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       トラウマ退治無料お試しページ

 

                              山本昌輝

 

 幸せな結婚生活ができるのか。それを占ってもらうために、原田俊夫(二十三)と加納

真子(まこ)は(二十三)は占いの部屋に入った。白い壁に覆われた六畳程の広さで、天井には円

形の照明がある。赤の布をかけた机の中央には大きな水晶玉がある。その両側にはロウソ

クの形をした電球がある。机の前には丸い顔をした五十がらみの女性の占い師が座ってい

る。白いシャツとピンクのジャケットを着ている。真珠のイヤリングとネックレスを付け

ている。前髪は薄い眉の上まで直線状に垂らして、横髪は肩にかかる所まである。勘の鋭

そうな大きな目がこっちを見て、早くも鑑定しているように感じる。俊夫と真子は机の前

のイスに座った。

「あのー、僕達の結婚はうまく行くでしょうか?」

俊夫が恐る恐る聞いた。占い師が両手を開いて、水晶玉の上にかざした。すると、天井の

照明が暗くなり、両側のロウソク状の電球が明るくなった。占い師の顔に光と陰が交差し

ていて、不気味である。光を反射している水晶玉の中に人影が映っているような気がする。

占い師が真剣な目で水晶玉を見詰めている。時々、うっ、とか小声を漏らす。首をかすか

に捻ったりもする。それがやたらと気がかりになる。やがて、両手を机の上に戻すと、照

明が元通りになった。

「今のままではダメね。そのうち離婚するわよ」

占い師はしゃがれた冷たい声で言い放った。俊夫はムカッときた。真子も少し唇をとがら

かせている。

「どうしてですか。僕達はとっても仲がいいんですよ」

「あなた、小学校時代に嫌な思い出があるわね」

占い師は何でも見透かしたような瞳でジッと見ている。

「はあ」

俊夫は目を伏せた。

「そっちの彼女も小学校時代に嫌な思い出があるわよね」

「は、はい」

真子は首を垂れた。

「それがあなた達のトラウマになっているのよ。しかもそのトラウマは密接に関係してい

て、絡み合っている。それを治さない限り、夫婦生活は長続きしないわね」

「どうすれば、治すことができるんでしょうか?」

俊夫は神にすがるような思いで聞いた。

「バーチャルタイムスリップ療法で治すしかないわね」

「バーチャルタイムスリップ療法って何ですか?」

俊夫は耳慣れない言葉に興味が沸いた。真子も目を輝かせた。

「仮想の過去に戻り、自分のトラウマを治す療法よ。別名、トラウマ退治。トラウマの原

因と戦うのよ。ここがそれを行っている超心理学研究所。本当に治す気があるなら、行っ

てみなさい」

占い師が一枚の名刺を出した。名称、住所、電話番号が整然と書いてある。でも、何か怪

しい。これは一種の悪徳商法じゃないのか。不安をあおり、研究所に行かせて、料金を巻

き上げようとしているのではないのか。

「私から一つアドバイスをするわ。親を恨むのは、お門違いよ。自分のトラウマは自分で

治すしかないのよ」

俊夫は占い師の言葉がグサッと胸に突き刺さった。確かに自分のトラウマは親に関係して

いる。この占い師はすべてを見抜いた上で、自分達が幸せになる道を案内しているのかも

しれない。まずは信じてみようと思った。

「分かりました。行ってみます」

「私も行く」

真子が力強く言った。占い師にお礼を言ってから、部屋を出た。

しばらく無言で歩いた。俊夫は真子に占いの感想を聞こうと思ったが、聞き出せずにいた。

自分のトラウマの話に及ぶのを恐れたからである。それは真子も同じだと思う。交際三年

目になるが、まだ心の奥底の傷については話していない。当たり障りのない話をして、肝

心な所は避けてきた。誰にでも秘密にして置きたいことはある。恥部は表面には出さず、

そのままにして置いた方がいいだろうと思ってきた。しかし、もうそれを避けて通ること

はできない。幸せをつかむためには、自らが執刀医になり、重く塞がった心の扉にメスを

入れて開かなければならない。それにしても、真子のトラウマとは何なんだろうか。占い

師は自分のトラウマと密接に関係していて絡み合っている、と言っていたが、どうしてつ

ながっているのだろうか。疑問が渦巻く中、タクシーに乗って、堂本超心理学研究所へ向

かった。

 

