佐渡には真野湾沿い、外海府沿い海岸に幾つかの零細金山の廃坑がある。
これらは、一時期栄えたり、試掘され成果を得られず捨てられたりした金山である。 相川や新穂、西三川の砂金山など有名な鉱山は研究され尽くしているが、これらの人知れぬ鉱山跡も興味をそそるものがある。 |
| HOME|佐渡の風景|佐渡の泥人形達|佐渡の零細鉱山を巡る−大須|佐渡の零細鉱山を巡る−大立/田切須|佐渡の零細鉱山を巡る−外海府の高千鉱山の周辺|佐渡、相川の鉱山と鶴子鉱山など|佐渡の研究書|佐渡鉄道 |
![]() |
佐渡の著名/零細鉱山の分布 |
図は佐渡の西側の地図である。 矩形で囲まれた地名が鉱山跡のある場所となっている。 佐渡の主要金鉱山は勿論、相川、その採掘の発端となった鶴子(つるし)、砂金で有名な西三川、新穂(瀧澤)などである。しかし、風間の書架にある大正11年佐渡郡役所発行の「佐渡国誌」でこれらの著名鉱山以外に名の上がっているのは、入川鉱山、田野浦鉱山、大須鉱山である。 佐渡の糸巻き形の地形の北西側の山脈外側の海辺、外海府の最北端に相川鉱山があるが、その裏山、真野湾と呼ぶ糸巻きの窪みに鶴子鉱山がある、鶴子鉱山は佐渡最古の鉱山と呼ばれ、この鉱山の麓の海辺に沢根という港がある。ここは鶴子の鉱石の積み出しのために発展した町、大正時代までは海岸から大きな桟橋が海に張り出し、北海道まで巡航する汽船が発着していた。 そして、真野湾の対岸、小佐渡側に西三川の砂金鉱山、そして西三川の鉱山の上流に金山鉱山、周囲の海辺には、大須、大立、田切須などの零細鉱山の跡がある。 また、相川から外海府を北上すると海に面して戸地、片辺、入川、北田野浦の鉱山跡が散在している。 そして、国仲平野の北寄りに新穂村があり、この村を根拠地として小佐渡の山麓に新穂金山があり、山を越えた辺りに木金山などの極零細鉱山跡がある・・という構図となっている。 近世では、佐渡のフリーの山師達は、相川をベースとして鶴子と新穂が盛りになると、ワッと移動し、産出が衰えると相川に帰るという採掘をしていたようである。 (地図は長谷川利平次著、佐渡金銀山史の研究の図を参考にしている) |
![]() |
![]() |
大須三貫目坑口跡 |
大須三貫目坑口跡は国道の路肩にある。 海沿いの手入れの行き届いた国道が、真野町から古い港町、小木に続いている。この道は古来、小木に着いた外来者が相川に向かう公式街道で、真野町には本陣も置かれていた。 まだ、真野町の地内、大須地区の国道沿いの崖に、大須、三貫目鉱がある。 この坑口跡は国道工事の時に見つかり、真野町の教育委員会が保存しているが、周囲には沢山の採掘跡があり、中世には大分栄えたらしい。 真野町の民俗学者、山本修巳家には山師であった何代か前の祖先が、大須の試掘許可を届け出た文書が残っている。 真野町そのものが、この辺りの金鉱山の見通しの上で相川や新穂など他の鉱山関係者の移住によって発達したのかもしれない。 |
![]() |
![]() |
大須、三貫目間歩の説明看板 |
![]() |
看板にもあるように、大須鉱山は慶長9年に掘りはじめられたとなっているが、何年くらい開削されたのかは判らない。 佐渡年代記と云う書物によると、寛永六年(1629)、慶安四年(1651)に、湧き水によって捨てられていた間歩を手動の汲み出しポンプで排水して採掘をはじめた記録が残っている。 |
![]() |
三貫目坑口を覗いてみる |
坑口には鉄索があり、中に入る事は出来ない。 写真にある梯子を登り、坑口を覗くと人が這って入れる穴が斜めに続いている。 研究書によると近代になってから稼がれた(採掘した)様子はない。 |
![]() |
![]() |
背合(せなごう)銀山の狸穴 |
去年10月に佐渡に行った時、真野町地内の古い零細鉱山の坑口を探して歩いた。 写真は前述の三貫目沢の上流、背合の銀山の縦に開いた坑口である。 水が縁まで溜まっている。 この辺りは、こんな穴が其処個々にある。 相川役場の金銀山課の専門家は、早春以外は草原に穴があり落ちると危険だから探してくれるな・・と云う。 確かにひとりで歩いて落ちたら死ぬだろう。 けれど、実際に視なければ、この穴から地中に広がる蟻の巣のような坑道に入っての採鉱と云う古人の営みは実感できない。 恐ろしい営みである。 |
![]() |
![]() |
| HOME|佐渡の風景|佐渡の泥人形達|佐渡の零細鉱山を巡る−大須|佐渡の零細鉱山を巡る−大立/田切須|佐渡の零細鉱山を巡る−外海府の高千鉱山の周辺|佐渡、相川の鉱山と鶴子鉱山など|佐渡の研究書|佐渡鉄道 |
|