「人に話したくなるキリスト教(27)
●「主の祈りの黙想−その20−」
(7)「わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。」(その2)
ミサ聖祭の中で司祭が聖変化されたパンを割く間、わたしたちは「神の子羊、世の罪を除き給う主よ、われらをあわれみ給え」と繰り返して歌います。これは洗者ヨハネが、イエスの何たるかを見抜いて叫んだ言葉です(ヨハネ1:29)。「世の罪」を除くのはこの方しかいないのだ、という力強い宣言です。今、「主の祈り」の結びを「悪い者から救い出してください」と懇願する以上、この「世の罪」のことにについてよく理解しておかなければなりません。
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「世」とはわたしたちの生存の場、人生の歩みを築いていく社会、そして歴史の波に翻弄されていく各時代でもあります。問題なのは、それが人間の「罪」に汚染され、まさに「罪の世」となってしまっている現実です。わたしたちは誰一人例外なくこのような「罪の世」に生まれ落ちます。そしてあたかも汚染された空気を吸いながら育つのと同じように、「世の罪」に毒されながら生きざるを得ません。神をないがしろにする傲慢さ、その愛を打ち払う恩知らず、我執ゆえの非情さなど、知らず知らずのうちにわたしたちは、それらを自分の中に取り込んでしまい、それが思いや言葉や行動になってあらわれてしまいます。さらに、各自のこうした悪は積もり積もって、また、「世の罪」を成していくのです。まさにどうしようもない悪循環、自業自得の世界です。「悪霊」と命名せざるを得ないほどまで、それは薄気味悪い力となってわたしたちをとりこにし、人間を愚弄しつつ滅びへと追い込む、あたかも自立した存在かのようです。今日のわたしたちの社会をちょっとでも振り返るならば、背筋が寒くなるような不可解で、凶悪で、捉えどころがなく、それでいてしたたかな悪の力が大手を振って人々を脅かしている現実があります。「世の罪」の生々しさを実感し、自分もまたおのが罪をもってそこに関わり「罪の世」に加勢している責任を感じることなしに、「我等を悪より救い給え」と心底叫ぶことはできません。
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「キリストを信じるわたしたちにとって不快な「悪」の現実を見つめるのは、がっかりするためなのではありません。まさに自力ではどうしようもない所に神のあわれみと救いの力、恵みの力があることに気づき、それを喜ぶためなのです。パウロが、「私は弱いときにこそ(神において)強いのだ」(第二コリント12:10)と告白するのは、その喜びをあらわしています。「世の罪」を除くのは、神の子羊であるイエスしかいない。罪の悪循環を断ち切り、救いの道を自分の尊い御いのちをもって打ち開いたのは、まさにこの方だという告白。それが洗者ヨハネの「見よ、世の罪を除く神の子羊を!」の叫びなのです。「わたしたちを悪より救ってください。猛威を振るう悪しき者より救ってください。」こう祈らせるのは、実に、わたしたちの罪の贖いのために十字架にのぼろうと覚悟されたイエスご自身であることを忘れてはなりません。このイエスがすでに見たように、「み国が来ますように!」と祈らせるのです。
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神の愛に満ちた解放の力、罪を赦す力、抗し難い悪からわたしたちを守る力、それらをわたしたちはミサの度に想起しなおし感謝するのです。ご自分のすべてを賭けて「世の罪を除く神の子羊」となってくださった、イエスの尊い救いのみわざを思い起こし、記念し、秘跡的に再現すること、それが日曜日毎に祝われるミサ聖祭なのです。そこで、わたしたちは真の救い主に出会いなおし、自分を取り戻し、共にキリストに従う者同士が、同じ恵みに結ばれていることを喜び合い、主と共に生活の現実に帰っていく力を頂くのです。
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わたしたちの生きる現実は相変わらず闇と不条理と罪の力に支配されています。しかし、救い主イエスがわたしたちの道であり、同伴者、導き手であるなら、また、イエスご自身の御父をわたしたちにも「父よ」と呼ばせてくださったのなら、一体何を怖れることがありましょう。詩編作者のあの祈りが心に響きます。「主は私の牧者、私には乏しいものがない。たとえ死の陰の谷を行くときも、私は災いを怖れない。あなたが私と共にいてくださるから。」(詩編23:4)イエスも励ましの言葉をかけてくださいます。「私は世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)そうです、聖霊に導かれ、イエスとともに天におられる御父と向き合うわたしたちには、いつも希望があります。栄光は父と子と聖霊に、はじめのように今もいつも世々にありますように。アーメン。
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