 堂本超心理学研究所に着いた。コンクリート塀で囲まれた邸宅である。鉄門の左側に堂

本という横型の石質の表札がある。その左横に堂本超心理学研究所という縦型のプラスチ

ック製の表札がある。自宅兼研究所らしいが、ここで本当に大丈夫なのだろうか。俊夫は

不安になりながら、インターホンを押した。

「占いの部屋から紹介を受けて伺った原田という者ですが」

「お待ちしていました。今案内に伺います」

若い女性の返答があった。やはり占い師と研究者はつながっていたようだ。ますます心に

暗雲が立ち込めた。間もなく白衣の女性が現れた。錠前を外して、鉄門を開けた。

こんなに厳重にしているとは何か悪いことでもやっているのではないかと疑いつつ、真

子よりも先に中に入った。左手に広い庭園がある。その横の舗装された道を歩いて行く。

前方には二階建ての豪邸がある。少し離れた右手には平屋がある。左側壁には堂本超心理

学研究所という黒い文字で書かれた直方体の白い電光看板がある。白衣の女性は研究所の

方へ向かって行き、ドアを開けて中に入った。緊張しながら後に続いた。

小さな玄関の前には受付がある。スリッパに履き替えて、木製の床に上がった。左側に

は二列の黒の長いソファーがある。歯医者の待合室のようだ。客は誰もいない。白衣の女

性がドアを開けて、奥の部屋に入った。間もなく出てきた。

「どうぞこちらに」

一息入れる暇もなく呼び出された。心臓が高鳴って来る。隣の部屋に足を踏み入れた。六

畳程の部屋がオレンジ色のカーテンで仕切られている。カーテンの下側の隙間から、その

奥にも部屋はあるようだが、見えない。カーテンの手間には透明の小さなテーブルを挟ん

でこげ茶色のソファーが置いてある。カーテンの右側が開いて、白衣姿の長身の男性が出

てきた。

「堂本です。どうぞお掛けになって下さい」

堂本は銀縁の奥の優しい目に笑みを浮かべて、落ち着いた声で語りかけた。ほっとして、

ソファーに座った。堂本の包容力のある穏やかな顔を見ていると、何でも話してもいいよ

うな気になった。

「今日お伺いしたのは僕達のトラウマのことなんです。僕は小学校時代」

俊夫が告白しようとした時、堂本が両手を前に出して、それを制した。

「それは話さなくても結構です。通常の心理療法ではクライエントの症状を聞いてから、

様々な技法をとりますが、ここではその必要はありません。これから行うバーチャルタイ

ムスリップ療法は、ヘルメットを被って、ドックに入るだけでいいのです。後はクライエ

ントが仮想の過去に戻り、トラウマの根源と戦うのです。つまり、バーチャルワールドで

の自主解決です。トラウマを治すには主に四つの方法があります。第一、今挙げたトラウ

マの根源を取り除くトラウマ退治。第二、トラウマを思い出す度に徹底的に切り捨てるト

ラウマ遮断法。第三、広い心になり、トラウマは過去の遺物だと割り切って行く。自分の

成長過程の一場面にしか過ぎないと思う。このようにトラウマを和らげて行くトラウマ・

ネコウマ転換法。第四、開き直って、トラウマという暴れ馬を乗りこなす。例えば、権力

志向の強い性格になってしまったなら、最後までそれを貫き通す。トラウマ開き直り成長

法があります。いずれにしろ、そう簡単に治すことができないのがトラウマです。次に費

用の面ですが、このようになっています」

堂本は料金の書面を出した。俊夫はその高額な料金を見て、危なく声を上げそうになった。

真子も目を見開いて驚いている。

「効果がなかった場合は、この半額になります」

堂本は新たな料金表を差し出した。俊夫は真子と目を合わせた。真子が軽く頷いた。

「分かりました。やってみます」

「そうですか。では、こちらに」

堂本が立ち上がって、カーテンを開けた。十二畳程の白い部屋が現れた。左側には二台の

人体撮影装置のような物がある。右側には白の細長いテーブルがあり、上に二台のパソコ

ンが置いてある。左側の装置は幅約七十センチ、長さ約二メートルの茶色のベッドがある。

その前方にはドーナッツ状の穴があり、壁の奥にもカプセル状の空間がある。穴の左右上

部にはスイッチやランプのような物が五個ずつ並んで付いている。

「ベッドの上に仰向けになって下さい」

俊夫は手前のベッドに、真子は奥のに上がった。堂本が二本のコードが付いた銀色のヘル

メットのような物を俊夫の頭に被せた。右横を見ると、白衣姿の女性が真子の頭にも同様

な物を被せている。堂本が穴の右上部にあるボタンを押した。同時にベッドが穴の中に移

動し始めた。真子を載せたベッドも壁の奥へとスライドしている。ドックに入り終わろう

とした瞬間、上から閃光がほとばしった。

 

