U部  見えない領域を見る

4章 突然変異の信憑性・・・
(これでも突然変異?)

従来論でいわれてきた突然変異の考え方が、生物の生態から乖離したものであることを説明します。同様に、自然淘汰の考え方も進化の変異についてのものではないことを示します。だからといって変異が相互作用によって生じるものではないし、一連の化学反応によって生じるものでもないことを示します。


4章 突然変異の信憑性 もくじ
   「初めに突然変異ありき」ではない

   自然淘汰の誤解

   相互作用か一連の化学反応?




「初めに突然変異ありき」ではない

ここでは2章と3章を振り返りながら、これまでいわれてきた突然変異や自然淘汰の考え方が、生態に基づいたものであるかを考えることにする。2章では熱帯雨林,サンゴ礁,水中哺乳動物,コアラ,馬の蹄,象,兎,白鳥などについて説明し、3章ではフィンチとミッスイの嘴,鷹匠の鷹の嘴,食生活と顎形状,破骨細胞と骨芽細胞,ウミイグアナとエルニーニョ,旱魃の羊,魚の性転換,ミジンコ,温室植物,隔年豊作などについて説明した。

ここではこれまで進化として語られることのなかった「3章・生態の分類と分析」によって説明してきた。しかし、この分類や分析が正しいと主張するものではない。しかし、この2,3章に示した生態は突然変異や自然淘汰といえるものではないであろう。さらに、ここで示した生態は特殊なものだけを集めたものではなく、ごく一般的な生態で大多数の生物がここに示した生物に類似するものではないだろうか。

考え方の相違と環境認識
従来論とここでの考え方が決定的に異なることが二つある。一つは初めに突然変異ありきか否かで、もう一つは変異に目的があるか否かである。これまで進化を考えるとき、この部分の領域が人の眼には見え難かったのではないだろうか。

従来の考え方の基本には、突然変異といわれる変異がまず発生する。このときの変異は遺伝子のエラーといわれるもので、その多くがマイナス要素であるから進化には値せず、これは自然淘汰の篩にかけられることで消滅するものとされる。それゆえ、このような発生原因による変異に目的はないとされる。しかし、そのようなエラーの中にも地質年代に一つぐらいは環境の変化に偶然マッチングするプラスのものがあるとされ、これが進化につながるとされてきた。

一方、ここでの考え方の基本は、進化の変異はむやみやたらに生じるとはしていない。総ての生物が自然環境や生活環境が認識できている。その中で環境に変化が生じると、それに伴ってストレスが生じる。しかし、生物に備わるホメオスタシスの制御によって多くのストレスは解消できる。しかし、自らに備わる制御能力以上のストレスを受けると新たな対処が必要になる。その対処が知恵だけでストレス解消できれば良いが、知恵で解消できないとき変異が必要となり、新たな形質や機能を思考によって創造するもので、この創造ができたとき自ら変異を促して実行することになる。

これによって進化の変異はエラーによるものではなく、思考によって自ら知的創造したことになる。それゆえ、変異発生段階で目的は必要不可欠である。この結果、得られた形質や機能は変化した環境にこのうえなく適応できることになり、適応進化といわれる所以はここにあると考える。

ここで環境の認識について考える。すでに3章の環境条件の冒頭で示したように、生物に影響を及ぼす環境には自然環境と生活環境がある。生物はこれらの環境を認識することができている。それゆえ、自然環境の寒さから逃れるために渡りをする鳥が現れる。同様に、生活環境の捕食者から逃れるために陸上から樹上に生活領域を変える動物が現れる。この渡りや領域変更は知恵によるもので形質として変化するものはほとんどない。

しかし、同じ自然環境の寒さでも渡りをするのではなく体毛を増やすことによって凌ぐものもいれば、生活環境の捕食者でも生活領域を変えるのではなく体表に刺を備えることで保身とするものもいる。これは知恵だけではなく形質を伴うものとなり、進化の変異といわれるものに相当する。これら知恵による対処や形質の変異は動物だけではなく植物も同様であることは言うまでもない。

すなわち、自然環境の変化であれ生活環境の変化であっても、生物は環境が認識できていて、その変化によって生じるストレスを自ら解消できたものが生き残ることができる。そのときの対処が渡りや領域変更のように形質の変異を伴わないものや、体毛や刺のように形質の変異として現れるものもある。

これまでの進化の変異とは形質の違いのみが議論されてきたのではないだろうか。ここでの考えは形質の変異に関係なく、環境変化によって生じたストレスを解消するために思考することである。結果として、知恵で対処できれば形質を変える必要はないし、知恵で解消できないとき形質を変えることになる。すなわち、形質の変異はストレス解消の数多くの手段の一つに過ぎないということになる。ここでは生物の生態の一つひとつから見えてくるものは、知恵も変異も自らの意思によって制御していると推測するのに難しくないものばかりである。従来論ではこれら総てがエラーとされ、生物の意思や思考によるものとは扱われなかったのではないだろうか。

生活領域の変更
これまでの「初めに突然変異ありき」の考え方には、他の矛盾もある。これまで進化の理論を展開するとき、陸上や水中の一領域だけで進化を考えることで、矛盾を生じさせない議論で済ませてきたのではないだろうか。それゆえ、変異をしない個体であっても長い時代に渡って生き続けられることになる。

生物が生息する場所は陸上,水中,空中(樹上),土中などの領域がある。それらいずれかの領域中で生息する限りは、環境が僅か変わっても生活可能であるし、逆に、そこで生活する生物の形質が多少変わっても僅かな変異の累積とされることと、ホメオスタシスの機能によって生活できることになる。これによって環境が多少変わろうとも、形質が僅か変わっても両者が生き続けることになり、その時間経過の中で自然淘汰によって生き残るものと滅びるものに分かれるとされてきた。

しかし、環境変化の中には四季の変化のようなものだけではなく、干ばつのようなものもある。これは外部的要素によるものであるが、これと類似のもので内部的要素のものもある。たとえば、水中から陸上に移行することや、逆に、陸上から水中に移行するとき、生物にかかるストレスは旱魃や大規模寒冷化と同等のものとなる。これらの変化は生物に備わる制御機能の範囲外となり、制御不能で滅びることになる。

これほどでもないが類似のこともある。陸上から樹上に移行することや、同じ陸上でも昼行性から夜行性に変えることも類似である。このように生活領域を変えることや生活スタイルを変えることは、自然環境や生活環境の変化が理由であっても、領域を変えることは生物の意思に他ならない。そして、それまで生活していた領域での制御機能では制御困難な状況になり死ぬものがあるとしても、それでも生き続けるものもいる。

生物は進化の過程でしばしば異なる生活領域を選択してきた。これを現実に合わせて別領域で考えると不自然になる。ゲノムによる進化系統樹ではマナティーは象に近く、クジラはカバに、アザラシはクマに近いとされている。これは彼ら両者で祖先が共通する可能性を示している。彼ら水中哺乳動物の祖先は、水中生活者ではなく陸上生活者とされている。これは継代の途中で生活領域が陸上と水中に分かれ、生活領域の異なる環境で適応進化したことになる。

そのような彼らがなぜ水中生活になったか。従来の考え方で説明すると、陸上生活している哺乳動物の中で突然変異が発生し、その突然変異は足が鰭に変わることや退化することで陸上生活には適さなくなった。その突然変異を生じた哺乳動物の中で、その後陸上から水中に生活領域を移したものは生き残っている。それがクジラやジュゴンであり、アザラシということになる。一方、水中生活に適応した突然変異を生じた哺乳動物でも、水中に移行せずに陸上生活を継続していたものは自然淘汰されたことになる。これが初めに目的のない突然変異ありきの考え方によるものであろう。

それでは、ここでの考え方とはどのようなものか。一般的に動物が異なる生活領域に移行することとは、捕食者に命を脅かされた動物が安全を求めることや、旱魃などによって食料を失った動物が餌を求めることなどで、新たな環境を求めて陸上から水中に生活の場を移行することや、逆に水中から陸上に生活の場を移し変えることがある。このようなとき生命の危険の切迫から、まず生活領域を変えることになる。しかしながら、従来から備わる機能では前の陸上の環境には適応するが、新たな水中の環境ではストレスが生じることになり、移行した水中環境に適応する必要に迫られる。結果として、水中で生活するにはそれらの動物は遺伝子のいくつかを変える必要があり、備わる機能も変異することになる。

たとえば、生活領域を変更したマナティー,クジラ,アザラシなどの祖先について、陸上生活していたときの遺伝子を正しく受け渡しできたのが99.9%で、残りの0.1%が突然変異をしたとすると、従来の考え方では99.9%は安定して生き続けるが、0.1%がマイナス要因で適応できずに淘汰されるとしてきた。しかし、このように生活領域変更種は、遺伝子を正しく受け渡された99.9%の個体は陸上から水中に生活領域を変えたことで、環境変化による苦痛や強いストレスを受けることは言うまでもない。その一方で、突然変異をした0.1%の動物も、エラーによるマイナス要素である。

これによって生活領域を変えた動物種は、移行した環境に総てがマッチングしないことから生体内での制御が困難となる。このような環境ではエラーの個体は言うに及ばず、正しく遺伝子を受け渡した個体であっても、陸上から水中に移行した動物は毎日の生活さえも困難となる。このような生活を数百万年繰り返す中で、進化の変異に遭遇するかどうかわからない0.1%の突然変異を繰り返して生き続けることができるだろうか。

このような状況で地質年代に及んで生物が生き続けることができるならば、進化の変異は必要ないものになる。それにもかかわらず陸上から水中に生活領域を移行した動物は異なった環境で生き残ってきたし、変異をしてきた。このようなことは陸上から水中に移行したものだけではなく、他の生活領域に移行した動物であっても同様である。さらに、植物のように自らは異なる生活領域に移動しなくても、異なる環境がやってくることで環境が変化しても適応できているものがいる。

これまで地球上でそれぞれの時代を生きてきた生物は、そのときどきの自然環境や生活環境を認識し、そのうえで生き残ろうと努力するとき機能や形質に変異が生じる。そのとき生じた変異には目的に応じた機能や形質が備わっている。このような変異は、これまでいわれた突然変異と自然選択のような他力のものではなく、環境の変化を認識した生物の自力の変異であるから、限りなく環境に適応できているというべきものではないだろうか。

別のケースを考えてみよう。陸上生活していた多くの哺乳動物の中には逃げ足が遅く捕食者から狙われ易い動物もいた。そのような動物はどうしたか。コアラのように樹上生活に移行するもの、ウォンバットのように地面に穴を掘って地下に逃げ込むもの、そして、カバのように水中に避難することで絶滅を逃れてきた。このことは陸上動物が水中へ生活領域を変えることや、それまで昼行性だった動物が捕食者の眠る夜行性に生活時間を変えることも、自らの意思であるから突然変異ではないし、長い時間を費やしたから変異するものでもない。同様に、同じ陸上生活の動物でも密林から草原に移行することによって、形質の変異を迫られたとするものも少なくない。たとえば、キリンの首や馬の中指一本立ちのように、生活領域の変更や生活スタイルを変えたことによるものとなるであろう。

領域変更のきっかけとなる原因は、天敵から身を守ることや餌を手に入れる手段、そして、気候変動による悪環境からの回避などさまざまではあるが、それまでの領域とは別の領域に活路を見いだすもので、そのとき一歩を踏みだすときの最終結論は、それぞれの動物が自ら思考して出した結論によってそれまでとは異なる環境へ移行することになる。

