認知されている突然変異の信憑性を知るために、多くの生態を再認識します。そこでの生態では生物は明らかに環境を認識し、変異には目的を持ち、積極的に思考したうえで知的創造していると見なすことができるもので、決して目的もなくランダムに発生したエラーの中から進化の変異をしているのではないことを示します。
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| 3章 生態の分類と分析 もくじ |
環境の変化は変異のきっかけ
進化における重要な要素とされる環境は、大きく二つに分けることができる。一つは自然環境で、もう一つは生活環境である。自然環境には日常的なものと非日常的なものがある。日常的なものでは日の出から日没までの1日の変化や、1年を通した四季の季節変化などがこれに相当する。これに対して、非日常的なものでは火山の噴火や隕石の衝突、さらには旱魃や台風などがこれに相当する。この非日常的なものも生物にとって自然環境の一つではあるが、これらは事故として扱うべきものと考える。
環境の二つめは生活環境である。生活環境は自らを取り巻く生物で、自らと同じ種の生物や異なる種の生物がこれに相当する。同種生物はその相手の性によって生殖相手であり、性行動のライバルでもある。一方、異種生物はその相手によってときには捕食者であり、ときには被食者になるもので、生活環境の中でも重要な要素である。
ここに挙げた「環境条件」とは、従来論で示す自然淘汰に類似する。だからといって自然淘汰を肯定するのではない。これらは通常の生活をしている中でも環境の変化によって、同じ種であってもあたかも別の種の如く形質の変異を起こすものがある。従来論では環境変化の後の自然淘汰によって生き残りの生物種が選ばれるとされることから、ここではこれも分類の一つのタイプとしておくものに過ぎない。
ここで環境について触れておく。従来論では自然環境や生活環境によって多くの生物が滅ぶかのような印象を与え、それを自然淘汰としているが、それは間違いではないだろうか。たとえば、陸上生活していた動物が捕食者からの身の危険を回避するために安全な水中生活に移行することや、気候変動で陸上の餌が枯渇したために餌を求めて水中に入ることは、それらの何れもが動物の意思によるものである。
なぜなら、そのような状況になったときに水中に移行するものもあれば、それでも地上に残るものもいる。その違いはそのときの捕食者や餌の状況が自分にとってどれだけ切羽詰ったものかの認識の違いによって判断が異なる。このことから、自然環境や生活環境の変化は動物が生活領域を変えるきっかけではあるが、最終的に異なる領域に移行するか否かの決断は、動物の意思によるものに他ならない。
このように自らの意思によって生活領域の異なる環境に移行しながら、異なる生活領域で生き残っている動物が数多く存在している。これは動物の意思によるものであるから遺伝子のエラーでないことは言うまでもない。このようなとき生活領域を移行した後で環境に身体を順応させる必要が生じる。それは分泌物の制御や体内機能の一部変更によって対応するであろう。
すなわち、自らの意思によって変更した領域の環境に、自らの体内制御によって調整していることになる。それでは自らの意思で生活領域の異なる環境に移行するのではなく、自らの意思に反して自然環境や生活環境が変わったときどうなるか。環境が変わってもそこに定着することは、自らの意思で環境の違いを受入れることを意味している。
先に述べたことは環境の異なる領域に自ら行ったものであるが、この場合では環境がやって来たことで、行ったか来たかの違いである。自ら行ったとき異なる環境に適応できたならば、異なる環境がやって来たときでもそこに定着することは、適応できる能力が潜在的に備わっていることを意味している。
私たちは夏冬の気候変化にはクーラーやストーブによって対応できるが、瞬時の交通事故は避けることができずに死に遭遇する。同様に、一般的動物にとっても対応するための時間的余裕のある環境の変化には、動物の意思によって適応することができる能力を潜在的に備えているが、瞬時の火山噴火や短期間の台風や旱魃は避けることができずに死に至ることになる。
これは動物に限定するものではなく植物にも適応される。動物のように自力移動しない植物では、自ら異なる環境へ移行するのではなく常に異なる環境がやって来ることになる。このため、環境の変化に適応することは動物以上に大切なことになる。
これらから、自然環境や生活環境が変化しても多くの生物は変化した環境に適応する能力を備えているので、容易に自然淘汰することはない。その様な生物であっても瞬時の事故やそれぞれの生物が備える制御能力を超えるほどの環境変化に見舞われると、対応できずに死に至る。これまで生物が生き残るか死ぬかは自然淘汰一つによって処理してきたことが問題で、必要なことは、自然環境や生活環境の変化と回避することのできない事故とを分離しなければならないのではないだろうか。
フィンチの嘴
進化論発祥の地とされるガラパゴスでフィンチの嘴は進化を代表するもので、このフィンチの嘴の形状によって進化理論の原型が作られたとされている。フィンチ以外にも中米のハチドリやハワイのミッスイなどは、その嘴の形状の多様性からフィンチに類似するものとして知られている。そして、今日進化論の主流とされる総合説では、変異によって生物が多種多様になることは突然変異がランダムに発生し、その後の自然淘汰によって選別された結果、異なる嘴のフィンチが誕生したとされている。このことに疑問もないのか考えてみたい。
結論から先に述べると、ここでは突然変異は起こってはいなかったと考えている。フィンチやハチドリそしてミッスイなどは、さまざまな自然環境や生活環境を認識し、それらの環境で生き残るために何れかに適応する目的で自らの意思によって嘴を変異させたと考えている。
フィンチは餌とする木の実や花蜜、さらには木の幹の中にいる昆虫の幼虫など、何を主食に選ぶかによって嘴の形状が異なることが明らかにされている。一方、ハチドリやミッスイの主食の多くは花蜜であるが、鳥の種類によって主食とする花の種類が異なり、この花の形状によって嘴の長さやカーブの形状が異なることが示されている。
フィンチでは硬さの異なる食料を主食にすることで、嘴の形状が頑丈になったり華奢に変わることは理解できても、花蜜を主食にするハチドリでは、触っただけで変形するような軟らかいラッパ状の筒が湾曲した形の花によって嘴が変形するはずがないと多くの人が考えるところである。しかし、接触刺激を受けた部分が成長を鈍化させることで、硬い嘴でもカーブすることが可能であると推測する。
この性質は植物にことさらはっきりと表れる。アサガオの蔓やキュウリのひげは何かに触れると触れた部分の成長が止まり、触れたものに巻きつく性質がある。このことは多くの植物で成長部に毎日軽く触れるだけで成長が止まることも実証されている。
これからすると形状を変えたのはハチドリやミッスイではなくて、彼らに蜜を与える植物の花が形状を変えたと考えることもできるが、ここでは植物だけではなく鳥の嘴が変異したと考えている。さらに、その変異が突然変異ではなく、環境を認識することで自ら変異したと考える。
一方、嘴だけではなく花にも工夫が見られる。花蜜を求めて来たハチドリやミッスイに花蜜を提供する花は、鳥の頭が来る位置にオシベやメシベを配置している。これによって受粉をしている。ベニハワイミッスイもオハワイの花蜜を主食とするが、オハワイのオシベとメシベはベニハワイミッスイが花蜜を吸うとき、頭が確実に接触する位置になっている。これらは突然変異でこの長さになったのではなく、植物が環境を認識して目的に合わせてこの位置に決めているというべきであろう。
これまでの進化論や進化の研究では、適応と自然淘汰による説明が主である。その何れもが発生した変異の中で環境に適応した優位性を備えた形質が自然選択によって生き残るとしている。換言すると、変異した形質が優位性を備えないとき、その個体は自然淘汰されることになる。この考え方は自然淘汰の理論として多くの専門家に認知されたもので、今日では一般的にも市民権を得たものとされている。
しかし、進化の変異の本質は生き残ったか淘汰したかではなく、如何なるメカニズムによって変異が発生したかであろう。それにもかかわらずこれまでの進化論や進化の研究では軽微な変異や突然変異そして遺伝子のエラーなどとするもので、変異の本質となるメカニズムには触れようとしていないように感じる。
鷹匠の鷹
ここではフィンチやハチドリそしてミッスイの嘴に、なぜこれほどまでにこだわるのか。その理由として、これに関係することを紹介する。猛禽類の野鳥が怪我をして一時的に保護されて人に飼われることや鷹匠が飼う鷹は、嘴が異常に伸びて捻じ曲がり通常の噛み合せができなくなって餌を食べるのが困難になる。それに要する期間は数ヶ月(2〜3ヶ月)である。そこでヤスリで削って嘴の形を整える必要がある。
野鳥の嘴は食事だけではなく人の手にも相当し、生きるうえでは常に負荷がかかっている。野生の猛禽類が怪我をして保護されることは、生活環境が一変することで通常の野生生活ではあり得ない。もしも、保護されないと野生の鳥は死に至ることになる。しかし、環境が変わっても動物が自然の中で生き続けられることは、保護されるように生活が一変するわけではなく、緩やかに変化することになる。これによって嘴は変化した環境に順応するように変異することが可能と推測することができる。
フィンチについてあたかも進化論を代表するかの如く示されることがあるが、これは進化よりも環境によって容易に変異するといえるものではないだろうか。たとえば、ガラパゴスに生息していたフィンチが旱魃の影響を受けて大幅に減少すると、自然淘汰の理論が主張される。
旱魃によって多くのフィンチが死んだことは、彼らの食料の絶対量が不足したためである。中でもそれまで水分を多く含んでいた餌を常食にしていた種にとっては、餌となるべきものは著しく減少したことになる。一方、フィンチの中でも水分の少ないものを常食にしていた種にとってダメージは少なかったであろう。そのような中で生き残ったフィンチの嘴が多少なりとも丈夫になったとすると、それは進化したとみなされる。
しかし、それは旱魃によってそれまで食べていた食料の多くが、以前に比べて水分が不足して固くなったことを意味するもので、それでもその固くなった餌を食べて生き残ったそれぞれのフィンチは嘴が丈夫になったであろう。これは保護されたときの猛禽類や鷹匠が飼う鷹の嘴とは逆の方向に進んだことを意味するもので、取り立てて論じるべきものではなく環境条件に相当するものではないだろうか。それなのにフィンチについて研究すると総てが進化論につながることが問題であろう。
身体の組織にはさまざまなものがあるが、中でも硬い嘴はめったに形が変化するとは考えられてはいない。これは生活環境が均一化しているためで、伸びる量と負荷や摩滅による消耗が相殺されて新陳代謝が繰り返され、外見的形状に変異が見られないもので、ひとたび生活環境が変わるか主食の内容が変化すると、硬い嘴も容易に形状変化すると推測できる。
これらのことから、硬い樹皮の中の虫を主食にする鳥と花蜜を主食にする鳥とでは、日頃の嘴にかかる負荷は異なり、結果として、短く丈夫な嘴になる種もあれば、細長く華奢な嘴になる種もいることになる。ここでは保護された猛禽類,鷹匠の鷹,旱魃後のフィンチの例などから、野鳥の嘴は通常可逆性のもので、多くが食生活の変化に伴って変化することや、元に戻ることも可能であると推測できる。
人の爪もその昔は日常生活で磨り減ることや、日常作業の負荷による抑制刺激によって常に適度の長さで、野生動物のように爪切りは必要なかった。しかし、日常生活の変化で爪に負荷がかからなくなると爪は伸び放題となり、爪切りが必要になる。しばしば人は生物の中でもっとも知性が優れたから、他の動物では作り出すことのできない爪切りを作りだせると考える人がいるようであるが、それは違う。
動物として備わった機能を過不足なく活用すると、自らに備わった機能の制御によって不具合なく生きられることを意味している。だから野鳥が野生として生活する限り、ヤスリを必要とはしない。現代人に備わる手足の爪は生きるうえでの生活必需品から外れ、もはや爪は装飾のネイルアートの範疇になり、硬軟を論じるには適さないものになっている。
多くの場合、ひとたび手にした形状はなかなか変えようとせずに世代交替を繰り返す。なぜか。それは単に嘴だけでは済まされないからである。たとえば、農耕民族の日本人はおよそ1万年前の縄文時代から穀物や野菜主体の食生活をしてきた。しかし、ここ20〜30年の間に牧畜民族の欧米化に倣って、肉主体の食生活に移行するのに何の努力も必要としていないように見える。
しかし、これは外見上のもので、身体の内部では腸の長さや働きに違いがあり消化酵素の違いもあって、食事をする本人の満足とは異なり内臓は苦労して努力していると推測する。その結果、それまでにはなかった臓器に変化が生ずることになる。最近いわれる生活習慣病はこれに類すると考えられる。これは単なる一例であるが、変異するためには相応の努力が必要である。このようにフィンチの嘴や鷹匠の鷹の嘴も特別なことではなく生物の通常の変化に他ならないもので、進化というよりは環境条件に相当する。
アフリカのサバンナで生活するヌーやシマウマは餌の草を求めて大移動する必要がある。多くは乾季,雨季の季節の違いによって何百キロも移動しなればならない。そのような彼らの爪や蹄は常時適度の長さで爪切りは必要としない。一方、人に飼われている家畜の牛馬の多くは、餌は人間によって与えられて餌を求めて何百キロも移動する必要はない。そのような家畜の牛の爪や馬の蹄は伸び放題でそり返り、正常な歩行ができなくなる。そこで酪農家は定期的に爪や蹄を切る必要がある。
一方、家畜として飼われていた馬も、野生化することによって蹄を切ることなく適度の長さに保たれる。これはオランダで見ることができるし、日本でも青森県の下北半島で見ることができる。これらからいえることは、一種類の野鳥であっても異なる環境で生活したならば、遺伝子がエラーをしなくても嘴の形状は変異する要素が備わっていることを意味しているのではないだろうか。
これまで自然淘汰は地質年代に相当する長い期間を要すもので、一般的に数百万年とされている。そのため、研究者の短い生涯では実証できないものとされてきた。そこで実験室,家畜,栽培植物によって自然淘汰を人為淘汰に置き換えて説明されてきた。
一方、これまでの研究の中には研究場所がたまたまガラパゴスであったり、研究対象がフィンチであったりすると、それだけで進化や自然淘汰とするものがあるが、もしも、研究場所が他であったり、フィンチ以外の動物についての実験であったならば、類似の研究内容であっても進化や自然淘汰とはせずに、「餌の固さと嘴の関係」という実験になっていたのではないだろうか。
食生活と顎形状
フィンチの嘴と類似の働きをするものに人の顎がある。この顎はフィンチの嘴と同じに生きるうえで必要不可欠の食べ物を処理するところで、嘴と共通の目的がある。このことから、使用頻度と負荷の強弱によって形状が変化すると考えられている。
ここでは日本人の20世紀の100年間を振り返ることにする。それはなぜか。日本にとってこの期間は戦前,戦中,戦後を経験する中での大変動期である。これはガラパゴスのエルニーニョの規模を大きくしたもので、日本人の生活環境を著しく変化させた時代でもある。中でももっとも顕著なものの一つが食生活である。そこで食生活の変化が顎の形状に如何に影響するかを考える。
20世紀の前半の半世紀では、日本は食生活が粗末で硬い雑穀米も主食とすることや、熱エネルギーも貴重であったため加熱量も少なく、食事では一口で30回咀嚼するように躾けられていた。その結果、顎が発達して顔の形は三角形のおむすび型か台形に似てくるのであった。
それに比べて、現代の食生活では雑穀米を食べることはめったにない。さらに、炊飯は加熱も充分であることからふっくらと軟らかくなっている。おかずに至っては魚の骨は取り除かれたり裏漉しするなどして、口の中に入れると噛む前にとろけてしまうものも少なくない。一口で30回咀嚼するなどの言葉はすでに死語になっていて知る人も少なくなっている。
このような食生活では顎にかかる負荷は半世紀前に比べると格段に小さくなっている。このため、顔の形はこれまでにおむすび型の三角形から台形,長方形を経過して、今や逆台形に移行しつつある。すなわち、両眼水平方向の顔幅に比べて両頬水平方向の顔幅が狭くなっていることは、半世紀前の頑強な顎に対して最近では華奢な顎になっていることを示している。しかし、これについて進化とは扱われてはいない。
もちろん人の顔形状は十人十色であるから、生まれ持った形質を備えていて皆が逆台形といえるものではない。そのため、さまざまなタイプの形状があるとしても、最近の日本の経済状況に伴う食生活の変化から逆台形や逆三角形の形状が相対的に増加しているとするデータも示されている。
このことは日本国内の100年間で血縁関係を想定するのは整合性がない。なぜなら、顎に突然変異が生じたとしても1世代20年として5世代では新たな種が飛躍的に増加することはできない。同様に、同じ突然変異が集中的に発生することも道理がない。
すなわち、人の顎の形状もフィンチの嘴の形状も遺伝子のエラーと継代によって増加したのではないとすると、従来の進化の変異として扱うべきではないことを示している。これまでフィンチを始めとして進化の変異は継代時の遺伝子のエラーによるものとしているが、その変異は生活環境の変化に基づいたもので、これらは遺伝子のエラーが直接関与しなくても変異することを意味している。
