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フィギュアスケートラブ
山本昌輝
(1)出会い
午後七時十分、俺は改札口を通り、階段を降りて行った。左手に巨大な三角形の屋根と
白い壁に覆われたスケート場が見える。スケート場に背を向けるように右側に進んで行く。
交番の横を通り、赤い鳥居の下を過ぎる。すぐ左側に小料理屋の、お雪、が見える。いつ
もそこで夕食を済ませる。焼き鳥のような匂いがしてくる。引き戸を開けて中に入る。
「いらっしゃいませー」
厨房の奥から聞き慣れない若い女の声が聞こえてきた。頭の中がスーと爽やかになるよう
な声だ。新人のアルバイトの子が入ったのかもしれない。どんな子か早く見てみたい。三
つ並んでいるテーブルには着かずに、カウンターの前のイスに座った。さらに厨房が見え
やすい位置に席をずらした。女将のおばあさんは見えるが、若い女は陰になっていて見え
ない。諦めてマンガに手を伸ばした時、
「ご注文は?」
という澄んだ声が心地よく流れてきた。顔を上げると、やる気に満ちた大きな目が優しく
微笑んでいる。健康的な浅黒い肌に歯並びのいい白い歯が輝いている。丸みのある顔を少
し横に傾けている。こっちの心までも傾きそうだ。
「ピ、ピーマン定食」
急に恥ずかしくなり、下を向いて、マンガを開いた。
「分かりました」
彼女はいい香りを残して、きびすを返した。すぐ白いシャツを着た彼女の背中を見詰める。
肩幅が広く、胴がくびれている。ベージュのズボンを柔らかく持ち上げた形のいいお尻が
一瞬のうちに奥に消えた。しかし、その引き締まった体形が目に焼き付いた。
何かスポーツをやっているのだろうか。何歳なのだろうか。学生なのだろうか。次々と
疑問が沸いてくる。カウンターから身を乗り出して中を覗きたいが、入り口付近のテーブ
ルに学生風の二人の男が対座している手前もあり、それもできない。何でもいいから彼女
について知りたい。女将が彼女に話しかけてくれないだろうか。それを盗み聞きしたい。
「お勘定、お願いします」
学生風の男が立ち上がった。右手で前髪を直している。畜生、お前も意識しているのか。
妙な対抗心が沸いてきた。
「千四百円でーす」
彼女が小首を曲げて、かわいらしく出てきた。クソー、その笑顔、みんなに振り撒いてい
るのか。俺だけのものじゃないのか。彼女はお金をもらうと、こっちを振り向きもせずに
中に入って行った。無性に寂しくなった。右側壁の棚に置いてあるテレビから流れるニュ
ースが物悲しく聞こえる。
「秋本さんは学生時代、何かスポーツをやっていたのですか?」
突然、彼女が女将に質問し出した。願ってもない機会だ。腹が痛くなるほど前のめりにな
った。
「弓道をやっていたけど、水口さんは?」
水口っていうんだ。下の名前も教えてくれ。
「私は小学生の頃からフィギュアスケートをやっています」
俺と同じじゃないか。
「今もやっているの?」
「はい。今日も八時半からそこのスケート場で練習するんです。貸切だから、自由にでき
ます」
「へー、今度拝見してもいいかしら」
「どうぞ、どうぞ。いつでも歓迎します」
水口さんの弾んだ声が、こっちの心までも浮き浮きさせた。見てみたい。水口さんの華麗
なスケーティングを。どんなコスチュームを着るのだろうか。ピンクの短いスカートをは
くのだろうか。スカートがめくり、あの肉付きのいいお尻を後ろに突き出して、バックス
ケーティングをするのだろうか。ああ、何て俺はいやらしい奴だ。どんな技ができるのだ
ろうか。まさか四回転ジャンプはできないだろう。
俺は、高校時代、四回転ジャンプで失敗した。大事な試合に負けて、世界が崩れ落ちて
