのである。
「早く出せ」
田島は引きつった顔で前のめりになった。
「連れの方はいいんですか」
タクシー運転手がルームミラーをチラッと見て言った。
「連れじゃねえよ。いきなり割り込んで来やがったんだ」
「済みません。お客さんの後ろにピッタリいたから、てっきり連れかと思いましたよ」
「何っ。いつからいた。ずっといたのか」
田島は背筋に冷たいものが走った。
「さあ、私の目に入った時にはもう」
「そうか。とにかく関係ないんだ。早く出してくれ」
「はい」
タクシーは発車し、前屈みになって中を覗いていた秀美を置き去りにした。田島は後ろを
見た。恨めしいそうにタクシーを見送っている秀美の姿がだんだん小さくなっていく。
(あれは秀美じゃない。他人の空似だ。俺は神経質になっているだけだ。それにしても、
よく似ていた。少し下唇が出た細長い顔、上目使いをする垂れた小さな目、160センチ
程の細身の体、透き通った声。やっぱり秀美なのか。お前は土の中から蘇って来たのか。
畜生、このままじゃ眠られねえ。そうだ、秀美を埋めた所へ行こう。あいつが地獄からは
い上がって来たかどうか確かめてやる)
ハゲてもいい友
山本昌輝
「あっ、俺、卓哉。今度の日曜、高校のクラス会やるんだ。陽子も来るだろ」
「なーに、いきなり。でも、久し振りね」
「だろう。大学の時以来だから、十年ぐらいになるな」
「みんな変わっちゃったでしょうね」
「ああ。きっとハゲになった奴もいるよ」
「まさか。だって私たちまだ三十二よ」
「甘いな。若ハゲが結構いるんだよ」
「卓哉もそうだったりして」
「バカ言え。俺は植えて配りたいぐらいあるよ。なあ、誰がハゲになったかかけないか」
「やだ、そんなの」
「おもしろいじゃねえか。かけようぜ」
「何かけるの」
「俺が当たったら、陽子は俺と結婚する」
「バカバカしい。まあ、それは別として、ちょっと興味あるわね。誰がハゲになったか」
「だろう。やろうぜ」
「で一体どうなったら、ハゲっていうことにするの」
「そうだな、まさか丸っパゲはいないだろうから、少しでもハゲになっていたら、ハゲと
いうことにしよう」
「ねえ、誰がっていうよりも、何人がっていうことにしない」
「よし、そうしよう。俺、四人」
「私、三人。負けたら、食事おごるのよ」
「ああ」
「じゃ、もう切るね。私、今、風呂から上がって、髪乾かしていたところなの」
「あまりドライアーかけるなよ。ハゲになるぞ」
「実は私、円形脱毛症になってるの」
「えっ、本当か。なっ、今度会ったら、見せてくれ」
「バーカ。嘘に決まってるでしょ。じゃ、またね」
電話が切れた。卓哉は、くそー、と首を曲げて言って、思わず身を乗り出してしまった体
を起こし、受話器を置いた。テレビのスイッチを入れてから、台所に行った。少し前屈み
になり、壁にかかっている鏡の前で髪を梳かした。髪は耳にかかる程度の長さで、七三に
分けてある。癖のある髪なので、ブラシで梳かさないと、パーマをかけたようになる。今
頃陽子はヘアードライアーをかけているだろう。熱風が陽子の艶のある長い髪を掻き分け
る。その隙間から、丸くて白い地肌が顔を覗かせる。卓哉はそれを想像すると、ニヤニヤ
しだした。クラス会がますます楽しみになってきた。ブラシを持つ手に力が入ったので、
慌てて髪から離した。すぐそれを目に近付けて、新しい髪の毛がゴッソリ付いていないの
を確かめると、ほっとして冷蔵庫の上に置いた。
覆面探偵] 1塾経営者殺人事件
山本昌輝
松本東馬は飛び下り自殺をするため、学校の屋上へ行った。
「十八歳で終わりか。ハハハハ。起立、礼、さようなら」
東馬が飛び下りようとした瞬間、後ろから誰かが取り押さえて、二人とも屋上の上に転ん
だ。
「邪魔するな」
東馬は手を振り切り、前に突き進もうとした。
「お前が死んだら、わしも死ぬんだよ」
「何っ!」
東馬は足を止め、振り返った。背広を着た白髪の小柄な老人がいた。
「誰だ、あんたは?」