現在でも両親からの形質を受け継いで顎の発達した人と華奢な人を見るが、これとは別に、頬の膨らんだ人は肥満の人に数多く見られる。これは肥満によるものとしても、単にお腹と一緒に頬がふくよかになるだけではなく、肥満になるほど食べるということは顎にも相応の負荷がかかって発達することになるであろう。
これは一世代の中で子供のときと大人になってからの違いとして見ることができる。子供の頃は頬がこけていても大人になって発達する人もいれば、その逆もいるし、さらに、子供の形態を維持している人もいる。維持している人は子供のときと大人になってからの食生活が類似していることを示す。
一例として、この多くは先祖からの家系を継いで生活することで食生活に大きな変化はなく、顎が変化する要素もない。一方、大人になって両親から離れ別世帯になると、それまでとは食生活も変化する。これによって子供のときと大人になってから食生活が変化した人では顎の形状に違いが見られる。
一般的に結婚に際しては男性は家系を継ぎ女性が籍を移す。これによって男性は変化する要素が小さく、女性は変化する要素が大きい。しかし、食事は人が生きるうえで必要不可欠であるから、生きている限り大なり小なり顎は使用されるものである。だから通常の食事では変化は表れ難くいが、極端に食生活が変化すると表れることになる。
その意味からすると体形に無頓着の男性よりは、ダイエットする女性の方がその変化は顕著である。半世紀前の写真を見ると身体はやせているにもかかわらず顎が発達している人の割合が多かったが、最近では継続的にスリムな体形を維持しようと心掛ける人に顎の華奢な人を数多く見ることができる。すなわち、現代では生きるうえで必要とする栄養は、顎にそれほどの負荷をかけなくても充分賄えることを意味していることになる。
ある統計では100年後の日本人の顔形状は逆三角形の人が相当数占める予測が発表されている。私見ではそれより速く50年後には達成されると予測している。その理由は、食生活での顎への負荷はさらに減ることが予測できる。
従来までの自然食品はさらに減って加工食品に移行しつつある。これによって硬いものは除外されるか軟らかく加工されることになる。栄養の不足は顎の力を必要としないサプリメントの飲み込みによって補給するか、ドリンク剤で賄う方向に進んで顎は今以上に使わなくなる。唯一お喋りやカラオケによって僅かながら顎も動かしてきた。しかし、お喋りはEメールによって除外の憂き目にあっている。これでカラオケが衰退すると、顎の形状変化は一気に逆三角形に加速すると推測される。
戦後半世紀を経過し、中でもこの20〜30年は食生活が著しく変化した。このあと50年も経過すると日本人の顎形状が大きく変化すると推測できる。進化ではこのように類似の環境条件で生活することによって類似の姿かたちになることを収斂進化といわれている。しかし、これら類似の変異をするからといっても100年でおよそ5世代しか世代交替ができない。そのため、大きく変異したからといってそれらが皆血縁関係にあるものではないし、遺伝子がエラーしたものでもない。ましてや、半世紀前の頑強な顎の人たちが、自然淘汰によって滅び去ったものでもないことは言うまでもない。
従来論ではフィンチの嘴を突然変異や自然淘汰によって説明するが、日本人の顎の形状による顔の形を進化の変異としてみなすのであろうか。そのようなことはしない。フィンチの嘴とはその類ではないだろうか。
破骨細胞と骨芽細胞
フィンチの嘴や人の顎の形状変異を説明するには、破骨細胞と骨芽細胞の働きを説明する必要がある。通常、骨は硬いもので一生変わらないもののように見えるが、生きてゆく過程で破骨細胞によって次々と壊される。その一方で、壊れた部分を骨芽細胞によって次々と修復している。
それぞれの細胞が同じ目的で活動しているから外見上同じように見え、何の変化も感じることなく身体の中の骨格も新陳代謝によって数ヶ月で古い骨から新しい骨に置き換わっている。だから骨折しても骨芽細胞が活発に働くことで以前の状態に修復される。もしも、破骨細胞が壊す場所と骨芽細胞の修復する場所が異なると、動物の骨格形状はそれまでとは異なるものになることが推測できる。
進化の過程でそれまで陸上を歩いていた動物が、水中生活に移行することで足が退化することが知られている。この場合には破骨細胞は通常通り働いても、それまで足にかかっていた負荷が減少して本来働くべき骨芽細胞への刺激が弱まることで、次第に足は退化する方向に向かうことになるであろう。
私たちでも寝たきり生活をすると骨は弱くなり脆くなる。ウォーキングをすると骨は刺激を受けて丈夫になる。さらに、ジョギングによって骨に衝撃がかかると一層丈夫な骨になる。これらは身体が刺激を受けることによる破骨細胞と骨芽細胞の関係を示すものである。ウォーキングやジョギングと同様に、生きるうえで欠かすことのできない食事によって、使用しなければならない人の顎も負荷の強弱によって変化することになる。
生命を脅かすほどの環境の変化、たとえば、それまで主食にしていたものがなくなることや、気候の変化や天敵によって生活圏を変えざるを得ないことが発生すると、新たな生活環境の下で生きるためには身体の多くの場所にかかる負荷はそれまでとは異なり、破骨細胞と骨芽細胞への刺激のバランスがそれまでとは変化し、新たな環境に伴う刺激に対応した骨格形成に変異すると推測される。
従来ではこのような変異は突然変異と自然淘汰の累積によるもので、地質年代に及ぶ長い時間が必要とされると説明されてきたが、そのような長い時間を要していたら動物は環境に適応する以前に滅びることになる。これらから、環境の変化がゆっくりであれば身体の変化もゆっくりで充分であり、それが最適である。一方、環境の変化が速ければ身体の変化も速くする必要がある。
ここでは成体での形状変化を示すもので進化に直接結びつくものではない。これとは異なり、もしも、胎児を宿す母体に骨折以上の強いストレスがかかり、そのストレスが胎児の破骨細胞と骨芽細胞を刺激したとすると、誕生する子供の骨格形状は母親と異なるものになる可能性があることが推測できる。
これまでの進化論では突然変異や自然淘汰とされてきた。そこには生物自身の変異に対する意思の関与など存在しようもなかった。しかし、破骨細胞や骨芽細胞の活動は目的のないものではなく、極めて重要な目的が存在する。従来進化論で述べられてきたことは消極的なものであるが、実際に生物が行っていることは積極的なもので、生物の意思によって行われているというべきではないだろうか。
ウミイグアナとエルニーニョ
進化論でフィンチについて語るとき、もう一つの進化の代表とされるウミイグアナについて触れざるを得ない。ダーウィンの進化論で有名なガラパゴス諸島は赤道直下に位置し、南米エクアドルの海岸から約1000q西に浮かんだ火山のホットスポットによってできた群島である。
ガラパゴスにはリクイグアナとウミイグアナが生息している。地球上に生息するイグアナには水中に適応した種が他にいないことから初めは皆リクイグアナで、その一部がウミイグアナに進化したとされている。そして、陸から海に適応進化するには地質年代に相当する長い期間を要したとされている。ほんとにそうであろうか、疑問である。
ガラパゴスのウミイグアナは現在もいるリクイグアナのように、初めは島の草やサボテンを食べていたと考えられている。しかし、あるとき旱魃に遭遇してイグアナは食糧不足に陥った。そのときイグアナの一部は食料を求めて移動し、海岸で食べることのできる海藻に巡りあったと推測することができる。初めは波打ち際の引き潮によって海水面から現れた岩に貼りついた海藻を食べることになるが、次第に水にも慣れてくると自ら海中に潜らなくても、居乍らにして潮位の干満によって海中に没することになり、いつしか海中にまで潜ることができるようになる。
それには陸上の植物には少ないミネラルなどの魅力を海藻に見つけたと推測できる。そして、この時間は長い歳月ではなく極短い期間に行き着いたであろう。なぜならば、このように対応するのに何万年もかかっていたら、旱魃によって食べるものがなく命を落とすことになるからである。もしも、彼らが長い時間かけたものがあるとするならば、それは潜水時間ぐらいであろう。現在では1回の潜水で数十分(およそ30〜40分)潜り続けることができるが、当初は呼吸のために何度も浮上したであろうと推測する。
これと同様のものがいる。マッコウクジラは海面上で充分呼吸しておいて、およそ2時間の間無呼吸のまま数千mの深海へ潜り餌のイカを捕獲している。同様に、氷海で生活するウェッテルアザラシも通常15分ぐらい無呼吸潜水が可能であるが、深海へ潜るときには1時間以上も無呼吸であることもわかっている。このように長時間の無呼吸ができることは、血液中のヘモグロビンが酸素を蓄えることができることによるもので、ヘモグロビンの量を増やすことで無呼吸の時間を長くすることが可能とされている。
それではなぜイグアナについてこのような推測をするのか、二つの例を紹介したい。ガラパゴス諸島は赤道直下にありながら、南氷洋に発したフンボルト海流が北上して赤道付近で西に向かって流れてガラパゴスの島々に突き当たる。このためガラパゴスは低緯度にありながら海水温の低い海域があり、ガラパゴスペンギンが生息することでも知られている。
この海域に1982年の春から83年の夏にかけて発生したエルニーニョは規模が大きかった。これによってガラパゴス諸島一帯の海水温が上昇して、イワシを始めとする小魚が姿を消した。このため、イワシを主食にしていたペンギンは減少したとされている。同時に、海水温が上昇したことで海藻の大部分が消失し、ウミイグアナは激減したとされている。このとき海藻を主食にしていたセイモア島のウミイグアナのとった行動は、陸上のサボテンや草を食べていたことが確認されている。
日本の気象庁のデータでは、エルニーニョ現象はその規模に違いはあるものの、1950年から2000年までの50年の間に1951,53,57,63,65,69,72,76,82,86,91,93,97年と、2年から6年の間隔で13回発生していて、この高水温現象は1年から1年半程度持続している。すなわち、ガラパゴスで生活する生物が生き残るためには、この1年から1年半を如何にして乗り切ることができるか否かにかかっている。
この期間は食料の絶対量が減少するため、形質の有利,不利に関係なく相当数の生物が命を落とすことになる。辛うじて生き残ったものも従来の食料とは異なるものであっても食べなければ飢えを凌ぐことができない。結果として、身体の一部の機能は変化の必要性に迫られる。フィンチの嘴はこの類ではないだろうか。これまではフィンチの嘴やウミイグアナが進化の変異をするのに数百万年を要すとされてきた。しかし、現実には1年から1年半が進化には重要で、この短い期間を生き残れるか否かであろう。
1981年、リクイグアナ生息領域にそれまでとは異なった形質を持つ個体が発見された。その個体はリクイグアナとウミイグアナの両方の形質を備えていることがわかった。これはそれまで限られた領域内で生活していたものが、エルニーニョかラニーニャによって食料がなくなり、通常の生活領域から外れて別種の領域まで餌さ採りに行ったとき交雑したと考えられている。この交雑種の生息領域がリクイグアナの領域であったことから、リクイグアナの雌とウミイグアナの雄との交雑であることを推測する。
リクイグアナはサボテンによじ登ることはできずに地上に垂れ下がったサボテンの果肉を食べることや、落ちたサボテンの花を食べていた。しかし、このとき発見された交雑による新種のリクイグアナには、それまでとは違った特徴が備わっていた。それはウミイグアナの形質である波がきても岩にしがみつくことのできる鋭い爪が備わっていた。
そのため、この交雑種はサボテンによじ登って花や果肉をかじり取ることができる能力を備えていた。このことから、これまででは進化に数百万年必要とされていたが、容易に交雑種が確認された事はそれほどの期間を必要としないことがわかる。
動物の意思による環境選択
一方、一昔前のある年、イギリス・ウェールズ地方では旱魃によって牧場の緑がなくなってしまった。そのとき牧場にいたヒツジはどうしたか。彼らは牧場の外れの海岸に行き海藻を食べていたのである。その後、ウェールズ地方で再び牧場に緑が戻る頃、ヒツジ達は丸々と太っていたと伝えられている。
これはヒツジの数に比べて、海岸の波打ち際の海藻が豊富にあったことを示している。もしも、波打ち際の海藻の量が少なかったとしたら、ヒツジが海藻を求めてウミイグアナのように海中に潜っていたかどうかは定かではない。ヒツジが海中に潜る前に牧場の緑が回復していたのである。
同様の事例として、イギリス北部のシェトランド諸島の海岸線に隣接する牧場のヒツジ達は、現在でもしばしば海岸で海藻を食べているのを見ることができる。これは陸上植物に少ないミネラルの補給と考えられている。
次にイグアナやヒツジとは逆の例を紹介したい。鹿児島県の口永良部島は火山島で、島のあちこちで温泉が噴出している。この島の海岸付近に生息する魚では、イソギンポ科のヨダレカケがいる。姿かたちはハゼやムツゴロウに似ている。イソギンポの仲間は泳ぎがあまり得意ではない。そのため、彼らの多くは岩陰やサンゴの隙間に身体を入れて生活している。
ヨダレカケは水から上がって波打ち際の岩の上で岩に着いた藻を削り取って食べている。水中生活をするイソギンポ科の魚とヨダレカケの中間に位置するものにタネギンポがいる。タネギンポは干潮の潮溜まりの中で藻を食べているが、潮溜まりの水が干からびたり危険が迫ったりすると、水から飛び出して岩の上を飛び跳ねて別の潮溜まりへ移動することができる。
ヨダレカケは産卵のときは満潮時だけ水面下になるような岩場の隙間を選んで狭い空間の天井や床に卵を産みつけ、孵化するまで雄が卵を守り続ける。孵化した稚魚はおよそ1ヶ月半水中生活するが、それ以後は陸にあがって生活する。ヨダレカケの呼吸は小さな潮溜まりに入って水から鰓を使って呼吸することと、皮膚呼吸をしている。そのため、しばしば身体を岩にこすりつけて古い皮膚を剥がしている。
ヨダレカケが水中から陸上へ上がったのは、波打ち際の水中には天敵や競争相手が多かったことに比べて、水の外の陸上では天敵や競争相手がいなかった。さらに、波が打ち寄せる岩の上は日光を充分に浴びて食料にする藻が豊富に存在したことと考えられている。
一方、南アメリカ中央部のパンタナールに生息するネズミの仲間のカピバラは、陸上で草を食べて生活するが水中生活にも適応している。5分ぐらいならば水の中に潜り続けることも可能である。彼らは天敵である肉食動物のジャガーやアナコンダなどから身を守るために水中に適応したとされている。さらに、食事以上に危険を伴う交尾や出産も水の中で行なう。
同様に、アフリカ中部に源を発するコンゴ川は、途中にアフリカ大地溝帯によってできた深さ1千m以上のタンガニーカ湖ともつながっていて、西アフリカから大西洋に注いでいる。途中の川底からは温泉も噴出して地殻変動の影響を受けた川である。熱帯雨林の原生林の中を通過するこの川は生物の種類が豊富で、ここには雨季や乾季の影響を受けて進化した魚も生息する。
たとえば、乾季になると土の中に潜って冬眠状態となり、雨季になると土の中から出て水中生活をする肺魚を始めとして、水中生活に空き足らず川から這いだして陸上の草の上を蛇のように身体をくねらせながら移動するナマズの仲間までいる。
極めつけのミズマメジカは小型の鹿の容姿であり陸上生活するが、水場の近くで生活していて天敵の危険に晒されると水の中に入って危険を回避する。さらに、単に水中に逃げ込むだけではなく水底を歩いて移動することや、水中を泳ぎまわることのみならず、水に潜って魚を捕らえることまでできる。一回に潜り続ける時間はおよそ4分間である。イギリス・ウェールズ地方のヒツジは水中に入ることまではしなかったが、ヒツジに近似の鹿の仲間のミズマメジカは、水中にも対応できていることになる。これらから、陸上生活の動物と水中生活の魚の分類は、もはや分類の範疇ではなくなっているのではないだろうか。
ストレスとホルモン
生物の体内には多くのホルモンが分泌されていて体調をコントロールしている。このホルモン分泌を促すものにストレスが関与する。今日ではストレスは悪の代名詞のようにいわれるが、本来のストレスとは、同じストレスでありながら生物にとってはなくてはならないものとされている。
通常、ストレスによって生体内のホルモンは微妙な変化をし、これによって植物は葉を茂らせたり花を咲かせたりするし、動物は目を覚ましたり喜んだりする。これは自律制御といわれるもので、ここまでは通常のストレスである。しかし、通常ではないストレスがかかったとき、生体内にはそれまで以上の多量のホルモンや、通常とは異なるホルモンが分泌される。それらは耐えられないような自然環境の変化によるストレスや、捕食者による死の恐怖のストレス、さらには自意識の絶頂によるストレスなどによってホルモンの量や種類が変化するとされる。
通常、ホルモンは生物の生体内を安定的に維持するものである。このことは自然環境であれ生活環境であれ環境が変化するとき、それまで以上のホルモンを分泌することになる。このようなときホルモンによっては婚姻色のように形質の変異にまで影響を及ぼすものもある。進化の変異の中にはこのようなホルモンの分泌が関与すると推測できるものを、ここでは「ホルモン条件」とする。
