生まれたて

 5月5日、青森県弘前市に生まれる。

とはいっても、病院がそうなだけであとはずっと郡部。北津軽郡鶴田町という、人口2万人にも満たない小さな町にずっといる。今も帰るのはそこ。

 声は生まれた時からでかかったらしい。5階の分娩室の産声が、玄関先にいた婆ちゃんにまで届いたっていうもの。

血液型はO。3500グラム。

兄とは17才、姉とは15才離れていたせいもあって、ずいぶん大事に育てられたようだけど、 親父の放った上手投げで頭打って中耳炎になったり(おかげで小学3年ぐらいまで海にもプールにも入れなかった。)、沸騰中の炊飯器を頭からかぶって気絶したり、タンスの下敷きにはなるは、病気や怪我の絶えない子供であった。

 

 小学校に入ったばかりの頃、隣の町に、ピンクレディーがやってくる。

どうしても見に行きたくって泣き叫んで、ふて寝して、起こされるとチケットがあった。

きっと親父が奔走してくれたんだろう。婆ちゃんと二人で見に行ける事になったのは、魔法みたい。

暗くて、時々ビカビカ、キラキラしてて、人がいっぱいで、ミーもケイもわからなくて、今思えば本物かどうかもわからないけど、これが生まれて初めて経験したライブだった。

 小学校2、3年の頃だったろうか。

京都に住んでいた姉が、10人ぐらいの友達を引き連れて帰って来た事があった。

みんな髪が長くて、鬚が生えていたり、ちょっと汚らしかった。てんかん持ちのきれいなお姉さんはノーブラだった。

その中に中山ラビや、友部正人の姿もあったんだろう。

僕は遊んでもらえるし、にぎやかで、そりゃあ楽しかったけど、親父も母ちゃんも機嫌悪いし、姉はよっぽど怒られたのか、ぐったり、でもなんか叫んで、気が付くといなくなっていた。

姉はボブ・ディランが大好きで、小さい僕のジャンパーに「Bob Dylan」と刺繍までしてくれたけど、雑誌やテレビのボブ・ディラン、僕には志村けんにしか見えなかった。

 

 

軽い芽生え

 歌を歌うのは嫌いじゃなかったけど、音楽の成績はすこぶる悪かった。(今でも五線譜は見るのも恐い。どこがドかすらわからない。)

そんな僕に、やたらと歌わせたがったのが小3からの担任。

担任になって最初の授業で、ピアノに合わせて「アー」とか「ウ−」とかいわされて、それがちょっと良かったみたいで、放課後残されては発声練習、知らない歌を覚えさす。

おもしろかったのは最初だけだった。

だって、教科書なんか開きもしないで、「あすなろ歌集」とかいう、労働者の怒りや悲しみが詰め込まれたようなの渡されて、「おとうさんは東京へ出稼ぎにいったーーーーー」

絵を描かせては、手は顔よりも大きい。

各班5人組ぐらいで作らせた畳一枚ぶんの版画には、リンゴをもぐ人、田植えをする人、工事現場、雪掻き、どれも、汗とか涙とか血のにおいでいっぱいだった。

 詩もこのころ書き始めた。半ば強制的に。毎日のように書いた。

討論もよくさせられた。

あげ足をとるのが上手になって、どんどん嫌な子供になっていく。

歌謡曲は聴くな、意味がない、そんな事まで言うもんだから、反抗期とも重なったのかな、芽生えるものも多い。

隠れてこっそり聴いたり、歌ったり、逆にはまる。スリルを知る。

5、6年生になると、だんだん悪い事も覚えてくるしね。

シンナー吸う奴、万引き、オナニー?エロ本?

僕は校内放送で、偽名で、RCサクセションの「気持ちE」だか「つきあいたい」だか、なんでもよかったんだけど、とりあえずトゲのありそうなのかけてもらって、ドキドキ、ほくそ笑んでいた。

 

 

中坊

 中学は何故か隣の町にあった。

別に町に中学がなかったわけではなく、ある大学の付属中学を受験して、くじ引きで落ちて、僕はもちろん、喜んで町の中学にいくつもりだったのに、いつの間にか自分の住所だけ、隣町のおじさんの家に移されていた。

今思うと、全然よかったくらいだけど、そん時は辛かった。

みんなの視線は冷たいし、説明するのは面倒だし、学校から帰っても、店の有線録音したり、しょんぼりしてる事が多かった。

 兄貴も姉もそうだったから、慰めてくれようとしてくれたのかどうか、当時もう連れ戻されてた姉、やたらとギターを触らせたがった。

触っとけばよかったな。

そうしたら今頃、天才ギタリストになっていたかもしれない。

まあいいや。

 

 そんな姉、幸子、ユキコ、僕が中2の頃だ。

捕まった。

帰って来てブラブラして、家の仕事手伝ったりもしてたけど、行方くらまして、津軽中探しまわった事もあったし、いつか姉の友人数人と海へ行って見たのは、きれいな紋々だったりもした。

捕まったのは僕が夏休みの時。

部活も休みで、部屋で寝てたら急にドタドタ音がして、僕はとっさに窓からエロ本とかタバコを放り投げた。

しばらくして恐る恐る茶の間に行くと、親父がうなだれていて、警察官と思しき巨漢が何やら説明していて、「坊主」とか言って、いつも散らかっていた姉の部屋はきれいに片付いていた。

翌日の新聞に名前が載って、ショックだったけど、学校行って言いふらしたいような気持ちもあったかもしれない。

刑務所に行った記憶はない。

中で書いたらしい日記は見た事がある。

そこには僕の知らない幸子がいて、それでも所々に描いてある落書きや、詩のようなものは、どことなくあの人らしかった。

 

 帰って来てからの姉は、進んで音楽を聴く事もなくなっていた。

僕が興味を持ち始めていた洋楽を聴かせようとすると、耳を押さえて逃げ回ったりしたの、当時はわからなかった。

僕は柔道部で、高校に行ったら楽器でもやろうかななんて思い始めていて、でも夢はプロレスラーだった。

ブルース・スプリングスティーンとジョー・コッカーとタイガーマスクが大好きだった。

 

 

 

 

 

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