行く気がした。みんなは、次があるさ、とか言って励ましてくれたが、どん底に落ちた俺
には光は差さなかった。しかし、今考えれば、それは自分で蓋を閉めて、暗闇の中で悲劇
のヒーローに浸っていただけなのかもしれない。
再び蓋を開けてみようか。銀盤で水口さんといっしょに技を磨こうか。お互いの演技を
チェックし合って、親交を深めようか。待てよ、俺はフィギュアスケートを単に恋の仲介
役にしようとしているだけなんじゃないのか。まあ、いいや。とにかくやる気が出てきた。
暗黒から飛び出したくなった。食事を済ませたら、水口さんの練習を見に行こう。
「お待たせしました」
水口さんがピーマン定食を持ってきた。何だかさっきよりも一段と輝いて見える。愛くる
しい笑顔を見せてから、すぐまた中に入って行った。
水口さんが作ったピーマン定食だと思うと、いつもよりもうまく感じた。また何か話し
出さないかと期待したが、食器を洗う音が聞こえるだけだった。マンガも見るのも忘れて
食べ終わる頃に、ほろ酔い加減の初老の男が入ってきた。水口さんが軽やかに出てきた。
「ご注文は?」
「お姉ちゃん、新しいアルバイトか?」
男はふらつきながら、ストレートに聞いた。そのずうずうしさが羨ましい。お姉ちゃんと
言ったのが、何となくおかしかった。
「はい」
水口さんは嫌がりもせずに笑顔で答えた。
「お姉ちゃん、何歳だ?」
「十九歳です」
俺と同じだ。もっと聞いてくれ。
「大学生か?」
「はい。西武蔵大学の一年生です」
俺の西都大学の近くじゃないか。
「ふーん。じゃ、ニラレバ炒め頼むは」
「はい」
水口さんが戻りかけた時、俺は立ち上がり、勇気を出して言った。
「お姉ちゃん、勘定」
水口さんが口に手を当てて、クスッと笑った。ヤッター! うけたー。右横の席で男が口
を尖らせている。
「七百円です」
俺はわざと千円札を出した。水口さんがおつりを持ってきた。
「ちょっとー」
おつりを出した水口さんの右手の手首にキャベツの切れ端が付いている。
「あれー」
俺は首を伸ばして、水口さんの白い手首にちょこんと付いているキャベツの細切れを見た。
取って食べたい。いや、持ち帰って、お守りにしたい。水口さんはおつりを渡すと、奥へ
消えた。しかし、水口さんの、ちょっとー、という親しげな言葉が俺の耳を熱くした。鼓
膜にキスされたような感じだ。俺を認めてくれた喜びが溢れてきた。
店を出ると、三分程の距離にあるアパートにも戻らずに、電信柱の陰で水口さんが出て
来るのを待った。後十五分程で出て来るはずだ。大の男がカバンを持って、警備員のよう
に突っ立っているのを訝しげに見て通る通行人もいるが、構わずに見張りを続けた。とに
かく水口さんを見失いたくなかった。
八時十五分、水口さんが裏口から出てきた。右手に黒の大きなバックを持っている。ど
うやらスケート場へ直行するらしい。俺は十メートル程後から付けて行った。左右に動く
お尻が色っぽい。これじゃ、変態じゃないか。ストーカーじゃないか。いや、俺は水口さ
んの練習姿を見たいだけだ。そう言い聞かせたものの、交番の横を通る時は、顔を背けて
早足で通り過ぎた。
水口さんがスケート場の右側の入口から中に入って行った。俺は足の動きが鈍くなり、
緊張してきた。入口に部外者へのガラスの透明な壁が張ってある気がした。しかし、それ
を打ち破り、ガラスの破片が背中に突き刺さっても、入場したくなった。水口さんがリン
クを舞っている姿を早く見たい。その欲求が俺に勇気を与えた。
一気に中に入った。張り紙には、見学は無料、一般滑走は千二百円、貸靴は五百円と書
いている。一般滑走の時間は五時三十分で終わっている。貸切なので、一般客はいない。