眩しくて目をつぶった。目の前が真っ暗になったが、やがて白くなってきた。霧が晴れ

るように明るくなってきて、光が降り注いで来る。ドックにいるのかどうか分からなくな

って来る。爽やかな風が吹いて来る。金木犀(きんもくせい)の匂いがする。鳥のさえずりが聞こえて来る。

今、外にいる。歩道の上に立っている。遠くから人の声が聞こえて来る。あれは何だ。

 

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                              山本昌輝

 

「レーダーに未確認飛行物体出現。猛スピードで接近中!」

「モニターに映せ!」

「はい」

黒い小さな点が画面の左端に映った。それが大きくなりながら、弾丸のように迫って来る。

黒の物体が姿を現す。両側に鋼鉄のような翼を広げている。逆三角形の顔。黄色の鋭い目。

尖った大きな口。突然、口を開け、鋭利な歯を見せて、憎しみがこもったようなきつい目

でこっちをにらんだ。今にも画面から飛び出し、襲ってきそうだ。

「何だ、ありゃ?」

「信じられん。こんな所まで・・・・・・」

 

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山本昌輝

 

 午後一時五分、光栄高校三年一組の英語の授業中。突然、教室の前の戸が開いた。普段

は温和な担任の青山先生(四十一)が引きつった顔を出した。

「松本君、ちょっとこっちに」

松本東馬(とうま)は席から立ち上がった。周りがざわめく中、不安に駆られながら教室を出た。

「何があったんですか?」

「付いて来れば分かる」

青山先生は足早に前に進んだ。東馬は急いで続いた。

「どこへ行くんですか?」

「校長室だ」

東馬はますます不安になった。覆面探偵]であることがばれてしまったのか。それで校長

先生に説教されるのか。

 

 三階から一階に降りて、青山先生の後から校長室に入った。

「君が松本東馬君か」

机の前に座っている近藤誠校長(五十三)が上目使いで東馬をにらんだ。

「はい」

東馬はうつむいた。

「脅迫状が届いた。これを読んでみてくれたまえ」

校長が立ち上がり、東馬にB五サイズの紙を渡した。

「どうして僕に?」

東馬は突然のことに戸惑った。

「いいから読んでくれ」

「はい」

脅迫状にはこう書いてあった。

『教室に爆弾を仕掛けた。七十デシベル以上の笑いが起きなければ、爆発する。校長と三

年一組の松本東馬がコンビを組んで授業中の教室に入れ。その授業に合ったコントをやっ

て、生徒を笑わせろ。先ずは一年六組の生物の授業からだ。生物に合ったコントをやれ。

七十デシベル以下なら、爆発だ。クリアーしたら、校長のケータイに次の教室を指定する。

直ちに行け』

「無理ですよ。僕にお笑いはできません。それに授業中に二人が入ったら、どん引きです

よ。笑いどころか、何しにきやがった、という冷たい視線を浴びるに決まっています」

「泣き言を言っている場合か。わし達がコントをやって、みんなを笑わせるしかないんだ。

でないと、爆発するんだ。普通の会話が六十デシベルぐらいだから、七十デシベルは無理

な数字じゃない。明るくやっていれば、何とかなる。ネタはわしが考える。心配するな。

さあ、行こう」

「私も行きます」

「青山先生はここに残って、私からの連絡を待って下さい」

「分かりました」

校長が急いで部屋を出て、右端にある一年六組へ向かった。慌てて東馬は校長の横に並ん

だ。校長が東馬にコントのネタを教えてくれた。東馬は頭の中で練習した。

 

 校長が勢いよく一年六組の戸を開けて、中に入った。

「校長でーす」

「東馬でーす」

「えー、今日は文化祭前日のサプライズ企画、校長と東馬の生物コントをやります」

 