自然環境の変化によるストレスには、温度や湿度そして大気中の酸素や二酸化炭素などの濃度、水中のミネラルの濃度など、通常のときとは条件が変わったときをいう。多くの生物は四季の変化も環境の変化と捉えるが、これを通常の変化と捉える生物と、通常外と捉える生物とがあり、それは生活領域の違いや生物種の違いによって異なる。
次に生活環境の変化では同種生物と異種生物によるものがある。同種生物はその相手の性によって生殖相手であり、性行動のライバルでもある。自らの子孫を残すためのストレスには大きなものがある。一方、異種生物はその相手によってときには捕食者であり、ときには被食者になるもので、中でも捕食者による死の恐怖のストレスがあり、これは食物連鎖の中で生きる生物総てについて廻るものである。
食物連鎖では如何なる生物も捕食者が存在するシステムになっている。そのため、動物は言うに及ばず、植物でも死の恐怖を感じていることになる。その結果、生物は死から逃れる対策を講じることになる。一方、自意識絶頂のストレスは大きな環境の変化や死の恐怖がないときでも、生物が自ら強い欲求を生じるとき発生するものとしている。
ホルモンと表現形態
生物は自らの子孫をできる限り数多く残したいとしている。しかし、動物の発情期はその多くが1年の内の数日間である。それは子孫を育てるだけの環境が整うことが前提となる。たとえ子孫を作ったとしても、成長させることができる気温を始めとする自然環境が必要であるし、誕生した子供を成長させることが可能な餌の確保である生活環境が整うことが必要である。
このような自然環境や生活環境を認識したうえで最適の時期を設定し、逆算して交尾をする。ここで野鳥について考えてみたい。彼らも自らの子孫を残すために気候と餌を考え、逆算して最良の時期を発情期とすることになる。たとえば、日本が位置する温帯や亜寒帯では、雛の成育に支障をきたさない気温であることと、誕生した雛に与える餌が豊富にあることの両方の条件が整う春から初夏にかけて最適とされ、多くの野鳥が繁殖期としている。
これに対して、熱帯雨林では一年中気候に恵まれる。同時に、食料の果実や昆虫は一年中得ることが可能で、繁殖期を逆算して限定する必要がない。これによって年に一回ではなく複数回の子供を産むことも可能となる。このことは自らの子孫を増やすのに最適の条件である。このため、一年の数日だけに限定されていた発情期は限定枠が取り除かれることになる。野鳥の雄に見られる婚姻色を表現する種は一年に何度も表示することになり、いつしか一年中婚姻色で過ごすことになると推測することができる。
しかし、実際にはこれについては方向が逆と考えるべきことかもしれない。多くの生物は熱帯雨林などの環境の整った領域で誕生し、活発に一年中繁殖活動を継続してきたことで、雌雄の違いが浮き彫りになるような姿かたちに変異したとされるもので、これがホルモンによる婚姻色の一つであろう。その後、他の地域に拡散すると、自然環境や生活環境は熱帯雨林ほどの条件が整ってはいないため、繁殖に適した時期は限定的になる。これに伴って新たな婚姻色の必要性がなくなる。
このような婚姻色は野鳥に限ったことではなく、鮭やウグイを初めとする魚の雄は雌の産卵期に合わせて身体の色が変わる。これは生殖ホルモンの分泌による。一方、雷鳥は夏と冬とで羽の色を褐色と白色に切り替えることができるが、これもホルモンの変化によるものとされている。一方、オコゼの仲間のハダカハオコゼは姿かたちは同じであるが、身体の表面全体の色は個体によって赤であったり黄,緑,黒のように異なった体色を備えている。これらもホルモンの分泌によって変異したものとされている。
同様に、魚のプラティーフィッシュに性ホルモンのテストステロンを注射すると、雄の尾鰭に剣が伸びてくる。これと同様のことを野鳥で見ることができる。琴鳥を始めとするフウチョーでは雄の尾羽に特徴のある飾り羽を見ることができ、彼らは雌を獲得するプロポーズに際してダンスをするとき、この飾り羽を利用する。
一方、アマゴは渓流で生活する川魚で、成育の良いものは生涯渓流で生活するが生育の悪かった一部は海に下る。そして、繁殖期に海から戻ってきたものはサツキマスと呼ばれ、川で生活していたアマゴと比べると体重で数倍(5〜10倍)の大きさになっている。川に比べて海は食料が豊富といわれる。そうであるとすると川で生活するアマゴに充分な食料を与えると同じようになるのか。しかし、現実にはこれほど大きくはなれない。川で生活するはずのアマゴが海の環境に入ったことで、体内にはそれまで休んでいたホルモンが活発になり、生育を助けたと推測することができる。
同様に、蜜蜂の女王蜂は働き蜂の体重の3倍で、寿命は働き蜂が1ヶ月であるのに対して女王蜂の寿命は50倍の4年以上である。同じ卵から生まれた幼虫にローヤルゼリーを与えることで通常の働き蜂とは異なったホルモンが作用するとされている。
性転換
野鳥の婚姻色に表現されるようなホルモンの分泌は、熱帯雨林に限定されるものではない。熱帯雨林と類似の環境に熱帯や亜熱帯海域のサンゴ礁がこれに相当する。大洋で生活する魚類にとって海域によっては餌が豊富にあるが、捕食者から身を守ることには適してはいない。これに比べて、サンゴ礁の環境は陸上の熱帯雨林と同様に自然と生活の両方の環境が整っている。
特に環境が複雑なサンゴ礁は、捕食者からの攻撃に対して身を守るのに最適である。大洋を回遊する魚が捕食者から逃れるために速く泳げる必要があるのに対して、サンゴ礁では速く泳げない魚でも安心して生活することができる。このようなサンゴ礁では子孫を残す繁殖も多種多様になる。
サンゴ礁に生息する魚の中には、一匹の雄に複数の雌が群れを作る一夫多妻性の種がいるし、逆に、一妻多夫性の種がいる。ここまでは他の動物とたいした違いはない。ゾウアザラシのように一頭の雄がハーレムをつくって複数の雌(数十から百頭)が取り囲んでいるのとたいして変わりがない。ゾウアザラシのハーレムでは雄の座を狙って、ハーレムを持たない雄が縄張りを乗っ取るために攻撃を仕掛けたりする。これに対して、魚では大きく異なっている。
魚の中には性転換をする種があり、その種数は魚全体の数%になるとされている。性転換には雄から雌に変わる雄性先熟と、雌から雄に変わる雌性先熟とがある。雄性先熟にはクマノミがいる。クマノミは一匹の雌と数匹の雄が生活し、雌が死ぬと雄の中からもっとも身体の大きなものが雌に性転換する。産んだ卵の世話は雄がする。一方、雌性先熟はベラの仲間に多い。カザリキューセンやホンソメワケベラはその代表で、ハナダイもこの雌性先熟である。
ホンソメワケベラは一匹の雄と数匹の雌が一緒に生活する。雄が死ぬと雌の中からもっとも大きいものが雄に性転換する。性転換の際、それまでの雌の能力を中止して雄の能力が備わるのに2〜3週間を要す。その間雄の能力が備わっていない間も疑似の性行動を続ける。そうしないと縄張りの雌は他の縄張りに行ってしまうためである。
これらの性転換は生活の中で自らを変異させる術を備えている。彼らは雄が生きていたそれまでの環境を認識できていて、次に雄が死んだか捕食されたことによる環境の変化を認識したうえで同じ仲間の中で自らが雄に最適と判断し、自らの意思によって性ホルモンを制御して性転換することができる。もちろん、自ら雄に最適と判断しなかった他の雌たちは以前と同じ雌のホルモンを継続する。
一方、そこまではできない人でも、薬品としての性ホルモンを体内に注入すると女性のひげが濃くなったり、男性の胸が膨らんだりする。人にはホンソメワケベラやハナダイのように自らの意思によって性ホルモンを体内でコントロールすることはできないが、生物の中には自らの意思によってストレスをかけ、必要なホルモンを分泌することで容易に性転換が可能な種が存在する。
最近では人でも性転換がされるようになってきたが、それらは形態的なものであって、ホンソメワケベラやハナダイのように性転換後の生殖能力が備わるまでには至っていない。これらの性転換は、これによって生物種が変化するのではないから進化といわれるものではない。しかし、このような変異が自らの意思で可能であることは、婚姻色のように体色の一部を変異させることのみならず、身体の形質を変えることや体内の機能までもが自意識によって変えられることを意味しているであろう。
そして、このような性転換をできることは、自らの意思と目的とによって変異が可能であることを意味している。これが自然環境や生活環境に合わせた適応進化といわれる変異と何処が違うのだろうか。違うところは何もない。どちらも環境を認識して環境の変化に対応したものである。このことは遺伝子のエラーではないであろう。このことは進化の変異もこの延長線上にあるのではないだろうか。
環境ホルモンと生体ホルモン
昨今問題視されている環境ホルモンによって、ワニのペニスが縮小していることが報道されている。動物の体内を刺激する人工化学物質が取り込まれることで体内のホルモンにアンバランスが生じ、それまでと同じように生育できないことを示している。
現在数千種あるとされる人工化学物質が問題にされているのは、この人工化学物質によって生体の特定の部位に変化が発生する。たとえば、上記の如くある種の人工化学物質は生殖器に作用する。しかし、この人工化学物質がオールマイティーであったとしたらどうであろうか。生体の特定の部位ではなく生物にとってそのときもっともストレスの強い部位に作用するとしたら、さらには作用の条件に生物の意思を関与させることができたとしたら、進化の変異は生物の意思に基づくものとなり得る。
生物の生体にはさまざまな種類のホルモンがあり、それらのホルモンはオールマイティーではなく特定の部位に対してのみ作用している。逆に考えると、生物が正常に生きられることは、さまざまな部位の数に相当するだけのホルモンが用意されていて、それぞれのホルモンが分泌されたとき、そのホルモンに影響を受ける部位が作用することになる。
すなわち、オールマイティーのホルモンが存在することはないが、それに匹敵するだけの数多くのホルモンが備わっていて、必要に応じて使い分けられているということは、オールマイティーのホルモンが存在することと同じ条件になる。何を言いたいか。ストレスに対して自らの意思によって適時適切にホルモンを分泌し、意思によって制御することも可能であることを意味するものではないだろうか。それは魚が環境の変化を認識して、自らの意思によって性転換するように。
コウモリの皮膜
これまでの進化論は目的のない突然変異がランダムに発生し、それらの中から環境に適応したものだけが自然選択によって選ばれるとされていた。そのため、従来論では変異について生物の意思が関与する余地はなかった。しかし、上記に示した環境条件やホルモン条件のように、生物の意思なくして語ることができない生態を数多く見ることができる。ここに述べる「欲求条件」はそのことを如実に表しているといえる。
欲求条件とは「ああなりたい,こうなりたい」と思う強い欲求が働くことで、形態的変異にまでつながるものを意味している。たとえば、海中動物が陸上に上がることを希望することや、陸上歩行動物が空中を飛行することを希望することも欲求である。逆に、陸上動物が何らかの理由によって再び海中生活を希望することも欲求の一つである。
しかし、これらは単に移動すればよいのではない。水中から陸上への移行では水がなくても生きられる身体に作り変える必要があるし、浮力によって打ち消されていた体重が、陸上に上がることで重力として身体にかかっても生活に支障をきたさない構造にする必要がある。同様に、陸上歩行から空中を飛行することは、物理的に飛翔能力を備える構造が必要である。これらは何れも目的のない遺伝子のエラーによって生じるような都合の良いものは存在しない。このように何かを意図した生物は、自ら希望する目的に適う変異を創造して促すと推測する。
進化の変異に目的がなく突然変異の累積と地質年代を要すとき、そのプロセスの各世代の個体にとって僅かな変異があったとしてもそれには目的はなく、変異途中の機能を満足できない形質で機能の最終形態を予測することは困難である。
今日では、人の歩行と同じようにロボットの二足歩行が可能になっているが、つい最近までロボットの二足歩行は困難であった。これは物理的に二本の足をつけて動力によって動かすだけでは二足歩行はできず、体重移動を始めとして多くの技術が必要であった。これはロボットに限定するものではない。生物に備わる膨大な種類の機能は、物理的変異だけで新たな機能が備わるのではないことを示すものである。
従来論のように遺伝子のエラーによって形質が変異したことで、さまざまな機能が備わるであろうか。たとえば、コウモリが遺伝子のエラーによって翼の形質を備えたとしても、翼を上下に振るだけでは飛翔にはつながらない。私たちは翼や羽は飛翔するものという前提で話をするが、物理的に備わったからといって飛べるものではない。
飛翔するには空気を抱き込み下に打ちおろすことと、逆に空気抵抗を最小限に引き上げる必要があり、これらの技術が伴ったとき揚力や推進力が働き、翼としての機能が備わることになる。そして、このような技術や知恵は遺伝子が関与しないとされている。このことは単に遺伝子のエラーによって翼と類似のものができて上下に振ったとしても、上下の空気抵抗が同じであると飛翔にはつながらない。すなわち、物理的に形質が備わるだけでは機能にはならず、そこに技術や知恵が備わって初めて翼の機能になる。
さらに、突然変異の説明では、一度に翼の形質が備わるのではなく、飛翔に値しない小さな変異の累積とされている。今よりも小さく飛翔に値しない皮膜で、それまで空中を飛翔したことのない哺乳動物のコウモリが、小さな皮膜から飛翔という発想に行き着くであろうか。なぜなら、動物が備える皮膜には、水鳥の足の皮膜は水かきとして使われることから、皮膜は飛翔を前提にしたものではない。そして、遺伝子のエラーに目的はないとされることから、たとえエラーによって形質の一部が変異したとしても、飛翔には程遠い小さな皮膜によって飛翔という発想につなげることはさらに困難であろう。なぜなら、そこに思考は関与しないとされている。
さらに、進化の変異は地質年代を要すとされることから、長い歳月に渡って小さな皮膜で飛翔に値しないとき、中間段階のプロセスに位置するコウモリにとって皮膜が何の意味をするか、皮膜の利用方法さえ理解し得るものではない。むしろその皮膜は日常生活の邪魔になるから取り除きたいと考えるではないだろうか。
これまでの進化では、ヒト以前から存在するコウモリは、皮膜によって飛翔するものとして決めてかかり、結果からの逆推理によって判断しているから、コウモリの皮膜は飛翔に使うことを前提にしているが、コウモリの意思とは関係なく遺伝子のエラーが発生したとしても、初期段階でその変異が機能を満足するだけのものでないとき、コウモリが皮膜の最終的な形態と機能を予測して利用方法を考えることは困難であろう。
それとは反対に、鳥類の飛ぶ姿を見て自ら飛翔することを欲求とするときは、新たに皮膜に類似するものが多少でもできたなら、飛翔に利用しようとして無理に引っ張ってでも皮膜を作ろうとするのであろうし、羽ばたきの練習をするであろう。たとえば、水泳の選手が推進力強化のために指の間の皮を引き伸ばし、僅かでも指の間に蛙の水かきのような皮膜を作りたいと願うように。
それぞれの生物が膨大な機能を備えることは、エラーによって物理的形質が備わったというのではなく、生物自らが欲求から導き出そうと思考し、知的創造した結果の一つが知恵であり、技術であり、形質になるであろう。そのため、このことは翼や羽に限定するものではなく、歩行のための足の機能を始めとしてさまざまな臓器の機能まで、総ての機能が遺伝子のエラーから始まるのではなく、思考による知的創造から始まると考えるべきではないだろうか。
一方、大洋で大型魚が小魚を捕獲するときどのようにするか。一般的には水中から水面に向かって追い込むことで、水面に達した小魚は逃げ場を失って容易に捕獲できる。このような状況に遭遇したとき、トビウオは捕食者から追われ必死に逃げ回っているとき海面上から飛び出しているのに気がつき、それによって捕食者から逃れられたとき何を考えるであろうか。
次に危険が迫ったときには再び海面から飛び出すことで危険が回避できると考えるであろう。そのためには確実に逃げられるよう胸鰭を大きくするよう意図するであろうし、自ら促すであろう。しかし、胸鰭の大きな魚はトビウオに限るものではなくカサゴなどもいる。カサゴは大きな胸鰭を海面から飛び出して空中を飛翔するために使用してはいない。むしろ大きな胸鰭を広げることで生殖相手にアピールする目的で使用されている。
一方、胸鰭の使い方には水中を泳ぐことや海面上を飛翔するだけではない。オーストラリアの海で生活するスポッテッドハンドフィッシュは胸鰭や腹鰭を足の如く発達させて海底を歩くように移動する。泳ぐような速さを求めない魚の中には、自らの求めるスピードにマッチした形態を創造すると考えることができる。これも遺伝子がエラーしたから足のように使うのではなく、目的にあわせて使用しているに過ぎないであろう。なぜなら、遺伝子は形質を示すもので技術や知恵には関与できないとされている。
観察と思考による変異
チョウチンアンコウは自らの大きな口の中にある小さな肉片を餌と間違えた小魚が入り込んだとしても、それだけでは単なる小魚の間違いで一過性のできごとである。それを観察して学習することで自分の身体の一部をさらに変異させ、それまで以上に小魚が間違い易い形状にして、生きた餌に似せた微妙な動きを加える。