これは動物の意思と判断以外の何ものでもない。そして、それまでの領域と移り変わろうとする領域の両方を認識して双方を比較する。そのうえで何れか一方を選択し決定する。そこでは思考は不可欠で決定後の一歩を踏みだすのは動物の意思となる。そのときの彼らの判断は生き残るための手段として自ら異なる環境を選んだもので、その後は移行した環境に適応させるためにそれまでの足を鰭にすることや退化させた。そこでの異なる環境の選択も適応のための変異も自らの意思によるもので、遺伝子のエラーというものではないであろう。

一方、旱魃などで餌が枯渇したとき、イグアナのように新たな餌場を捜し求めた場所が水際であったと考える。そのようなときでも一つの種の総てが同じ考えではなく、それでも陸上に居残るものもあれば、水中に移行するものもいたというべきではないだろうか。なぜなら、ガラパゴスのイグアナのように総てがウミイグアナになったのではなくリクイグアナも存続し続けているように。

これに相当するものは数多く見ることができる。魚類のムツゴロウやトビハゼが水の中から出て干潟や岩場で多くの時間を費やす姿は、その目的が餌や競争相手にあるにしても、それまでの水中から出てまでの生活の変化はムツゴロウやトビハゼの意思決定で、遺伝子のエラーが起こったことによるものではない。

同様に、トビウオは捕食者の大型魚に襲われ必死で逃げるとき海面から飛び出していた。これはきっかけであったとしても、以後の生活では胸鰭をさらに大きくすることで滞空時間を長くして一時的に生活圏の変更をすることで捕食者からの攻撃に対して身を守ることを可能にしている。これを従来説でいうならば、トビウオの中に遺伝子のエラーによって胸鰭の大きな変異体が誕生し、その変異種は海中から陸上ではなく空中を目指しての移行期になっているという表現をするのであろうか。

これまで突然変異や自然淘汰は当たり前のように語られてきたが、これらの理論はごく狭い領域や部分的生態では成り立つように見えるものの、多くの生態を比べることや広い領域では成り立たない理論ではないだろうか。従来論は、生物の適応進化からの逆推理によって導き出したものと推測する。

生物は環境適応に遭遇するまでただ待つのではなく、積極的にストレスを解消してきたから生き残れたのであろう。これは初めに遺伝子のエラーが起こらなくても、以前と異なる環境で生活するとき、自らに生じるストレスを解消するには新たな機能遺伝子が必要になり、「遺伝子の一つや二つ変える必要がある」ことを語っている。すなわち、遺伝子のエラーの中から自然淘汰によって環境に適応できたのではなく、環境に適応しようとした結果、遺伝子の一部を変える必要があったことを意味するもので、このことを分子レベルは認識して対処してきたから、大多数の生物が適応進化に至ったことになるとすべきではないだろうか。

これまでいわれてきたことは、生物種の違いはDNAの違いであり、DNAの違いは生物種の違いであるとされてきた。しかし、同一生物種のヒトでもDNAはおよそ0.1%の違いがあるとされている。それではこれは間違いか。そのようなことはない。同一生物種であっても異なる環境で長い歳月生活すると、DNAのいくつかは変化しても不思議ではない。以上より、生物種の違いはDNAの違いであっても、DNAの違いが必ずしも生物種の違いになるとは限らない。

変異の発生と終了
生物は自然の変化に伴って自らを取り巻く環境の変化を認識して思考する。その結果、生物の意思によって変異することを選択するか、変異しないことを決定するものと推測する。生物は自然でも生活でも環境が安定しているときに変異の必要性はないし、変異のために必要以上のエネルギーを使う必要もない。進化の変異は熱帯雨林でも絶海の孤島でも、むやみやたらにランダムに発生するものではなく、変異の発生そのものに目的がある。このことは生物にストレスが生じたときにストレス解消のための思考する。

その思考の結果、ストレス解消に知恵だけで対処できるときには変異はしない。知恵だけではストレス解消できずに形質の変異を必要とすると、変異を開始することになる。このときすでに目的は決まったことになり形質の最終形態は定まっている。その後、形質が変異して生物の意思に伴った変異に移行できると、ストレスや欲求に対して適応的結果を導き出せたことになり、それまでのストレスや欲求が解消もしくは緩和される。これによって変異のプロセスは終了することになり、新たなストレスが発生するまで次の変異が生じることはない。

もしも、ある種の生物の生息領域が地質年代に及ぶ長い間、自然環境や生活環境が安定してストレスが生じないとき、そこに生息する生物は進化の変異をしないことになる。これは変異をしないのではなく、変異をする必要性がない。これがいわゆる生きた化石といわれるものとなるであろう。

変異するには多くの努力とエネルギーを必要とすることから、生物は非生産的なことや非効率的なことをしないことから考えるとき、環境が安定しているとき変異しないことは生物が生きるうえで理に適っている。これによって生物はストレスの発生の有無により変異を生じている時期と、変異することなく単なる世代交替を繰り返す時期とが見られることになる。

生物が認識する環境とは、個体レベルで大きなものは隕石の衝突や地殻変動があり、小さなものはミジンコが暮す小さな水溜りなどがある。それらの環境変化などによって生物にストレスがかかったとき、変異の引金が引かれることにる。ミジンコは環境が安定しているときは変化を必要とはしないことから雌の子供を産み続けるが、環境に変化の兆候を感じると雄の子供を生み、交尾することによって休眠卵とすることができる。

ミジンコにとって環境が安定し続ければ休眠卵を産む必要はなく雌だけで充分であり、変化させる必要は微塵もない。このことは生物の大多数に共通している。それらはストレスに対する対策として変異しているもので、その変異を制御しているものがタンパク質や酵素であることは、遺伝子配列の変化はストレスによって促されると考えるべきものである。このミジンコについては進化の変異には当らないが、環境と変異の関係を示す一つといえよう。

これに付随して、生物の中には捕食者がいるか否かによって身体が変化するものがいる。たとえば、ミジンコでは捕食者がいないときを通常の姿とすると、捕食者がいるときでは体表に刺が生じる。このような変異はおよそ10種類の微小動物で確認されている。このようなことは生活環境の捕食者を認識したうえでの変異であり、動物の意思によってなされるものである。それゆえ、捕食者が出現したとき遺伝子のエラーが生じて刺ができるものではない。これも突然変異? そのようなことはない。ミジンコの保身のための意思によるものであろう。

生物には形質として表現しない知的な行為が数多く認められているし、形質の変異についても知性の関与なくしては不可能な変異を見ることができる。生物が環境に適応できているのは、生物は常に日常環境を把握していて、その環境が変化したとき自ら変異の必要性を認識して変異するもので、環境変化の対策が進化の変異につながる。その結果、進化の変異は環境に限りなく適応できることになる。このことから、適応進化といわれるものは自然に選択された結果ではなく、生物の知性と文化によって創造されたものではないだろうか。

生物にとっての環境認識の中には、同種や異種生物の優れた機能を認識することもある。この認識された機能は時として自らの欲求となり得るもので、これが新たなストレスの一つになる。この欲求に対するストレスは新たなものの創造や新たなホルモンの分泌によって解消しようとするであろう。

進化停止状態とは
長い期間を要して進化したとされる生物が、ある時点以降ピタッと進化の変異を停止することで、進化に要した期間の何十倍,何百倍もの期間、進化を停止した状態を維持することの証明も必要である。キリンの首や象の鼻が伸びる期間と、それ以上に長い期間進化が止まり、それ以上伸びることなく、逆に短くなることもなく、さらに、それとは違った進化も発生しない状況は随所に見ることができる。いわゆる進化停止状態となる。

一方、偶然によって起こるとされる突然変異は、1回と限定されるものではなく2回,3回と起こっても不思議ではないし、目的のない突然変異の理論からは何回も起こるべきであるし、従来論では突然変異は何度も起こるとしている。それにもかかわらずそのようなことを見ることは少ない。その理由としていわれることは、突然変異は起こっているがたまたま有利なものがなく環境に適応しなかったため、それらは淘汰したというのである。

しかし、キリンの首は高い木の葉を食べるには他の動物に比べて有利ではあるが、足元の池の水を飲むには極めて不自由で、そのときの姿は無防備そのものであることは、現在の環境だけを考えても野生動物として決して完成した姿ではない。それゆえ、長い期間の進化と考えるならば、今とは違った進化を模索しても良いはずである。しかし、進化が継続している兆候は見えてはこない。

ここで考えることは、多くの生物が生息する領域では食物連鎖が働き、そこに生息する生物には大なり小なりストレスがかかることになる。そのストレスを解消や緩和するために思考することになる。この思考は限定された生物によるものではなく、大部分の生物がこれを行なう。これが互いを刺激し合うことで切磋琢磨する。しかし、このような切磋琢磨には多大な努力が求められて多くのエネルギーが必要とされる。

そのような経験を継続していた生物にとって大陸から切り離されて絶海の孤島になると、海洋性の気候によって自然環境が安定し、生活環境の捕食者の恐怖がないとき、それまで生物が抱えていたストレスは皆無に等しくなる。そのため、ストレスが解消された生物には、もはや多大な努力と多くのエネルギーを使って自ら変異を促す必要がない。これによって生物は進化の変異が停止した状態となり、単なる世代交替が繰り返されるであろう。

これは何も絶海の孤島に限定するものではない。生物は地球上に均等に分布するのではなく立体パッチワークのような状態で分布している。すなわち、地形的,時間的,空間的に直接見ることのできない領域が設定されている。その領域内で生活する生物にとって自然環境や生活環境が安定して解消すべきストレスが生じないとき、新たな変異は必要としない。

もしも、従来論のように変異が目的もなくランダムに発生する遺伝子のエラーによって有利なものがあるとするならば、たとえ絶海の孤島でも大陸の進化のように有利なエラーによって誕生した新たな生物を示す必要があるが、それらが示されることはない。

従来論とは異なり、ここでは変異そのものに目的があり、ストレスが発生しなければ進化の変異も発生しないとしている。一方、事故の変異は地域に関係なく孤島でも発生する。しかし、それらは事故であって生物にとってはマイナスの変異であるために、マイナスを負った個体は自然界で生き続けること事態が困難となる。さらに、事故の変異は破損や喪失のため、これから将来につながる新たな種には成り得ない。これらから大陸から切り離された絶海の孤島では、切り離された当時の生物がたいした変異をすることなく生き残り、進化停止状態が継続されるであろう。

視点を変えてみよう。ムササビは哺乳類でありながらコウモリのように空中移動することが可能である。しかし、現在は滑空だけで飛行には至っていない。いうなれば進化を中断した状態が続いていることを意味している。ムササビは一度の滑空で木の高さの2倍の距離まで滑空できると仮定すると、高さ25mの木々の林では50mの距離を飛ぶことができることになる。現在のムササビの生息環境は木々が林立していて5〜10m間隔で隣り合っている林では、50m滑空できるムササビにとって移動のために地上に降りる必要はなく、地上生活する捕食者のストレスは皆無でコウモリのように何qも飛行する必要がない。

もしも、ムササビの生息環境が現在の林ではなくサバンナのような草原に、10m前後のそれほど背丈の高くない木が50mから100mの間隔で点在する環境になり、地上には捕食動物が歩き廻っている状況に変化したとすると、そのような環境移行期にはムササビは現在の滑空から飛行に移行するであろう。そのとき現在の滑空の機能から飛行の機能に変わるには、形質の一部を変える必要が生じることになるであろう。

現在のムササビが滑空でそれ以上の飛行をしないのは、突然変異が発生していないのではない。現在の環境では現在の滑空で充分安全で、それ以上を望んでいない。そのようなムササビも環境が変わって安全が脅かされると新たな変異が必要になる。ムササビの滑空一つであっても、それは自らを認識して環境を理解しているもので、変異のそれぞれに目的があることを示している。目的も必要性もないときストレスは生じないし、変異も必要としない。

