5章 生物の思考をどう理解する・・・(限界ストレス)

これまで多くの生物が姿かたちを変えて進化をしてきた。一方、人は姿かたちを変えることはせずに自動車やテレビを作ることで進化したと表現することがある。この違いは何か。これまで進化を考えるとき生物の視点ではなく人の視点であり、多くのことが分離できずに混在した状態で論じられてきたと考えられる。進化を正しく認識するためには従来とは異なる視点で見る必要があり、これまで混在してきたものを分離することが必要と考える。このようにすることで、これまで認識することが困難であったことも本来の認識ができると考える。

5章 生物の思考をどう理解する もくじ
   進化の形態

   体内技術と体外技術

   進化の変異と事故の変異

   限界ストレス

   適者の知恵と不適者の知恵

   生物と人の文化認識

   思考形態の類似性と多種多様性

   生態と科学の類似性




進化の形態

分類の考え方
3章・生態の分類と分析では、環境条件,ホルモン条件,欲求条件,知的条件の四つに分類している。これらはこのように分類することが正しいのではなく、変異の中で特徴的な部分を取り上げて分類したに過ぎない。進化の変異はそれぞれが独立して変異しているのではなく、大部分の変異でこれらが相互に関係している。すなわち、日常生活の中で自然環境や生活環境を認識しているもので、環境が変化したときストレスが発生してそのストレスを解消や緩和するためにホルモンを分泌する。これによってストレスが解消されればよいが、解消されないときには新たな解消方法を思考によって創造する必要が生じることになる。

生物にとっての環境認識の中には同種や異種生物の優れた機能を認識することもある。この認識された機能は時として自らの欲求となり得るもので、これが新たなストレスの一つになる。たとえば、野鳥の雌の羽がどれも似たような褐色になることは、たとえ羽の色が似ていたとしても種が異なることから遺伝子の組み合わせは生じてはいない。これらは身の回りの有利や不利を認識したもので、以後の変異はそれらの中の有利なものを欲求して自ら適えられるよう促すものと推測する。

この欲求に対するストレスは、新たなものの創造や新たなホルモンの分泌によって解消しようとするであろう。さらに大切なことは、これらのどれもが生物の意思や思考によるものと推測できることで、進化の変異で目的のない変異はないであろう。ここでは実際に生物の観察から得られたもので、たまたま生物の情報を見つけることができたものを挙げたに過ぎないので、現実にはここに挙げることができないさまざまなものがあると推測する。

進化の変異を示す例えの中で、生物の意思や思考について考察するとき動物の例を上げることは当然としても、それらはすでに動物行動学によって多くが紹介済みとなっている。ここでは植物の意思の表現が欠くべからざる要因とすることから、動物と同等以上に植物について重要視している。

基本進化と付属進化
進化の中には様々な形態があるが、ここではこれを基本進化と付属進化に分けることにする。基本進化は分類上大分類に相当するもので、付属進化は小分類に相当する。たとえば、鰓を持つ魚類から肺を持つ両生類に進化することは、分類の上からも際立った進化で基本進化に相当する。一方で、象の種類がアフリカゾウ,インドゾウ,マンモスなどに進化することは、それほど際立った進化ではなく付属進化に相当する。

付属進化は生物が食生活や自然環境の変化に対応しようとすると容易に進化が可能で、上記分類の環境条件とホルモン条件の多くはこれに該当する。一方、これとは別に基本進化は極めて強い欲求や知性が求められる。同時に、進化するに足りる思考能力や創造力も必要とする。

そして、基本進化と付属進化の何れもが生物の意思によって変異するもので、これらは環境変化の活発な領域が進化の拠点となり得る場所でもある。なぜなら、ここでは突然変異が初めにあるとはしていない。変異は生物が自然環境や生活環境を認識し、その環境の変化によって生じるストレスを解消するものとしている。それゆえ、環境が安定してストレスが生じないとき、そこで生活する生物にとって変異を必要とはしない。

このように環境変化が活発な領域では事故に伴って多くの命が失われるが、その後それまでとは一変するような進化が起こることがある。これが基本進化に相当する。食物連鎖の崩壊したこの領域で逸早く進化することのできたものは新たな食物連鎖の構成員となり、さらには近隣へ種の拡大をするために拡散する。拠点の環境と拡散しようとする環境はおのずと異なるもので、必ずしも他地域で環境に適応できるとは限らない。自然の違いや競争相手の生物との共存には新たな変異が必要となり、付属進化が必要とされることもある。

拡散伝播
地球の生物は一個の生命の誕生から始まったといわれている。それは今日の科学の進歩によって地球生物の共通性がDNAによって裏付けられている。このことは地球上の至るところで進化が発生しているのではないことを示している。進化は拠点となるところで進化をし、進化した種は個体数の増加へと向かう。個体数の増えた種はエリアの拡大を求めて周りの地域へ種の拡散をすることになる。

拠点で発生する進化は種の基本となるもので、拡散した種は発生した拠点との気候の違いや食料の内容などによって環境適応するために軽微な変異をする。これは拠点進化に比べると進化のレベルは低いが、異なる地域で種が拡散するうえでは効果がある。このようなことも生物の意思によってなされると推測する。

動物の多くは成体で自力移動するもので、多くの場合世代交替時では移動はしない。これに比べて、植物は成体で自力移動はできないが、世代交替時では外部環境を利用して移動することができる。これによって自力移動できない植物であっても、短期間に広い領域へ拡散可能となる。このような移動手段が植物に備わることは、偶然や突然の変異といえるものではない。このことは植物の思考と知的創造によって種の拡散をしているであろう。

拡散にはそれほどの時間は必要としない。移動手段はあらゆる生物が所有するもので、自らの足や翼、風や潮流などの手段があり、拡散に要する期間は数百年もあればたいていの地域には到達可能となる。さらに、自らは自力移動の手段を持たない植物も風,潮流,動物の移動を利用することで、自力移動できなくても子孫を離れた地へ拡散することが可能になる。あるものは果実の種子として動物の胃や腸の中を移動手段とし、また別のあるものは種子の廻りに鉤状の突起を設けることで動物の体毛を移動手段としている。

さらに、自力移動可能な動物と自力移動不可能な植物の拡散スピードはほぼ近似である。それは植物が動物の移動手段を利用して拡散していることである。さらに、動物は従属栄養生物で、その栄養源の多くは植物に頼っているため、動物自らの拡散には餌となる植物が不可欠である。そのため、動物だけで勝手に拡散できないこともある。

