佐渡、相川の鉱山と鶴子鉱山など |
佐渡の金銀鉱山、相川鉱山は、その山の裏側にある鶴子鉱山の山師達によって発見された。
また、新穂鉱山、西三川砂金鉱山など著名な鉱山の沿革について述べてみる |
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相川鉱山 |
秀吉が日本国のほとんどを平定した慶長六年の頃、以前から盛んに稼がれていた鶴子鉱山の山師、三浦治兵衛他が鶴子の山の裏側、鮎川の水源近くにも「金銀があるに違いないぜい」と相談して探査の手を伸ばした。 案の定ザクザク、鮎川はなぜか縁起が悪いと相川と命名したらしい。 以後、衰退と繁栄を繰り返して、昭和の御世まで日本一の金銀算出を続けるとだれが予想しただろう。 慶長の頃には、相川の海辺は波根多村という5/6軒の農家があるだけの寒村だったそうだ。 相川鉱山は幾つかの坑口を持っていたが、写真は一番奥の大立坑、山の中腹に口があったため大規模な櫓を設けていた。 |
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相川鉱山町の見取図 |
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相川町は海沿いの繁華街から坑口のある山に向かって、大工達の家々が立ち並んでいた。鉱山の繁栄と同期して家々が山を冒し、山が廃るとまた野山に戻る、という繰り返しであっただろう。 無宿人の墓のある山に登ると、山腹に石垣が築いてあり、坑夫達の家々があった事が忍ばれるが今は笹藪に戻っている。 近くに道遊の割れ戸が見える。 |
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相川海岸、大間港の跡 |
相川鉱山の鉱石積み出しのために作られた大間港、鉱山からここまで電気機関車の軌道が引かれ、鉱石運搬用のケーブルカー(索道)が設けられていた。 今、運河に掛けられた鉄橋とクレーンの台座などから、当時の風景を想像することができる。鉄橋の上には、軌条が引かれていたと思われる。 相川鉱山の地上建造物の中で特に大規模なのは北沢浮遊選鉱場である。この工場は日本が昭和十二年頃から日中政争を皮切りに本格的な戦時体制に入り佐渡金鉱山も戦時増産の国策に対応せざるを得なくなった中で作られた。 この増産計画の中で着目されたのが、これまで顧みられなかった相川海岸の金銀を含む砂礫であり、相川鉱山の採掘による金銀産出量の減少から、この海岸砂礫が鉱石として見直され、山中より鉱石を掘り出すコストより大幅に安い砂礫採掘が計画された。 同じ時期にやはり増産のための設備として作られたのが浮遊選鉱場であり、当時は「本部浮遊選鉱場」「新工場」などと呼ばれ、ここでの操業が始まったのは昭和十三年末である。当時、坑内鉱石と海岸から採掘した鉱石は、山5:海1 程度だったが、含有量は海岸鉱石の方が格段に優れ、これらの海山の鉱石総量650万トン/年間を処理する大工場が必要となった。 この工場の稼働のために昭和15年には大間に火力発電所が作られ、結果、昭和15年の金生産量1500キログラム、銀20トン程度となっている。 この間、国策による増産の労働力として朝鮮からの徴用、強制就労などが行われた。この事を始めとして、北沢浮遊選鉱場と相川海岸の砂礫採取は戦時国策を背景に佐渡金銀山に終止符を打つことになった増産のダーティーな記念碑として位置づけることが出来るようだ。 昭和十五年頃、それまでは山の坑口から大間の港に鉱石を運んでいた軌道車が逆に海岸の土砂を山頂の北沢浮遊選鉱場に運ぶようになり、相川の海岸は一大採石場と化したと、相川町史などに述べられてる。 |
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佐渡最古の鶴子鉱山 |
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鶴子鉱山 外海府の最北端に相川鉱山があるが、その裏山、真野湾と呼ぶ糸巻きの窪みに鶴子鉱山がある。鶴子鉱山は佐渡最古の鉱山と呼ばれ、この鉱山の麓の海辺に沢根という港町があった。鶴子の鉱石の積み出しのために発展した町で、大正時代までは海岸から大きな桟橋が海に張り出し、北海道まで巡航する汽船が発着していた。 文禄四年に相川金山の裏山に当たる「鶴子」に銀山が発見されている。越後の商人が佐渡に物資を運んで、沢根の沖を通ると、山の上に鋼吹きの炎の如き光が見えたので採掘して見たとある。 この鶴子銀山は以後莫大な金銀を算出し、相川金山にその地位を譲るまで、佐渡最古の金銀山として長く稼がれた。 この鶴子の鉱口跡を訪ねると、澤筋の小さな滝壺のような場所が鉱口で、山堀の大工は滝のしぶきを浴びながら這って入山したと思われる。 今、精錬所や代官屋敷の跡は雑草に覆われた山の傾斜地で何もない。金銀山が人を山に住まわせ、稼ぎが無くなるとやがて人は自然に追われて山を下る。 しかし、明治二十七年には鶴子鉱山から沢根海岸まで軽便鉄道が引かれていることからも、近代に至ってもかなりの産出があったと思われる。 |
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新穂鉱山で栄えた畑野の町と西三川砂金鉱山 |
新穂(瀧澤)鉱山が盛ったことによって、その物資供給と人々の暮らしのために畑野の町が栄えた。写真はバスの中から見た畑野の街路、昔ながらの家並みだが、往事の面影はない。 西三川砂金鉱山 一方、西三川は佐渡最古の川沿いの砂金鉱山である。 能登の国司が佐渡の金鉱があるとの噂を聞き、地元の冶金人に取りに行くように命じたところ、彼は砂金を持って帰ったが、以後能登から姿を消した・・などの話が宇治拾遺に残っているが、史実として確認出来るのは文禄二年に西三川の砂金山が発見された事が最初である。 湊に着いた船の水主が、西三川の百姓が売りに来たニラの根に砂金が着いていたことから、ニラの畑の土は薬になるから土を売ってくれと畑に案内させ砂金を取った、とある。宇治拾遺で能登から来た男が持ち帰ったのも、恐らくここの砂金であったろう。 慶安三年に小比叡山寺領で砂金が見つかっている。近隣の百姓が見付けたものだが、小比叡山は西三川の砂金山にも近く、探査が行われていたのだろう。 今、この西三川の川筋は砂金パークとして、流れから砂金を探すテーマパークとして繁盛している。 砂金を含んだ西三川の流れは、すぐ近くで海に流れ込んでいるから、この辺りの海底には砂金が潜んでいると思われる。 |
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