これに関する事例は数限りなくある。これらのことは地球生物の進化は変異する期間と変異しない期間とがあることを示すもので、軽微な変異と自然選択の長い期間をかけた累積でないばかりか、生物の意思とは関係なくランダムに発生する目的のない突然変異によって起こるものでもないであろう。さらに、進化に要する期間は地質年代に匹敵するものといわれていたが、そのように長いものではなくもっと短い期間で終了するもので、生物にとって多くの期間は変異をしない世代交替が続けられているというべきではないだろうか。

環境認識と思考
生物は気温,降雨,日射,海流を始めとする自然環境を認識し、捕食,被食,植食を始めとする生活環境を認識している。日常生活の中で生物には自然環境や生活環境の変化に伴うストレスや自らに新たな欲求が発生するとき、その変化に伴うストレスを緩和もしくは解消し、欲求に対する満足のために自らの思考と知性によって創造する。その創造の一つが変異で、変異を必要としない知恵だけの処理もある。それゆえ、進化の変異そのものに目的があり、変異は能動的で自らの意思による。この結果、生物の大多数が適応進化といわれる所以となる。そのため、環境が安定してストレスを生じないとき変異は必要とせず、環境が変化することでストレスを生じるとき自ら変異を促すことになる。

従来から進化といわれる形質の変異とは、生物自らの思考によって創造された知性,システム,形質など数多くの中のごく一部を指すもので、形質の変異だけを進化と扱うことは適当ではないであろう。さらに、創造の内容も環境が大きく変化しているときには生死にかかわる生き残りの創造が多い。これに対して、環境が安定しているときには生死にかかわる創造は必要とせず、新たな欲求を満足させる創造が多くなる。例えば、極楽鳥のように。それらの中からこれまで私たちは進化論を考えるうえで大切なものを置き忘れてきたように思う。

従来の考え方では、生物は身の回りの環境である自然環境や生活環境に適応できた生物が生き残り、環境に適応できなかった生物は淘汰される。すなわち、偶然と突然によってそれまでとは異なる形質になった生物が、自然や生活という環境の篩にかけられて生死の選択を受ける。もしも、従来論が正しいとするならば、ヒトを含めて地球生物に知性は必要なかった。しかし、生物は自らが備える機能と異なる環境に遭遇したときでも、知性を働かせることで生き延びてきたことを推測させることを数多く見ることができる。

上記では、ヨシゴイやヨタカの擬態について説明した。これらはポーズを変えたものであるから遺伝子の変化は起こっていない。だから進化ではない。しかし、環境を認識して、自らの知恵によって身を守っている。似たようなものがある。カニの中には、モクズショイやヨツハモガニという名のカニがいる。彼らは自らの生活環境に多く茂る海草を切り取って甲羅の刺に突き刺すことで、自らの身体を海草によってカムフラージュしている。これらは遺伝子の変化によって進化したタツノオトシゴたちと同じ目的である。

このように遺伝子の変化のあるなしではなく、環境を如何に認識し、どのような対応するかであって、遺伝子を変える必要があるときもあれば、遺伝子を変えずともポーズを変えることや、自らのものではなく体外技術的なものによって保身することも可能であることを示している。すなわち、進化の変異とは、思考による知的創造の中の一つに過ぎないものであろう。そして、これまではその一つに過ぎない狭い領域の形質の変異だけを進化として扱ってきたもので、それ以外のポーズや知恵による対処は進化から除外されてきたのではないだろうか。

話は変わります。 生物の生活する領域が陸上や水中であるとき、環境の違いはあるとしても一般的に生物が生息する領域は同一領域が大部分である。自然環境や生活環境が同じ生活領域で生活する複数の生物種であっても進化の変異は同じではない。従来論が正しいとするとき、それぞれ異なる突然変異が発生したとしても、自然淘汰による生き残りであるならば収斂進化のように類似にならなければならない。

たとえば、地球上の限られた領域である熱帯雨林の林床や樹冠では自然環境や生活環境が類似し、立体パッチワーク1ピースの狭い領域と見なすことができる。そのような同じ環境の中に類似種が数十,数百に及ぶ。擬態として有名な動物は数多く知られているが、あまり知られていないものの一つにツノゼミがいる。

ツノゼミは擬態の名人とされ、およそ3200種もいるとされている。3200種もいるからといって世界中に分布するのではなく彼らはアマゾンに生息する。それは立体パッチワークの1ピースに当たる。すなわち、彼らが生息する環境は同じような環境で、進化でいうと収斂進化に行き着く類である。そのような環境でありながら3200種になるということは、彼らは自らを何に似せようとするかで決まり、環境によって選択されて類似の形質になる収斂進化とは逆の方向を備えることになる。

あるものは身の回りに多くある木の棘に似せるものがいる。棘の生えている木にツノゼミが止まっていると、木の棘かツノゼミか区別するのが困難である。又あるものは植物の花に似させることや、枯れた蔓に似せている。これらはツノゼミが身の回りの環境を見て思考し、動物である自らの形や色を変異させて植物の一部に似させている。こうすることで捕食者から逃れることができるメリットは計り知れないであろう。

このようなことはそれぞれのツノゼミが自らの思考によって目的対象物を決定していることに他ならない。これが進化の過程で、あるとき突然に現れることには確率的にも無理がある。ましてや生息環境のそれぞれ異なったものに似ることの確立は皆無とすべきではないだろうか。擬態に表現されるものとは単に形が変異する安易なものではなく、自らが目的対象物を特定して変異しようとする。それも昆虫が別の種の昆虫に姿かたちを似させるならまだしも、昆虫でありながら植物の葉や花、さらには幹の一部になりきることが可能なほどの技術まで備えている。

このような擬態については長い時間を要したからといって変われるものではない。ましてや目的のない遺伝子のエラーが如何に繰り替えされようとも、生物の思考なくして可能なものではないであろう。この意味からも進化の変異そのものに目的があると推測する。さらに、これらがエラーであるならば、刺や花や蔓のような変異が昆虫から生じるだろうか。これは昆虫が環境を認識しているに他ならないであろう。さらに、認識だけではなく、自ら変異を促しているとするもので、認識だけならば変異までにはつながらないであろう。

ここでは擬態生物について目的対象生物としているが、擬態をしなくても生物が変異することとは、擬態と同様にそれぞれの生物が目的を持った変異をすることを意味している。そのときの目的とは自然環境や生活環境に適応することで、これらの環境に適応できたときには擬態と同様に変異が終了する。それゆえ、大多数の生物が適応進化といわれるような変異が可能になる。そして、次の変異が必要となるまで変異はせずに世代交替を繰り返すであろう。

従来進化の変異に目的はなく、如何なる変異であっても変異の後の自然選択で環境に受け入れさえすれば進化と見なされる。いい換えると、たとえ生物が意図していたものとは異なる変異であったとしても、生き残ることができさえすればそれで進化したことになる。しかし、擬態の変異は単に変異すれば何でもよいのではない。変異そのものに決まった目的とする対象物があり、その目的対象物以外の変異では意味をなさない。そこでは生物の意思のみならず思考によるものであって目的意識がはっきりしている。

進化の変異の中には単一の機能では意味をなさないことも少なくない。中でも擬態や保護色では一つの要素ではなく複数の要素が関係する。たとえば、形状や色彩そして香りや機能まで複数の要素が達成できたとき擬態や保護色が可能になる。従来論ではこのような複数のエラーはランダムに生じたエラーで、それぞれ一つひとつのエラーに相互関係は存在しないとされている。すなわち、一つのエラーによって新たな一つの機能を得ることができたとき、従来論でいうところの進化の変異になるとしても、そのようなエラーが複数累積されてもそれらに相互関係がないから、従来論による変異の発生からは擬態や保護色の生物が誕生することはできないことを意味することになる。

一方、野鳥が生きるうえで食料は欠かせないものである。鳥の意思と思考が関与すると推測するものに餌の採取方法がある。もしも、餌採取の選択肢としていくつかの種類があったとしよう。その中で自らの嘴に最適な餌を常食にしていた野鳥であったとしても、環境の変化によって常食が枯渇したとき何も考えずに死んでいくだろうか。常食以外の餌を求めるであろう。これとは逆に、これまでになかった嘴形状の個体が突然変異によって誕生したとするとき、その嘴に最適の食料がなかったとすると、その個体は淘汰することになる。

もちろん野鳥にとって自らの嘴形状に最適な餌を探すであろうが、最適の餌があるとは限らないし、そのようなときでも生き残るためには類似の餌で対処するであろう。しかし、自然淘汰の考え方はこのような僅かな思考さえも排除した説明ではないだろうか。現実には旱魃などによってそれまで主食にしていた餌も水分量は変化して硬くなるものもあるだろうが、そのような状況でも食べられるものを探して生き残っている。たとえば、日本に生息する鹿では春夏秋は緑の草や葉を常食にするが、常食のない冬には木の皮を食べることで生き残る手段にしている。

ハワイのミッスイの中にはフィンチ以上の変り種がいる。それは上下の嘴が異なるものである。嘴の上は細長く弓なりになっているのに対して、下の嘴は上の長さの半分ほどで短く丈夫である。そのようなちぐはぐな嘴をどのように使うかである。嘴の上下を左右にずらせて、下の嘴でキツツキのように木の幹に穴をあける。上の嘴ではその穴の奥底の樹液を吸い取ったり、穴の奥にいる虫をかき出したりする。ハワイにはキツツキの仲間は生息していない。しかし、キツツキと種は違っても餌を求めて考えることは類似するもので、これには思考による目的があるための変異であろう。

この鳥は木をほじって中の虫を食べる種と、花蜜を飲む種の両方の機能を一匹の個体として備えたものである。これまでのフィンチやミッスイのさまざまな嘴の形状が思考を一切排除したものであるとき、このような嘴の突然変異が発生したからといって、このような嘴の上下を使い分けることが思考なくしてできるだろうか。同様に、イスカという名の鳥がいる。この鳥は上下の嘴の先端が左右に曲がっている。この曲がりによって松ぼっくりの隙間をこじ開けて中の種子を取り出して食べることができる。これは松の実を常食にするイスカが自ら考えて実行することで、今日の嘴形状になったのであろう。

このような機能を備える種までもが遺伝子のエラーというのだろうか。これは彼らの餌の採取による思考以外の何ものでもない。このようなことは日常の学習から思考によって創造されるもので自らの知恵によって使い分けている。その結果として嘴が形状変化したとすべきものではないだろうか。




  
自然淘汰の誤解

総合説の中でもっとも重要なものが自然淘汰とされている。それは変異の発生がエラーであっても自然淘汰の篩にかけられることで、それぞれの時代に生息した生物は限りなく環境に適応できるとされてきた。そして、それを裏づけるかの如く多くの生物が環境に適応できている現実である。

従来論では突然変異によって形質の異なるものが誕生し、争いに強いか弱いかであることや生殖能力が優れているか劣るかなどの、競争原理によるものとされてきた。これは同種生物や異種生物であるから生活環境に当たる。一方、生物の環境には生活環境のほかに自然環境がある。自然環境では変化した自然環境にエラーによる変異がマッチングできるか否かということになり、生物が生き残れるか否かは必ずしも競争原理だけではない。

これまでの進化では分離して認識すべきところを多くのことが分離できずに混在した状態で議論されてきた。それゆえ、自然淘汰は競争原理によるものとしながら自然環境での適応などの議論もされ、自然や生活の環境さえも混在した状態で議論されることが少なくなかった。ここではそれらを分離して認識することや、これまで語られてきた認識に誤りはなかったかを考えることで、進化の本質が自然淘汰であるかを振り返ることにする。