日常変化と非日常変化
現代人の姿かたちでも運動する人とそうでない人の違いは一目瞭然で、筋肉のつき方が違う。さらに、その筋肉を支える骨格の造りも異なる。このことは何世代もの長い年月を要する訳ではないし、突然変異が起こったわけでもない。自ら身体を鍛えることで変化が可能になる。これは毎日の生活習慣や生活環境の影響を受けて姿かたちを変えるが、通常はその世代限りのもので遺伝や進化ではない。

しかし、同じ生活習慣や生活環境そして食習慣が何世代にも渡って続くことで、一種独特の姿かたちが継続されることになる。一例として、人の中でも大陸によって体形に特徴が表れることもその一つである。一方、家族の中で高血圧や糖尿病が発病すると、その家系の中で何世代にも渡って発病する確率が高くなる。この中には遺伝病によるものもあるが、似かよった食生活や生活習慣によって同種の病気が発生し易くなることを意味している。

グルメといわれる人とは異なり、自然の食物連鎖の中で生活する動物にとって食物を変えることは大変なことである。このことから、一たび定まった食料は特別のことがない限り変えることはしないし、変えることができない。これによって備わった形態が安定する。しかし、事故を始めとする異常事態の環境変動に遭遇すると、生き残るためには食生活も変えざるを得なくなる。するとそれまでとは異なる形質が表れることになる。

進化に必ず出てくるものに「地質年代に及ぶ長い期間」の言葉がある。これは化石を頼りにしている結果といえるであろう。発見できる化石から生物と生物の間の空白期間が長くあり、そのため、進化するには長い時間がかかると結論付けてしまう。人の顎や野鳥の嘴の如く、進化や退化は短期間で変異する。だから人でも筋力トレーニングを数年も続けると、見違える身体にすることが可能となる。

一方、健常者でも怪我をして1ヶ月も寝たきりになると、いざ歩こうとして立ち上がろうとすると、身体中の血液が足元に下がって自分の足さえも思うように動かすことができず、歩くことさえ困難になる。ベッドレスト3ヶ月で心臓が1/3になることや、宇宙飛行士が宇宙船の中で運動をしないで1〜2週間生活すると、地球に戻ってすぐには歩けない話は多くの人に知られている。

これらから、進化には何百万年や何億年を要すことではなく短期間で行われる。同時に、進化はどこでもかまわず行われるのではなく限られた領域で行われ、それ以外の場所では変異のない世代交替が繰り返されるであろう。たとえば、雷鳥や兎の一部では夏毛の褐色と冬毛の白色の羽や体毛が変化する。これは進化の変異とは見なされずに季節によって変化するものとされている。これを日常変化とする。一方、安定した生活を送っていた生物も、旱魃によって食料の餌が枯渇することは非日常の変化である。そのような非日常変化に対して、そこで生活する動物は生き残りのために変化することが迫られる。

このような事象に対して前者は保護色で、後者は進化の変異としている。しかし、これは表現が適切とはいい難い。これら両者はいずれも同じ目的のうえで変化が生じたもので、前者の保護色といわれるものは、進化の変異の過渡期に相当するものというべきではないだろうか。すなわち、日常変化で保護色のような変化ができることは、非日常といわれる進化の変異も環境を認識することで自ら変異を促しているというべきではないだろうか。

ここまでは付属進化についての日常変化と非日常変化について述べた。同様に、基本進化についても考える必要がある。たとえば、鰓呼吸の魚類から進化して肺呼吸の両生類になった動物が陸上生活から水中生活に戻ったとき、肺呼吸から鰓呼吸に戻ることができるか否か。進化は一方通行でUターンはできないとされている。

その一方で、魚類のときの胸鰭や腹鰭は陸上生活するための四本の足として変異したものが、再び水中生活に戻ると四本の足は退化して鰭に戻ることが説明されている。鰓,肺と、鰭,足の関係はどのように理解すればよいか説明する必要がある。鰭と足の関係は使用と不使用によって大きな荷重をかけることで強く丈夫にすることや弱く退化することが、動物の意思と努力で容易にできる。しかし、鰓と肺の関係は動物の意思と努力でできるものではなかった。結果として、陸上から水中へ戻る動物は意思と努力でできる方法を探したであろう。それは水中で呼吸を止める方法であった。

水面から顔を出している間に多くの空気を吸い込んで血液中に酸素を取り込み、水中では無呼吸を維持する。これは訓練しだいで長くすることができる。鯨の中ではマッコウクジラは2時間にも及ぶ長時間潜り続けることで、深海に生息するイカを捕獲することができる。それでは肺から鰓に戻ることは絶対にできないかの問いに、できると推測する。動物の発生過程では胚の時期に鰓のできる時期がある。この時期の前後に鰓に強いストレスをかけることで肺呼吸から鰓呼吸へと戻すことも可能と推測する。但し、このストレスも通常のものではなく、特別のストレスにする必要がある。

一方、沖縄に生息する蛾にヨナグニサンがいる。成虫の寿命が雄が5〜7日で雌は9日ぐらいと短い。この蛾は口に相当する口吻は退化して見ることはできない。成虫の期間がおよそ1週間であることから、幼虫の時に得たエネルギーで成虫時期を過ごすことで、その間は食事を放棄したとされている。通常、進化は新たな機能が付加されるが、すでに備わっている機能であっても生活習慣の変化によって不要となったものは退化することになるであろう。

進化は母の愛情
従来論でいわれてきたことは有性生殖の遺伝子の組み合わせによる突然変異とされるものは、すでに遺伝子としても形質としても存在するものが、遺伝子の組み合わせの変化によって生物の外観に表現されるか、それとも形質として表現されずに隠されるかの違いで、エラーはすでにあるものの破損や喪失である。遺伝子の組み合わせによって生物の外観に表れたからといっても、進化の変異と表現することは適切ではないと考える。

これらは種を形成する中での固体識別に相当するもので、言うなれば個性のようなものではないだろうか。これらが遺伝子の組み合わせによって表れたり隠れたりすることは、進化とは区別して論じる必要があると考える。進化の変異とはそれまでには存在しなかった形質や機能が新たな塩基配列によって創られたものというべきではないだろうか。