東馬お母さん「先生、お腹の赤ちゃんを見たいんですけど」

校長医者  「はい。この画面を見て下さい。だいぶん大きくなっていますね。手を動か

していますよ」

東馬お母さん「本当だ。なになに、右手の人差し指を目の下に当てて、下に押し下げる。

アカンベーか。右手の人差し指を二回回して、手を広げる。クルクルパー

か。このー、母親をバカにして。お尻ペンペンしてやる」

東馬お母さん、股間に手を持って行く。

校長医者  「お母さん、それは入りません」

東馬お母さん「あっ、そうか」

校長医者  「赤ちゃんが何か言っていますよ。私、読唇術ができるので、代わりに言っ

て上げましょう。酒、飲み過ぎなんだよ。アル中になってしまうじゃねえ

か」

東馬お母さん「済みません」

校長医者  「タバコ、吸い過ぎなんだよ。ニコチン中毒になってしまうじゃねえか」

東馬お母さん「済みません。ちょっと待ってよ。赤ちゃんがしゃべれる訳ないじゃないの。

       それって先生の私に対する悪口じゃないの」

校長医者  「済みません」

東馬お母さん「代わりに先生のお尻をペンペンしてやる」

       東馬お母さん、校長のお尻を叩く。

校長医者  「ああ、気持ちいい。もっとやって」

東馬お母さん「いけませんわ。赤ちゃんが見ていますもの」

校長医者  「見られませんよ。あれっ、赤ちゃんが笑っている」

東馬お母さん「本当だ。見てたのかしら。かわいい、私の赤ちゃん」

 

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                            山本昌輝

 