異なる環境の認識 (自然環境)
自然淘汰が関与する生物の環境には自然環境と生活環境がある。ここではそれらを分離して考えるもので、初めに自然環境について考えることにする。地球上に生息する生物は地球の表面近くの空中,陸上,水中,地中を生活圏として生息することになる。陸上では熱帯や寒帯があり、高地や低地がある。一方、水中でも浅瀬から深海までがある。生物はこのような領域で生活するが、表面近くのこの領域は地殻変動や気象によって変化し易い環境でもある。

これまでの自然淘汰の考え方では、それぞれの生物に備わった機能には生物種による違いがあるばかりか、同一種でも個体によって僅かばかり違いがあるとされるものであった。そして、そられの生物が生息する領域は変化し易い自然環境で、環境が変化する度に生物に備わる機能の違いによって、生き残れるものと滅びるものとに選択されるとしてきた。これが自然環境による自然淘汰と考えられる。しかし、この認識は正しいだろうか。

生物にはホメオスタシスの機能が備わり、自然環境が変化してもある範囲内で制御することが可能である。それゆえ、自然環境が多少変化したとしてもたちどころに滅ぶというものではない。一方、ホメオスタシスの制御範囲が生物種によって差異があるとしても、それらの差異に関係なく自然環境の変化によっては大部分の生物が滅びることが少なくない。従来の自然淘汰では、この部分が分離して認識されていなかったのではないだろうか。

すでに述べたように自然環境には日常的なものと非日常的なものがある。日常的なものでは日の出から日没までの1日の変化や、1年を通した四季の季節変化などがこれに相当する。ホメオスタシスはこれら日常的変化の中で生じたストレスを解消,緩和することになる。

これに対して、非日常的なものでは火山の噴火や大規模な寒冷化、さらには旱魃や台風などがこれに相当する。これも自然環境の一つではあるが、これは非日常的なものである。それゆえ、生物が備えるホメオスタシスの機能によって制御できなくても生物に備わる機能の適・不適によるものではなく、事故として扱うべきものと考える。

従来論で自然環境を語るとき、日常的なものと非日常的なものが分離されずに混在した状態で議論されていたのではないだろうか。結果として、このような事故による自然環境の変化であっても、あたかも生物に備わる形質や機能が環境に適さないため滅んだとされ、それらも含めて自然淘汰としてきたのではないだろうか。

現在地球上に生息する生物は分類されたものだけでもおよそ150万種とされ、分類の不充分なものや未発見のものを含めるとおよそ数千万種とされている。さらに、現在では生息しない生物も化石によって過去に存在したことが確認され、すでに滅んだものは現存種の数倍から十数倍に当たる億に達するとされる。これらの滅亡した生物について、自然環境の変化に耐えられない形質の生物が滅亡したとか、生活環境の競争原理に敗れた生物が滅亡したとされ、これによって自然淘汰の理論を述べている。

しかし、地質年代を変えるような大変動とはその多くが大規模な寒冷化や地殻変動など自然環境の中でも非日常的なもので、これは生物が回避することのできない事故である。それゆえ、このような事故では進化で述べられる生物に備わった僅かばかり機能の違いによる適,不適によって篩にかけられるものとは意味が違うであろう。

これまで生物種が継代できなくなった大部分が、この地質年代の切り替わり時期に集中している。というよりは、むしろこのような事故によって膨大な生物が絶滅したときを地質年代の切り替わりとするもので、それぞれの生物が備える機能の僅かな違いを示す適,不適や、形質の有利,不利によって生き残るか否かとは異なるものであろう。

このように述べると、地質年代の切り替わりではなくても滅亡する生物がいると反論される。確かに。しかし、先に述べた事故は大規模なもので、台風や津波そして旱魃やエルニーニョのような地域限定の事故は数限りなくある。さらに、生物種の生息領域は地球上に隈なく均一に分布するのではない。

たとえば、地球上の僅か3%という狭い熱帯雨林に、全生物の半数以上が生息するとされるように、立体パッチワークの如く多くの生物種は狭い地域に限定的に生息する。そのため、上記のような地球規模によるものではなくても、旱魃,エルニーニョなどによる地域限定の小規模な事故であっても生物種が滅びる要素は数多くある。これは大量絶滅ではなく少量絶滅であるが、これも事故によるもので生物に備わる形質が自然環境に適応できるか否かではない。

しかし、このような事故によって短期間に大量の生物種が滅びることで地質年代の切り替わりとされながら、適,不適の両者が生きられない事故による生物の死までもが、これまで自然淘汰の範疇に組み込まれた状態で議論されてきたのではないだろうか。もしも、進化が自然環境に適応できたか否かであるならば、僅かな違いの両者が生きられない事故は進化の範疇として除外して考えるべきであった。このように生物として避けることのできない事故によるものが、あたかも生物の形質に有利,不利の僅かな個体差があるとか、自然環境に適,不適というような表現で生物の変異を議論すると、自然淘汰の正当性が損なわれるのではないだろうか。

競争原理と相対的優位性 (生活環境)
次に考えるのは生活環境である。生活環境には同種生物と異種生物とがある。同種生物は相手の性によって生殖相手であり、ライバルである。異種生物は相手によって捕食者であり、被食者である。この生活環境では争いに強いものや生殖能力が優れたものが生き残り、争いに弱いものや生殖能力の劣るものが滅ぼされるということで、これを競争原理によるものとして自然淘汰の理論証明としている。

この競争原理を一つの生物種の群れで捉えるとき、ある群れの中に新たな形質を備えた個体が誕生することは、争いや生殖能力に差異が生じるとして、それは次第に群れの中で大きな勢力となり、最終的には古い形質を備えたものから新たな形質を備えたものに入れ替わり新種の誕生となる。このとき群れの中では争いや生殖能力の優れたものが誕生することで、それ以前の古い形質を備えたものに取って代わるとしている。

生活環境での自然淘汰の考え方では、突然変異によってある生物種の中で「相対的優位性」を備えた個体が誕生することは、それによってそれまで生存していた生物の優位性が相対的に失われて淘汰されるとしている。これによって物理的強さの勝ち負けや繁殖能力などの競争原理が働くとされ、新しい形質を備えたものが受入れられることは、新旧が入れ替わることを意味する。このケースでの競争原理による自然淘汰の理論が正しいとするとき、生き残るものと滅びるものとで入れ替わることになり、種は増加しないことになる。

しかし、実際は相対的劣位性の生物種が滅んでいるのではない。現実には生物種は環境の変化や時間経過と共に増加している。その中で種が滅びる原因の多くは、上記で述べた自然環境の中でも生物にとって回避することのできない事故によるもので、新たに有利な形質を備えた生物が誕生したからといって、それまでの種の相対的優位性が失われたことで種が消滅するものではない。

従来論では最初一種類の生物が誕生し、進化することで現在の多様性を構成したとしている。それならば自然淘汰と種の多様性の整合性は何処にあるのだろうか。そこには類似の種が多数混在する中で、他の種に比べて遥かに優位性に欠ける種であっても、ヒト以上に長く生息している生物は数限りなく存在する。

この延長線上で異種生物について考えると、数億年前に誕生したとされるヒトデは身体の器官は口と胃しかなく、眼や耳はいうに及ばず頭脳までもが存在しないとされている。その後誕生した異種動物の魚類や哺乳類に比べると遥かに下等の範疇に属するもので、相対的優位性があるといえるものではない。もしも、競争原理の生き残りが自然淘汰であったならば、ヒトデなどは魚類が誕生する以前に滅んでしまう範疇に分類される生物であろう。それにもかかわらず現実には進化した動物といわれるような海中動物と一緒の環境の中で生活することができている。

これが意味することは何か。同種生物であろうと異種生物であろうと、新たに優位性を備えた個体が現れたとしても、それまでの種の優位性が相対的に失われて淘汰されることにはつながらないことを示している。生物の変異は単なる生き残りの競争原理や、自然環境や生活環境によって選ばれるだけの消極的なものではなく、それぞれの個体が自らに生じたストレスの解消や緩和で、新たな欲求も含めた積極的なものではないだろうか。そのため、カマキリのように強さを求める変異もあれば、蝶のように美しさへの欲求による変異もある。そして、それらの何れもの生物が生き残って淘汰されてはいない。

実際に生物が生き残り世代交替できているのは自然淘汰ではなく知性によるものであろう。一例を示すならば、生物種の半分以上を占めるとされる昆虫の形は小さく、多くの動物にとって捕食の対象としては最適である。しかし、彼らは変異によってあるものは自らの体液を捕食者が嫌う味にすることや、また別のあるものは擬態によって捕食者の眼にとまる機会を桁違いに減らしている。

これによって捕食されることを少なくできて淘汰には至らない。これとは逆に、餌としての昆虫を捕り難くなった捕食者が淘汰するのでもない。このような事象は捕食者の個体数増加を抑制する力が働くものではあるが、積極的に淘汰させるためのものではない。

自然淘汰の考え方とは、それまで備えていた優位性より上位が出現すると相対的に優位性が失われ淘汰されるとして、競争原理が考えの基本にある。しかし、「知性の特異性」では競争によって相手を淘汰させるものではなく、如何に生き残るかや切磋琢磨するための知性である。だから新たな優位性を備えた生物であっても必要以上の争いをするのではない。

現実の生物の世界では物理的勝ち負けで劣る生物であっても、彼らが指を銜えて滅亡するのを待っているのではない。そのような彼らであっても陸上から水中に生活領域を変えることや、昼間の活動から夜間の活動に生活スタイルを変えることなどをする。すなわち、知性によって別の生き方を模索することで地形的,時間的,空間的さらには知性的生活領域を創造する。これによって類似種や異種の生物を滅ぼすことなく生きることができる。これが生物の多様性につながることになると考える。

生物は自分以外の生物が同種であればもちろんのこと、異種であっても淘汰させようとはしていない。相手が被食者の場合、相手を淘汰させることは自らの食料を失うことにつながる。一方、自らが肉食動物で、相手が自分よりも強い肉食動物であったとしても、その相手の子供はしばしば自分の捕食の対象になり得る。

生物の生態系はこれまで自然淘汰でいわれ、有利な形質の生物が生き残り、不利な形質の生物が滅亡するとされてきたが、そのような形態にはなってはいない。同様に、有利の形質とは自らが生きるためのものではあるが、異種生物や類似生物を淘汰させるためのものではない。

意図的個体差と遺伝子のエラー
次に、これまで語られてきた認識に誤りはなかったかを考えるのに、同種について考えたい。動物が世代交代するときでは複数の子供の中には争いや繁殖能力に違いがあり、優れたものが生き残り劣るものは滅びるとされる。その生き残りが継代によって累積されると新たに進化した生物種になり得るとされる。その一方で、総合説では遺伝子のエラーはその大部分がマイナスのもので、プラスのものは地質年代(数百万年)に一つとされている。これはこれまでいわれてきたことであるが、複数の子供の中での争いや繁殖能力の違いは進化つながるとしているが、果たしてそうだろうか。

なぜなら、マイナス要素の機能の破損や喪失は遺伝子のエラーとしても、争いや繁殖力の優れたものが生き残り、その累積が進化に通じるならば、プラスのものは地質年代に一つではなくどの世代でもプラスのものが生じていることになる。もしも、遺伝子のエラーで進化に通じるものが地質年代に一つならば、世代ごとに現れる争いや繁殖力の優れたものは進化とは関係ないものとなる。一方、これらとは逆にマイナス要素の機能の破損や喪失は総てが遺伝子によるものであろうか。

私たちの観察では同じように観えることでも、異質のものが存在することがある。上記では進化の変異と事故の変異を分離した。ここでも分離して認識すべきことがあると考えている。それは同一親からの複数の子供の中にも遺伝子のエラーによる変化と、遺伝子が直接関与しない変化とがあることを分けて考える必要がある。もしも、これらを一緒にすると遺伝子に関係のない進化が起こることになり、理論の一致を見ないことになる。