進化では少しずつ形質の異なる子供が誕生し、それら異なる子供たちが成長する過程で自然選択に晒される。その結果、ごく一部のものだけが生き残ることができ、その他大部分は自然淘汰するとされている。しかし、進化のシステムはそのようなものではないと考えている。通常の環境安定期では親と瓜二つ、または極めて近似であって大きな変異はしないし、変異を必要ともしない。なぜなら、親と同じその状態が生きるうえで最適だからである。

通常見られる軽微な変異といわれるものは、変異ではなく個性を表すようなもので進化の方向性を示すものではない。しかし、一たび非常時に遭遇して環境の変化を感じると、母親は自らの子供が環境に適応できるように子供を変異させようとする。その一つがミジンコではないだろうか。

生物が数十億年継続することができたのは目的のない子供を作っていたのではなく、生き残れるような子供にするための母親の意思の表れであろう。しかし、一個体の動物が生き残るためには莫大な数に及ぶ他生命の犠牲の上に成り立っている。たとえば、人が生きるためには大量の肉,魚,野菜が必要になる。そして、これらは総て生物である。植物は光合成によって命を維持することができる独立栄養生物であるが、多くの動物は生命体を摂取することで命を維持する従属栄養生物である。このことは総ての生物が被食者に成り得ることを意味している。

大多数の生命体はいつか被食者になる可能性があることを知ったうえで生きている。すなわち、植物も含めて生物の母親は自らが生き残れたことを基に、生き残ることができる子孫を作ろうとしているもので、行き当たりばったりの偶然の子供や、自然によって容易に淘汰されるような子供は初めから作ろうとはしていない。これは生物の母親が我が子に対する愛情であろう。この母親は動物に限ったものではなく、植物でも子孫が生き残れるように考えて必要に応じて変異を促すことになるであろう。

それでも環境に適合せずに消滅する種も数多くある。これらは良いと考えた変異もそれ以降の環境に必ずしも最適ではなかったことを意味している。それはそのとき以降訪れるであろう環境の変化は、母親にも総てが予測できるのではない。その後の環境の変化がゆっくりであれば再び変異することで対応できるが、環境の変化が世代交替より速いと、さすがの母親もそれには対応が間に合わず淘汰されることになる。だからといって進化が目的のない突然変異と自然選択によるのではない。

私たち人では母親はことのほか我が子を大切に育てる。これは人が特別なのだろうか。多くの動物の映像を見る限り、他の動物でも人と同じように、それ以上に大切に育てているように見える。でもこれらの多くは哺乳動物や鳥類で、魚類の中では岩穴の中に卵を産んで卵が孵化するまでの期間新鮮な水を送りつづけることや、穴の入り口で捕食者から守り続けるものがいる。

一方、更なる安全を考える魚の中には雌が卵を産むと、その卵を雄が口の中に入れる。雄の口の中は孵卵器となり、卵が孵化するまで自らは食事をせずに卵を捕食者から守る。孵化した稚魚は雄の口から出て動き回るが、危険に遭遇すると口の中を避難所として逃げ込む姿を見ることができる。このように母親に限らず動物の親は我が子をこの上なく大切に育てる。

これに比べて多くの魚や昆虫の母親は卵を産み放しのものが多く、大切に育てているようには見えない。でも、どの親も自らの子供は大切で、成長することを願っていると考えられる。だからミジンコのようなこともする。そうでなければ子供を残すために多くのエネルギーを費やすことや危険を冒すことはしないであろう。

このことは植物についても同じことがいえる。種子や胞子そして地下茎で自らの子供を残すが、そのときどうしたら子供が生存できるかを考える。すなわち、動物でも植物でも母親は単に卵や子供や種子を産むだけではなく、生まれた卵や子供や種子が成長して成体になることを願っている。そのためには生き残れるように願うだけではなく母の意思に伴ってホルモンが分泌されることで、母とは異なる形質を備えることも可能ではないだろうか。

生物は環境が変わることを認識できていて、自らの考えによって環境の変化に対処している。そこでの環境認識の対象は自然だけではなく、回りに生息する他の生物との生活環境も変異の要因で、自らの生殖ホルモンによる変異や自らの強い欲求や知的行為も変異の対象で、変異の要因は自然だけではない。

すなわち、生物は自らを取り巻く自然環境や生活環境を認識し、その環境で生きてゆくために自らを変えるか、自らを変えずに異なる環境を探し求めることになる。ここでの進化は環境の変化を感じた母親が我が子を守ろうとする愛情によって変異を促すとしている。しかし、母親の意思はどのようなときに発揮されるのか、どんなときでも変異が可能ではなく胎芽の時期と考えられる。

胎芽の時期とは、人では胎児が発生して3週から8週の間で、あらゆる器官を作るときである。このときは世代交替の胎児がES細胞を活発にしている時期で、この時期に母親が何を考え何を望み子孫に何を残すかの強い意思が必要で、これらが胎児の細胞を刺激するだけのストレスとして働いたとき、進化の変異が起こると推測してはどうだろうか。

一つの種が世代交替をするとき突然に形質の異なるものが誕生し、これを突然変異と称している。しかし、それは誕生する以前に親の生存中に親の体内にて自意識に基づいてホルモンが異常になり、特定部位を刺激したと推測することができる。

ホルモンの変化によって形質の一部が変化することは、保護色を備えた動物に観ることができるが、保護色などの一部を除くと通常の動物では成体になってしまうと自らに如何なる強いストレスがかかったとしても、そのストレスによって自らの身体に形質的変異をもたらすことはできない。しかし、母親の持つストレスによるホルモンの変化は胎内の卵や胎児に影響を及ぼすことが可能と推測する。

結果として、如何に強いストレスを受けても表面上は変異しない母親と、変異して誕生した子供との違いから突然変異として扱われるのであろう。しかし、これは決して偶然ではなく、親の自意識に基づいて「変わるべくして変わった」とすべきではないだろうか。すなわち、環境の変化を感じたとき母親は自らと同じでは以後生きるうえで支障をきたすと考えるとき変異の方向へシフトするもので、ミジンコはその例であろう。

生物が環境を認識して対応できていることは、ミジンコが自然環境の変化を認識して単為生殖から両性生殖になることや、魚が生活環境を認識して性転換することなど、多くの生態から実証されている。もちろん、これらは進化と呼ばれるものではないが、これらが多くの生物で可能であることは、生物自らの意思によって変異可能な能力が備わっていることを示すものであろう。これはミジンコなどに限定するものではなく、動物も植物も日常の自然環境や生活環境を認識し、そのうえで対応するものである。そして、進化の変異もこの延長線上にあると考えるべきではないだろうか。