これらは単なる偶然による突然変異ではなく、より積極的に考えて自ら変異を促している。小魚の最初の間違いは偶然であったとしても、その偶然をきっかけに思考することで小魚が餌とするものがどのようなものかを知り、それに肉片の形状を似させること、さらには餌が生きているように見させる動きを加えることで、さらに小魚を引きつけることができると考えたであろう。
これによってあちらこちらへ餌を求めて移動することよりは、居乍らにして餌を得ることを目的としたのであろう。もしも、チョウチンアンコウが自らの意思で考えることがなかったとしたら、今日のように海底に居乍らにして餌を確保することはできずに、餌を求めて積極的に移動しなければならない状況を想像するのに難しくはない。
チョウチンアンコウと同じ発想にエスカーと呼ばれるイザリウオがいる。このエスカーは口の前に疑似餌をぶら下げて微妙に動かすことで近づいた小魚を捕食している。チョウチンアンコウやエスカーは海水中の魚類であるが、同様の生態を備えたものに淡水中の爬虫類であるワニガメがいる。ワニガメの口の中にも同様のミミズに似た疑似餌があり、ワニガメの意思によって生餌のように動かすことができる。
擬態
チョウチンアンコウと同様に、個体の意思なくして姿かたちが変異できないものがある。進化の中で高度な進化をしたものに擬態がある。擬態の多くは昆虫を始めとする小型動物に見ることができる。彼らの多くは常に捕食者から狙われる存在で命を守ることは自らの意思であり、あらゆる手段を考える必要があった。通常、進化の過程では類似の姿かたちのものは近似の種に属するものとされているが、この擬態では全くの異種でありながら瓜二つの姿かたちのものが存在するのである。
昆虫が別の種の昆虫に姿かたちを似させることはまだしも、昆虫でありながら植物の葉や花に姿かたちを似させることまでもする。このような擬態については長い時間を要したからといって変われるものではない。ましてや環境との相互作用や一連の化学反応だけで異種生物と同じ姿かたちになるとする整合性はない。
擬態は昆虫の一個体が廻りの環境を認識して対象物である昆虫や植物を観察することは写真の如く、植物の葉が虫に食われて破れた形は言うに及ばず、葉脈の細かい線の曲がり具合まで写し取る技は究極のバイオテクノロジーに相当する。しかし、単純に身の回りに存在する生物に似るというものではない。
従来論では変異は偶然であることから、変異に目的は存在しなかった。そのため、何処か一部でもそれ以前と形質が異なると進化したと見なされていた。しかし、擬態では毒を備えた蜂とか、危険なものに似たものである。これを従来論では、突然変異によって擬態動物が誕生したが、毒を持つものや危険な対象物の真似をしたものだけが生き残り、そうでない擬態動物は捕食され自然淘汰されたとしている。もしも、擬態がそのようなものであったならば昆虫の種類はここまで多種多様にはならなかったであろう。
擬態に限らず昆虫がこのように変異することは、自らの身の危険を少しでも減らそうとするもので、自意識に基づいて変異対象を特定したうえで変異が行なわれなければ、このような類似の姿かたちになることはできないであろう。このことは擬態の変異を語るものであるが、同時に、擬態以外の通常の変異についても同様である。
このことから、生物が変異するのは僅かな変異であっても、突然変異によって変異するものではないことを意味するもので、進化の変異はその生物が意図した目的になることである。だから環境との相互作用や一連の化学反応だけではできないし、目的のない遺伝子のエラーではなおさらである。擬態についてはこの後詳しく述べる。
フェネストラリア
生物の欲求は動物だけではない。動物は自らの欲求する環境に自力で移動することができるが、植物は自力移動の手段を持たない。そのため、環境の変化は植物にとって自らを変える必要に迫られることになる。そのときの変異は環境の変化によって生じたストレスを回避することのみならず、より快適に生活するための欲求であり、当然その欲求は植物の意思による欲求に他ならない。
植物の葉や花の姿かたちが千差万別であることのみならず、花の色やその色の模様の組み合わせ、さらには香りまでもが様々である。これはそれぞれの種類の植物が環境を知り、その中で生きる目的として自らを変異させようと考えながら世代交代を経過した後でその方向に近づいているもので、植物の意思とは関係のない突然変異ではなく、自らの意思による目的のある変異と考えている。
四季の変化で葉を落すのはその代表例である。しかし、植物の優れたのはこれだけではない。ユーカリの葉は毒素を保有して捕食者から身を守るし、カラタチは枝に刺を保持することを考えた。サボテンは葉から水分の蒸散を防ぐために表面積の広い葉を針形状に変異したとされるものであるが、カラタチには葉が存在しながら棘も備えている。カラタチの刺はユーカリの毒素と同じように自らの枝葉を守るため以外に他の理由があるだろうか。
一方、東アフリカ・ケニア山に生息するキク科の高山植物ジャイアント・セネシオは、茎の成長点の部分を夜間の凍結から守るために、不凍液を備える仕組みになっている。さらに、茎の中を空洞にすることで日中の暖かい空気を溜め込む。同時に、枯れた葉は落さずに茎の廻りに厚く残して断熱材として夜間の寒さから守っている。
これとは別に、南アフリカ・ナマクワランドに生息する松葉ボタンの仲間は、様々な進化をしている。水の少ない砂漠で生きるために、サボテン以上に水分の蒸散を極限まで抑えることに進化の勢力を注ぎ込んでいる。多くの植物は背丈を短くして茎や葉を貯水用にするが、それでも茎や葉を大気中にさらすことは水分を確保するうえでマイナスと考えた植物がある。
フェネストラリアは全体を地中に埋めることで表面からの蒸散を防ぐ方法としたが、逆に、これでは光合成ができなくなる。そこでフェネストラリアは葉と茎を一体化したものを細長い逆円錐形(ソフトクリームのコーンの形)にして逆円錐の丸い上面部分を地表面に出し、その他のテーパー部分は地中に隠した。フェネストラリアは身体の大部分を地中に埋めることで蒸散を免れた。一方、光合成は逆円錐の丸い上面部分を地表から出すことと、この部分をレンズ構造にすることで地中に隠れた葉の奥まで光を通して光合成を可能にしている。
人がレンズを作るようになったのは16世紀ごろとされているが、フェネストラリアはヒトより遥か以前から、レンズの機構によって光を収束させることができることを認識し、実施利用してきたことになる。
ここでは思考や知性を感じさせる動物のいくつかを示すことにする。中でも下等動物に属するものや脳が存在しないとされる動物でも、思考や知性を推測させるような例えを示したい。そして、その延長線上に動物の変化や変異を推測することができ、変異の源が遺伝子のエラーではないことを示したい。
知的条件とは
ここで示す「知的条件」とは、欲求条件と類似であるが形態的変異だけではなく知恵などに関するものである。形態的変異の欲求条件を技術のハードとみなすと、この知的条件はソフトとみなすことができる。従来では姿かたちや色による外観の相違について進化の変異としてきたもので、物理的に眼に見えるものとして表れないものは進化の対象として扱われることはなかった。
しかし、俗にいわれるヒトの進化で見られるように、進化を形態だけで論じることは適切ではないと考える。なぜならば、形態進化であれ無形態の知的条件の何れであっても、生物であるそれぞれの個体が思考によって創造するものといえる。さらに、形態進化を裏づけるものが無形態の知的条件に他ならないと考えている。それゆえ、ここでは従来進化に属さなかった知恵などのソフトが生物進化に重要な要素と考える。
従来の変異は突然変異によるもので、複数の変異のそれぞれに相互関係がないとされてきた。なぜなら、それぞれの変異に目的がないからである。しかし、数多くの変異は表に現れる形質とは別に、変異の陰には複数の要素が密接に関係して、一つの変異を形成しているとみなすものが数多く存在する。このようなことは従来の目的のない突然変異では説明が困難である。
これまで環境が関与するのは変異した後の自然淘汰であるが、実際の変異では、まず生物が環境の変化を認識し、これによって受けるストレスを解消もしくは緩和しようと思考する。この思考によって知的手段でストレスが解消や緩和ができれば変異する必要はない。もしも、知的手段でストレスが解消や緩和ができないとき、新たな機能や形質を知的創造する。すなわち、環境変化を認識したうえでの自らの制御の一つと考えられる。
そこには変異に対する目的は明らかで、その目的を達成するための思考や知的創造とみなすことができる。そこでは従来の進化とされる形質の変異のみならず、形質を変異させることなく知恵だけで対処することも少なくない。従来の進化論では、人による知的創造に匹敵する以上のものをエラーとして済ませてきたのではないだろうか。
切磋琢磨を知る
進化の変異は初めに変異ありきではなく、生物が自然環境や生活環境を認識して対処することのみならず、生物固有の特徴を示す機能には、その機能を備える目的やその機能を備えるまでの切磋琢磨を強く感じさせるものがある。ここまでくると単なる変異とするのではなく、思考や知的創造が深く関与したものと推測せざるを得ない。
これらは一過性の目的のない突然変異ではない。なぜならば、そこには形質として変異をするものと、形質は変異させずに思考や知性だけで処理するものと、それらの両方が関係したものが混在している。ここではこのようなことを知的条件とするもので、従来のように変異の本質をエラーとするのではなく、変異の本質が何処にあるかを知るためのものとする。
これまでヒトや哺乳動物の高等動物では思考はできるとしても、下等動物や無脳生物では思考や知性は存在しないとされてきたのではないだろうか。ここでは特に環境の認識とそれに伴う自らの制御、そして、機能や形質を備える目的を意図したもの、さらにはそれら機能や形質を備えるプロセスで切磋琢磨を認識させるような生物を紹介する。これらを文化とするならば、文化によって進化を考える。
カラス芋虫を釣る
人の思考能力,知性,文化が語られるとき、必ず引用されるものが道具の使用である。道具では初期のヒトが石器を使ったことが文化の象徴とされている。そこでヒトのように石を使って固い木の実を割るチンパンジーは、知能や文化がヒトに近い動物とされている。しかし、同じ目的で石を使用するのはチンパンジーだけではない。
南米に生息する猛禽類の中には動物の肉を食べた後、骨の中の骨髄を食べるものがいる。そのとき骨を割る必要があるが、猛禽類の嘴をしても骨を割ることができない。このときこの鳥は足で骨を掴んで上空に舞いあがり、地上の大きな岩の上空に達すると掴んでいた骨を離す。骨は落下して岩に直撃して破壊し、中の骨髄を食べることができる。上手く割れないときは何回かこれを繰り返す。
同様のことは他の鳥でも見ることができる。固い殻の木の実を割るのに上から落として地上の石に当てるが、確実に石に当てるための工夫がある。石の真上で木の枝が二股になったところを目印にして必ずその位置から落とす。彼らは草や土の上に落ちると無駄になることを知っている。
一方、ラッコは貝を割るのに石や別の貝を使って叩き割っている。このような動物には思考能力があるとされている。これに比べると魚はそれほどの能力を備えていないとされている。そのような魚でも東南アジアの海では、貝を口に咥えて砂の海底に点在する石に叩きつけて割る魚がいる。そのとき魚は身をねじりスナップを利かせて貝を石に叩きつける。そのような石の周りには割れた貝殻がたくさん散らばっている。これまでいわれてきた文化とはヒトを前提にしたもので、ヒトと似ていると文化を備えた動物と評価しているのではないだろうか。
道具は石だけではなく石以外の道具もある。有名なものでは細い木の枝や草の茎を使って道具とする。チンパンジーやゴリラの一部では、この細い枝や草を使って木の穴に差し込みアリを釣る。同様に、一部のカラスは倒木の中にいる昆虫の幼虫の芋虫を釣り上げる。このとき木の枝の細い部分を嘴で加工して最適の道具として使用する。
これらの石や木の枝を使用することを文化とするならば、これらは人が知ることのできた一部で、これら以外に人が認識できていない数多くの文化が存在していると推測するのに難しくない。すなわち、真の文化とは道具のように形に見えるものに限定するのではなく、そのときの状況を認識して思考することで如何なる知的創造ができるかではないだろうか。
ヨシゴイは忍者
思考や知性の優れたことを表現するのに、進化という言葉を使用することもあるが、本来、進化は遺伝子の変異が伴うものとされている。進化の中で優れたものに擬態や保護色がある。これは他の生物に姿かたちを似させるために形質を変異させるもので、遺伝子の一部が変化するものとされる。
一方、これに属さない生物もいる。動物の中には遺伝子を変えることなく思考や知恵だけで対処するものがいる。これは形質として変えるものは何一つなく、その意味からすると変異ではない。しかし、これが生物の意思をこのうえなく表現している。これは身体のポーズを変えることだけで、自らの姿かたちを環境に融合させる。これはヨシゴイやヨタカの一部に見ることができる。
葦原で生活するヨシゴイは、上空に捕食者である猛禽類の存在を確認すると嘴を天に向けて首を伸ばし、身体全体を細長くして葦の茂みに溶け込むポーズをとって静止する。羽の色は元々葦の褐色に似ていることから、葦の茂みにカムフラージュするためにポーズをとる。眼は大きく見開いて上空を睨んでいるが、鳥らしき姿を確認することは極めて困難である。これにより捕食者から身の安全を守っている。
一方、南米に生息するヨタカの中には、ヨシゴイと同様の行動をするものがいる。ヨタカは名前の通り夜行性の鳥で日中は眠る。しかし、そのときのポーズは枯れ木の一部になりきっていて見分けがつかない。ヨタカの羽の色は枯れ木に似ていて、そのときのポーズは折れた枝の一部にしか見えない。ヨシゴイやヨタカは等身大の鏡を持ち歩いてはいない。しかし、彼らは鏡を使わなくても自らの姿がどのようになっているのか認識できている。
このことは彼らが自らの意思で擬態や保護色の変異を希望しても、それを可能とする術が備わっていないときでも身の危険を回避するため、このような行動に行き着いたと推測するもので、これは彼らの意思以外の何ものでもない。これは外観の姿勢を変えるだけで、形質として変異するものではないから進化の変異に属さない。しかし、このときのポーズには擬態と同等のものが備わっている。
上記は鳥類に関するものであるが、このようなことは鳥類に限定されるものではない。タコやイカも擬態の名人である。彼らの多くは岩やサンゴの隙間を生息領域とするものであり、多くは自らの体表の色彩や表面粗さを周囲の岩や砂に似させるものである。しかし、通称漂流ダコと呼ばれるムラサキダコは、海底ではなく海面近くを生活領域としている。海面近くを漂流するような移動ではクラゲのように捕食され易い。そこでこのタコの姿は中型魚のシーラにとても良く似た擬態行動をする。このタコも他の魚もシーラの強さを知っているので、シーラに似ることで危険を回避しているのであろう。そこでは明らかに目的が認識されていることになる。
シロチドリの偽傷
この区分に類似する知的な野鳥がいる。動物にとって通常時は捕食者から逃れる術は備えているものの、避けられないものに子育ての時期がある。通常時であれば捕食者に発見されても多くの場合は逃げることができるが、子育ての時期に捕食者に発見されることは、そのまま卵や雛の命を失うことにつながる。そのため、抱卵する野鳥の羽はその大部分が褐色の保護色になっている。と同時に、卵の色も鶏の白い色とは異なり保護色のものが多い。
野鳥の親鳥の中には巣の近くにキツネなどの捕食者が近づくと、卵や雛を見つけられる前に自らを目立たせる行動をするものがいる。特によく知られたものがシロチドリの擬傷である。これは羽を半開きに地を引きずるようにすることで、あたかも傷ついて飛べない鳥のようにして捕食者の前に現れる。これにより捕食者は捕獲し易い獲物として追いまわす。擬傷の親鳥は巣のある場所とは反対の方向に捕食者を誘導し、卵や雛が安全になったとき何もなかったように捕食者の目の前から飛び去る。カンガルーのように子供をお腹の袋に入れて逃げることのできない野鳥にとって、卵や雛を守るための知恵の一つである。
偽傷は動物行動の一つとされている。その行動は本能的なものとされているが、ここでは動物の思考による知的創造としている。もしも、動物に思考能力がなかったならば偽傷のような行動ができるであろうか。偽傷をする種としない種とでの遺伝子の違いはなかったとしても、それは遺伝子によるものではなく思考による知恵の表現ではないだろうか。すなわち、遺伝子や形質の変異がなくても思考によって知的行動ができることを意味している。だから進化とはいわないまでも極めて類似の内容で、それらを分離することは困難なものがある。
このことから、擬態は突然変異が初めにあるのではなく、思考プロセスの中で偽傷のように知恵と行動によって済ませることもあれば、自ら内分泌によって変異するものもあり、それらは思考結果によって変異を必要とするものと、変異を必要としないものとがある。これは保護色や擬態に限定するものではなく、通常の場合でも変異することなく知恵や行動だけで済ませることのできるものも数多い。言うなれば変異は思考後の手段の一つに過ぎないのではないだろうか。
イソギンチャク