従来の考え方では同じ親から誕生した子供の中で個体差が生じたとき、それが形質や生殖能力の優位性や劣位性とされてきた。そして、このとき生じた劣位性の個体は自然環境や生活環境によって淘汰され、逆に優位性の個体はこの競争に勝ち残りその生き残りの累積が進化種になり得るとされてきた。しかし、ここでは同じ親から誕生した複数個体の中に変化が生じたとき、それが遺伝子の変化によるものか、それとも遺伝子が直接関与しない変化かの区別が必要であると考えている。これまではこの二種類についても分離されずに混在した状態で議論されてきたのではないだろうか。

この競争原理の実例として挙げられるものに動物の成長過程が引用される。母親から誕生する子供が一個体のときは比較できないが、複数個体のときに個体差が認識できるものがいる。このとき陸上哺乳動物では成長途上で移動してその後の成長を観るのが困難なものが多いが、樹上巣作りの鳥類では巣立ちまで雛は移動できない。中でも鳥の中には木の頂きや絶壁の崖に巣を作るものがいる。このような巣の雛は親に近似の飛翔能力が備わるまで巣にいることになり、そのとき複数個体の雛では差異の認識が容易になる。そして、このとき際立った個体差が観られるものがあり、このときの優劣が競争原理の自然淘汰によって説明され、進化の理論の一つとされる。

たとえば、鳥の雛が成長するとき、巣の中の複数個体(カッコウやホトトギスなどの托卵によるものは別として、本来の親の卵による雛)には、個体差の観られないものと、明らかな個体差が観られるものがある。そして、このときの個体差が自然淘汰の象徴的実例としてもっとも多く引用され、進化理論の一つとされる。いい換えると、この実例によって自然淘汰の正当性を証明しているといっても過言ではない。ここで二種類の鳥について触れる。

オシドリは通常水面を浮遊して生活するが、繁殖時期になると大木の洞に場所を移す。およそ7〜8個の卵を産んで温める。卵は一度に全部産めるのではなく何日かかけて産むことになる。この結果、そのままの状態では、早く生まれた卵と遅く生まれた卵では、孵化の時期は異なることになる。しかし、親鳥は卵を暖めるとき調節することで、総てを一斉に孵化させる術を備えている。

孵化した雛に与える餌はない。孵化した一日後には大木の洞から親鳥の後に続いて巣立ちをする。しかし、孵化したばかりの雛は鶏のヒヨコと同じで、飛翔できずにその姿は単なる落下そのものである。そして、親に導かれて水辺に辿り着き、水草を食べることができる。このとき孵化した雛はみな同じような姿かたちで体格にばらつきはない。このような光景は、カモが都会の一角で産卵孵化し、その後、水辺まで移動するのに交通を遮断する光景がしばしばTVのニュースで見ることができる。カモも同様に雛に個体差を見つけるのは困難である。

一方、オシドリとは異なり、鷲や鷹の猛禽類では通常2〜3個の卵を産む。卵の数が少ないからオシドリよりも均一な雛になるのであろうが、そのときオシドリやカモには観られない際立った個体差が見られることがある。そして、このときの個体差が競争原理によって選別されるという説明になる。しかし、ここには一つの誤解がある。

繁殖に際して親鳥は最適環境を選んで産卵するが、雛に与える餌が常時確保できるものと、安定した餌が確保できないものがいる。すなわち、餌の環境は野鳥が生活する総ての地域が同じではないし、毎年同じとは限らない地域がある。なぜなら、植物の中には隔年結実や数年に一度の豊作のように年によって変化する種がある。鳥類はその植物の開花や結実を直接採取するものや、その開花や結実を拠り所に生きる昆虫やそれに付随する動物を捕食するものがいる。このとき餌となる果実や動物は一定ではなく、年によって大きく変化する要素がある。

オシドリの餌は水草で安定的に確保できる。しかし、肉食の鷲や鷹の餌は環境によって大きく変動することで、2〜3羽の雛を成長させることが困難なこともある。そのとき全滅させない方法の一つとして、雛に個体差をつけて採取可能な餌の量に比例して、発育の良いものから順に生き残らせる目的とされている。勿論、餌が充分にあるときは総ての雛を成長させることができるが。

そのため、集中的に産卵するのではなく、間隔をあけて産卵する。当然、孵化の時期はずれることから、早く孵化した個体と遅く孵化した個体では、際立った違いがでることは当然である。さらに、その後の給餌でも複数の雛に平等にするのではなく差をつける。これによって違いは一層明らかになる。

従来では一つの巣で複数の雛に個体差があったとき、それは遺伝子による優位と劣位の形質の違いとされてきた。しかし、このとき巣にいる複数の雛の個体差は、産卵時期や給餌という親鳥が意図的に雛に違いを生じさせたもので、この個体差は従来進化でいわれる遺伝子の変化とは直接関係のないものである。

それゆえ、未熟の個体が生育途上で死ぬか捕食者の餌食になったとしても、自然淘汰でいう形質の劣位によるものではない。逆に、順調に成長したものが優れた形質を備え進化したのではなく、親と同等を意味しているであろう。しかし、前者を自然淘汰と表現し、その逆に後者を進化と評価することで自然淘汰の正当性を述べているのではないだろうか。

上記では観察によって認識し易い鳥類について記したが、動物の多くが子供を育てるとき、複数個体の中から成体になれるものは5割〜3割とされ、少ないものでは2割〜1割とする動物種もある。すなわち、産卵や出産をしても自然環境の変化や生活環境によって総てが成体になれないことを知っていることは、このような制御は鳥類に限定されるものではなく動物の多くで考慮されているであろうと推測される。このようなことは単に環境によって淘汰されるというものではなく、過去の環境を認識したそれぞれの動物が、子孫を残すための知恵によるものではないだろうか。

これまで進化してきたものは鷲や鷹だけではなく、総ての鳥類が進化してきた。しかし、弱肉強食の自然淘汰で引き合いに出されてきたのは鷲や鷹で、オシドリやカモが対象にされたことはない。特定の種だけに引用される理論は進化に相応しいものではないのでは。生物の形質を左右するもっとも重要な遺伝子であるが、このように親の意図することで生じる個体差までもが自然淘汰に引用されると、進化の本質を誤るのではないだろうか。

証明されていないプラス要素
上記は親の意図的個体差について述べた。次に、遺伝子のエラーによる変異について触れる。遺伝子のエラーはそれまで備わっていた機能の破損や喪失であってマイナス要素以外の何ものでもない。それゆえ、エラーによる変異は進化生物にはなり得ないと考える。なぜなら、分子レベルでは遺伝子のエラーは最大限修復されていることは、エラーから進化生物になり得ないことを分子レベルは認識できていると考えられる。

一方、現代の人の生活でも視力や聴力の機能が一部損傷することや、機能を喪失することで欠陥を負って誕生する人がいる。そのような人は社会として救済するシステムになっている。しかし、多くの動物の世界ではそのような救済システムは存在せず、自然界ではそのようにマイナスを負った個体は日常生活で正常な営みが不能になり、しばしば捕食の対象になってしまう。(この視力や聴力も総てが遺伝子によるものではなく、生育過程で栄養不足によって生じるものもある。さらに、視力や聴力に限定されるものではなく、他の機能欠陥でも影響することになる。そして、上記の親鳥の意図的個体差のように生育時の餌の環境などによっては充分な成体にならないこともある)

遺伝子のエラーによる動物では事の重大さの大小があるとき、重度のものは誕生後まもなく死に至り、軽度のものはある程度まで成長できるとしても、欠陥を負っていることで仲間の他の個体との間にはハンディーが生じることになる。もしも、捕食者に追われたときに視力,聴力や身体の何処かに僅かな欠陥があっても、それが原因で逃げ切れずに捕らえられて餌食となる。しかし、これは本来備えるべき形質までに至らないものが捕食の対象になるものではあるが、逃げ切れて生き残ったものが進化に値するものではない。何を言いたいのか。

自然淘汰の考え方の問題点は、欠陥を負った個体が滅びることは正しいとしても、逆に生き残った個体が親以上に進化した形質を意味するものではない。別の表現をしてみよう。親のDNA情報を正しく受け継ぎベストの生育環境で成長できたものを1.0とすると、この個体は親と同じになれたことになる。一方、遺伝子の破損や喪失は欠陥を示すもので事の重大さの大小によって0.99や0.7となる。すなわち、遺伝子のエラーによる結果は1.0未満になることで、欠陥ゼロのとき最大で親と同じ1.0であり1.0を超えることはない。だから間違えても1.1や1.3になることはないし、1.001になることさえない。

これまで自然淘汰は進化のもっとも重要な要素で、形質のほんの僅かな優位性や繁殖能力がほんの僅か優れている個体が生き残り、これが進化の要因とされてきた。しかし、遺伝子のエラーと自然淘汰の理論は1.0未満の動物が滅びることを示すものではあるが、それとは逆に、エラーから進化の変異が発生していることを証明できたものではない。

これまで自然淘汰で使用されてきたマイナスの個体には生育環境によるものと、遺伝子のエラーによるものとの二つがあることになる。前者の生育環境はネズミの尻尾切りと類似で、後者の遺伝子のエラーはショージョーバエのX線照射と類似である。さらに、遺伝子のエラーであっても生育環境のマイナスであっても、いずれもが個体にとってマイナスで、このマイナスが存在するからといってマイナス以外の個体がプラスになるという設定は正しいとはいえない。

このようにDNAの塩基配列の変化による形質の変化と、遺伝子とは直接関係のない生育環境による姿かたちの変化とが分離されることなく混在した状態で議論すると、遺伝子とは関係のない親の意図的制御による形体の変化までもが、あたかも遺伝子の違いのように受け取られて進化の議論をされてきたことになる。このように変異の前提条件の認識が狂うと、その後に続く自然淘汰の正当性が損なわれるであろう。

視点を変えてみよう。地球上の生物の中で最後に誕生したのがヒトとされ、ヒト以外の大部分の生物はヒトより遥か以前に誕生したものとされている。もしも、理論どおり進化のもっとも重要な要素の一つが自然淘汰であるならば、ヒトより起源の古い動物では餌の争いや生殖相手獲得の争いによって弱いものや繁殖力の劣るものは淘汰され、現在は自然淘汰で勝ち残ったものだけが生息していることになり、それがヒトの歴史以上であることは、数千万年以上に及ぶということになる。その間にそれらの動物種は弱いものや繁殖力の劣るものは遥か昔に消滅して現在はいないことになる。

これによって最後に進化したヒトは、ヒト以外の生物の競争原理を観察することは困難になる。逆に現在も多くの生物でエラーによる形質の違いの競争原理による争いが行われ、それによって進化しているならば、ヒト誕生以降も多くの生物が進化の過程になければならないが、そのようにいわれてはいない。なぜなら、ヒト誕生以降数百万年の間際立った進化動物種はいないとされている。

しかし、およそ150年前に自然淘汰の理論が生物の生態から導き出されたならば、その段階で強いものや弱いものそして繁殖力の優れたものや劣っているものが存在していたことを示すもので、それらが混在した状況は数千万年前にも起こっていたであろうし、今日でも数多く観察することができる。そして、自然淘汰の理論はこの競争原理から導かれたものとされてきた。

もしも、自然淘汰の仮説が正しかったならば、150年前に仮説を立てる生態が存在してはならない。それにもかかわらず今日に至っても競争原理の争いが観察できるということは、過去に歴史を遡ったとしても、それらの生物種が誕生してから今日まで自然淘汰が行われていなかったことを示すもので、自然淘汰の理論は昔も今も現実には存在しないと考える。

DNAのエラー修正
これまではDNAに変化が生じたとき総てがエラーとされ、そのエラーは放っておいても自然によって淘汰されるとしてきた。それによって大多数のエラーはマイナス要素のもので消滅する運命にあるとされ、エラーの中でも極僅かプラス要素のものがあり、これが進化生物種になり得るとされ、自然淘汰は重要な要素とされてきた。

この自然淘汰が正しいときにDNAのエラーは修正する必要がない。なぜなら、間違いは放っておいても自然によって淘汰されるとしている。しかし、実際の分子レベルではDNAの塩基配列に変化が生じたとき、DANはその都度修正して正しいものに書き戻していて、エラーを放っておいて自然淘汰に任せてはいない。その結果、エラーの大部分は修正されて大多数の生物が正常な営みができている。

もしも、自然によって淘汰されるならば、このように修正する必要はない。それにもかかわらずエラーをその都度修正していることは何を意味するか。私たちの頭脳思考ではDNAのエラーからでも新たな機能が備わるとしているが、分子レベルではエラーは単なる間違いと認識していることを示すもので、進化につながらないと考えているのではないだろうか。

このようにDNAに生じた変化はエラーと判断して元通りのDNAに書き戻されている。それゆえ、大多数の生物は正常な営みができている。そのような中でもDNAの変化を総てエラーと判断して元通りのDNAに書き戻したのではない。なぜならば、これまで地球上で億に達する生物種が誕生したことは、新たな生物種は新たなDNAを備えたことを意味するもので、そのとき生じたDNAの変化は書き戻されずに固定したことになる。

すなわち、DNAに変化が生じたとき行われたことは、書き戻すものと書き戻さないものとの二種類に分離して判断されていたことになる。そして、そのときの分岐点の判断はDNAに変化が生じた直後で、自然淘汰以前に行われている。それではそのときの判断は何によるものか?