体内技術と体外技術

二つの技術の相違
生物の思考や知性で違いがあるとすると、それは表現方法の違いではないだろうか。ヒト以外の大多数の生物は、自ら思考したものは自らの身体の中で創作する「体内技術」である。そのため、思考によって創作されたものは形質の違いとして表現され、この形質の違いはDNAとして保存されて子孫に受け継がれる。

これに対してヒトは「体外技術」である。自らの頭脳で思考はするが、創作は体内ではなく体外で行なう。このため、如何なるものを思考し創作しても自らの形質として変異するものはない。このことは自らのDNAも変わることはない。これは思考と創作を分離したことを意味する。これによりヒトでは自らの身体とは異質のものや、身体には収納できない大きさのものまで作りだすことが可能になった。たとえば、蝶や鳥は飛ぶための羽や翼を自らの身体の一部分として創作するが、ヒトは自らの身体とは関係のない飛行機を作る、この違いである。

このようにヒトは進化における変異の方法が、他の生物とは大きく乖離している。ヒト以外の多くの生物の技術では、コブラは毒素を作る化学であり、バラは茎に棘を造るバイオである。コウモリは身体の一部に皮膜を作る形成外科であり、蝶はカラフルなデザインを羽に施す染色技術である。これらは何れも体外の道具は使用することなく自らの体内にて行なう。

これに対してヒトの技術では化学薬品は試験管で作り、空中を飛ぶには身体に翼を作らずに翼を付けた飛行機を作る。身体に色を染色するのではなく色が染まった布の衣服を身に纏う。技術において化学や飛行技術そして染色など、ヒト以外の生物とヒトとは共通したものが数多く存在しながら、ヒトはその大部分を自らの体内でおこなわず、体外処理をしていることが最大の相違である。

ここに挙げた生物以外にも多くの生物はヒトより起源が早く、最近になってヒトが登場したときには彼らの体内技術はすでに形質として備わっていて、真似をしたのはヒトになる。さらに、真似をするといっても彼らと同じように体内処理できる技術に到達できなかったことから、安易な方法の体外技術に頼らざるを得なかったと推測することができる。このことが多くの生物が体内技術で処理するが、ヒトは形質を決める遺伝子とは関係のない体外技術によって処理する無生物的方向に転換したことが乖離の最大の原因ではないだろうか。

ヒト以外の生物でも体外技術はある。野鳥の巣作りはその一例で、蜂の巣には防水効果がある。オーストラリアに生息する蟻は体長1pにも満たないが、彼らの作る蟻塚の大きさは高さ2mを超えるものも少なくない。なんと自らの体長の200倍を越える構造物を散在する砂粒に自らの唾液を接着剤として作りあげている。ヒトの身長を1.7mとすると200倍は340mを超える。人が東京タワーを作るのと同じ高さのもので、ほっそりとしたタワーに比べて、横幅が遥かに広い蟻塚は容積では数十倍に相当する。その大きさに相当する蟻塚を、蟻はクレーンもエレベーターも使用することなく自らの唾液で作りあげる。

あらゆるものにことのほか欲求の強かったヒトは、そのよりどころを体外技術に求めたのであろう。考え方によっては体内技術には物理的に限界がある。そのため、生物体に収まる範囲内の規模で、たとえ思考が優れていても不可能なこともある。これに比べて体外技術には制約がないことから規模や内容が自由である。

体内技術と体外技術ではメリットとディメリットがはっきり区分けできる。体外技術では世代交替しても技術は続かずに壊れると終わりである。そのためには常に技術を維持し続けなければならない。これに対して、体内技術では一たび手にした技術は遺伝情報として世代交替と共に確実に受け継がれてゆく。

ヒトはヒト以外の動物や植物の優れたものを見る度に希望する。但し、それらの多くは他の生物が備えた技術の利用であったり、他の生物の創ったものを抽出するもので、自らの思考によって創造するものではない。いい換えると、ヒトが進んできた道は他の生物の物まねを安易な方法によって置き換えた程度のもので、知的創造に値しないのではないだろうか。

生物種の半数以上を占める昆虫は、擬態や変態によって変異をして昆虫の種数を増やしてきた。一般的にその数、数千万種とされている。一方、ヒトはホモサピエンスの1種類である。しかし、人がこれまで作ってきた自動車や電気製品などの産業製品の種類は数百万種か数千万種になるであろう。人は対外技術としてしてきたもので如何に多くの産業製品を作っても自らの遺伝情報は変わることはない。これに対して、昆虫は体内技術を駆使することで種数を増やしてきた。これは昆虫だけではなく多くの生物が体内技術で進化の変異をして継代してきた。

これが生物の進化の変異であるが、人はその方向性を変えてしまった。それは生物ではなく無生物の方向にシフトしてしまった。これまでヒト以外の生物が進化をしてきたと評価されるものは、自らの身体によってなされた形質である。このことが意味するものは遺伝子の変異が伴う必要があるもので、これによって進化することは子孫に継承される。

これに対して、人が進化したとされるものは文字による表現や、工業技術である。しかし、文字や工業が如何に進歩しようとも、さらにはカラフルな洋服を着たり美しく化粧をしたとしても、それによって人の遺伝子は何一つ変異するものではないし、ヒトが世代交替を繰り返してもそれに付随してくるものではない。すなわち、これまでヒトの経過してきたプロセスは生物進化の範疇ではないことになる。このように生物進化の枠組みから逸脱したヒトが、統計数学や確率論を持ちだすことや、進化の要因を突然変異や自然淘汰といわれるように、無生物化した進化論を展開しているとみるのは私だけだろうか。

これまで進化を考えるとき、表現によっては、人は文字や言語の存在によって生物の中でも特別とすることや、別の表現では、生物の中でもっとも崇高なものと扱われたりしてきた。もちろん、これらは生物学としての正しい表現ではないが、進化を考えるときこれらが捨てきれないことも事実であった。しかし、このような表現に行き着いたことは、体内技術と体外技術の認識ができていなかったためではないだろうか。このことは進化の変異と事故の変異を区別できなかったことと類似の思考形態である。このように混在した状態で変異や進化を考えたとしても、変異や進化の本質を見ることは困難ではないかと推測する。

