中大兄皇子への旅


百人一首第一首

Wo bist du, mein geliebtes Land?
Gesucht, geahnt und nie gekannt!
dae Land, das Land, so hoffnungsgruen,
Das Land, wa meine Rosen bluehn,

Wo meine Freunde wandeled gehn,
Wo meine Toten auferstehn,
Das Land, das meine Sprache spricht,
O Land, wo bist du?

 
第38代天智天皇年代記
天命開別天皇・天智天皇・中大兄皇子・葛城皇子
626〜671  ≪45≫
父⇒舒明天皇(第2皇子)   母⇒皇極(斉明)天皇
七世紀中葉において古代天皇制確立の基礎をきづいた皇族政治家
645 中臣鎌足らと謀って蘇我氏本宗を倒す≪乙巳の変≫
叔父の孝徳天皇のもと皇太子として公民公地制の実現を目指した政治改革を断行≪大化改新≫
660 漏刻を造り、時を知らせる
661 母斉明天皇の没後、称制
663 百済再興のため朝鮮に出兵したが大敗≪白村江の戦い≫
664 冠位二十六階を制定し、氏上と民部・家部を定める
667 近江国滋賀郡の大津宮に都を移す≪遷都≫
668 即位。近江令を公布、それによって戸籍を造らせる≪庚午年籍≫


    疑問T 死の真相は?

  1. 病死説
    日本書紀より
    『天智四年の冬十月の庚辰に、天皇、臥病したまひて、痛みたまふこと甚し。 (中略)同十二月に、天命開別天皇崩りましぬ』

    学校の授業で習った病気で亡くなった。この後に息子の大友皇子と弟の大海人皇子が、 王位を争った壬申の乱となり、大友皇子は自害・大海人皇子が飛鳥に遷都して天皇となる。
    しかし、『日本書紀』には山科の天智陵は記述されていない。

  2. 暗殺説
    扶桑略記より
    『馬を駕して山階郷に幸し、に還御なし、永く山林に交りてその崩ずるところを知らず。 只その履ける沓の落ちたる處を似って山陵となす』

    天智天皇が馬に乗って山階に行き帰ってこなかった。履いていた沓が落ちていた所を墓とした。
    正式文書として認められていない。だからこそ隠された真実が描かれているのではないか?
    だから、陵となっている所に遺骸はない。
    何故、この話が残っていたのか?事実だからか?同情か?

  3. 御下向説
    枚聞神社由緒記より、要約文
    『天智天皇御巡幸伝説=瑞照姫又は大宮姫といい、2歳で上京して鎌足に育てられ、 13歳で宮中に召され天智天皇の妃としてご寵愛を受けたが、他の女后等に嫉まれ逃げ帰る。 その時大甕を持ち帰る。其の後、姫を慕って薩摩に来て余生を送り御79歳で崩御』

    宝物館にある大甕に由来が記載。所在地⇒鹿児島県揖宿郡開聞町

    指宿神社由緒より
    『白鳳以後、天智天皇、当地に潜幸、御在世32年にして慶雲3年崩御、よって御霊を奉祀した』

    摂社 西之宮(祭神=天智天皇) 所在地⇒鹿児島県指宿市

    何故?って思う所で名前を発見!だが、潜幸する理由が思い当たらない。
    『日本書紀』からは福岡には来たが鹿児島を訪れた記録はなし
    しかし、何故伝記が残っているのか、何故指宿なのか疑問に残る。


今まで私が読んだ本・調べた資料から、上記にまとめました。
まだまだあります・・・

    参考文献:
  1. 『日本書紀』『天智天皇〜物語と史蹟を訪ねて』
  2. 『扶桑略記』『逆説の日本史2 古代怨霊編』
  3. 『枚聞神社由緒記』『近江神宮〜天智天皇と大津京』

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