これらからいえることは、私たち人の眼では同じように見えるDNAの塩基配列の一部が変化したとき、分子レベルではそれをエラーと判断して従来通りに書き戻すときと、進化の変異として書き戻さずに固定する二種類が認識されて処理されたことになる。もしも、分離できずにDNAの変化の総てをエラーとして修正してしまうと、進化の変異さえも書き戻してしまい進化の変異ができないことになる。すなわち、自然淘汰を考えたのは人であるが、DNAの思考では自然淘汰なる考えはしていなかったことを示しているであろう。
(詳しくは9章・知性と変異>遺伝子のエラー修復、で説明)。

変異の地域格差
従来論での突然変異は目的がなくランダムに発生するものとしている。このことは変異発生には地域や環境などの条件は一切受けるものではなく、如何なる条件でもランダムに発生することを意味している。ランダムに発生する目的のない突然変異とは、生物種によって発生するものと発生しないものとがあってはならないし、変異発生は地域や環境などの影響を受けるものではない。地域や環境が影響を及ぼすのは、変異した後の生物が生き残れるか否かの自然淘汰で、それ以前の変異発生は地域や環境に関係なく、総ての生物に共通して発生することとされてきた。

それにもかかわらず生物によってはシーラカンスのように地質年代に渡って変異を停止した状態の生物が存在することや、地域によってはマダガスカルのように多数の生物が変異を停止した状態を維持している現実が存在する。このようなことは自然淘汰以前の突然変異が目的もなくランダムに発生しているものではないことを示すものではないだろうか。

これまでのさまざまな進化論では進化といわれる変異について、局所的にはこれ以上ないほどに詳しく説明される。その反面、生きた化石といわれるような進化の変異が停止した状態とみなされる原因についての説明はほとんど見ることがない。進化の変異の理論が正しいものであるとき、「逆もまた真なり」が成り立つためには、変異の理論はそっくりそのまま変異をしない又は変異を停止した生物についての証明をも満足できなくてはならない。しかし、従来論ではこの部分の説明が省略された。

生物の中には原始の姿に近似のまま長い歳月に渡って変異が観られないものや、自然環境や生活環境に必ずしも適応できているとは思えない生物でも形質の変異が観られないものもいる。そして、これらの生物についてどのような説明がなされているか? 突然変異は起こっているが環境にマッチングした変異に遭遇していないとされるのである。随分漠然とした説明ではないだろうか。一般的にこのような環境変化に適応するのに数百万年とされるが、生物の中には数千万年から数億年を継代したものでもたいした変異がが観られない種もいるとされている。

このような変異が停止もしくは中断した生物は生息地域によって著しく表れるものがある。そこで変異の地域格差について考える。アフリカ大陸と隣のマダガスカルは元来陸続きの一つの大陸で、およそ8000万年前大陸移動によってアフリカから切り離されたとされている。それゆえ、大陸から分離する以前に生息していた生物は共通していたと考えられている。同じような生物が生息する中で変異の発生に生物種や地域格差は存在せずランダムで、同じ8000万年の期間の経過からどちらにもほぼ等量の変異が発生していたと推測できる。

一方、自然淘汰についてはランダムに発生した変異が自然環境や生活環境によって排除するものと選択するもので、アフリカとマダガスカルでは8000万年の間に環境が異なったことで、選択されて生き残れる種は異なることになる。この結果、アフリカ大陸では多くの生物に進化の変異が見られる。これに対してマダガスカルの生物では進化の変異を見つけることが極めて困難とされている。

ここで注目するのはマダガスカルの多くの生物は進化の変異を停止した状態で、古い時代の形質を維持しているものが数多く見られることである。マダガスカルの植物はおよそ1万種ほどで、その内の80%がバオバブを始めとする固有種とされている。動物の固有種ではカメレオンが数多く生息し、原猿類も多く、そのアイアイは中指が針金状で鈎爪を持ち、ラミーの実をほじって食べる。これらが意味するものは何か。

8000万年の間でアフリカとは異なる環境になったマダガスカルの条件としては、突然変異はランダムで目的もなく種や地域に関係なく発生するものであるから、アフリカと類似かそれに相当する変異が発生していなければならない。違いは環境であるから、生き残る生物は自然淘汰の選択を受けてアフリカとは異なる種が生き残っていなければならない。しかし、マダガスカルでは突然変異そのものがランダムに発生していないことを示している。

これは自然淘汰をする以前の問題である。8000万年の間に進化の変異をしてきた地域と、進化の変異を停止した地域とに分かれたことを従来の目的のない突然変異と自然淘汰でどのように証明するのだろうか。このような状況はマダガスカルだけに見られるのではない。大陸移動で早い時期に分離してその後他の大陸と陸続きにならなかったオーストラリア大陸にはマダガスカルに似た生態系が残っていて、進化の形跡が見られない古いタイプの固有種が数多くの生息する地域である。さらに、大陸の中でも大海原でも地形的,時間的,空間的に隔離的環境条件が整うとき、変異がほとんど起こらず世代交替だけが繰り返されることになる。

たとえば、フロリダの地下水脈に生息する魚のフロリダガーも進化の変異が停止した状態が継続されている生物の一つである。このフロリダガーに類似するものにはキューバの湿地帯に生息するマンファリがいる。マンファリの鱗は2mmもの厚さがあり2億年前から生息しているとされている。清らかな泉に生息することから微生物が少なく、それに伴って餌となる動物も少ない。さらに、水中に含まれる酸素量も少なくしばしば水面から口を出して空気呼吸する。このマンファリの卵には毒素が含まれていて捕食されないといわれている。

一方、シーラカンスは数億年の長い期間に渡って進化の変異が見られない種とされている。その最大の要因は捕食される危険性が少なかったことによると推測できる。さらに、ギアナ高地のテーブルマウンテンの頂に生息する生物にも同様の変異を停止した状態が継続されていることを見ることができる。これらは自然淘汰以前のものとして突然変異の考え方そのものが存在しないのであろう。

これらの動物の中には彼らの生活領域で自らが食物連鎖の頂点にあると認識するとき、捕食される恐怖によるストレスは皆無に等しくなり、防御のための変異は必要なくなる。同様に、さまざまな隔離的環境条件が整うとき、捕食されるというストレスはなくなり変異の必要性はなくなる。このような環境の中で生活することのできる生物にとって、変異によって新たな機能を求めようとする発想そのものが生じないと推測することができる。

結果として、マダガスカルやオーストラリア大陸、さらにはギアナ高地のように変異に地域格差があることが何を意味するか。それは従来からいわれる変異は目的なくランダムに発生するとか、地域や環境が関係するのは自然淘汰であるとされてきたが、実際はそうではなく、生物は自然環境や生活環境を認識したうえで変異をしていたことになるのではないだろうか。それゆえ、自然環境が安定して捕食される心配がないとき、必要以上のエネルギーを使ってまで変異をしようとはしていないことを意味するものであろう。このことから、生物の変異はDNAのエラーでいわれるように、めったやたらに変化した後で自然淘汰によって滅びたのではなく、自然淘汰の考え方そのものが存在しなかったのではないだろうか。

進化の本質
これまでの自然淘汰の問題の一つが、自然淘汰が進化の主体的要因ではなく従属的要因ということである。自然淘汰には変異が前提にあり、目的のない突然変異とするもので、その変異の中には強いものや弱いもの、有利なものや不利なもの、そして、環境に適応したものや適応していないものがあるとき、それらを選別することが必要になる。その選別の判断基準で生物の思考や知性の関与を排除するとき、選別の判断基準は自然ということにした。上記で述べてきたように主体的要因の突然変異の前提が誤りになると、従属的要因である自然淘汰の引用そのものが誤りとなる。

これまでの変異では進化の変異と事故の変異を混在させていた。しかし、ここでは変異発生段階で全く異なる要因が存在するとしている。変異の発生要素が進化の変異と事故の変異の二種類存在することは、当然のこととしてその結果が二種類表れることになる。すなわち、生物の思考と知性によって目的とされる変異が創造され促されるとき、新たに備わる形質はすでに目的に合致したもので、自然淘汰によって選別される必要はない。一方、事故の変異では生まれながらにしてリスクを負っているもので、自然界で生き延びることは最初から困難とする。このリスクを負った生物が死ぬことを自然淘汰とすべきではない。

それではなぜ突然変異と自然淘汰なる理論に達したかになるが、最大の理由は人のみが万物の霊長とする考え方である。このことは物事の理解,思考,判断することのできる地球生物は唯一人だけで、人以外の生物にはそのような能力のないものとしたのではないだろうか。ましてや同じ生物であっても植物に至っては論外とされてきた。その結果、生物共通の進化論を考えるとき生物の思考や知性を排除した目的のない突然変異や自然によって選別される理論を導きだすことを余儀なくされたのであろう。

同じ人でも物事の理解,思考,判断する能力にはおのずと相違があって、皆が同じレベルとはいい難い。同様に、生物の中でも物事の理解,思考,判断する能力に違いはある。ましてや種の違いによってその表現方法は著しく異なる。その表現方法が人と異なることで、人以外の生物が表現したものを人が理解することができなかった。その結果、人以外の生物には人のような能力がないとしているもので、人以外の生物の本来の姿が見えないゆえの考え方ではないだろうか。

さらに、進化でもっとも重要なことは自然選択によって生き残ったか否かではなく、それ以前のなぜ変異したかである。この本質を間違えると、変異発生の要因は間違い(エラー)として自然淘汰の理論になってしまうのであろう。必要なのは変異発生のメカニズムが何によるかではないだろうか。

環境に晒される
従来論では誕生した子供は自然環境や生活環境に晒されるとして、初めて経験する環境ということで自然淘汰が引用されるが、実際はそうではないと考える。その環境で祖先から親の世代まで長い間に渡って継代して子孫まで残せたことは、親の世代までに自然環境や生活環境が認識できるだけではなく、親に備わる制御機能は限りなく環境に適応できていたから継代できたことを意味している。それらを含めて総てのDNA情報が親世代から子世代に複写されていることは、それらを親から譲り受けた子供はすでに親と同じ条件が備わっていることで、このことは環境が認識できるばかりか親と同じ制御が可能ということを示している。