これまで紹介した動物は下等動物に属するものでも、多少なりとも頭脳を備えていた。次に、頭脳を備えない動物について触れてみたい。イソギンチャクはヒトデやウニなどのように頭脳が存在しないとされる動物である。ヤドカリは成長に伴って貝殻を取り替える動物で、そのとき共生生活するイソギンチャクを古い貝から取り外して新しい貝に移し変える。
イソギンチャクのある種では、触手を始めとする従来の形質とは別に自ら固い物質を作り、身体の多くの部分を割いて貝殻形状を作るものが発見された。すなわち、貝殻形状とイソギンチャクの一体型である。これによってヤドカリの気まぐれでおいてきぼりにならずに優先的にヤドカリに運んでもらえる。このように自らの形態を変えることにより、安定した生活条件を確保することができる。このように頭脳がないといわれるイソギンチャクが、遺伝子のエラーによってこれほどまでに知的な考えができるであろうか。
ここからは推測で証明されたものではないが、このように考え実行できるイソギンチャクの目的を考えてみたい。ヤドカリは自らの成長に合わせてそれまでより大きな貝殻を探すが、イソギンチャクが模擬殻の形状を少しずつ大きく変えることができると、ヤドカリは大きくなっても宿を変えることなく住み着くことになる。一方、イソギンチャクにとって好みではないヤドカリに遭遇したとき、模擬殻を収縮することによりヤドカリを追い出すことが可能となる。
これは自力移動不可能なイソギンチャクが、自力移動可能なヤドカリから移動のイニシアチブを得ることができる。通常、ヤドカリの貝殻に乗っているだけのイソギンチャクとは異なり、自ら模擬殻を作ろうとする創造力があることは、その先まで読んでいると推測することができる。なぜここではこのような考えをするのか。ここには掲載できなかった数多くの動物に思考や知性を感じるとき、頭脳がないとされるイソギンチャクが自らの身体の多くの部分を割いてまで模擬殻を創造することは、たいした頭脳ではない私如きの考え以上の思考がなされているであろうと推測する。
ザトウクジラ
ヒトの進化について、ヒト誕生から頭蓋骨や体格が何割か大きくなったとしても、それはたいした問題ではない。ヒトが進化したとされるのは姿かたちよりヒトに付随する知恵ではないだろうか。同様に、超音波や地磁気を感知できる能力など骨格に違いが発生し難いものは化石の解析から見えるものは少ないし、化石の生物が生息していたときに身につけていた知性などは判読不能である。
たとえば、人がカツオを捕るときは糸に針をつけて釣り上げる。一方、イワシを捕るときには大きな網で囲い込んで捕獲する。それではザトウクジラの化石を見て餌のイワシをどのようにして捕獲するかは知る由もない。なぜなら、ザトウクジラは釣り糸や釣り針は持ってはいないし、イワシを囲い込む大きな網も持ってはいない。それでも餌のイワシを捕獲できているから生き残っている。
イワシは群れをつくって回遊している。ザトウクジラはイワシの群れを見つけると群れの下に潜り、群れを取り囲むように数頭で円陣を作ってゆっくり泳ぎながら頭の上から空気をだす。空気は小さな泡となって水面に向かって上昇して円筒状の泡のカーテンを作る。これによってイワシは泡のカーテンから抜けだすことができなくなる。
クジラは次第に円陣を小さくしながら上昇する。これによってイワシは海面近くで逃げ場を失う。後は大きな口を開けて海面上に浮上し一網打尽にする。これはバブルネット・フィーディングと呼ばれ、釣り針や大きな網を持たないザトウクジラが小さなイワシを大量に捕獲する知恵である。
このように化石や形態を見ただけではわからない形に表れない知恵が備わっているからザトウクジラは生き続けることができている。このことは同様に、他の動物もそれぞれが知恵を備えているから生き続けることができるのであろう。このように生物に備わった知的機能が進化の大切な要素で、ハード進化を支える要素でもある。従来論では生物の意思や思考を排除し、物理的形質のみを進化の変異としていることにある。しかし、進化においては生物の思考や知恵が関与していることを意味している。すなわち、進化によって生物が長い期間に渡って継代できるということは、ハードの形質というよりは、むしろ知恵によって生き残ってきたというべきではないだろうか。
擬態
擬態とは自らの姿かたちを異種生物と瓜二つの如く似させる。このとき擬態する動物には目的があると推測できる。擬態するとき目的対象生物を如何なる基準で決めるのか。毒を備えた動物や体液が不味くて捕食者から見向きもされない動物に自らの姿かたちを似させる。これにより自らは毒や不味い体液を備えなくても、捕食者から受ける攻撃を桁違いに減少させることができ、自らには有利性が備わる。
同様に、緑色の葉が茂る場所や茶色の枯葉が敷きつめられた場所では、緑の葉や枯葉に姿かたちを似させることは捕食者に見つけられ難いし、逆に、被食者に気づかれずに近づくことができる。一方、自らを警戒色で彩色して目立たせることで事前に危険回避するものまでいる。
これら擬態の多くは昆虫に見ることができるが、昆虫の他にはタツノオトシゴでも見ることができる。ルーフィーシードラゴンは海中の海藻が群生する中で生息するタツノオトシゴで、海藻の一部分が波の動きで揺れているのと何ら変わりがない。彼らの身体は姿かたちから色に至るまで海藻と瓜二つである。彼らが生息できる領域はこの海藻が茂る領域に限られる。彼らが海藻のない場所に行ったならば、彼らは海藻と見られずに捕食者の攻撃を受けることは必定である。一方、ピグミーシーホースは海藻ではなくサンゴに擬態する。このときのサンゴは赤い枝サンゴで形から色までそっくりで、このサンゴの領域にいる限り捕食者がこのピグミーシーホースをサンゴと見分けるのは至難の業である。
従来の考え方では、これらの擬態動物はめったやたらに変異したものの中から、自然選択によって選ばれさえすれば何でもよい。そして、その繰り返しと累積によって異種生物と姿かたちが似るとされている。しかし、ここでの考え方は、どのように変異するかの目的とする対象生物が事前に決まっていて、自らの意思によって目的対象生物に似させるとしている。
擬態がもっとも大切なことは、自らが決めた目的対象生物に似ることで有利性が得られることである。それゆえ、これによって目的対象生物に限りなく近似になったと自らが判断したとき変異は終了で、それ以上の変異は必要ではないし、変異してはならない。擬態が突然変異ならば、そこでは思考など必要としない。なぜなら、放っておいても間違いは起こるとしている。しかし、擬態に目的があり事前に変異の対象が決まるとなると、目的を決めるまでのプロセスに思考は必要不可欠となる。
保護色
擬態が特定生物個体に似ることや個体の一部に似させるのに対して、保護色の対象は一個体よりは自らを取り巻く環境に同化させることを目的としている。このため、目的対象は生物の植物や無生物の岩や砂である。多くが色彩であるが、中には素材の質感を表現するための凹凸まで似させるものがいる。
擬態は自らの身体を他の生物に類似の姿かたちに変えてしまう方法で、形質として備えたもので継代される。これに対して、保護色は体表の色彩を周期的に変えるものや、その都度変えることにより変化する環境に対応しようとするが、生涯に渡って色彩を変えることのない保護色もいる。これらの保護色によって捕食者からは身を守り、被食者には気づかれずに近づくことができ、擬態と同様の有利性が備わる。
体表の色彩を周期的に変えるものには雷鳥がいる。雷鳥は冬毛の白色と夏毛の褐色とが繰り返されて環境に同化することができる。これと同じことは一部の兎にも見ることができる。一方、自ら移動することで変わる環境にその都度体表の色彩を合わせようとするものには、カメレオンを始めとしてタコやイカに類似のものがいる。さらに、生涯に渡って体表を変えることはないが保護色といわれるものには、緑色植物の中で生活する昆虫や、鳥類の雌の多くは羽を褐色にしてこれに属する。
雷鳥やタコの体表の色彩が変化したことで進化したとはみなされないが、その変化は環境の変化を認識したもので、生物が自ら入手した外部情報を基にして変わるもので、突然変異といわれる類のものでないことは明らかである。このような生活をしている動物の行動範囲が狭くなることや、移動しても環境が変わらなくなるとき、その都度変化していた体色は変化することなく環境に順応できる。
たとえば、雷鳥や兎の一つの種が極地と熱帯とに生息域が分かれると、それまで周期的に変えていた体色は、以後、白色や褐色のままで変化する必要がなくなり、どちらか一方に固定し変色を停止する。これによって一種類が二種類となり進化の変異をしたとみなされるであろう。
鳥類の雌は抱卵のとき他から襲われることを防ぐため、抱卵場所の環境に溶け込めるよう自らの羽の色を環境に近似の褐色にしている。これは突然変異で発生したものが環境に適応でき、捕食され難かったことで生き残ったとされている。それならば多くの野鳥の雌だけが保護色になる都合の良い突然変異が、種の垣根を飛び越えて共通して発生することは、類似の羽であっても異なる種であるために有性生殖による遺伝子の組み合わせは生じていない。このような異なる種が類似する確率は天文学的数字で、変異の確率として適当ではない。これはそのような消極的なものではなく、もっと積極的に生き残るためにはどうあればよいかを考えて、自ら生きる方法として羽の色を変化させたとすべきではないだろうか。
彼らは日常生活の中で偶然身の回りの環境に溶け込んでいる鳥の姿を見ることで、その存在が識別し難いことを理解し、これは自分の安全にも利用できると考えて積極的に羽の色を変える方向に進んだと推測できる。一方、雄は自分の子孫を残すためにはより美しく,より強く見せるために、自分の羽の色を自らの意思で変えたと推測する。特に雄の場合には発情期のホルモンによる婚姻色により、鮮やかな色彩に変化したと推測できる。雌雄どちらも偶然や突然ではなく、彼らの意思が働いて変化したとすべきではないだろうか。
これとは反対にタマシギの雄は褐色の地味であり、雌は派手で美しい。タマシギは一羽の雌が数羽の雄と交尾して、雄はそれぞれの場所で交尾した雌が産んだ卵を温める。タマシギの営巣地は湿地が多く、巣が水浸しになると卵は孵化しない。そのため、さまざまな環境の巣を確保することで子孫を残したい願望から、雌は異なる場所にテリトリーを持つ雄と交尾して卵を産み落とし、その後の卵は交尾した雄が温めるものとされている。
通常、鳥は雄がディスプレイをしてプロポーズするが、タマシギでは通常とは反対に雌がプロポーズする。そして、プロポーズする方が美しい。通常の野鳥では雌が保護色に近似で、タマシギだけは雄が保護色に近似である。これは偶然というべきものではなく、鳥の意思によるものではないだろうか。一方、タマシギと同じように抱卵や雛を育てることをオスがする鳥にレンカクがいるが、レンカクは雌雄の違いは少ない。
工業暗化
この保護色に象徴的できごとが工業暗化である。蛾のオオシモフリエダシャクは、19世紀イギリス産業革命の時代のおよそ百年間に、羽の色が二回変わったとされるもので、これは自然淘汰によるものとされている。蛾の羽の色は初め白色系の灰色であった。しかし、産業革命で町全体が煤によって黒くなったとき、蛾は羽の色を黒色系の灰色に変異した。その後、環境が整備されて町から煤の色が消えると蛾の羽の色は再び白色系の灰色に戻ったとされている。
この解釈は二種類の色の蛾が存在して、町の色とは違う色の蛾は目立って鳥などの捕食者に捕食され易いことから、環境にマッチした色の蛾が数多く残る現象になったとされ、自然淘汰によって説明している。しかし、ここでの考え方による蛾の羽の色は、環境の変化を感じた蛾が自ら羽の色を変えたと推測している。
蛾は自らの姿が周りの環境に溶け込んでいるのか、それとも目立っているのか理解できていると推測する。人では自らの姿を知るためには等身大の鏡が必要だが、保護色のタコやイカを始めとしてヨシゴイやヨタカのように、等身大の鏡を持ち合わせていない動物でも自らの姿かたちを認識できている。それゆえ、保護色ができるし擬態ができる。多くの動物がそうであるように、蛾も目立ったから鳥に食われて目だ立たなくなると生き残れるのではなく、環境を認識すると同時に、自らの姿かたちも鏡に映すかの如く認識していたと推測すべきであろう。
擬態や保護色さらには生物の知性の高さを考えるとき、二種類の羽の色をした蛾は環境が変わったとき、互いに目だつ姿で捕食されることを待っていたとすべきではないであろう。自ら自力移動できる彼らは、生き残ることを前提に羽の色に最適の環境を捜し求めて移動したであろうし、自らの姿を変えようとしたであろう。
これまでの実験では、生物の意思や思考を考慮しないもので、単に明色と暗色の背景に明色と暗色の蛾を入れて捕食者の野鳥によってどれだけ捕食されるかである。これは蛾の変化を調べるものではなく、捕食者である野鳥の視力を調べるものである。
動物の中で自らの体表の色彩を変えるものには、タコやイカのように瞬時に変えるものと、雷鳥のように環境の季節に応じて変えるものがいる。さらには婚姻色のようにホルモン分泌によって変えるものや、生涯に渡って変えなくても保護色になっているものもいる。その体表がタコやイカのように自らの意思によって変化することが可能なとき、そして、雷鳥のように環境に合わせる能力があるとき、これらから類推できることは、蛾が自らの体色と環境との違いを雷鳥のように認識し、命の危険を感じてタコやイカのように変化しようとできても何の不思議もない。生物はそのようにしてこれまで生き残ってきた。
実験に際して、蛾が瞬時に体表の色彩を変化できなかったとしても、それは蛾にとって実験が火山噴火のような事故で、現実の工業化による暗化現象は実験のような瞬時のものではなく、およそ百年間に二回変わったことは、1度変わるのに半世紀もの長い期間に及んでいる。その間環境変化の推移は肉眼で識別するのが困難なもので、これは蛾にとって数百世代に及ぶもので大陸移動に相当するゆっくりとした変化となる。
このときの蛾はタコやイカのように急速に変化する必要はないし、急速に変化してはいけなかった。すなわち、蛾は環境の変化に合わせながら変化していったとしても何の問題もない。むしろ生物の多様性から多くの生物が生き残ってきた現実、中でも生物種の過半数を占める昆虫の生態から、自らの意思と目的によって変化したとすべきではないだろうか。
オオシモフリエダシャクには工業暗化以前から白色系の灰色と黒色系の灰色の二種類がいたのではないだろうか。日本で見られるブナの樹皮は1色ではなく白色系の灰色と黒色系の灰色が斑模様になっているのを観ることができる。このような樹木が19世紀のイギリスにあったかどうかはわからないが、当初、異なる2色の羽の個体がいたとすると、森や里山か公園などではブナのように一種類の樹木か複数種の樹木かは別としても、ブナの樹皮に類似の異なる色の環境が存在していたであろうし、オオシモフリエダシャクはそのような環境を認識したうえで異なった羽の色の個体が生活していたであろう。
そのような森や里山の一部が切り開かれて町に変化したとき、彼らはみすみす捕獲されるのではなく、捕食され難い最適な環境に同化する目的で生き残りの対処をしたであろう。逆に、自らが体色を変えることができないならば、煤煙ですすけた町にとどまるのではなく里山や森に戻ることができたはずである。
保護色になることは環境がどのようなものかを正確に認識できなくてはならない。さらに、その環境に合わせるには自らの内分泌として如何なる物質が何処を刺激したとき、どのような変異が起こるかを理解でき、実行できる能力を備える必要がある。保護色は環境によって色彩を変えるが、その都度変えるのではなく環境に合わせた変異を固定したものが擬態になる。
ミナミハナイカ
擬態や保護色にしばしば登場するタコやイカであるが、一時的に皮膚表面の色素を変えることや、皮膚表面に凹凸をつけたり滑らかにしたりすることができる。中でもコウイカの仲間は擬態の名人で、オーストラリアに生息するジャイアントカトルフィッシュは、自らの身体を環境に溶け込ませるために体表面の色彩を変えることや凹凸を変えることで、廻りの岩と容易に区別できない形態に瞬時に変化することができる。これは移動した環境に瞬時に対応するもので、自らの意思で必要に応じて変化できることを示し、環境認識と制御が一体になっていることを示している。
タコやイカの場合は日常生活の中で変化するもので、通常の生物が日常に際立った変化をすることは稀であって、大きな環境の変化でストレスが極限になったときに変異すると推測する。すなわち、タコの保護色は通常生物の変異の一部をハイスピードで見ている状況である。この擬態や保護色に類似のもので際立った機能を備えたものがミナミハナイカではないだろうか。
保護色や擬態に多くの動物がいるが、鳥類のメスのように褐色のまま変化しないものや、カメレオンや雷鳥のように色を変えることができるものがいる。中でもイカやタコは瞬時に変化した環境の岩や砂や海草に体色を変化させることができる。でも、これらとても岩や砂に合わせるもので、その状態を維持するもので静止画状態となる。
しかし、これらと異なるものがミナミハナイカである。このイカは体表の色彩を単に変えるだけではなく、シマウマのような縞模様を身体の一方から他方へ移動させることができる。これはネオンサインのように色が動くものである。これまでの保護色は写真のような静止画であったが、このイカはテレビ映像のような動画さえも可能である。彼らミナミハナイカは人間のようにテレビは作ることはできないが、肌色一色の人間とは異なり、身体の表面をテレビ映像の如くすることを可能にしている。このようなことは捕食者を驚かせることができ、捕食者に対する逆攻撃となり得るもので、保身のための効果は大きなものが推測できる。