思考基準の違い
人が電気的に超音波の技術を手にした最近になって、コウモリやイルカなど一部の動物が、体内ですでに超音波を備えていることを人は始めて知ることになる。人が利用する超音波は体外技術なのに対して、同じ技術でもコウモリの技術は体内技術で外観から知ることはできなかった。さらに、これらが化石になるともはや想像の範疇ではなくなる。これらから物理的に見ることのできる体外技術の人は優れているといわれる所以であるし、自らの技術はコンピュータのように見えないソフトも理解可能である。

ここでもっとも身勝手なことは、最近になって人が作った超音波は有能な技術者が考えたもので人は知的であるといい、その人よりも遥か昔に考えたコウモリやイルカは、遺伝子のエラーによるものとして思考能力がなくても偶然に備わるという。

これまで人は数多くのものを思考によって知的創造してきたといわれている。それは超音波に限らず、植物種子の鉤形状からヒントを得たマジックテープや、食品や医薬品の多くは植物が創り出したものを抽出しているに過ぎないものであっても、それらは人の思考による知的創造物としている。そうであるならば、人より先にそれらのオリジナルを創造した生物に思考は不可欠ではないだろうか。なぜならば、人はそのようなことを思考による知的創造物としてきた。

思考の後の表現方法は体外技術と体内技術の違いはあるとして、模倣の体外技術の拠は頭脳としても、オリジナルである体内技術の思考の拠は何処だろうか。そこには頭脳よりも遥かに優れた思考能力が存在するであろうと推測する。そして、その思考能力は生物総てに備わっていると考えることができ、その思考能力を人が未だに認識できていないことは、頭脳とはレベルの異なる領域ではないだろうか。
(詳しくは、V部・もう一つの脳で説明します)

体内技術の創造領域
人の技術は体外技術で物理的に現れることから理解が容易である。一方、ヒト以外の多くの生物が備える体内技術は、外観に形質として現れる特徴は極僅かで多くは物理的に見ることができない。体内技術でも表面に表れる形質は理解できるとしても、影に隠れたものや体内に内蔵されたものは理解することが困難となる。ましてや形として表れることのない技術や知性については容易に知ることはできない。そのため、それぞれの生物が多くの技術を備えていたとしても進化をしたとはみなされない。

思考する脳または動物的本能が備わった動物と、思考することのできる脳が存在しないとされる植物に、同様の毒や棘が備わっていることが注目に値する。さらに、動物の中には自ら毒を作ることのできないものは、毒を含む植物を食べて自らの身体に毒を蓄積させることで、捕食者から身を守る手段としているものもいる。このことからすると新たな創造という面では、動物よりも植物の方が一歩先んじていることになる。このように植物や動物が自らの身体の中であらゆるものを創り体内に蓄積することを可能にしている。

それに比べて人は体内で作ることができずに、それらは体外で作るしかない。ここで考えようとしていることは体内技術と体外技術のどちらが優れているか否かを議論するものではなく、頭脳を備えているといわれる動物と、頭脳の影も形も存在しないとされる植物の両方を並べて見比べる。そこには同じ思考基準によって創造されたであろうものを数多く見ることができる。さらに、その多くの起源が植物であったとすると、進化の変異で思考によって創造されるものは頭脳に制約されないことがわかる。

だからといって目的のない突然変異とすることは早計である。異種生物間においてこれほどまでに類似の形質を表現することのできる確率は皆無に等しい。これらはそれぞれの生物が情報を入手する中で優れたものを取り入れる思考が働くことによって可能なもので、それぞれの生物が環境を認識し、そのうえで自らの思考によって創造することで得られる形質というべきではないだろうか。人の体外技術の大半が他の生物の物まねであるように。

上記の如く説明すると、体内技術の総てが生物の思考と知性によって裏づけられていることになる。これに対する反発は強く、形質の変異は遺伝子によって裏づけられているが、そこには生物の意思や思考は関与しないと反論される。そのような方々にお尋ねしたい。オーストラリア・グレートバリアリーフに生息するイカの仲間のジャイアントカトルフィッシュは擬態の名人で、身体の色や形を周囲の環境に即時に同化させることができる。これは自らの身を捕食者から守る手段ではあるが、思考と変化が一体となって身体の表面を創作していることを示している。

このことは移動によって周囲の環境が変化すると、何の目的もなく環境に融合するかの如く変化するとでもいうのだろうか。そのようなことはない。彼らは移動によって変化する環境に自ら合わせようとする目的がある。通常の生物ではイカの変化の延長線上というべきではないだろうか。生物の日常の行動はイカに見られるように目的があり、理に適っている。これらから他の生物についても延長線上で考えるとき、ハードの形質の変異にはソフトの裏付けがあり、そのソフトには生物の思考と知性が裏付けられていて、自らの思考と創造が連動している。それゆえ、生物は適応進化といわれることが可能で、擬態までもが可能になるのではないだろうか。

人が物理的に作るものは体外技術ではあるが、それさえも思考や創造なくしてできるものではない。人の技術でも実際に道具を使って物を作るハードがある。一方で、それらのハードを支えるためのソフトの技術が存在する。同時に、ハードには関与しないソフトだけの技術も存在する。すなわち、技術はハードだけでは成り立たず、その裏付けとなるソフトの技術が必要ということになる。

これは人の体外技術だが、このことは同様に体内技術についても適用されることではないだろうか。形質の変異は目的もなく突然変異によって発現するものではなく、ハードの形質に表現されることはそれを支えるソフトが備わっているとするもので、形質の変異を単なるハードが変化したととらえると突然変異なる結論に行き着くとしても、思考や創造のソフトによって支えられることで、進化の変異は生物の意思によって事前に思考し、創造されたものと推測する。

体外技術の功罪
体内技術と体外技術には大きな違いがある。最大の違いは体内技術が良くも悪しくも等身大で生物体と一緒なのに比べて、体外技術ではそのような制約がない。たとえば、体内技術について考えると、強力な毒のスズメバチではあるが、その毒の量はスズメバチの身体の大きさを超えることはない。さらに、スズメバチの命が途絶えるときその毒も一緒に消滅する。生物は世代交替の繰り返しで、一つの命が途絶えるとき屍以外の余分なものは残さない。

一方、体外技術では人に見られるように、自らの身体の中で作り保有するのではない。自らの身体とは関係ない場所で作り、その量も等身大ではなく無制限である。さらに、作った人の命が途絶えても作り続けることができて保存もされる。これらは何かといえば、廃棄物であり、垂れ流しの環境ホルモンであり、オゾン層破壊のフロンガスである。