もしも、これらの遺伝情報の受け渡しがないとき、誕生した生物は初めての環境に晒されることになるが、実際はDNA情報の受け渡しによって親までの経験に基づいた生活を継続しているに過ぎない。すなわち、DNAが備わる生物に初めて経験する環境という表現は適切ではない。もしも、自然環境に晒されるとするならば親から譲り受けた遺伝情報とは異なる環境で生活したときではないだろうか。

たとえば、サンゴ礁に生息する魚では、親は自らが生活していた領域に産卵する。そこでの環境は自然環境も生活環境も親の環境と同じであるし、親の生活の継続に過ぎない。さらに、子供は親からの遺伝情報をそっくりそのまま譲り受けることから、子供に備わる制御機能は親と同じものが備わっていることになる。すなわち、親と同じ環境で親と同じ制御ができる子供にとって、物理的には新たな個体ではあるが、環境も備わる機能も同じであることは、親の生活を継続しているに過ぎないもので初めての環境に晒されるとするものではない。

もしも、初めての環境に晒されるとするならば二つが考えられる。第一にサンゴ礁で生活していた魚が極地の氷海で生活することを想定すべきである。このような環境で生活する魚に備わる制御機能は、祖先がサンゴ礁で制御できる機能で、氷海で生活できるだけの制御機能は備わってはいない。このような環境ではたとえ親から遺伝情報を譲り受けたとしても、氷海では使用に値しない機能もあり制御不能になる。このようなとき初めての環境に晒されると表現すべきではないだろうか。

第二には親と同じサンゴ礁に誕生したことで自然環境も生活環境も親と同じ環境を想定する。この環境なら氷海とは異なり親と同じ環境ゆえ初めての環境に晒されることにはならない。しかし、親からの遺伝情報をそっくりそのまま受け取ることができなかったとしたらどうだろうか。親と同じ環境であっても、その環境さえも生活できるだけの制御機能が備わっていないことを意味することになり、初めての環境に値する。

以上より親が生活していた環境で生活でき、親と同じ遺伝情報を譲り受けるとき、子供の環境とは祖先からの長い継続と親の生活の延長線上であり、誕生した子供は初めての環境に晒されると表現するに値しないものである。このことから、遺伝情報を備えた生物は初めての環境に晒されるとする自然環境の洗礼を受けることではないし、自然淘汰でいわれるこのような考え方は適切とはいい難い。

収斂進化と多様性
従来いわれている突然変異と自然淘汰ならば、突然変異がランダムに発生して環境に合うものや合わないものが誕生するが、如何なる変異が生じたとしても自然淘汰の篩にかけられることで、環境に合わない大部分は淘汰されるとしている。これによって同じ環境で生活する生物は異質のものは排除され、類似の機能や形質を備える収斂進化に行き着くことになる。

生物の生息領域は地球上の熱帯や極地に均一に分布するのではなく、立体パッチワークのように限られた領域に生息している。たとえば、熱帯雨林はパッチワークの1つのピースとみなすことができ、この領域内は自然環境や生活環境が均一化して極めて似た環境とみなすことができる。これからいえることは、熱帯雨林のような環境では突然変異によってさまざまに変異した生物であっても、淘汰する環境条件が同じであるから生物は収斂されることになり、突然変異によって多種多様な形質のものが誕生したとしても、生息する生物種は時代経過と共に少なくなる方向に進むことを意味している。しかし、現実にはこれとは逆で、生物種は時代と共に増加することになる。このことは他の領域についてもいえるし、サンゴ礁も同様である。

実際には多くの生物は収斂進化とは逆の方向に進んでいる。同一地域の同一環境に生息する生物種が数十,数百の種類になるばかりか、数千種にまで拡散する種が存在する。中でも生物種の半数以上を占めるとされる昆虫では顕著で、アマゾンの森に生活するツノゼミはおよそ3200種もいるとされている。同様に、植物ではランは種類が多くて全体ではおよそ2万5千種以上あるとされる。それらのランは一部の例外を除いて、大部分が中南米や東南アジアの熱帯雨林に生息する。

このような類似環境にもかかわらず、多種多様の生物種になることを自然淘汰や収斂進化で説明することは困難である。しかし、収斂進化も生物の多様性も現在の進化論では日常使用される用語である。従来進化のもっとも重要な要素が自然淘汰であるとき、自然淘汰の条件である自然環境や生活環境が均一化しているこの領域に生息する生物について、収斂進化と多様性は相反する事象ではないだろうか。これらのことを如何なるメカニズムによって収斂進化といい、如何なるメカニズムによって多様性というのか。この使い分けは何によってなされているのであろうか。

このようなパッチワークの1ピースに当たる領域の自然環境や生活環境は均一であるが、収斂進化にならずに多様性になるメカニズムは、それぞれの生物の主観の相違によるものではないだろうか。すなわち、それぞれの生物が何を考えるかによって変異するものではないだろうか。

新種誕生に数百万年?
ガラパゴスのイグアナについて従来論の突然変異と自然淘汰で説明するとき、どのような表現になるであろうか考えてみたい。南米大陸から流木に乗って渡ってきたとされるイグアナはリクイグアナとされ、そのイグアナの一部が突然変異によってウミイグアナに進化したとしている。

突然変異したウミイグアナはそれまでのリクイグアナよりも相対的優位性を備えていることから、ウミイグアナが活躍することでリクイグアナは自然淘汰されるはずである。しかし、ウミイグアナとリクイグアナは異なる領域で生活し続けている。今回発見された交雑種をリクウミと名づけると、突然変異によってリクウミが誕生した。

リクウミはリクイグアナと同じ領域に生息し、尚且つ、リクイグアナに比べてサボテンによじ登ることができる新たな優位性の形質を備えている。これによってリクイグアナは相対的に劣位となり死滅することが自然淘汰の考え方である。結果としてリクイグアナは滅んでイグアナの種はウミイグアナとリクウミの二種類になる。これが従来論の突然変異と自然淘汰の理論であろう。そして、このように移行するのに数百万年の歳月を要すとしている。

しかし、そのようなことは起こらないと推測する。現実にはウミイグアナ,リクイグアナ,リクウミの三種が生き続ける。彼らは相手を淘汰させるのではなく、それは自らが生き続けるうえでの地域的,食生活的に異なる環境領域を得ることになる。この次四番めの種が誕生するならばそれはウミリクで、旱魃の時リクイグアナがウミイグアナの生活領域に進出したとき交雑種ができると予測する。そして、総ての種が淘汰されることなく生き続けることになり、種の多様性がつくられるであろう。

これまで新たな種が誕生するには数百万年要すとされてきた。しかし、イグアナに新種が見られた。これを新種と扱うか否かの問題はあるとしても、環境が大きく変化して生物の生命を脅かすとき、生物の中には生き残りのためにそれまでとは異なる生活環境を選ばざるを得なくなる。

これと類似のことをしてきたものがフィンチであろう。これまでガラパゴスは火山噴火,旱魃,海流の変化,エルニーニョなどによって自然環境が変化し、それに伴って生活環境も変化して、その度ごとに多くのフィンチが命を落とすことになるが、そのような状況で生き残ろうとするときフィンチは餌を求めて生活スタイルを変えざるを得なくなる。この結果、生き残ったフィンチの嘴は形状が変異することになり、種の数は増加することになるであろう。

変異によって備わった特性はその個体が生き続けるもので、相対的優位性を失ったものを自然淘汰によって破滅させるものではない。そして、これらに要す期間はごく短い時間で移行することになる。なぜなら、このような状況で数百万年も生息することはできない。もしも、イグアナやフィンチの生息するガラパゴスで今後滅ぶ生物種があるならば、それは現在でも活発な火山噴火の事故によるか、エルニーニョによる急激な環境変化による食料の枯渇によるもので、生物種が備えた形質の相対的劣位性による自然淘汰とは直接関係のないものとなるであろう。

これまで述べてきたことは突然変異によって変異した生物を自然環境が選択するのではなく、自然環境や生活環境の変化は生物に変異を促すきっかけではあるが、変異をするか否かの決断は生物の意思であり、彼らの判断である。そして、そのときの変異の内容は当事者生物の思考と知的創造によるものと推測する。それにもかかわらずこの期に及んでまでも進化は目的のない突然変異や自然淘汰といわれている。そして、ガラパゴスは進化の縮図で、その代表がフィンチでありウミイグアナであるとされている。

ここで示した生態は生物のごく一部です。これらを振り返って、それでもあなたは突然変異や自然淘汰を主張されますか。そして、変異するのに地質年代といわれる数百万年必要といわれますか? その根拠は何ですか? このような事象に対して、識者の中には相互作用とすることや、一連の化学反応によって可能であるとされる。そこで次には相互作用や化学反応について考えます。




  相互作用か一連の化学反応?

それでは相互作用?
上記の環境条件とホルモン条件から突然変異と自然淘汰でないことは明らかで、遺伝子のエラーがなかったとしても従来の変異と呼ばれるものは発生していた。このように説明してくると、環境条件は相互作用で、ホルモン条件は一連の化学反応という考え方がある。そこで相互作用や一連の化学反応について触れる必要がある。

ここでは保護された猛禽類や鷹匠の鷹の嘴が数ヶ月で伸びて変形して捻じ曲がることから突然変異ではないとしている。この考え方からいうとフィンチの嘴も突然変異で多様になったのではなく、鳥が主食の餌を何にするかで、その餌の種類や硬さによって嘴の形状に変化が生じたと考えている。すなわち、嘴にかかる負荷の強弱や摩滅によるもので、これは牛馬の爪や蹄が家畜と野生とで異なることと類似する。これはかかる負荷との相互作用によるもので、突然変異がなくても変異が可能というものである。

ここでの考え方は突然変異ではなく生物自らの思考による変異としているが、相互作用と考えるとき、突然変異でないばかりか動物の思考の関与を排除しても、相互作用で強く丈夫な嘴や弱く華奢な嘴にすることが可能になる。これは嘴以外にも陸上の足と水中の鰭についても同様のことが適応可能ということになる。すなわち、突然変異を否定するなら思考も否定すべきといわれるであろう。

この相互作用に該当するものは環境条件に示している。中でも運動することによって骨が強化されることを破骨細胞と骨芽細胞とによって挙げている。ここだけで考えると相互作用と推測することができて思考は不要になる。なぜなら、生物の変異にこのような形態のものは多い。しかし、これらだけで相互作用と判断することはどうだろうか。

相互作用で進化が可能か? もしも、相互作用で進化の変異が可能であるならば、行き着く先は収斂進化となる。すなわち、同じ環境に生活することで類似の形質に行き着くという考え方である。しかしながら、同じ環境で生活しながら数百から数千種に種を拡大する生物が少なくない。これらは単に相互作用で説明することは困難である。

変異の中には単なる相互作用で説明できないものが少なくない。たとえば、弱小昆虫が体液を不味い味にするとか、被食植物が毒素を保有することがどのような相互作用で可能だろうか。一方、食虫植物の誕生は如何なる相互作用によるものかは理解不能であるし、このような事象は相互作用で説明することができない。

さらに、環境との相互作用によるとするには、相互だけではなく環境に対抗するものや環境を無視した変異をする種まで存在する。これらは生物どうしが互いに切磋琢磨していると見るべきではないだろうか。そこには単なる相互作用だけではなく、別の要素が関与しているとすべきではないだろうか。

