唐 山 地 震 そ の 後

地震ジャーナル(1997年12月)


並木のずれ

地震記念塔

図書館の建物

機関車工場


                            尾池和夫



 1.唐山地震から20年

 唐山市は今、約157万の人口が1090平方キロの市区域に住んでいる。また、唐山
市は周辺の10市および県と2つの農場を管轄しており、それらを合わせると総人口は6
75万余、総面積は1万3472平方キロになる。
 1976年7月28日の唐山地震の前には、唐山市域は約100万人の人口といわれて
いたが、大震災で多くの死者を出した。死者は、唐山市で14万8000人、全体で24
万人余であった。損害額は30億元に達したという。この大地震で市の97パーセントの
土地建築物に被害があり、55パーセントの生産設備が破壊された。また、交通網、給水、
給電、通信網などはすべて切断され、人口百万の都市は廃虚となった。
 昨年、1996年に、唐山地震から20年を記念するさまざまの行事があった。それら
は、阪神・淡路大震災から1年の、震災の実感をまざまざと残している日本の人々にも、
地震や震災に関する多くのことをあらためて教えてくれるものであった。
 唐山大地震は午前3時47分に発生した。市内のほとんどの住宅は倒壊し多数の圧死者
を出した。地震予報を出す仕事をしていた専門家もホテルの部屋で圧死していた。
 地震直後、中央政府は治安の混乱をおそれ、地震の5時間ほどあとには対策本部を設置
し、10万人の人民開放軍兵士を投入し、2万人以上の医療人員を派遣した。現地の混乱
は、地震後2日目にはおさまったといわれる。
 軍は地震直後に1万6400人を救出した。重傷者8万人が市外の医療施設に収容され
た。1976年末までに35万戸の家が完成した。国家による救災策と仕事をなくした人
への給料の支払、2600人余の震災孤児の国営企業による身元の引き受けなどが行われ、
社会主義体制のもとでの震災対策の特長が発揮された。震災孤児たちももう今では工場の
従業員になっているという。
 唐山市の復興は、市域を拡張して旧市街の外側にまず新しい町を建設し、その後、旧市
街を再建するという方針で行われた。旧市街区から北へ25キロほどの所に人口6万人の
新しい町が建設され、紡績や車両工場など併せて建設された。
 住宅の再建は、地震後10年で1800万平方メートルを完成した。20年後には、市
域の人口1人当たりの住宅面積は12.1平方メートルとなり、全国平均の8平方メート
ルを大きく上回り、水道やガスの普及率は全国の都市の最先端のレベルに達した。
 今、唐山市の中心には抗震紀念碑が建立されており、その前に抗震紀念館がある。抗震
紀念碑のある広場の西側の道路が南北に走る建設北路と呼ばれる大通りで、その通りに沿
って広場から北へデパート、市政府、体育館、変電所などの大きなビルが立ち並んでいる。
 唐山市の市街地は、中国の近代都市のモデルとなった。生産力の躍進と生活の向上のた
めの都市計画の進む様子が、抗震紀念館の展示の中にさえ、地震のことを展示していたス
ペースを割いて大きく示されている。
 今までに復興に要した費用は唐山市全体で43億元といわれる。
 唐山市は炭鉱の町であった。その炭鉱の生産量も震災後7年で地震前の50パーセント
増に達したという。工業および農業の生産高は、地震後よく10年で78億3000万元
となり、地震前の92パーセント増となった。
 日立制作所は出力75万キロワット規模の火力発電所の建設のために派遣していた3名
の職員を震災で失ったが、震災後の再建工事に再び技術者を派遣して協力してきた。
 新しい町での耐震規準は震度8−9に改定された。中国の震度階級は1−12であり、
唐山地震前の耐震規準は震度6であった。
 中国国務院は、1988年3月に唐山市区域とその南部の5県を沿海対外開放区にする
ことを決定し、1991年8月には、唐山市政府が唐山市高級技術開発区を定め、199
2年5月と7月には、河北省人民政府が省レベルの高度新技術開発区および経済技術開発
区を定めた。これらの開発区は市中心部から北部および外環状線の南北両側など、約10
平方キロを占めている。
 開発計画は3期に分けて進められる。現在第1期が完成し、約3平方キロに180万平
方メートルの建築面積分が完成した。第2期は2000年まで、第3期は2005年まで
の予定である。
 唐山市は渤海に面した港を持っている。この港の地区は、1993年から2010年ま
での開発のために区画が指定されており、工業用地、文化用地、科研教育用地、公共緑地、
住宅用地などと詳細に指定されている。この「唐山海港」は、省レベルの経済技術開発区
にあって、唐山市中心部から南東へ95キロの楽亭県にある。1919年、孫中山はここ
を「北方大港」と呼んだ。1992年、この港は外国船籍船舶に開放された。日本では天
津甘栗が有名だが、実はこの栗も唐山市の産物であり、昔から天津の港を経て日本へ運ば
れたが、これからは唐山港からやってくるのかもしれない。
 唐山市への日本の企業の進出計画も見られる。1976年の大地震のときにも日本の企
業の職員も被災したが、今の復興事業の中で、多くの企業が日本から参加している。例え
ば新しい製鉄所の建設候補地にも唐山市は有力である。
 1996年7月28日、中国の新聞各紙はいっせいに唐山地震の記念特集を組んだ。そ
れらは唐山市が震災の困難を克服して新しい町を建設し発展をとげたことを伝えていた。
 1996年7月28日には、唐山市で万里副首相らが出席して震災犠牲者追悼記念集会
が開かれた。8月1日には、日立制作所の職員を中心とする日立交響楽団が唐山市を訪れ、
追悼と復興祝賀演奏会を開いた。
 唐山市の中心部に鳳凰山公園がある。唐山の人々は唐山市を「鳳凰の町」と呼ぶ。兵庫
県は1996年9月、貝原知事らは唐山市を訪れた。兵庫県にも「フェニックス計画」が
ある。