これらから、人の進化は進化といい難いもので、生物進化を考える中でこれらを引き合いに出してはならない。進化の変異は遺伝子レベルでその変異が確認できる必要がある。しかし、もしも遺伝子レベルで知性の変異が確認可能なとき、それは進化に値する。進化の変異は生物の思考と知性によって可能とするとき、そして、形質の変異を裏づけるものとしてソフトの技術が存在するとき、進化の変異には思考可能な知性を遺伝子上で保存する必要がある。

いい換えると、DNAに保存されているものは形質の変異を裏づけるものだけではない。これが確認できたとき人の思考も進化の一つとして扱うことが許されるであろう。人が人以外の生物に知性や思考能力がないとするのは、それらの高度な体内技術のレベルに人の認識能力が達していないことを意味しているのではないだろうか。知性の低い人のすることは単純でわかり易いが、爪を隠した能ある鷹は単純な人からは見え難い存在になっている。そのため、他生物に備わった擬態,文化,体内技術,ソフト進化など数多くの変異の要因となる知性は人には未だ見えてこない。

遺伝子システムとコンピュータシステム
これまで進化を考えるとき、生物の形質や遺伝子の変異を基礎で支えている遺伝子システムの成り立ちについて語られてはこなかった。ここでは一つひとつの変異ではなく、システム全体について考えることにする。このような形質や機能を遺伝情報によって制御するシステムが、目的もなくエラーの累積によって構築することができるであろうか。これらは相互の情報が密接に連携して成り立っているから形質は環境に適応しているし、機能は知的なものとなっている。

このことは従来の考え方が正しいとして、一過性の事故によって何か一つの遺伝子が変異して形質を変異させることが万に一つあったとしても、そのような事故から遺伝子と形質をリンクさせる知的で巨大なシステムを構築することはできないと推測する。なぜなら、目的のない突然変異では目的がないから繰り返し発生する変異の一つひとつに相互関係はなく、それぞれが一過性の事故の繰り返しで、そのような事故によってシステムが創造されることはないし、生物が誕生したからといって、このような遺伝子システムができるとは考え難い。

それでも現在では初めにシステムありきであって、それぞれの遺伝子については議論するものの、システムの誕生が如何なるものか論じられることはない。しかし、ここでは遺伝子システムそのものは、目的のない突然変異によってできたものではなく、生物の思考によって創造された知的創造物としていることである。それは当時生息していた生物によって創造されたと推測する。もしも、一過性のエラーの累積によるならば、これまで地球上に出現した生物総てが間違いの産物となり、その間違いの究極の生物がヒトになり、
この間違いの究極のヒトが、総ての生物の中でもっとも知的とされる。そのような間違いがあるだろうか。

遺伝子システムの理解が困難なとき、近似のコンピュータシステムを参考にすることができる。コンピュータシステムは遺伝子システムほど複雑ではないが類似のシステムである。このコンピュータシステムでプログラマーの意思に反したプログラムエラーが発生し、それらの間違いを繰り返していたならば次世代を代表する進化したソフトができるとでもいうのだろうか。このことは多くの人々が知る身近なコンピュータで考えるとき、プログラマーの意思に反したソフトのエラーが発生した後に、それまで以上の優れた利用が可能でないことは周知の事実である。

さらに、それらのエラーを繰り返し累積することで、新たに優れたシステムが構築されると考える人は皆無であろう。もしも、エラーが発生しても、さほど重要でない部分ではエラーは現象として表れずに済まされることもあるが、多くの場合一部が機能しなくなることや、画面が凍りついてしまう。偶然間違いやプログラムにエラーが発生したときに生じることはマイナスの要素でしかないし、マイナスがどれだけ蓄積されても新たなシステムになり得ないことは誰でも容易に理解できる。しかし、コンピュータを現実に使用する中では間違いが起こるし、プログラムにも間違いが起こることがある。

このことはシステムに要求する内容が多くなればなるほどプログラムは複雑になり、間違いが起こり易くなる。しかし、これらは間違いの事故でシステムの進化につながるものではない。もしも、進化につながるとするならば、それらの間違いをヒントに思考によって新たなものを創造することができたときである。

これらは遺伝子システムを理解していただけない方々でも、現代のコンピュータシステムは容易に理解していただくことができると推測する。この遺伝子とコンピュータは、システムとして極めて類似の形態を備えている。これら二つは体内技術と体外技術の違いがあり、生物と無生物の違いはあるにしても、何れも生物による知的創造物ではないだろうか。

人はコンピュータシステムを理解することはできるが、遺伝子システムはどうして理解することができないのか。その理由は、遺伝子システムは数十億年前にできたとされる。一方、人の頭脳に相当するものは多細胞生物の誕生以降で、今から数億年前にできたとされている。このことは遺伝子システムが作られた時代には頭脳を備えた生物は存在していなかった。このため、頭脳ができて以降のことは理解できたとしても、頭脳が形成される以前のことは頭脳思考の範疇ではない。

頭脳によって制御できない遺伝子システムを理解しようとすることは、理論上わかっていても実感として納得できないことになる。さらに、これらは人が考えるとする頭脳の領域が狭いことと、出先機関である頭脳によって判断していることは、頭脳の思考形態が遺伝子システムの思考形態から大きく乖離して、技術において体外技術の道を選んだ頭脳の人には、体外技術のコンピュータシステムは理解できても、体内技術の遺伝子システムを理解することは一層困難となるのかも知れない。

私たちの思考とは出先機関の頭脳が思考の総てであると考えている。その結果、遺伝子の思考システムや自律神経の制御システムは頭脳以前のところで処理されていて、頭脳の範疇ではなくなっている。自律神経は物理的には頭脳の一部に存在するものの、それ以降に誕生した大脳皮質はそれ以前から存在して活動しているものを制御することができないのであろう。これに対して、植物は人と異なり容易に遺伝子システムを理解するであろう。なぜならば、植物には人のような出先機関の頭脳に相当するものは物理的に存在しないから、思考も制御も遺伝子システムのレベルによって実行されていることになる。

生物に備わっているシステムは遺伝子システムだけではなく、代謝システムを始めとしてさまざまなシステムが複雑に相互関係を維持している。これらのシステムは総てが正常に稼動できたとき、生物が生きることができ世代交代ができるもので、途中で事故が発生するとそれ以降の生活や継代ができないことを意味している。