がらんとした通路を歩いて行く。
「もっと膝を伸ばして!」
しわがれた女の声が聞こえてきた。コーチが叫んでいるんだろうか? リンクが見えた。
照明を反射し、白色の世界が広がっている。そこを華やかに彩るのが演技者だ。血が沸き
立ってくる。
リンクに近付いた。透明なプラスチック製の防御塀がリンクの周りに張ってある。熱い
息がそれに跳ね返る。天井は高く、三角形になっていて、多数の三角状の梁がそれを支え
ている。天井の底辺にあたる位置に四角形の照明がずらりと周囲を囲んでいる。リンク上
には円形や直線のアイスホッケー用のラインが引いてある。防御塀の外側はすり鉢状の観
客席になっている。
「あや、遅いわよ!」
「済みません」
水口さんの声が聞こえてきた。あや、という名前なんだ。水口さんがスケーティングして
きた。長袖の赤のコスチュームを着ている。柔らかく膨らんだ胸から胴にかけて、銀色の
星粒の模様が入っている。ヒラヒラした短いスカートから、白い健康的な太股が伸びてい
る。ふくらはぎがふっくらとしていて、結構たくましい。白いスケート靴を履いている。
姿勢を前に倒し、両手をやや下に広げて、加速を付けている。肩まである後ろ髪が風に
なびいている。バックスケーティングに切り換え、左膝を深く曲げて、右エッジのつま先
を突いて踏み切り、トリプルルッツを決めた。続けて、着氷した右足で、左エッジのつま
先を突いて踏み切り、ダブルトゥループを決めた。笑顔が眩しい。両手を右下に水平に広
げて、指先も綺麗にそろっている。
リンク内を楕円状に進みながら、ステップを行っている。細かくターンして体の向きを
変え、両手を巧みに動かしている。音楽は鳴っていないが、流麗な調べに乗っているよう
だ。全身で内面を表現している。水中の小魚のように体の切れがいい。空間と身体が織り
成す変幻自在の芸術だ。
トリプルルッツを成功させた後、トリプルトゥループをやった。しかし、転倒してしま
った。立ち上がれずにうずくまっている。どこか怪我をしたのだろうか。他の三人の選手
が、大丈夫あや、と言いながら寄って行く。まだ丸くなっている。
俺は心配でじっとしていられなくなった。スニーカーでリンク内に入って行った。
「こらー、土足で入っちゃダメじゃない!」
中年の女のコーチが怒鳴った。慌てて俺は引き戻った。悔しいから、スケートのように滑
って行った。最後にダブルトゥループを見せびらかしてやった。
水口さんが立ち上がった。どうやら大丈夫らしい。あれっ、こっちに向かってやって来
る。微笑みながら、拍手をしている。もう隠れようがない。水口さんが目の前で止まった。
「練習、見にきてくれたんですね」
水口さんが目を輝かせて、興奮気味に言った。
「済みません。ちょっと聞こえたものだから。すぐ帰ります」
俺は眩し過ぎる水口さんから視線をそらした。
「そんな。最後まで見ていて下さい。ダブルトゥループ、見事に決まりましたね。フィギ
ュアスケート、やっているんですか?」
「ちょっと」
「すっごーい。今度いっしょに滑りません?」
「は、はい」
俺は舞い上がった。
「よかったー。そうだ、アドバイスしてもらいたいから、私が着替えて来るまで、ここで
待っていて下さいね」
「いいですよ」
「ヤッター。ありがとう」
水口さんは明るく手を振って戻って行った。こんな積極的な子だったとは、ちょっと意外
だった。今度いっしょに滑りません、か。いいな。いっしょにリンクを舞おうか。俺が水
口さんを右手で支えて、彼女が体を水平に倒しながら大きな円を描く。俺が水口さんを空
中に投げ出して、彼女が豪快にジャンプする。俺が水口さんを頭上に持ち上げる。次々と
水口さんとペアを組んだ時の妄想が広がった。