オオカバマダラ蝶
今になって人が新たな技術を手にする度に思うことがある。川から海に出た鮭が数年後に生まれた川に戻って来ることや、渡り鳥が何千kmも道に迷うことなく飛行することは謎であった。鮭は川の水の臭いを覚えているといわれる。しかし、人がナビゲーションシステムを手にした今、魚や鳥の体内にはすでにナビゲーションシステムが組み込まれているのではないかと想像する。
これは想像の飛躍としても、これに類似することは超音波を始めとして数多く存在する。日本人が農耕を始めて食料の米作り栽培を始めたのは1万年から数千年前の縄文時代とされるが、葉切り蟻はそれ以前からキノコ栽培用の木の葉を集めてキノコを栽培して食料にするとされている。生物は自らの思考によって生活手段を考えている。
一方、オオカバマダラ蝶はアメリカ合衆国を縦断して飛行する蝶で、カナダと国境を接する五大湖の一つエリー湖から、メキシコのシュラスドレ山脈までのおよそ3500qを移動するが、1往復およそ7000qのサイクルを1年がかりで行なうのに、蝶の命は短くておよそ4世代をかけるもので駅伝のようである。このため、それぞれの個体は生まれて初めての進路であることはいうに及ばず、親が通った道とも違うコースを飛行しないと季節に合わせた周回サイクルは成り立たず、越冬の時期までにメキシコのシュラスドレ山脈に到着することができない。
さらに、幼虫の青虫が食べられる植物はトウワタだけで、他の植物は食べることができない。この植物は蝶の飛行ルートの限られた場所に点在して、飛行ルートを外れてトウワタのない場所に卵を産んでも、生まれた青虫は生きられない。この飛行を単なる動物的本能で済ませられるだろうか。
この植物のトウワタは茎や葉を千切ると乳白色の液体が染み出す。これには毒が含まれていて、オオカバマダラの幼虫はこの毒を取り込み、体内に蓄積しておくことで捕食者からの攻撃を回避することができるとされている。
11月にシュラスドレ山脈に到着した蝶は、翌年の3月までの5ヶ月間をここで冬ごもりして、4月になると北に向かって飛び立つ。この蝶はトウワタの若葉を食べるため、トウワタ前線に沿って北上する。途中で世代交代をするが、産卵から4週間かけて蛹になり、3世代目の蝶はカナダとの国境に達する。そこでの4世代目は9月になると南に向かって飛び立ち11月にメキシコに到着する。
この蝶は触覚で地磁気を感知する能力を備えていることは、実験によって実証されているが、それだけであろうか。ナビゲーション+αのαは人にとって未知の技術で、超音波のように何百年か後に人がその技術を手にしたとき、あの小さな蝶の身体の中に優れたものが備わっていることを知ることになるであろう。
人は誕生すると親に育てられ、その後は長い期間に渡って教育を受けて一人前となる。渡り鳥は誕生後に母鳥に学習を受けるチャンスはあるが、鮭の母親は卵を産むとまもなく死を迎える。卵から孵化した稚魚は母親から学習を受けることはできない。鮭と同様に魚や昆虫の多くが卵を産み落とされ、子供が誕生するとき母親は身の回りにはいないので親から学習を受けることはできない。独学で勉強しようにも本も無ければ文字もない。それにもかかわらず極めて多くの知恵を有する。
卵のDNAの中に学習内容を挿入することにより、学習を必要としない特別なシステムがあるとしたら、人としても見習いたいシステムである。これらから生物の進化には優れた文化がたくさんあり、単に姿かたちの変異にのみ眼を向けるのは進化の正しい解析にはならないと考える。
ミジンコ
ミジンコは沼や溜池などで生活する体長約2mmの小さな甲殻類である。通常の環境では胎生で生まれた子供は総て雌となり、次から次へと雌の子供を産み続ける単為生殖で世代交替が繰り返される。しかし、ひとたび水が干からびる兆候や環境が大きく変化する兆しが見えたとき、雌だけではなく雄の子供も産む。
雄が生まれることでそれまでの単為生殖から両性生殖に変わり、交尾して生まれるのは胎生ではなく卵生に変わる。生まれた卵は休眠卵と呼ばれ、硬い殻に守られて水が枯れても殻の中で孵化することなく生き続けることができる。いつの日にか再び水が満たされて卵が水中に没すると、硬い殻で守られていた卵からミジンコが孵化する。孵化したミジンコが成体に成長すると、再び単為生殖に戻って雌の子供を産み世代交替を繰り返す。
一般的に、ミジンコは沼や溜池などの限られた狭い領域でしか生きられないと考えられているが、乾燥して干あがった溜池の休眠卵は土埃と一緒に何百キロも風に飛ばされて移動するとされる。ミジンコは食物連鎖の底辺に位置するとされていて、水中を漂う姿は小魚などの捕食者にとっては単なる餌でしかない下等な生物にしか見えないが、高等な捕食者が環境の変化に対応できずに滅んでも、彼らは何度でも世代交替を繰り返して生き続けることができる。
ミジンコには異常事態に対応する知的な危機管理システムが備わっていることになる。このミジンコでは休眠卵になったことで形質として特別に変異がないことから進化したとはみなされないが、長い期間に渡って生き続けるための知性を備えているといえる。ミジンコと同様の生態を備えたものにヒルガタワムシがいて、ヒルガタワムシは3500万年前から遺伝子が混ざり合わさらないとされている。同様に、ヒドラも休眠胚を作ることが知られている。
ミジンコに似たものにアブラムシがいる。アブラムシは夏は単為生殖で増殖し、冬の前に両性生殖に変わる。さらに、アブラムシは個体密度によって変わることがわかっている。個体数が少なく低密度のとき羽はなく、個体数が増えて高密度になると羽ができる。
昆虫の適応能力
これまで人は植物から新たな有効成分を見つけ出し、薬にすることを考えてきた。しかし、最近ではこの植物に代わって昆虫から新薬を開発しようとする動きがある。昆虫の身体の中には人が必要とするものが数多く備わっているとされている。その理由が何かを考えるとき、発生から成長過程の環境にあると考えられている。多くの昆虫は多かれ少なかれ異なる環境を経験するもので、それぞれのプロセスで異なる環境で生きる術を備えている。
多くの哺乳類は母体から地上付近の陸上に誕生してそのまま成体となり、環境にたいした違いはない。鳥類は哺乳類と異なり卵として産み落とされるが、地上付近か樹上で環境のたいした違いはないし、魚類の多くは水中で同様である。これに対して、昆虫では卵が産み落とされる場所は、あるものは水中であり、他のものは地中に産み落とされる。また別のあるものは植物の身体である木の幹や動物の身体に産み落とす。
これら地球環境のあらゆる場所に産み落とされた昆虫の卵は、孵化した後その場で成虫になるものは少なく、卵から幼虫そして成虫になるに従ってその生活環境を変える。水中から地上に出て再び地中に潜って再度大気中に出てくるものまである。多くの昆虫は多かれ少なかれ異なる環境を経験するもので、それぞれのプロセスで異なる環境で生きる術を備えている。
幼虫期を細菌の多い腐葉土の中で生活するカブトムシの幼虫は、体液の中に抗菌作用を備えている。同様に、動物の排泄物の中で生活するウジムシにも、抗菌作用が備わっていると推測されている。昆虫に備わった機能はこれだけではなく、たとえば、サシガメは動物の血液を吸い取るとき、自らの体液を注入することで空気に触れた血液が固まらないようになっているし、その体液で血管が広がり血液を吸い易くしている。この機能は人にとって血栓の治療に最適とされている。
一方、チョウの蛹の体液には細胞を殺す機能のものがある。これは癌治療に有効とされている。これは新たなチョウの形質を作ることとは反対に、幼虫期の細胞をアポトーシスする目的の機能があるとされている。昆虫に備わっている機能はこれだけではなく、未だ知られていない多くの機能が存在していると考えられている。
これらは昆虫に備わった機能が人に役立つものであるが、昆虫の優れた機能に類似するものの一つにミジンコに似たものがある。ミジンコは生活領域の水が少なくなると、それまでの単為生殖から両性生殖に変更して休眠卵を産み、卵の状態で乾季を乗り切る。
これに対してネムリユスリカの幼虫は、ミジンコと同じ水中生活をするが乾季になって水がなくなると、自らの身体の水分もなくなりミイラ状態となる。この状態が何年も継続することができ、再び水が戻るとおよそ20分で元の活動状態に戻ることができる。このミイラ状態になるときネムリユスリカの幼虫には休眠ホルモンが働くとされている。このホルモンの機能を人は癌治療に利用しようとしている。これは癌の病巣にこの休眠ホルモンを注入することで、活発に増殖する癌細胞を休眠させる目的である。
ネムリユスリカはアフリカ・ナイジェリアに生息し、永久休眠することで知られている。これまでの観察で17年間の休眠が記録されている。このネムリユスリカの幼虫は休眠するとき、体内の水分を3%にまで下げて身体の活動を止める。この状態で何年も維持され、水に戻すとおよそ20分で生き返って活動することができる。この休眠状態に移行するときトレハロース(糖)を爆発的に作る。このトレハロースは食品の保存に利用される。乾燥したワカメやシイタケと類似である。
ネムリユスリカの幼虫がこの休眠状態のとき、−196℃の凍結環境や、+70℃のお湯の環境、そして、有毒なアセトンの環境に晒されても、再び蘇生することができることが実験によって証明されていて、このような生物は極限環境生物と呼ばれる。これまでの地球には気候大変動といわれるものが何回も繰り返されとされて、多くの生物はこのときの極限環境に耐えられずに絶滅していったとされてきた。しかし、このネムリユスリカはそれらの極限状態の環境さえも乗り越えることができたことの証明でもある。
逆を返すと、ネムリユスリカの幼虫がこのような極限環境に耐えられることは何を意味するか。これまでの地球の歴史の中には、−196℃の凍結環境,+70℃のお湯の環境,有毒なアセトンの環境が過去の事実としてあったことを示しているのではないだろうか。そして、この地球が将来、これまでとは違った極限環境が起こって多くの生物が滅んでも、ネムリユスリカの幼虫は新たな極限環境を乗り越えるための思考と知的創造を模索するであろう。
これらは動物に限ったことではない。アメリカ・アリゾナの乾燥地帯に通常ではない植物を見ることができる。苔は雲霧林のような高湿度の環境に生息するもので、乾燥地帯では生息できないとされている。アリゾナのこの乾燥地帯も過去には高湿度であったと考えられている。そのとき生息していた多くの苔は環境が変わったことで生き残れずに滅んでいった。しかし、苔の一部には変化した乾燥の環境でも生き残る術を考えたものがいる。赤茶けた土の表面に張り付いた枯れ草か小さな土くれのように褐色に変色したものを見ることができる。このような状態が何年も続くという。
その褐色の土くれに水をかけて数時間もすると、鮮やかな新緑色を蘇らせた苔が見られる。そこには葉に相当する部分も細かく形を整えて、熱帯の雲霧林で見る苔と同じ姿である。動物のネムリユスリカのみならず、植物の苔であっても生き残るという同じ目的意識が存在する。
虫けらと呼ばれる昆虫や考えることのできる脳を持たない植物が、身体の中に備えた機能には計り知れないものがある。そして、これらの機能は総て目的があって備わったもので、目的のないものは何一つない。さらに付け加えるならば、これらの機能は目的のない遺伝子のエラーとすべきものでもない。これらは昆虫の知性が考え出した知的創造物以外の何ものでもないであろう。昆虫も植物もその多くが数億年の歴史によって裏付けられている。僅か数百万年のヒトは、虫けらと呼ばれる彼らの歴史の1%にも満たない。
上記の動物の思考ではヒト以外の動物について見てきた。動物の中には哺乳動物の類人猿には及ばないまでも、蝶やミジンコも動物であるから多少なりとも考えることができるとしよう。それに比べて、植物では思考する頭脳は物理的に存在しないとされることから、考えることなどできないとされている。でも、それは人の勝手な思い込みではないだろうか。そこで植物の思考について触れてみたい。
冬眠と休眠
生物が生きるための手段にはいろいろあるが、動物の冬眠はエネルギー消費を最小限にしたもので、自然環境に合わせた生き残り手段ということができる。冬眠で良く知られた動物にはクマやヤマネがいる。冬眠時の体温は動物種によって異なるがおよそ1〜5℃ぐらいまで下げ、心拍数も1/5〜1/10にすることができる。このように冬眠では体温を外気温に近似にして心拍数も抑えると、代謝活動を抑えることができて消費エネルギーは通常のおよそ1%程度で賄うことができるとされる。
それにも増して有効なものが植物の種子である。種子は生き残りのための極めて優れた手段である。種子は動物の冬眠をさらに伸ばしたもので、超冬眠状態の休眠をする。このため、種子が生き続けるのに必要なエネルギーは微量であって、生育条件が整わない間は発芽せず、条件が充分整うと活動開始する。
種子の中には実のついた翌年に発芽するものもあれば、数年後に発芽するものもある。実を付けた翌年が発芽や生育に必ずしも最適ではないことを経験から知り得るもので、この発芽調整の究極のものが休眠種子となる。種子の休眠の長い期間では、ミズアオイの種子では百年以上土の中で経過したものもあり、古代蓮では千年以上も土に埋まった状態で、掘り出された後に発芽して甦った実績がある。
食虫植物
植物は根からの水の摂取と葉からの二酸化炭素で光合成を行い、自らの栄養分とする独立栄養生物である。そのため、従属栄養生物の動物とは異なり、捕食行動をすることはない。植物の考え方は自らを守ることで、動物によって捕食されることを最小限にするため自らの葉に毒素を保有するか、身体の表面に棘を張り巡らせる防御が主体であった。このことから、植物が動物の被害者になることはあっても加害者になることはなかった。その理由として、動物には目や口があるが植物には目や口は言うに及ばず、それ以前にそのようなことを考える脳が存在しない。そのような下等な植物には高等動物を捕食することはできないとされている。
しかしながら、これを覆して植物が動物の加害者になるものが食虫植物である。その意味からすると食虫植物は積極的である。このことは極めて強い意思の表れで、偶然の産物としてはなり得ない変異で、どの植物でも可能ではなくごく一部の限られた種である。彼らは極めて欲求が強く思考豊かな植物であったと推測できる。その食虫植物には11科21属563種が存在するとされるが、その捕獲方法が実にさまざまである。
自分の廻りを飛びまわる昆虫の大きさやスピード、さらには昆虫の弱点を認識したうえで落とし壺や捕獲檻などを自らの身体の一部を使って作り、実際に昆虫を捕獲している。植物でありながら捕獲檻が閉じるときのスピードはコンマ何秒の速さである。動物的本能を持ち合わせた昆虫の動きを観察し、創造して作った捕獲器によって、脳を備えない植物が脳を備えた昆虫を捕獲することができようか。このことは植物の脳は形態的に表現していないだけで、動物の脳と同等の機能を備えているとすべきではないだろうか。
食虫植物の代表的なものをいくつか挙げると、落とし壺ではウツボカズラ、粘着ではモウセンゴケ、捕獲檻ではハエトリグサなどが良く知られている。植物としては異色の進化をしてきた食虫植物の生息場所は、地域が異なりながらも多くが湿地帯であることは注目に値する。湿地帯は他の地域に比べて栄養分が少ないことから、栄養不足を補うために昆虫を捕食するようになったといわれているが、湿地帯より栄養の乏しい環境は数限りなくある。たとえば、高山の森林限界を超えた土のない岩の割れ目に霧の水分を頼りとするような高山植物や、年間降水量が数十oの砂漠地帯に生息する植物などに比べると、単に栄養不足を補う目的として片付けることはどうだろうか。
温室植物
真冬の夜に木枯らしが吹きすさぶときを想像していただきたい。ある人はコートの襟を立てて首筋を寒風から守ろうとするであろうし、フードつきのコートの人は頭からフードをかぶり顔だけ出すであろう。それでも寒いと思う人は暖房で温まったタクシーを利用するであろう。これは人だからするのだろうか。これと同様のことは植物でも見ることができる。
湿原植物のミズバショウは花の廻りを包(ホウ)によって囲むことで花を寒風から守っている。この形は私たちがコートの襟を立てているのと同じである。一方、ザゼンソウはミズバショウより寒がりと見えて、包を頭からすっぽりかぶった状態で正面の一箇所だけ開いている。この形は私たちがフードつきのコートで、フードを頭からかぶって顔だけ出していることと同じである。これらは私たちが寒さから身を守ることと、植物が寒さから身を守ることが同じで何ら変わることはない。
それではさらに寒い場所の植物がとる形態とは、それはアフリカのキリマンジャロで観られる植物のキャベツセネシオである。この植物はキャベツに類似で、成長すると上部から1本の花芽がまっすぐ上に向かって伸びる。この棒状の花芽は軸の廻りに数多くの花をつける。そして、その花の廻りを取り囲むように何枚もの包によって包み込む。
この包は葉が変異したものとされ、下のキャベツの葉は肉厚の緑だが、包は緑の葉に比べて肉厚が薄くて白く半透明で、花から少し離した外側で湾曲した形状になっている。それはあたかもビニールハウスのビニールに似ている。この包によって花は寒さから守られている。これと同じ姿かたちの植物でレウム・ノビレの名前の植物がヒマラヤに生息していて、このような植物は温室植物と呼ばれている。
