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                            山本昌輝

 

 二月十日、午後一時、西都大学の3号館の203教室で一般教養の生物学の後期定期試

験が開始した。北沢教授が最前列の生徒に試験用紙を渡し始めた。それが後列にも渡って

来る。一番後ろの席に座っていた俺(二十)もそれを受け取った。北沢教授が、始め、と

言った。約百五十名の学生がいっせいに答案を書き始めた。

俺は黒板の前に座っている北沢教授の目を盗んで最後列の席を離れ、腰を屈めてドアへ

足を忍ばせた。その間わずか二メートル。だが、とてつもなく長く感じる。耳がカーと熱

くなる。北沢教授が右を向いた。今だ! 俺はドアをそっと開けて、わずかな透き間に身

を滑らせた。すぐにドアを閉める。試験用紙を黒のバックに押し込んでから、階段を駆け

降りた。

 外は小雨が降っている。バックを前カゴに入れ、自転車に乗って百メートル先の図書館

へ向かう。傘も差さずに走っているので、雨滴が火照(ほて)った顔に当たる。それもすぐに蒸発

してしまいそうだ。前方から白のミニバンが走って来る。思わず下を向いて、顔を隠そう

とする。車が濡れたアスファルトを走る時に発するシャーという音が、自分を責めている

ような気がする。鼓動が激しくなる。

 午後一時十分、図書館の自転車置き場に着いた。そこに自転車を置いてから、図書館の

二階へ向かって走った。下手(へた)をすると、時間がなくなる。急げ、急げ。

 図書館の中は試験期間中だからなのか、学生がたくさんいた。机に向かって勉強してい

る者もいれば、参考書を書棚から探している者もいる。俺も生物学の参考書を探し始めた。

まさかカンニングをしようとしているとは誰も思わないであろう。平然としていたが、次

第に焦ってきた。生物学の参考書がなかなか見付からないのである。すぐに見付かると思

って、下見をしなかったことを後悔した。

 時間は一時十五分。試験の終了時間は、二時四十分。帰りの時間を五分とみて、後八十

分しかない。焦りが高まってくる。肩で息をし出す。本の雪崩(なだれ)に飲み込まれてしまいそう

だ。

 やっと生物学の本棚を見付けた。何と生物学の本が何十冊も並んでいる。その中から問

題と合うような文献を探さなければならない。カンニングも楽ではない。一冊取り出し、

目次だけザッと見て、問題に適合しないので、すぐに戻す。それを何度も繰り返す。隣に

いる男子学生が怪訝そうにこっちを見る。それに背を向けて、探し続ける。あった! や

っと発見した。一時二十五分。後七十分しかない。

 その貴重な一冊を持って、人がいない机へ向かった。そこで参考書を見ながら、答案を

書いた。書くことが多過ぎる。専門的過ぎる。わざと文章を稚拙にして、答案を書き終え

た。二時三十五分。後五分。時間がない。参考書を元の位置に戻す暇なんかない。それを

ほったらかし、急いで図書館を出た。

 外は大雨となっていた。濡れて教室に戻れば、外出したことがばれてしまう。ずぶ濡れ

だけは回避しなければならない。グレーのジャンパーを裏返しにし、頭から被った。自転

車置き場へ向かって飛び出した。手や顔に当たる雨滴が鞭のようだ。ジャンパーを頭に被

せたまま、自転車に乗った。天罰のような豪雨の中を駆け抜けて行った。

 3号館の前に着くと、走って中に入った。後一分。ジャンパーを表にして着た。ハンカ

チで顔を拭いた。髪や黒のズボンも濡れているが、もうどう仕様もない。階段を駆け登り、

203教室のドアの前に行った。

 二時四十一分。一分過ぎてしまった。ドアをそっと開けると、すでに学生が答案用紙を

教卓の上に出しに行っている。戻って来る学生もいる。今なら、まだ間に合う。バックか

ら答案用紙を出した。北沢教授の様子を伺う。北沢教授は黒板の左側の前に立っている。

右側の通路を人混みに紛れて行けば、何とかなりそうだ。

 サッと教室に忍び込む。バックを最後列のイスの上に置いてから、前へ向かう。答案用

紙を出し終えた学生と擦れ違う。視線を気にする余裕もない。教卓まで後十五メートル弱。

十メートル。五メートル。一メートル。右手に持っていた答案用紙を、教卓の上に載せた。

ヤッター、大移動カンニング成功だ、と思った瞬間、北沢教授が声を上げた。

「待て!」

北沢教授が走ってきて、俺の右腕をわしづかみにした。

「君、どこからきた?」

北沢教授が鋭い目で俺をにらんだ。

「どこからって、教室に決まっているじゃないですか」

頭の中が乱れまくった。

「髪も服も濡れているじゃないか」

「友達と水遊びをしてから、試験を受けたので」

前列に座っていた女子学生が口に手を当てて笑っている。

「学生証を出しなさい」

俺はズボンのポケットの中から財布を取り出し、そこから学生証を出した。

「社会学部社会学科二年の野村勇次か。本人だな」

「はい」

「その答案用紙もこっちに渡しなさい。これから教務に持って行き、検討してもらうから。

それとも、君の方で何か言い訳があるか?」

「いいえ、ありません。カンニングです。色々と忙しかったので、ついつい。その答案は

廃棄しても構いませんから、学生証だけは返して下さい。これからの試験に使いますので」

「それはできません。学生証が必要なら、教務に仮学生証というのがあるから、それを使

いなさい」

「はい。いつ学生証は帰って来るんですか?」

「分かりません。教務の方から連絡が行くと思います」

北沢教授は束になった答案用紙を持って、教室から出て行った。俺は呆然となった。大き

なため息を付く。体の力が抜けて、どっと疲れが押し寄せて来る。濡れた髪が氷のように

冷たく感じる。後悔しても後悔し切れない。俺はこれからどうなるんだ?