 2.唐山の歴史

 唐山市は悠久の歴史をもっている。考古学史料によると、冀東平原は古黄河と濡水と清
河と薊運河による冲積層で形成された。新石器時代とその後の時代の遺跡の中には、われ
われの祖先の栄えた遺跡が多く発見されている。たくさんの遺跡の中で、典型的な龍山彩
陶文化の特徴が明らかに見える。母系氏族社会から父系氏族社会へと移る群落の形成を経
て、集落が連合して一つの国になった。
 殷商時代には、今の龍慮の西にあった狐竹国と山戎国が唐山市東北部の県の地域で活動
していた。周朝になると、大規模な封建制が実施され、大小の諸候が出現した。春秋時代、
唐山市一体には、狐竹、山戎、令支、无終などの諸候の国家が出現した。
 中国の東部、渤海湾の沿岸、燕山の南に美しく豊かな地方がある。それは冀東地方とし
て知られている。唐山市は、その大地の上に一つの真珠を埋め込んだような所と言える。
 唐山市は近代に発展した重要な北方工業都市である。「煤海鋼城」(炭鉱と鋼鉄の城)、
「瓷都電邑」(琺瑯びき鉄器と発電の都市)と呼ばれる。全国で初めての竪坑巻き上げ装
置、初めての鉄道、初めての蒸気機関車、それに初めての生コンクリートが、全部この都
市で誕生した。
 100年の発展を経過して、唐山の工業、農業の生産は1930年までに長足の発展を
とげ、総生産高はすでに全国の都市の中で第20位になっていた。



 3.地震の予報

 1976年7月28日、午前03時42分、マグニチュード7.8の地震が中国河北省
唐山市の地下に発生した。この地震による死者は242,419人であり、20世紀で世
界最大の震災となった。
 中国国家地震局は、この地震の長期予報と中期予報を出していたが、短期予報と臨震予
報は出せなかった。この地震の前の年、1975年2月4日の遼寧省海城県と営口県の地
下に発生したマグニチュード7.3の海城地震のときには、臨震予報を出すことに成功し、
多くの人々の生命を守ることができたのに対して、唐山地震の直前の予報が出せなかった
ことは、地震予報のむつかしさを世界の地震学者に明確に認識させるものであった。
 唐山地震の中長期予報は、それにもとづく工場の補強工事などに活かされていたが、短
期臨震予報は出されなかった。その前の年の海城地震の予報の成功と比べて、この唐山地
震は予報の失敗例としていつもとりあげられることになった。日本の新聞記事に現れた極
端な例では、唐山地震の予報が出せなかったことから、海城地震の予報は単なる偶然だっ
たという見方までとっている。
 地震予報に失敗した予報担当者が、被災地の住民から迫害を受けたという報告もある。
地震が近いという感じを持ちながら、大規模な工業地帯に臨震予報を出すことのためらい
があったことも伝えられている。地震後には、専門家の震災の調査に対する妨害、観測機
器の破壊、食料の配給拒否、負傷した職員の治療の妨害など、さまざまのことがあったと
いう。
 唐山地震のあと、全国の地震関連の観測点は増強され、460か所に増えた。北京・天
津・唐山地区では国連開発計画による援助によって観測網が整備されている。唐山市には
多数の小動物観測班の活動もあり、市に観察報告が届いている。
 大地震から20年以上たったが、この地域の人々は地震のことにたいへん敏感である。
たとえば、唐山市から100キロほどの河北省滄州市では、大地震から20年たった19
96年2月29日未明に、地震のデマ情報が流れたことがある。それによって10万人ほ
どが戸外に避難するさわぎがあった。
 デマは午前3時ごろから拡がりはじめて、2時間ほどの間に、半数以上の市民に伝わっ
たという。市は警察官と地震関係の職員と動員してデマの打ち消しをはかり、日の出とと
もにさわぎはおさまった。市の地震局にはその間4000本以上の電話がかかった。2月
3日に雲南省で死者300人以上の震災があり、そのあと国家地震局が「今後一両年内に
中国は第5次地震活動期の山場に入り、マグニチュード7クラスの地震が連続する可能性
がかなり高い」(朝日新聞)と述べたことが影響したのかもしれないという。