キャベツセネシオの一本の花芽は多くの包によって包まれている。気温の下がる夜間では包と包の間は密閉状態になり、冷たい外気を遮断して花を保護している。そして、日差しが降り注ぐ日中には包と包の間には隙間が生じる。その隙間は昆虫の出入り口となり受粉することができる。
ちなみに、私たちの食卓に載るキャベツの花は、キャベツセネシオと同じように棒状の花芽がまっすぐ上に向かって伸びて、その花芽の周りには菜の花に似た小さな花が放射状に配置されて、キャベツセネシオにとてもよく似ている。しかし、包はない。日本の気候では包によって花を守る必要がないことを意味している。このキャベツセネシオの形は農家が寒い時期にビニールハウスで野菜を栽培することと同じで、人が寒風を避けて暖房の利いたタクシーを利用するのと変わりはない。
自家発熱機能
上に挙げたザゼンソウでは、包によるフードだけではないことを後になって知ることになった。ザゼンソウは自ら体温維持の発熱機能を備えているという。これによって包の中の温度はおよそ25℃に保つことができている。中でも中心部分の肉穂花序では26〜27℃もあるとされている。日本では北国の雪の湿原地帯で春から初夏にかけて芽をだす植物とされている。そのような植物は自ら花芽を守っている。
これは植物であるが、動物ではヤクと類似のジャコーウシは胃の中に微生物がいて食べた草の消化で発酵熱が発生し、その熱を自らの保温に利用しているとされている。サゼンソウの発熱機能のメカニズムは知り得ないが、動物と植物が極めて類似の思考形態により、自らを保温していることになる。
私たちが寒さを凌ぐのにコートの襟を立てることや、ビニールハウスを使用することと何処が違うのだろうか。植物が蕾や花を寒さから守るために包によって包み込むことの違いは何処にあるか。植物も人も身を守るためにする行為で、違うところは何もない。そこには人も植物も寒さを凌ぐための目的が存在する。このような変異は制御可能なホルモン調節である日常生活の延長線上にあることで、突拍子もなく現れる遺伝子のエラーによるものではなく、生物の意思によって思考されたであろう。
アコウの逆転の発想
イチジクの仲間のアコウは他の木の樹冠で芽を出し、根を下に伸ばすことで地上まで到達させて水分を得る。通常、樹木は地上で発芽して上に向かって幹を伸ばし枝葉を茂らせるが、これは逆である。なぜこのようになったか。樹木の密集した熱帯の森では、大型樹木の樹冠によって日差しを遮られると林床に到達できる日差しはおよそ1%しかない。このため、地上で発芽しても成長して大木になることが困難になる。
このような条件の中で通常の植物が幹を生長させることで太陽光を得ようとするのに対して、アコウは他の木の樹冠で発芽することで、幼木であっても太陽光を充分に得ることで速い成長ができる。これによって幹を上に伸ばすのではなく、根を下に伸ばす発想に転換したと推測される。
さらに、宿主の幹の周りを下方に何本も伸ばす根を重ね合わせ、網の目状に取り囲み成長することで、宿主の成長を阻害して枯らしてしまう絞め殺しの木といわれている。アコウは沖縄にも生息している。日陰の地上で発芽するのではなく日差しが充分ある樹冠で発芽することや、大多数の樹木が幹を上方に伸ばすのに対して、このアコウが根を下方に伸ばすことは、このような発想そのものに思考が必要ではないだろうか。
種子の思考
動物は日常生活で移動しているが、世代交替の時期になると巣の中で卵を温めたりして移動は中断する。これに対して、植物は日常生活では移動することなく根を生やして定住するが、世代交替の時期になると種子は風や水の流れを利用して移動する。さらに、果実とすることで動物の胃袋を利用して遠距離移動し、移動先で動物の排泄物と一緒に体外に出る。極めつけは種子に鈎をつけて動物の体毛を利用して移動するものまでいる。
このことは頭脳が存在しないとされる植物でも、形質の変異に目的があることを示している。これらは二次代謝産物を創造することと同じように思考が必要ではないだろうか。これまでは思考や知性は頭脳に備わるもので、動物のように自力移動や瞬時の判断ができないばかりか、頭脳さえも備えないとされる植物では思考や知性は認められなかったのではないだろうか。しかし、生物の移動一つとらえても動物に限るものではなく、植物も移動をしている。さらに、その移動手段に大きな違いがある。
動物の移動が自らの力による「肉体労働的移動」であるのに対して、植物の移動は水の流れや風力さらには動物を利用した思考創造による「頭脳労働的移動」である。このことは動物に比べて植物の移動手段は比較にならないほど知性豊かである。それにもかかわらずこれまで植物の知性を見いだすことはされなかった。植物の頭脳労働的移動にはさまざまな種類の種子があるので、そのいくつかを挙げる。
羽をつけた種子
赤松の松毬には多くの種子が挟まれて、その種子一つひとつにそれぞれ羽がついている。果実が成熟して風が吹くと種子が飛び出し、風に乗った種子は羽によってクルクル回転しながら親木から離れた場所に飛んで行くことができる。落ちた場所が乾燥していると発芽条件に適さないことから、風が吹くと再び舞い上がり回転しながら別の場所に飛んで行く。そして、再び落ちた場所が湿っている場所ならば、その湿り気で種子についていた羽は外れて種子は二度と舞い上がることなく発芽態勢に入る。
松の種子では上昇気流に乗って500mも離れた場所に移動することも可能とされている。これに似たものにアオギリがある。アオギリの種子はスプーン形状のプロペラが回転しながら風に乗って飛んで行く。空中に浮かんだ状態はヘリコプターのように滑らかな回転をする。これらと同じような種子移動する植物には、ツクバネ,ボダイジュ,オオモミジなどがあり、種子にこのような細工をすることにより子孫の分布を広範囲にすることが可能となる。この他にも風を利用するものには、タンポポ,カエデ,アルソミトラなどがある。
私たち哺乳動物の考え方でいうと、花が咲いて種子の小さい間は子供としても、種子が出来あがった状態はすでに大人と解釈することができる。種子が木から外れるときには植物としての思考能力が充分備わっていて、種子は自らが風に吹かれて回転しながら遠くへ移動するのを認識できていて、自らが成長して種子を作るときには、自らが回転したときの良かったことや悪かったことを修正しながら、より良い羽を設計製作するであろう。そのときは流体力学を理解し、空気抵抗を考えて種子がどのような飛び方をするのか思考する。この種子が子供か大人の状態かの二つの考え方は、何れが正しいかは判断できないまでも、彼らは自らを認識するだけではなく、風との関係も認識できていると推測するのに難しくない。
粘着の種子
野鳥が木の実を食べたときに一緒に飲み込んだ種子は排泄されるが、ヤドリギの実には野鳥に食べられた後、糞として排泄されるときの種子には、動物の体内で消化されることのないネバネバによって包まれているものがある。このため、野鳥は糞を取り除くために尻を木の枝で擦らなければならない。これによってヤドリギの種子は野鳥の尻から木の枝に粘着することになり、地上に落ちることはない。この粘着によりヤドリギの種子は木の枝についた状態で発芽することができる。ちなみにヤドリギの種子は地上に落ちると細菌などによって発芽できないことがわかっている。
鉤つき種子
植物の中で種子ができたとき、その種子に鉤が付いているものが何種類もある。これは体毛を備えた動物を利用しようとするもので、草むらを通る動物の体毛に付着して遠方へ移動することができる。このような鉤を備えた植物が地球上に登場したのが、体毛を備えた動物が誕生する以前から存在していたのではなく、体毛を備えた動物が登場した以降であったとすると、それは偶然ではなく環境を認識したものであるばかりか、それを自らの繁殖活動に利用しようとする目的意識が存在することになり、知的創造力の豊かさを知ることができる。
もしも、遺伝子のエラーならば、それらの動物との相互関係はなく誕生したであろう。そして、人はそれらの一つを真似することでマジックファスナーを作り出している。これを知るとき、このような植物と人とのどちらが知的か問うべくもない。鉤つき種子には返し針のアメリカセンダングサや、フックの付いたオオオナモミなどがあり、これとは別に機械構造ではなく、化学的物質の粘着のメナモミなどもある。
比重差種子
マングローブに生息するメヒルギは、種子に比重差をつけているとされている。第一は種子を重くして海面に落ちたものが親木の近くに沈んで発芽する。第二は少し重くして暫く漂ってから沈んで発芽する。第三は軽くして遥か彼方まで流された後に沈んで発芽するようになっている。これによってメヒルギは多くの海岸線で生息することができマングローブを形成する。このことは海水と種子の比重を考慮したものとされている。
しかし、ここでの考え方は少し違うので示しておく。大海原の塩分濃度はほぼ均一としても、マングローブの生息域は海水と淡水の混じりあう汽水域である。潮の干満や川の水量によってマングローブ領域の塩分濃度は変化し易い条件である。その領域に落ちたメヒルギの種子は比重が総て同じであったとしても、種子が落ちたときの塩分濃度により相対的浮き沈みはその都度変化することになり、種子は落ちたその場に沈むこともあれば、浮いて遠くまで流されることもある。
もしも、後者であったとしても比重が大き過ぎるか小さ過ぎると、種子を近くから遠方まで広く拡散させることはできない。種子を拡散させるためには比重のバランスが大切で、結果として、メヒルギが広く分布していることは、種子の比重が総て同じであったとしても海水との比重が考慮されているであろう。
熱反応種子
バンクシアの実はおよそ500℃ぐらいに熱すると開いて種が飛びだす熱反応種子である。落雷などによって山火事になると植物の大部分が焼失する。そこでは他の植物の邪魔がないことから太陽光を充分に受けて成長し易い環境になる。そこで他の植物よりも逸早く発芽体制に入る必要がある。
これと同様に、松の種類の中にはバンクシアのように、松かさはできても松脂で固められたままで数十年もの間落ちずに木についている種がある。山火事になって炎に熱せられると、それまで松脂で松かさは閉じられ固められていたものが、炎の熱で松脂が溶けて松かさは開いて種子がばら撒かれる。
一方、バンクシアに似たものがユーカリである。ユーカリの葉は脂分が多く自然火災に遭遇する機会が多い。その都度燃え尽きると次に大木に成長するまでに長い年月を必要とする。そこでユーカリは葉や樹皮だけを燃やすことを考えた。その結果、他の樹木に比べてよく燃えることで一面焼け野原として他の植物も一掃する。しかし、ユーカリの燃焼は表面に限定されていて、火災から2週間もすると樹皮の下から新芽が生えてくることができる。これによって焼け野原の領域を逸早く占有できることから、オーストラリア大陸の多くの地域でユーカリの林を見ることができる。
すなわち、自然火災によって多くの草やユーカリ以外の樹木は燃えてしまう。草は2週間で緑が復活しても地を這う状況で、樹木が大木に生長するには何十年も必要とする。2週間で木の幹のあちこちから新芽が出て、火災から1〜2ヶ月もすると元の林に戻ると、これによってユーカリは火災の後の広い地域を占有することができる。すなわち、バンクシアやユーカリは火災を繁殖戦略の一つとして組み込んでいる。このようなことが思考なくしてできるのであろうか。
棘を備えた植物
植物が身を守る手段とする防御代謝系は化学物質であるが、防御の方法は他にもある。その代表が棘ではないだろうか。棘を備えた植物ではサボテンの棘は砂漠で水分の蒸散を防ぐために葉が針状に変形したものといわれている。しかし、カラタチやバラには通常の葉がありながら棘も備わっている。同様に、アザミは葉の廻りに棘が突き出ている。
このことは同じ針形状でもサボテンの針とは意味が違う。これは植物自身が自らの身を守る以外に何があろうか。これと同じことは陸上動物の中にもヤマアラシやハリモグラのように自らの保身のために身体の表面に針を保有するものが存在し、海中動物の中にもハリセンボンやウニのように針を保有するものがいる。これら動物に備わった針には保身の確たる目的がある。このことはカラタチやバラの棘も動物の保身と同じ目的があるのではないだろうか。
ハンマーオーキッド
ランは種類が多くて全体でおよそ2万5千種以上あるとされる。ランの多くは中南米や東南アジアの熱帯雨林の湿った地帯に生息するが、オーストラリア南西部のパース近郊は特殊なランが数多く生息する地で、およそ60種類が確認されている。この地は1500万年前には熱帯雨林であったと考えられていて、その熱帯雨林で生活していたランは乾燥した砂地に環境変化した現在でも生息できている。ハンマーオーキッドは特殊なランを象徴するものである。
植物の多くは昆虫に蜜を提供する代わりに受粉を手伝わせている。そのため、蜜の旨みがなければ昆虫は飛んではこない。しかし、ここで頭の良い植物が現れた。それが独特の進化をしたランのハンマーオーキッドである。
彼らの祖先は昆虫の蜂の一種であるコツチバチの生殖行動をつぶさに観察し、自らの花がコツチバチの雌と同じ形になったら雄蜂が飛んできて交尾するであろうと想定した。そこでハンマーオーキッドは自らの花の部分を雌蜂に似せた擬似姿に作り変えた。さらに、雌蜂が発するフェロモンに似た臭いを発した。その結果、ハンマーオーキッドは蜜を出さないにもかかわらず、雄蜂が飛んできてこれに止まる。
コツチバチの雄は羽をつけて飛び回るが、雌には羽はなく地中で生活している。繁殖時期になると、雌は地中から這い出して植物の茎に止まる。雄蜂は雌蜂の上に乗ると、羽のない雌蜂を抱きかかえて飛び去る習性まで熟知しているハンマーオーキッドは、雌蜂の形をした擬似雌の根元に機械屋顔負けのヒンジ構造を組み込んでいる。雄蜂が擬似雌を抱きかかえて飛びあがるとヒンジによってでんぐり返り、雄蜂の後頭部に花粉が着く構造である。このときハンマーを振る状態に見えることからハンマーオーキッドと名づけられたと想像する。ヒンジ構造は自力移動する動物では関節にその多くを見ることができるが、自力移動することのない植物で見ることは稀である。
この機械的なヒンジ構造の支点と花粉までの距離は、雄蜂の体を考えた機械設計であるし、花の一部の形状を擬似雌に変えるのはバイオテクノロジー、フェロモンを創りだす化学、そして、昆虫の生殖行動を認識する動物行動学に加えて、昆虫を騙すずるさは人以上で、植物でありながら動物以上の思考や知性が備わっていると推測できる。
動物的本能を持つとされる昆虫の生殖行動を逆手に利用して、自らの生殖活動をする極めて高度な思考の一つと考えられる。もちろんこのハンマーオーキッドは他の植物と同じように視覚や嗅覚に相当するセンサーなど見当たらないばかりか、動物のような頭脳と思えるものはなく、ごく普通の植物である。
もしも、ハンマーオーキッドが花の形状を変えることが突然変異と自然選択によるもので、現在の姿かたちになるまでには進化論でいう地質年代に及ぶとされる何百万年の長い期間を要すことになれば、その間蜜を出さなければ蜂も寄っては来ないことになり子孫を残せないことになる。植物にとってそのようなことができるならば、植物にとって受粉とはそれほど大切なものではないことになる。
しかし、実際には植物にとって受粉はなくてはならないにもかかわらず、ハンマーオーキッドは絶滅することなく生き続けている。すなわち、現在もこの植物が消滅することなく生存していることは、ハンマーオーキッドはこの進化を極めて短期間で完了したと推測せざるを得ない。
ハンマーオーキッドはごく普通の植物なのに、蜂の習性を観察することのできる眼はどこにあるのか、そして、見たものから何処で考えて花の形を擬似雌の形に変異させたか。さらには手を持たない植物がどのような方法で雌蜂の擬似姿やヒンジを作ることができたのか。道具を使って物を作る人にとってはなんとも理解に苦しむところである。
これらから考えられることは、私たちが五感によって得ている情報を植物は異なる手段によって得ていると考えるもので、植物の眼や脳の概念が人とは全く異なっていることは間違いないが、人がいうところの形態的な脳が存在しないことだけで無脳と決めるのはどうだろうか。少なくとも人を名乗っている私よりは遥かに優れている。
この種のランはこのハンマーオーキッド以外にもおよそ60種類が確認されていて、それぞれが異なる種の蜂を相手にするもので、蜂の大きさや形態に合わせて機構や構造がそれぞれ異なっている。これらの中にはエルボーオーキッドでは止まった蜂が飛び立とうとするとき、ヒンジによって羽交い絞めすることや、ドラゴンオーキッドでは挟み込みによって確実に花粉を蜂の背中に背負わせることをしている。さらに、兎の形をしたラビットオーキッドや、蜘蛛の形をしたスパイダーオーキッドなどがある。一方、トリガープランツは0.1秒以下の瞬時にスタンプのように蜂に花粉をつけ、蜂が飛び去ると元に戻って次に備えることや、カンガルーポーはカンガルーの前足の形をして、蜂ではなく野鳥に花粉を運ばせるものまでいる。これらは地上性のランである。
バケツラン
一方、中米メキシコ南部の熱帯雲霧林には、樹上性の着生特殊ランが数多く生息している。その代表がバケツランである。ランの花には他の花と違って花びらの一枚が特別な形をしてこれをリップという。前のハンマーオーキッドでは疑似雌の形をしたものがこのリップに相当する。このバケツランのリップはバケツの形をしてバケツの中にはラン自らが出す液体が溜まっている。