生物にとって事故やエラーは生態からの離脱であり、これによって新たな形質を備えるものではない。ましてや生態全体のシステムを構築することなどがエラーによってできるものではなく、これは生物の思考による知的創造物ではないだろうか。ヒトを知的と表現するならば、これまでの歴史をつないできた生物によって思考が繰り返されて蓄積され、その累積によってヒトに到達したもので、決してエラーの累積によるものではないと考える。

私としても現在の一般常識は正しいとするが、中には疑問を感じるものがある。生物が世代交代を繰り返すことができるのは、一つひとつが正しく稼動することで大きな遺伝子システムが成り立っているというべきではないだろうか。もしも、その過程でエラーが発生したら、そのエラーを取り除き正しく修正して総てが正しく稼動できたとき、生物が本来の営みや世代交代ができるであろう。

複雑なシステムの中でのエラーの発生は避けられないとしても、その大部分は正しく修正されているから生態系が維持されているもので、エラーの繰り返しとそれらの累積であったならば、生態系の遺伝子システムは維持されないと解釈するのは間違いであろうか。




進化の変異と事故の変異

変異を見分ける
総合説では、まず初めに突然変異ありきで、突然変異が進化の総ての出発点になっている。この突然変異は生物の意思に関係なく生じるものとされ、その発生は間違い(エラー)によるものであることから、生物にとってマイナス要因とされている。しかし、そのようなマイナス要因であっても、膨大な間違いの中には変化した環境に適応できるものもあるとして、自然淘汰の篩にかけることで選別できるとされてきた。

そこでの目的のない突然変異によって生じるものは、形質の優位性や劣位性とされている。すなわち、争いに強いか弱いかであることや、子孫を残すときの繁殖力が優れているか劣るかで、このときの優劣の差異は極めて僅かとされているが、このとき自然淘汰によって劣位性は淘汰され、優位性は生き残るとするもので、このとき生き残った僅かな優位性が継代によって累積されると進化生物になり得るとされてきた。これが従来論の突然変異と自然淘汰の概略のようである。

このことから、従来論の進化の起点は間違いから始まるものとされ、単一の変異だけではなく、一連のプロセスを必要とする変異や、如何に優れた機能であっても、総てが間違いの繰り返しと累積によるものとされてきた。しかし、この考え方には誤りがあると考える。生物の変異発生にはDNAの塩基配列が変化した段階で二種類の異なる要因が存在すると考えるもので、それが
『事故の変異』『進化の変異』というもので、これが従来論とここでの考え方が基本的に異なるところである。

前者の事故の変異とは偶然や突然のもので、遺伝子のエラーといわれるものを指す。これは生物の意思に関係なくランダムに発生するもので、従来論の変異の原因はこれに相当する。事故の変異は生物にすでに備わっていた機能や形質の破損や喪失で欠陥を意味するもので、生物にとってマイナスの要素であり、受けたダメージは大小さまざまで、生体にほとんど影響を及ぼさない軽微なものから、致命的なものまである。

この欠陥を負った生物が通常の営みができずに死に至っても、それは形質の相対的劣位性による自然淘汰ではなく、これらは生物の身に降りかかった災難の事故による死と扱うべきものであろう。それゆえ、これによって新たな機能や形質にはつながるものではなく、新たな進化種になり得る要素はないと考える。

一方、後者の進化の変異とは単なる形質の変異というよりは、形質の変異を支える分子レベルの新たな機能の創造が必要となるであろう。それは如何に多くの間違いを繰り返しても得られるものではなく、生物の思考によってのみ創造可能ではないだろうか。すなわち、生物自らが環境を認識して変異を必要とするとき、如何なる変異が最適かを思考することで新たな創造ができたとき自ら変異を促すもので、思考による知的創造としている。それゆえ、これによって新たに備わる機能は限りなく環境に適応したものとなり、大多数の生物が適応進化といわれる所以はここにある。だからといって、生物が変異の必要性を認識して思考したら直に新たな創造ができるのではなく、内容によっては長い時間が必要とされるものもある。   

これまで遺伝子病などの存在から、遺伝子のエラーがあることは事実である。一方で、生物がそれまでになかった新たな機能を備えて進化してきた事実から、進化の変異による遺伝子の変化があることも事実である。この二種類が事故の変異と進化の変異ということになる。従来はこの二つを分離したうえで、それぞれについてを考えるべきであったが、分離して認識することができずに混在させたまま済ませてきたと見ることができる。その理由は、思考は生物にとっての共通項ではないことで排除されてきたのであろう。これが人による頭脳的発想ではないだろうか。

この二種類の変異は、人に備わる頭脳レベルでは同じに見えるとしても、分子レベルの変化発生過程では、全く異なる要因によると考える。進化を考えるとき、この二つは目的のない変異と目的のある変異で、発生要因そのものが異質のものであることから、結果はおのずと二つに分かれることになる。それゆえ、自然淘汰によって変異を選別する必要はない。このことから、ここでは自然淘汰の考え方は必要ではないし、自然淘汰の理論そのものが存在しないと考える。

従来論は頭脳的発想によるもので、見かけによるプラスの要素とマイナスの要素は、生物の適応進化という結果から逆推理することで、自然淘汰の理論に委ねたに過ぎないのではないだろうか。しかし、これは自然淘汰によって選択されたのではなく、自然環境や生活環境に対応できるように生物が思考し、創造したものであるから、生き残ることができたものであろう。結果として、変異が環境に適応できていることは、それだけ生物の思考による創造力が優れていることを示している。

目的のない変異の認識
私たちの日常生活でもいえることだが、事故や災難と呼ばれるものは何時降りかかるかわからないし突然に遭遇するもので、その内容も被害を受けるものにとって決して良いものではない。だから災難である。これに対して、真に望むものは災いのようには起こらず、努力と創造によってのみ適えられる。

従来からいわれている遺伝子のエラーの中には有利な要素も存在し、その繰り返しが長い歳月経過することで、現在生き残っている生物を形成したといわれている。すなわち、現在生き残っている数千万種の多様性が構成されていることは、これら総てが間違いの繰り返しによって生き残った生物としている。いい換えると、間違えることなく世代交替した生物は間違いを起こした生物によって淘汰され、現在では存在しないことを意味することになる。