 4.地震の遺跡

 1996年8月1日から3日間、国際地震学および地球内部物理学協会(IASPEI)の第1
回アジア地域国際会議が唐山市で開催され、29の国と地域から278人の地震学者が参
加して地震学の各分野にわたる研究発表と討論を行った。唐山地震20周年を記念する国
際会議であり、アジアと南太平洋地域での地震の研究を発展させる決意を持つ人たちの集
まりでもあった。
 唐山には影絵劇がある。唐山皮影劇団があって、日本にも公演におとずれたことがある。
孫悟空やパンダの話が演じられるが、白い大スクリーンに映る影絵の動きがみごとである。
国際会議の夜にはこの影絵劇も上演された。
 この会議の2日目、参加者全員がバスに分乗し、時間をずらせて出発して、唐山地震の
遺跡を2か所と、唐山市の中心にある抗震記念塔と唐山地震資料館を訪れた。資料館の方
は唐山市の復興の状況を主として見学するように展示されていて、地震そのもののことは
わからないが、地震の遺跡の方は、地震断層の水平右ずれのあとを明瞭に残しており、ま
た、建物の崩壊のあとをそのまま保存してあって、震源断層の動きと強震動による震災の
様子を、よく理解することができた。
 唐山地震のあと、私は唐山市を4回訪れた。第1回は地震の翌々年であったが、唐山市
内には入れず、復旧した鉄道で唐山市の駅を通っただけであった。2回目は1980年で
あり、そのときは時間をかけて地震と震災のあとを見た。1989年に訪れたときには、
水平右ずれの跡が遺跡として指定されているにもかかわらず、その一部にゴミが捨てられ
ていたりして、すこし残念に思ったことを覚えている。今回は、20周年を記念する国際
会議に出席し、家族とともに訪れることができた。指定された遺跡の一部は柵で保護され
ていて、よく保存されているのを見て、うれしく思った。唐山地震の遺跡は7か所指定さ
れている。会議中に時間をつくって、全員の見学コースには入っていなかった他の5か所
の遺跡を見に行った。唐山地震資料館の館長である馬春勤氏が私たち8人を案内してくれ
た。
 その中の1か所、もともと一直線に並んで並木が水平右ずれの地震断層の運動によって
ずれた跡にはとくに柵もなく、20年前の現象をそのままに見ることができた。唐山市の
名産の1つであるタイルを作る工場の並ぶ道に立って、並木のずれを見ていると、唐山地
震前後の中国の地震予報の仕事の数々が思い出された。
 1974年に初めて中国を訪れ、中国の地震予報の仕事の現場を、外国人としては最初
に見学する機会を与えられた私にとって、その並木のずれは、単にマグニチュード7.8
の地震を起こした跡というだけでなく、地震を予報するための研究の目ざす、多くの困難
な課題を、あらためて思い起こさせるものであった。
 唐山地震の地震断層は、唐山市の市街地を北北東−南南西の方向に走った。それに沿っ
て、道路や並木の水平右ずれが見られた。それらのずれの跡と強震動による被害の跡が地
震の遺跡として保存されている。今7か所の地震遺跡が旧市街地の中に保存されている。
 図1は、唐山市の現在の中心部を示し、数字が保存されている地震遺跡の位置と抗震紀
念碑を示している。それらは以下の通りである。
 1.牛馬の小屋の右ずれ。
 2.吉祥路の右ずれ。ずれの跡がタイル工場の周辺に現在3か所残っている。
 3.旧十中(元第十中学校)の構内に小道のずれと土管のずれが柵に囲まれて保存され
ている。以前訪れたときにはゴミ捨て場になっていて残念な思いをしたこともあるが、
1996年にはきれいに保存されていた。
 4.機関車工場の破壊された跡。工場のハリや柱が倒壊したままに保存されており、草
におおわれている。
 5.河北理工学院の図書館の倒壊跡。建設中の図書館の建物が倒壊したのをそのまま保
存してある。
 6.唐山陶器工場の公楼の破壊。
 7.唐鋼クラブの建物の被害。
 8.抗震紀念塔と抗震紀念館。