ランの受粉には固有の昆虫が関係するが、このバケツランにはシタバチの仲間が関係する。バケツランはバケツの上部に芳香を発する分泌物を滲み出させることでシタバチを呼び寄せる。シタバチはこの芳香を足でかき集め雌を誘うときに利用する。芳香はバケツの上に蜂を誘導して滑らかな壁面からバケツの中に落とす仕組みになっている。
ここまでは食虫植物のウツボカヅラと似たようなものである。しかし、バケツランは落ちた蜂が這いあがることのできる出口のトンネルを一ヶ所用意している。これによって蜂は溺れ死ぬことなくバケツから出ることができる。しかし、出口の構造は狭いので押し広げながらでなければ出られない。この狭い出口を通過するとき、蜂の背中には粘着剤のついた花粉が張り付けられる。次に受粉であるが、他の場所のバケツラン落ちて花粉を背負わされた蜂が芳香に引き寄せられて再度バケツに落ちると、出口の花粉があった場所の手前に背中の花粉を剥ぎ取る仕組みが備わっていて受粉が可能になる。
ハンマーオーキッドと同様にバケツランにも何種類のものがあり、蜂に花粉を背負わせる構造は皆異なっていて、相手とする蜂の種類も違ってそれぞれの蜂の姿や大きさに合わせた形になっている。シタバチは種類によって身体の色が緑や青や褐色のものに分かれている。バケツランは緑のシタバチで、ゴンゴラが青いシタバチ。ゴンゴラにはバケツはなく、芳香を集める蜂の状態が仰向けになったとき逆さまに落ちる。そのとき落ちた背中の位置に花粉を配置している。その他には、花の中に一本のレバーがあり、蜂がそれに触れるとレバーの先端が蜂の背中を叩くようになっていて花粉をつける。
バケツランの種子は小さく1mmに満たないが、羽が付いていて風に乗って舞いあがることができる。樹上性の着生植物であるから地上に落ちると繁殖できないためである。動物の中でも遅れて登場したヒトのように、植物の中ではランは遅れて登場した新参者とされている。
擬態では昆虫が他の昆虫や植物の葉や花に姿かたちを真似することで、捕食者や非食者を騙すことを説明した。昆虫は動物であるから多少なりとも考えることができるとしよう。しかし、ハンマーオーキッドやバケツランでは逆に植物が昆虫を騙すことをしている。
従来の形質についての進化なら、ここまでならば欲求条件に属するものでもよいが、このランの特徴は直接的な物理的機能や形質だけではなく、植物自らの生殖のために昆虫の生殖行動を利用することにある。進化によって単に形が変異するだけなら百歩譲って目的のない突然変異を認めたとしても、このように異種生物の生殖行動を自らの生殖に利用することは、単なる形質だけではなくそこにはランの知性が関与しているとすべきで、目的のない突然変異で可能とする証明になるだろうか。
さらに、ハンマーオーキッドやバケツランでは、生殖行動だけではなく花の形状や蜂を呼び寄せる香りなど、複数の機能が関与した複合的変異である。このようなことが前後の変異が関与しないとされる遺伝子のエラーによってできるであろうか。これは思考による知的創造であるから可能ではないだろうか。
隔年結実
樹木性の植物がつける実は毎年安定しているわけではない。多くは一年ごとに豊作と不作が繰り返される。この理由には幾つかの説が示されているが、一般的には、たくさん実らせた年は木が疲れて翌年は不作になるとされている。しかし、これは定かではない。台風などで早いうちに実を落としてしまって充分休んだと思われる木も、翌年地域が不作の年にあたっているとやはり不作である。ここではありきたりの考えではなく、植物の立場で考えてみたい。
木の実には果肉を主体にするものと、種子を主体にするものとがある。果肉は動物に食べられても中の種子は排泄されて発芽できるものがある。一方、果肉は僅かで種子に多くの脂肪などが含まれて、動物にその種子を食べられると発芽できないものがある。問題となるのは後者の方である。
クルミや椎の実は森の動物にとって大切な食料である。逆に、クルミや椎の実の立場で考えると、彼ら森の動物は捕食者である。被食者である自らが豊作になるとそれに伴って捕食者を増加させることになり、結果的に、被食者は自らの種子を増加することは弱体化する方向に進む。だからといって不作にするとさらに子孫を残すことはできない。そこで彼らは隔年結実の方法を考えたと推測することができる。
これは豊作の年に捕食者が増加しても、翌年を不作にすることで捕食者の数を減少させるもので、結果として、捕食者を不作の年に合わせて少数安定にすることができる。これによって不作の年の実はその大部分が捕食されたとしても、豊作の年に捕食者が食べきれない実は発芽が可能になり子孫を残すことができる。これによって彼らは捕食者を増加させずに、自らの子孫は一年おきに残すことができる。
但し、これには条件がある。木のそれぞれが勝手に不作や豊作を設定しては何の意味もない。全山総てが同一行動をして初めて効果を発揮する。そのためには木そのものが周りの木と会話して今年は豊作にし、来年は不作にすると申し合わせる必要がある。又は、豊作の年または不作の年に何らかの化学物質を発することで、周りの木もその物質の影響を受けて豊作や不作をコントロールしていると推測する。その物質は結実に影響を及ぼすためのフェロモン物質ではないだろうか。このような思考により森の木の実は消滅することなく世代交替ができるのであろう。
これと類似のことが海の中にもある。サンゴは通常は増殖をするが、これは身の回りだけである。そこで一年に一度だけ産卵をする。これによって増殖では不可能な遠く離れた地域にも子孫を繁殖させることが可能になる。この産卵がユニークで総てが申し合わせて一斉放卵する。もしも、長期に渡って少しずつ放卵すると、その大部分は捕食者の毎日の餌になってしまう。そこでサンゴは時を合わせて一斉放卵することで瞬時に捕食者が食べ切れない量を放卵し、より多くの子孫を残すことを可能にしている。
サンゴは十ヶ月前に増殖したものと一ヶ月前に増殖したものでは成長に違いがある。さらに、生息環境によって卵の成長は異なるであろう。それにもかかわらず一斉放卵することは互いに会話が成り立っていると考えられる。これらは単に自らの種の増加だけではなく捕食者を認識してその対応を考えたもので、生物の形態に変異は見られないものでも知性の関与に値する。
ミズナラ
そこで登場するものがドングリで馴染のミズナラである。前に述べたように、木の実には二種類のタイプがある。一つは果物のように種子はゴマ粒のように小さく果肉を主体とするものにオレンジを始めとする柑橘類やイチヂクのようなものがある。もう一つのタイプは、果肉が僅かで種子に脂肪を多量に含むものがある。これにはクルミやシイなどがある。
前者は果肉主体でこれを餌とする動物にとって、この果肉は冷蔵庫のない自然環境では越年するような保存食にはなり得ない。このため、これらを主食とする動物は豊作か不作の影響を直接受け易く、隔年豊作にすることで捕食者の数を容易に制御することができる。これに対して、後者の種子の多くは固い殻に包まれていることで越年可能な保存食になり得る食物である。
森の木の実の中にはブナを始めとして隔年結実を考えたものがあるとしている。これによって捕食者の数を抑制して自らの子孫を残し易くしたとする。これに対して、捕食者である森の動物はそのまま受け入れているだろうか。多くの動物がそうであっても中には考えるものも出てくるはずである。
動物の中にはリスや野鼠を始めとして貯食行動をするものがいる。これらの多くは秋に稔る実を巣穴などに蓄えて冬に備えるが、豊作の年には必要以上に集められる。中でも果物に比べて種子を餌とする動物にとっては、種子が長期休眠能力を備えていることから冬の半年ではなく一年を越える貯蔵さえも可能となる。これによって翌年の不作に対応できる動物が現われる。
もしも、果物と種子の両者が同じ隔年結実であったとすると、果肉果物を食料とする動物は豊作の年に個体数を増加しても、不作の年に生き残れないことから少数安定に抑制することができる。一方、種子果実を食料とする動物では、豊作の年の収穫を蓄えることで不作の年を乗り切ることが可能になる。これは一部の動物であって総てではないが、このような貯食動物にとっては隔年不作のマイナス要素は消されて多数安定にすることができる。
現代でも多くの果肉果物と呼ばれるものには隔年結実のものが多く、これによって目的を果たしている。これに対して、種子果実では隔年結実ではその効果が期待できない。そのとき私ならどうするかと考えたとき、隔年ではなく数年に一度の豊作にすると、捕食者は貯食の限界を知ることになり、個体数は不作の年に生きられる少数安定にせざるを得なくなる。そこで調べてみると、それを実行しているものがいる。
資料によってブナは隔年豊作というものもあるが、別の資料では7〜8年に一度の豊作というのもある。同様に、ドングリで馴染のミズナラは、3〜4年に一度の豊作という資料もあるとされている。もしも、これらが事実とすると、年に一度の収穫を隔年豊作にし、さらに、数年に一度の豊作にすることは、貯食の効果さえも排除して捕食者を少数安定に制御することができる。さらに、ミズナラとブナが連携して一緒に豊作にすると、その効果は一層大きなものにすることが可能になる。
これらの植物が思考することなく自然環境が最適だからとして豊作を続けたならば、捕食者の動物を激増させることにつながり、結果的に、森の破壊につながるであろう。現代人が後先考えずに私利私欲でむやみやたらに熱帯林を伐採して破壊するかのように。
しかし、これらの豊作についても自然条件の気候がよかったからたまたま豊作になったとされている。もしも、そうであったとすると、植物が二次代謝産物の防御代謝系を作る発想は出てこない。これは捕食者が知性を使って貯食行動することに対抗するもので、捕食者の数を抑制することと、数年に一度ではあるが豊作にすることで、その年には確実に子孫のために発芽させることができると考えるべきではないだろうか。
私如きが推測することはたいしたことではなく、知的な植物は遥か昔に実践しているであろう。すなわち、樹木性の果肉果実や種子果実のそれぞれが、自らの性質と捕食者の食生活を認識したうえで子孫を残す方法を思考していることを示すもので、捕食者が存在しなかったならば隔年豊作や数年に一度の豊作にする必要はない。
同様に、たとえ捕食者がいたとしても、これらの植物に思考能力がなかったならば、植物は良好な気候条件が数年続けば豊作が続き、気候条件の悪い年が続けば不作が続き、稔りは総て自然環境に左右されてこのような隔年豊作や数年に一度の豊作にすることはないであろう。しかし、植物はそのようにはなってはいない。すなわち、これらの植物は自然環境と生活環境を認識したうえで知性を使って生きていることになる。
ウミショウブ
赤手ガニの幼生は大潮の夜に海に放出されて一ヶ月ほど海で生活した後、上陸して森の中で生活するカニである。森の中で散らばって生活しているが、大潮の何日前から移動を開始して大潮の日に海岸に集合する。赤手ガニは体内時計で大潮を知ることができるとされている。動物であるから大潮を知ることができても不思議ではないといわれるかも知れない。
ここで植物について考えたい。沖縄西表島の海に生息するウミショウブは、およそ1億年前に陸上から海を目指して生活環境を変えたとされている。しかし、ウミショウブは植物で自力移動はしないから、ウミショウブの生息領域が陥没して海中に没したというべきで、それでも枯れることなく海中に適応して生きている。
ウミショウブは日差しの差し込む浅い海底に根を生やして生息する。通常では、葉や茎が水面から顔をだすことはない。過去に陸上で生活していたウミショウブは水中でも生活可能なように体内機構が一部変化して対応しているが、受粉に際しては水中でできるまで進化はしていない。これと類似で反対のものでは、数億年前に水中動物が陸上に上がったとき、陸上での生活は可能になっても産卵まで陸上でできるまで進化できたのではなく、産卵は従来の水の中に限定されていたように。同様に、現代でも陸上で生活できるようになった蛙でも、産卵は水中で行われているのと同じである。
オシベで作られた花粉をメシベに運ぶには、もっとも潮の引いた大潮のときに行なうことで受粉を可能にしている。ウミショウブは大潮の前から花粉の包みを水中に放出し始めて水面上に浮遊させる。そして、大潮になってメシベが水面から顔を出したとき浮遊していた花粉はメシベに流れ着く。
ウミショウブはどうして大潮を知ることができるのか。ウミショウブを実験室の水槽で栽培すると波もなければ潮の干満もない。それにもかかわらず大潮の日に合わせてオシベは花粉の包みを放出し、メシベは花を開く。大潮を知ることができるのは赤手ガニだけではなく、植物のウミショウブも同様に知ることができる。
ウミショウブにはもう一つ特徴がある。生息場所が沖縄の浅瀬であることから台風などによって荒波に攪拌される。種子を結実したウミショウブの細い茎は、他の葉や茎にスプリング状に巻きつくことで、荒波に遭遇してもちぎれないように工夫をしている。いわゆるバネ構造が衝撃の緩衝に有効であることを理解して実践している。これは陸上の植物がヒゲを巻いてスプリング状にすることで風対策するように、激しい波対策に利用している。
このようなウミショウブの生息域は小魚の住処でもあり、ウミショウブの葉に姿を似せた擬態した魚が多く住んでいる。ヘコアユやニシキフウライウオは、ウミショウブの縦長の葉に似せるために逆立ちした下向き縦泳ぎをしている。同様に、フチドリカワハギはウミショウブの葉につく藻の姿まで似させている。
二次代謝産物と防御代謝系
植物が作るものには一次代謝産物と二次代謝産物がある。一次代謝産物は炭水化物やデンプンやタンパク質で植物が生きるうえで必要不可欠のものである。これに対して、二次代謝産物はアルカロイドやフラボノイドなどで、これらがなくても植物は生きることができる。
さまざまな一次代謝産物を作るために知性が必要なことは言うまでもないが、二次代謝産物は植食者にとって毒になるようなものが数多くある。トチの実や青い梅の実を始めとして果実に含まれる毒やトリカブトのように根に毒を備えるものもある。さらに、毒だけではなく大麻草のように幻覚物質もある。香りについてもさまざまなものを備えている。
これらは植物が単に生きるだけではなく、植食されないような工夫や、自らの生殖のために昆虫を呼び寄せる工夫がなされている。これらは思考可能な知性のうえに成り立った知的創造物ではないだろうか。中でも二次代謝産物は植物の知性の豊かさを示すもので、彼ら植物は単に光合成をして成長のためのエネルギーを作るだけではなく、それぞれの植物が意図をもって独自の化学物質を創り蓄えている。まさに化学研究所である。
二次代謝産物は思考によって創られたとしても、それらの中でも防御代謝系と呼ばれるものは思考だけではなく生活環境を認識したもので、そこには目的があり、切磋琢磨している状況が窺われる。
植物は自力移動することができないことから、植食者に対して身を守る対抗策は逃げることではなく、知的な防御を思考して創造することである。その一つは化学的防御で体内にアルカロイド,シアン,カラシ油配糖体などを保有することで、不味くさせることによって植食者からの攻撃を回避する。他にはポリフェノール,タンニン,リグニンなどの高分子化合物で消化し難くするもので、これらは防御代謝系と呼ばれている。
これらは積極的に身を守るための植物の思考による目的のある変異で、変異に何の目的もないときこれらを体内に備える必要はない。これらの植物の知性に対して、動物は解毒酵素を備えることで対抗している。このようなことは植物だけで考えたことではなく、捕食者がいることによって考え出された生物の切磋琢磨ではないだろうか。
一方、クラゲは広い海域で生息するが、多くの海中動物の移動速度に比べてクラゲは移動速度が遅い。これは陸上の動物と植物の速度差に匹敵するもので、陸上の植物のように捕食されやすい。そこでクラゲの多くは毒を保有することで捕食者からの攻撃に対処している。そのようなクラゲでも特殊な環境で生息するものの中には毒を削除したものがいる。世界の何ヶ所かで確認されているが、パラオでも外洋と直接通じる水路ではなく岩の隙間で海水が流入する湖には、クラゲの天敵が侵入することができない領域がある。唯一、クラゲの幼生が海水と一緒に岩の隙間を通過することができ、湖で成長して大きくなったクラゲは再び外洋に出ることはできない。
これによってこの湖には膨大な数のクラゲが生息するが、ここは隔離された領域で天敵がいない。そのため、この湖のクラゲは毒を保有していない。すなわち、生物は自然環境や生活環境を認識することで試行錯誤と切磋琢磨の結果が知的創造物で、ストレスがなければ試行錯誤は必要ないし、捕食者がいなければ切磋琢磨も必要ない。さらに、備えていた毒であっても天敵のいない環境になると、いつまでも不要なものは持ち続けない。
進化の本質は?
ここでは環境条件,ホルモン条件,欲求条件,知的条件などとして数多くの生物の生態を書き連ねた。これらは私が知り得た一部を記したものであり、これ以外にも数多くの類似の生態がある。さらに、私の知り得ない生態も数多く存在しているであろうことは、容易に推測できる。
でも、ここではこのような生態を羅列するのが目的ではない。このような生態から、進化の本質がほんとうに遺伝子のエラーによって可能か否かを認識するためのものである。
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