相互作用で説明できない隔年結実
ここでは相互作用で説明するのが困難なものを紹介する。通常、栽培植物や自然植物が豊作になる条件として気象条件が大きな役割を果たし、これが相互作用の対象に相当する。すなわち、それぞれの植物にとって気象条件が最適のとき豊作になり、異常のとき不作になる。これが多くの植物に適応できると、気象は豊作や不作との相互作用の要因と考えられる。

しかし、樹木性の果実では栽培植物に限らず自然植物でも必ずしも気象条件に関係するとは限らない。その例が果樹の隔年結実や数年に一度の豊作である。その年の気象がその植物にとってどんなに良くても不作になることがある。そして、果樹の種類による周期性もあるようで、農業従事者は一年先が予測できることから安定収入を得るためには、それに基づいて肥料,剪定,摘果を年によって変えているといわれる。

すなわち、その年の花が咲く前年から豊作か不作がわかるということで、それが気象条件との相互作用が見当たらないということである。これらは相互作用として適応できるのではなく、逆に要因に反抗するのでもなく、それらを無視してそれ以外の独自のものがあるようです。このようなとき豊作には自然環境や生活環境の外的要因だけではなく、樹木に備わる内的要因が関与しているのではないかと推測する。もちろん例外として豊作の年に当たっていても、台風などで物理的に実を落とし不作になることはあるが。

上記は相互作用の対象が自然環境であったが、次に、相互作用の対象が生活環境で考えてみよう。同じ植物でも、上記と少し異なるものに特殊ランのハンマーオーキッドやバケツランで見ることができる。ここでの相互作用の相手は蜂だが、蜂が作用したからといって花の形を変えてバケツを作り、そのバケツに自らの液体を溜め、芳香によって蜂を呼び寄せ、バケツに落とし溺れさせ、それでも殺すのではなく脱出ルートまで確保し、そこには自らの花粉を用意して蜂の背中に背負わせることで自らの生殖行動を可能にしている。

このようなランの形質の変異は、蜂による環境が作用したという単純なものではなく、蜂の行動を認識したうえで複数の形質を有機的に変異させている。しかし、従来説の遺伝子のエラーには目的がないことから、発生するエラーどうしに相互の関係はないとされている。これではエラーが何万回繰り返されようとも一連のプロセスを作るのは困難となる。ここでのランのように単一の事象ではなく一連のプロセスとしたものは、思考または思考に類似する機能が必要不可欠とするもので、単なる蜂との相互作用で処理することが困難である。

相互作用とされるものの中で、一部のものは思考が関与しないと見えるものがあるとしても、数多くの生態を観る限り明らかに目的があり、このことは個体レベルに限らず、分子レベルでもそれぞれに目的があると推測でき、単なる相互作用ではなく思考が関与したものではないだろうか。そして、これらは動物だけに備わるものではなく植物にも備わっている。

一連の化学反応でできない性転換
一連の化学反応とするとき、それぞれの生物が分泌するホルモンの制御は何が司るのか。生物によってはホルモンの制御が自らの意思によって可能であることが重要ではないだろうか。すなわち、適さない環境に遭遇することでストレスが生じても、自らホルモンを制御して異なるホルモンを分泌することでストレスを解消もしくは緩和することも可能ということを意味している。

このホルモン制御によって婚姻色のように形質の一部である色や形が変化したとき、それも含めて生物の意思表示の一つで、ホルモンは適時適切に制御できていると推測できる。もしも、一種類のホルモンを継続的に出し続けるならば一連の化学反応としても、自然環境の変化や生活環境の変化によってホルモンを変えられることは、単なる化学反応ではなく別の要素が関与すると推測することができる。

これまでいわれてきた分子レベルの一連の化学変化としても、それは環境安定状態でストレスに対しての対応をマニュアル化したものであろう。ここで考えなければならないことは、マニュアルにはないそれまでとは異なった環境の変化や、全く新たなストレスが生じたときの対応である。このときストレスを解消可能な新たな機能を創造することが進化であり、それまでの一連の化学反応とは異なるものが要求されるが、そのとき思考の関与無くして可能か否かである。

なぜなら、進化の変異とは新たな機能や形質を備えることであって、すでに生物に備わっている通常の一連の化学反応で対応できないとき、多くの生物は死滅することになるが、そのような状況に遭遇したとき、それまでとは違った機能や形質を備えることで進化の変異が可能になる。すなわち、これまで引用された相互作用や一連の化学反応といわれるものは環境安定状態であり、進化で議論する内容ではない。

たとえば、魚のメスは卵を作り、オスは精子を作る。これは通常時の生体内での一連の化学反応によってなされている。魚の中には一匹のオスと数匹のメスで群れを作り生活するものがいる。そのとき、唯一のオスが捕食されるか死ぬと、その群れにオスはいなくなる。そのとき、数匹のメスの中からもっとも大きな一匹がメスからオスに性転換する。そこではオスがいなくなった環境を認識し、同じ仲間のメスを見回して自らが一番大きいと認識できない個体は、それまでと同じメスの卵の化学反応を継続するが、自らが一番大きいと認識した個体は、それまでのメスとして備わっていた化学反応を中止して、オスとしての精子の化学反応に切り替えることになる。

通常時メスが卵を作ることは一連の化学反応であるが、その卵の機能を停止して精子を作り出す機能に変えることは、一連の化学反応といえるものではない。進化とはこのような状況での新たなプロセスが導かれる要因で、それまでの一連の化学反応ではない化学反応に移行するとき、数匹の同じ雌であっても考えに違いがあり、雄になるものとそうでないものとに分かれることになる。そこでは単なる化学反応とは異なる別の要素が関与する必要があり、生物の意思や思考が介在すると考える。そして、そこで性転換するときとは、突然変異や相互作用ではないし、一連の化学反応が起こったためでもない。

ホルモンのような化学反応でも固定的なものではなく、適時適切に対処できることで生物は多種多様になることができたとすると、このホルモンの切り替えそのものが進化の変異に大きく関与するもので、そのホルモンを制御するとき、環境の認識からホルモン変更の判断までに関与するものが、それぞれの生物の思考によるものではないだろうか。

もしも、ホルモン制御に生物の思考や判断が関与できないとき、目的の定まらない一連化学反応が生じたとしてもストレスを解消することはできないし、婚姻色のように生物の意思に応じた表現をすることさえもできない。結果として、目的のある機能や形質に有機的に結びつく進化の変異に到達しないことはいうまでもない。

このことは一種類から数百,数千もの多種多様の異なった形質を備えるには、それぞれ異なった化学反応が必要で、破損や喪失のエラーでは環境に適応した化学反応を作り出すことは困難で、思考の関与しない一連の化学反応では一つの決まったことはできるとしても、一種類から多種多様の生物を誕生させることが一連の化学反応でできる説明にはなり得ない。そこにはそれぞれの生物の思考が関与できなければならないと考えている。

プログラム?
これらの変異は思考によるものではなく、それぞれの生物にすでにプログラムとして組み込まれたもので、思考はできなくてもプログラムどおり可能であるということになるのだろうか。それは難しい。なぜなら、環境の変化に対してその都度対応している。たとえば、私たちの日常生活に関するもの総てがプログラムされていたとすると、誕生後の日常生活の変化の中で得たプログラム以外の事象に対しては、誕生時に備わったプログラムでは対処できないことになる。しかし、実際には分子レベルではその都度対処できている。

プログラムであるとすると、自然環境や生活環境がどのように変化するか。そして、変化に対してどのように変異するかのプログラムがされていることになる。しかし、自然がどのように変化するか予測することは困難であるし、自らの生活環境となる身の回りの生物の中で、新たな進化した生物が登場することの予測は自然環境の予測よりさらに困難である。

すなわち、生物にはプログラムされたものが備わっているのではなく、そのときどきの状況を認識し、自ら思考することで最適の手段を判断しているとすべきではないだろうか。当然のこととしてこれは動物だけではなく植物も同様であることは言うまでもない。

相互作用はマクロでは
家畜の足の爪が異常に伸びることや、植物の成長部に触れることで抑制刺激となることで成長が止まることなどがある。これらの変化はかかる力や刺激の有無とみなすことができ、これらの事象は生物の思考や知的創造がなくても、自然環境や生活環境との相互作用によって可能であるとされる。しかし、これらは外見的なもので個体レベルでのマクロの捕らえ方ではないだろうか。

これをミクロで捕らえると、それぞれの細胞が受けたストレスを認識して対応していると推測することができる。それゆえ、力のかかる部分の細胞はその力に対応すべく強化する。そこではその都度分子レベルの判断がなされている。だから同一生体内でも負荷のかかる部分とそうでない部分とでは、細胞によって判断が変わることになる。

個体レベルで判断すると相互作用に見えるものでも、分子レベルでみるとセントラルドグマのように一つひとつの化学反応そのものが目的を持ったものというべきで、単純に相互作用とみなせないものが少なくない。私たちは生態を個体レベルでみるとき相互作用として分類できるものであっても、分子レベルではそれぞれの対処に思考が関与していると推測する。

相互作用と化学変化の判断
フィンチや鷹匠の鷹,食生活と顎形状,破骨細胞と骨芽細胞などについては見方によっては相互作用とみることができるが、兎の長い耳は相互作用といえるものではない。同様にサボテンの刺は乾燥に対する相互作用としても、カラタチやバラの刺は明らかに違う。同様に、擬態や保護色,食虫植物,温室植物,隔年結実やミズナラやウミショウブ,ハンマーオーキッドやバケツラン,種子の思考,イソギンチャクなどについて相互作用とするのは困難で、そこには生物の意思と思考が関与すると考える。

一方、一連の化学反応については、環境ホルモンによる変化や奇形,桜前線,魚や鳥の婚姻色,一次代謝産物などは一連の化学反応と見ることもできるが、魚の性転換,二次代謝産物などは、一連の化学反応とするのは困難で、そこには生物の意思と思考が関与すると考える。

以上のように突然変異と自然淘汰で説明できないことは数限りなくある。だからといって相互作用で説明できるかというと、そうではないし、一連の化学反応によって説明できるものでもない。これらから生物の変異はそれぞれの生物の思考や知的創造が関与すると考えざるを得ない。それゆえ、生物は自然環境や生活環境がこのうえなく認識できたものになっている。

従来論は限定的理論
これまで総合説では多くの理論を包含し混在させてきた。そして進化を語るとき、それぞれの理論の中から最適なものを必要によって使い分けてきた。それゆえ、それぞれの理論で語ることは、進化のごく限られた狭い領域の限定的理論であって、それぞれの理論が総ての生物に当てはまるものではなかった。たとえば、進化で多く引用されるメンデルの法則ではあるが、性とは縁のない原核生物には適応できないが、その原核生物も進化をしている。

このように一つの理論である生物の進化を説明することができても、同じ理論で別の進化を説明できないことがある。同様に、一つの理論で個体レベルと分子レベルの両方を説明することが困難なものがある。それゆえ、いくつもの理論を混在させざるを得なかったのではないだろうか。さらに、それまでの総合説で説明できない新たなことが生じるとき、たとえば分子進化の中立説も取り込む必要になるのであろう。しかし、現実にはそれら総ての生物が進化をしてきた。これは個々の理論が混在するのではなく、大きな一つの理論によって成り立っていると考えるべきではないだろうか。

総合説では、突然変異や自然淘汰、そして、メンデルの法則などが基本柱となって説明される。しかし、これらで説明がつかないとき、相互作用や一連の化学反応の考え方が引用される。このときの相互作用については二つの使われ方を見ることができる。それは個体レベルと分子レベルで使われ方が異なることである。個体レベルでは生物が互いに認識しあうことで、相手に影響を与えるとされる。一方、分子レベルでは認識しなくても、一連の化学反応のように次からつぎへと化学反応の変化が可能としている。そこでは、個体レベルでは目的があるとし、分子レベルでは目的がないとして使い分けられることがある。