「お前の曾孫じゃ。お前の自殺を食い止めるため、二十三世紀からやってきた」
「へっ。誰がそんなでたらめ信じるかよ」
「だったら、信じさせてやろう。お前の名前はまつもととうま。身長百七十五センチ、体
重六十八キロ、光栄高校三年一組。同じクラスの三人組から、暴力、かつ上げなどのイジ
メを受けている。彼らはお前のことをとうまではなく、トンマと呼んでいる」
「ふん。そんなことぐらい調べたらすぐ分かることだ。あんたが曾孫だったら、曾孫にし
か分からないことを言え」
「お前の家には源頼朝を先祖に持つ家系図がある。お前の父親は、そんな物はインチキだ
から、燃やしてしまえ、といつもお前の祖父に言っていた。祖父は、燃やした、と嘘を付
いて、こっそりとお前にそれを渡した。お前はそれを本棚の裏に隠している」
「どうしてそれを?」
東馬はびっくりして老人を見た。
「どうだ。信じる気になっただろ。わしはお前の曾孫じゃ。お前は次の世代に家系図を渡
すためにも死んではいけないんだ。お前には明るい未来があるんだ。計り知れない可能性
があるんだ。お前はこれから振りかかる難事件を解決して行かなければならない。探偵と
してな」
「探偵だと。何で俺がそんなことしなきゃならないんだ?」
「それがお前の宿命なんだ。人のために働くことが、お前の成長にもつながるんだ。しか
し、お前はまだ自分の実力を発揮するすべを知らない。そこで、何か事件に遭遇したら、
これを身に付けろ。これがお前の眠っている才能を引き出してくれる」
老人は背負っていた黒いリュックを降ろして、その中から、十センチ程のハイヒールの革靴、グレーの背広、ワイシャツ、紺のネクタイ、ライオンの覆面を取り出した。
「何だ、それ?」
「お前はこれらを身に付け、覆面探偵Xに変身して、難事件を解決して行くんだ」
「ダセー。こんな恰好悪い物、被ってられるかよ」
「今のお前の方がもっとダセーんじゃないのか」
「・・・・・・。あんた、未来からきたんだよな。だったら、アニメみたいにもっと恰好
良く変身できる物、出してくれよ」
「そんな都合のいい物はない。これらは飽くまでもお前の潜在能力を引き出してくれる道
具にしか過ぎない。解決して行くのは、お前自信なんだ。お前が全身全霊を打ち込めて、
人のために尽くすんだ。覆面はお前の自信のない弱気な面を隠し、才能に溢れた本来の自
分を出す手段なんだ。いつの日にかお前は成長し、一人前になる。その時こそ覆面を脱ぐ
時だ。覆面探偵Xから、名探偵東馬に進化する時だ。その日まで、お前は覆面探偵Xで活
躍しろ」
「できねえよ、そんなこと」
「とにかく事件に遭遇したら、覆面探偵Xに変身しろ。不思議な力が沸いてきて、使命感
に燃えるはずだ」
「やりたくねー」
「しっかりしろ。お前はわしたちの先祖なんだぞ。お前がしっかりしなくて、どうするん
だ」
「ちょっと待ってよ。俺が先祖で、あんたが曾孫ということは、俺の方がずっと年上とい
うことだよな。それなのに、何でさっきからため口利いているんだ。お前だなんて言いや
がって」
「あれっ」
老人は首をひねってから、荷物を残したまま、後ろへ向かって歩き出した。
「何があれっだ。こら、待て。ちゃんと謝れ。おじいちゃんに乱暴な言葉を使って、済みませんでしたって言え」
東馬を老人を追いかけた。
「覆面探偵X、未来から、お前の活躍を見ているからな。期待しているぞ」
老人はそう言い残して、貯水槽の裏に行った。東馬もすぐ行ったが、老人の姿はどこにもなかった。
「消えやがった。あいつ、本当に未来からきやがったのかなー。マジで曾孫かなー。また
ため口利きやがって、許せねえな。どっちにしろ、このままじゃ、死んでも死に切れねえ。
自殺は取り止めだ。あいつを謝らせるまではな」
東馬は元の場所に戻った。
「何が覆面探偵Xだ。誰がやるか」
東馬は老人が残した荷物を残して、二、三歩歩いたが、すぐに戻り、リュックにそれを詰
めて背負った。足にかかるリュックの重みが、新たな自分を予感させた。