 二月十日、午後一時、西都大学の3号館の203教室で一般教養の生物学の後期定期試

験が開始した。北沢教授が最前列の生徒に試験用紙を渡し始めた。それが後列にも渡って

来る。一番後ろの席に座っていた俺(二十)もそれを受け取った。北沢教授が、始め、と

言った。約百五十名の学生がいっせいに答案を書き始めた。

俺は黒板の前に座っている北沢教授の目を盗んで最後列の席を離れ、腰を屈めてドアへ

足を忍ばせた。その間わずか二メートル。だが、とてつもなく長く感じる。耳がカーと熱

くなる。北沢教授が右を向いた。今だ! 俺はドアをそっと開けて、わずかな透き間に身

を滑らせた。すぐにドアを閉める。試験用紙を黒のバックに押し込んでから、階段を駆け

降りた。

 外は小雨が降っている。バックを前カゴに入れ、自転車に乗って百メートル先の図書館

へ向かう。傘も差さずに走っているので、雨滴が火照(ほて)った顔に当たる。それもすぐに蒸発

してしまいそうだ。前方から白のミニバンが走って来る。思わず下を向いて、顔を隠そう

とする。車が濡れたアスファルトを走る時に発するシャーという音が、自分を責めている

ような気がする。鼓動が激しくなる。

 午後一時十分、図書館の自転車置き場に着いた。そこに自転車を置いてから、図書館の

二階へ向かって走った。下手(へた)をすると、時間がなくなる。急げ、急げ。

 図書館の中は試験期間中だからなのか、学生がたくさんいた。机に向かって勉強してい

る者もいれば、参考書を書棚から探している者もいる。俺も生物学の参考書を探し始めた。

まさかカンニングをしようとしているとは誰も思わないであろう。平然としていたが、次

第に焦ってきた。生物学の参考書がなかなか見付からないのである。すぐに見付かると思

って、下見をしなかったことを後悔した。

 時間は一時十五分。試験の終了時間は、二時四十分。帰りの時間を五分とみて、後八十

分しかない。焦りが高まってくる。肩で息をし出す。本の雪崩(なだれ)に飲み込まれてしまいそう

だ。

 やっと生物学の本棚を見付けた。何と生物学の本が何十冊も並んでいる。その中から問

題と合うような文献を探さなければならない。カンニングも楽ではない。一冊取り出し、

目次だけザッと見て、問題に適合しないので、すぐに戻す。それを何度も繰り返す。隣に

いる男子学生が怪訝そうにこっちを見る。それに背を向けて、探し続ける。あった! や

っと発見した。一時二十五分。後七十分しかない。

 その貴重な一冊を持って、人がいない机へ向かった。そこで参考書を見ながら、答案を

書いた。書くことが多過ぎる。専門的過ぎる。わざと文章を稚拙にして、答案を書き終え

た。二時三十五分。後五分。時間がない。参考書を元の位置に戻す暇なんかない。それを

ほったらかし、急いで図書館を出た。

 外は大雨となっていた。濡れて教室に戻れば、外出したことがばれてしまう。ずぶ濡れ

だけは回避しなければならない。グレーのジャンパーを裏返しにし、頭から被った。自転

車置き場へ向かって飛び出した。手や顔に当たる雨滴が鞭のようだ。ジャンパーを頭に被

せたまま、自転車に乗った。天罰のような豪雨の中を駆け抜けて行った。

 3号館の前に着くと、走って中に入った。後一分。ジャンパーを表にして着た。ハンカ

チで顔を拭いた。髪や黒のズボンも濡れているが、もうどう仕様もない。階段を駆け登り、

203教室のドアの前に行った。

 二時四十一分。一分過ぎてしまった。ドアをそっと開けると、すでに学生が答案用紙を

教卓の上に出しに行っている。戻って来る学生もいる。今なら、まだ間に合う。バックか

ら答案用紙を出した。北沢教授の様子を伺う。北沢教授は黒板の左側の前に立っている。

右側の通路を人混みに紛れて行けば、何とかなりそうだ。

 サッと教室に忍び込む。バックを最後列のイスの上に置いてから、前へ向かう。答案用

紙を出し終えた学生と擦れ違う。視線を気にする余裕もない。教卓まで後十五メートル弱。

十メートル。五メートル。一メートル。右手に持っていた答案用紙を、教卓の上に載せた。

ヤッター、大移動カンニング成功だ、と思った瞬間、北沢教授が声を上げた。

「待て!」

北沢教授が走ってきて、俺の右腕をわしづかみにした。

「君、どこからきた?」

北沢教授が鋭い目で俺をにらんだ。

「どこからって、教室に決まっているじゃないですか」

頭の中が乱れまくった。

「髪も服も濡れているじゃないか」

「友達と水遊びをしてから、試験を受けたので」

前列に座っていた女子学生が口に手を当てて笑っている。

「学生証を出しなさい」

俺はズボンのポケットの中から財布を取り出し、そこから学生証を出した。

「社会学部社会学科二年の野村勇次か。本人だな」

「はい」

「その答案用紙もこっちに渡しなさい。これから教務に持って行き、検討してもらうから。

それとも、君の方で何か言い訳があるか?」

「いいえ、ありません。カンニングです。色々と忙しかったので、ついつい。その答案は

廃棄しても構いませんから、学生証だけは返して下さい。これからの試験に使いますので」

「それはできません。学生証が必要なら、教務に仮学生証というのがあるから、それを使

いなさい」

「はい。いつ学生証は帰って来るんですか?」

「分かりません。教務の方から連絡が行くと思います」

北沢教授は束になった答案用紙を持って、教室から出て行った。俺は呆然となった。大き

なため息を付く。体の力が抜けて、どっと疲れが押し寄せて来る。濡れた髪が氷のように

冷たく感じる。後悔しても後悔し切れない。俺はこれからどうなるんだ?

 

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                              山本昌輝

 

 おやじが哀れな者を見るような目で俺を見ている。

「勇次、お前は農業を継がなくてもいい。お前の好きにしろ」

おやじが背中を向けて歩いて行く。肩幅の狭い背を丸めて、失望の泥沼を進むような重い

足取りで遠ざかって行く。

「待てよ、何だよ、それ!」

俺はおやじを追いかけた。いつもなら、農業を継げ、と説教をするくせに、何だ、今の言

い草は。俺を見限ったのか? それなら、それでもいいが、何か釈然としない。

「どういう意味だ?」

おやじが半開きのとろんとした目で振り返った。

「だから、お前の思い通りにやれ。わしは遠くへ行く」

「遠くって、どこだよ?」

おやじは何も答えず、沈むように進んで行く。いや、実際に沈んでいる。もうおやじの体

の半分が底なし沼に消えている。慌てて俺は手を差し出した。

「おやじ、つかまれ!」

おやじは手を出すどころか、少し肩を揺らして笑っているようだ。こんな時に何笑ってい

るんだよ。小さな背中がさらに小さくなって行く。

「早くつかまれ。死ぬな、おやじ!」

おやじが底なし沼に消えて行った。冷たい風が吹いてきた。

 

 俺は目を覚ました。朝日がカーテンの隙間から漏れている。夢で良かった、と思った。

最近はおやじの悪夢をよく見る。すべて俺を罵倒する夢だったが、今朝のは違う。あんな

気弱で、投げ遣りなおやじの夢は見たことがない。本当に夢だったのか。生霊か何かじゃ

なかったのか。だとしたら、何かを伝えたかったんじゃないのか。わしは遠くへ行くって

どういう意味だ。まさか他界するという意味じゃないだろうな。

 不安に駆られて、布団を出た。久し振りに実家に電話をかけた。

「勇次だ」

いきなりおふくろの甲高い声が飛び込んできた。

「大変だよ。お父さんが警察に連れて行かれた。どうしよう、どうしよう」

俺は仰天した。

「落ち着けよ、おふくろ。詳しく話してくれ」

「大野さんがスパナで殺されたんだ。それがお父さんの物だった。二人の刑事が家にきて、

お父さんを連行したんだ。勇次、こっちにきておくれ」

「分かった。すぐ行く」

俺は急いで着替えをしてから、アパートを出た。やっぱりさっきのはおやじの生霊だった

んじゃないのか。自殺しようとしているんじゃないだろうな。死ぬなよ、おやじ。ムカツ

クけど、また説教してくれ。