 5.無形の震災

 王紹玉と馬春勤が書いた「無形的震災−唐山地震心理行為反応紀実」(無形の震災−唐
山地震における心理行動反応の記録、中国科学技術出版社1993年)には、唐山地震直
前から10数年後までの唐山市の人々の行動が描かれている。この本を書いた王紹玉は唐
北工程(工業)技術学院の副教授(助教授)で社会心理学者であり、もう1人の馬春勤は唐山
市地震局の研究員であり、かつ唐山地震資料館の館長の職を兼ねている。ともに、大地震
の現場にあってずっと調査を続けてきた人たちであり、みずから収集した大量の1次資料
をもとに地震発生前の動物や人の異常行動から、大地震後の社会と人の状況にいたるまで
を、くわしく分析している。
 この書は、唐山大地震で被災した人たちが自ら語ったことをもとに、唐山大地震の被災
者たちの心理行動の変異反応をくわしく描いたものである。読者は本書を通して、唐山大
地震が人びとに対して物質的あるいは精神的に与えた災害を全面的に知ることができ、特
に、地震災害による人びとの心理の世界の異変を知ることができるであろう。
 この本の初めには、「1976年7月28日の唐山大地震は、全世界を震え上がらせた。
今でも唐山大地震の話をすると人びとの顔色が変わる。だが、今日にいたるまで、この世
で最大の悲惨さとも言えるこの大災害が、人びとの心理の世界に与えた重大な傷害と、引
き起こした人間の心理行動における異常な変化は、多くの人にとっては、まだ未知の謎と
されている。『無形の震災−唐山地震における心理行動反応の記録』は、大量の事実と生
の素材によって、唐山大地震の中での人びとの心理行動の異常反応を詳細に記述した。」
と書かれている。
 その内容から、大地震の前の動物の異常行動を列挙すると以下のようなものがあげられ
る。
 ラバの大逃走、動物の絶食、恐ろしい声で犬は吠え、猫は叫ぶ、兎と羊が狂う、水生動
物の恐怖行動反応、金魚の夜のダンス、スッポンの悲鳴、青蛙の没黙の集合、鳥と昆虫の
奇怪な行動反応、鸚鵡に驚かされた夜、昆虫の集会、コウモリが白日のもとで飛び回る、
鴿は落ちつかない、穴居動物の避難行動、イタチの引っ越し、ネズミは災難を予知、まだ
ら蛇は「警報」、サソリとムカデとアリの大逃去。
 人の異常行動もあった。地震前に突然あわてて度を失う。地震前に情緒を制御できなく
なる。なんともいえない恐怖が身を包む。地震前に奇怪な病気に耐えられなくなる。
 壊滅の瞬間の人間の心理行動反応が次に収録されている。
 まず、地震を目撃した人たちの恐怖心理行動反応である。異常な発光、地鳴りの音、二
百人以上の遭難を目撃した、地割れが恐い、地震のとき坑道にいた労働者の恐怖感など。
 地震時の人の避難行動の記録もある。環境の変異が引き起こした警戒感、犬の異常な吠
え方から、井戸水の白噴が危険を示した、窓から逃げ出した一家、借り部屋での一夜で危
険を避けたなどなど。
 地震時の人間の異常行動、震災初期の人間の心理行動反応、平常にはない奉仕行動、災
害時の強い救命心理行動などの例も収集された。
 震災が変えた環境の中での、人の異常と失意の心理も描かれている。巨大な打撃が感情
を異常にした、目の前の被災者を救助しない人、震災の中の窃盗と放火、震災後に露出さ
れる人格、震災時の人びとの群集心理、自主意識の弱化、
 震災からしばらく経過しての心理の変化の観察も行われている。持続的に地震を恐れる
心理行動、地震について噂の衝撃、恐震心理は生活意欲を失わせた、「火災」に対する恐
怖、新築の家がもたらす恐怖など。
 非理性的な消費行動もある。理解し難い気前の良さ、文化的消費意識の低下など。
 家の再建の中に現れた公平無私の心理行動や、人の胸をゆすぶる「親密」心理行動、家
庭を作るという震災後の婚姻心理、身体障害患者の心理、震災孤児の心理などが、震災後
の長期にわたって観察された。
 これらの記録が、阪神・淡路大震災の影響が残るであろう、これからの日本の震災対策
にも、きっと役立つことであろう。