なぜなら、これまでに何度も大規模な環境変動があり、その度ごとに間違いによって新たな環境に適応できたものが生き残り、間違えることなく継代された生物は変化した環境に適応できずに消滅するとされてきた。さらに、そのような間違いの繰り返しの中からもっとも知的とされるヒトが誕生することになった。この考え方に些かの疑問もないのだろうか。

このように変異に目的がなく結果は自然選択によることは、生物の意思は言うに及ばず思考,知性,創造が介在する余地は全く存在しない。このことは生物が自らの思考や知性によって変異することはできず、間違いによる変異の蓄積だけが生物進化と語っていることになる。しかし、間違いは何万回繰り返しても間違いで、新たな創造ではない。

現在、正式に確認されている生物種はおよそ150万種とされていて、未確認のものや分類が不充分なものを分類し直すと、一般的には数千万種といわれている。さらに、地球歴史の中で隕石の衝突や火山噴火を始めとする地殻変動などの事故によって絶滅した生物種は、現在の生息種よりも遥かに多くの生物種が存在していたことは化石からも確認されている。このことは少なく見積もっても数千万から億を超える生物種がこの地球上に誕生したことになる。

振り返って、突然変異は大部分の不利な変異と、ほんの僅かな有利な変異とがあり、その僅かな有利の変異が新たな種になるとしている。このことはほんの僅かな有利な変異が億を超える生物種で、それと比較にならない桁違いに多くの不利な変異を備えたものが、自然淘汰によって消滅していることを語っていることになる。

このような生態系が存在するであろうか。逆に、少なくとも億を超える有利な変異が発生するであろうか。目的のない遺伝子のエラーによってこれほど多くの都合のよい変異が起こることはないであろう。地球の歴史の中で偶然の出来事が有利に働くようなことがあったとしても、それは指折り数えることのできる回数ではないだろうか。それらも偶然のできごとはきっかけであって、それがシステムに至るまでには思考や創造の介在に頼らざるを得ない。

そのような間違いは、あってはならない間違えであろう。このことは人の生活でもいえることで、間違いの中から思考や知性を駆使することで将来につながる新たな創造が可能になるもので、単に間違いを繰り返すだけでは新たなものが生まれることはない。

身近なコンピュータシステムで何万回間違いを繰り返しても新たなシステムが構築されることはないし、間違いによる変化をヒントにして新たな創造をする。このことは人自らの思考によって創造したコンピュータシステムについては理解することができるものの、それが生物進化になると思考ではなく遺伝子のエラーに摩り替わってしまう。それを地質年代の長い歳月を持ちだすことで解決しているのではないだろうか。この長い歳月は、あたかも起こり得る錯覚を与えるに過ぎないもので、長い歳月は進化の変異の要因にはなり得ないのではないだろうか。

事故の変異は進化ではない
進化の変異には目的があるとする仮説を唱えると、直に返ってくる反対の言葉は、変異には遺伝病を始めとして生物にとってマイナスの変異が数多くあり、自らマイナスを望むものではない。それゆえ、変異は生物の意思が関与しない目的のない変異といわれる。ここで断っておきたい。それらマイナスの変異は確かに存在はする。しかし、これは事故の変異で進化の変異ではない。

20世紀の初めから続けられてきた遺伝実験によって、ショウジョウバエは通常の150倍ものスピードでX線放射やその他の処理によって突然変異を誘発させて何千世代にも渡って継代飼育されてきた。それらの実験で翅がねじれたり翅が全くなかったりなどの変異がつくられたが、どれもみなショウジョウバエであることに違いはなかった。ショウジョウバエが他の昆虫に変わることはなく、ショウジョウバエの新種さえも作ることができなかったとされている。

ここでX線放射やその他の処理を受けたとされるが、実験してきたことの意味は何かを問いたい。ここで行なわれてきたことは進化の実験ではなく、ショウジョウバエに人為的に危害を与えたことに他ならない。そうした実験によって生まれながらにして傷害を負ったショウジョウバエを誕生させていたとするもので、これは進化の変異とは異なる事故による変異で、膨大な数の実験によって誕生したものは奇形を意味するものではないだろうか。

同様に、過去には進化の実験と称して何千匹ものネズミの尻尾を切り続けたが、彼らの子供から尻尾のないネズミは生まれてこなかった。それゆえ、獲得形質は遺伝しないとする理論を主張した研究者もいた。

このようなことは進化の基本が間違っているのではないだろうか。X線放射や物理的に尻尾を切り落とすことは、その何れもが生物の意思とは関係なく生物の意思を無視して危害を与えたもので、生物にとっては身に降りかかった事故である。事故は生物にとってマイナスの要素で、たとえ何万回繰り返してもそこから進化の変異につながるものにはなり得ないであろう。

ここでショウジョウバエとネズミの違いは、ネズミは肉体的損傷で遺伝子に事故は起きてはいなかったもので、ショウジョウバエではX線によって遺伝子傷害が起きていたことの違いによるものとすべきであろう。遺伝子にまで傷つけることによって子孫にまで影響を及ぼしたからといって、遺伝子に事故の変異が発生したことの確認はできるとしても、これによってショウジョウバエの新たな種の誕生にはなり得ない。すなわち、それまで備わっていた機能や形質の破損や喪失は事故で、如何に繰り返されようとも進化につながる要素ではない。

一方、地球上で発生する地殻変動,火山の噴火,隕石の衝突,海水面の上昇と下降,地球の温暖化と寒冷化など、これらの自然現象の変化は生息する生物にとって変異を要求される要素ではあるが、変異をするか否かは生物自身が決めることで偶然や突然に発生したものではない。

変異することで生き残る生物があれば、変異せずに滅ぶ生物もある。さらに、変異はしたものの生き残れずに滅ぶ生物もいる。だからといって地殻変動を始めとするこれら諸々の自然現象が生き残る生物の選択を決定しているのではない。これらは生物にとって事故で、事故は進化の変異を促すきっかけにはなっても事故の結果が進化ではない。

事故に対して生物が生き残るために何を考えて行動したかが進化であろう。一つの事故でも生物が考えることはそれぞれの個体によって十人十色で、結果として、さまざまな種の生物が誕生し、これが種の多様性となる。生物にとって安定期には変異を望まずに世代交代を繰り返すが、一たび上記のような事故が発生すると子孫を存続させるために変異を思考するもので、事故の累積が進化ではない。

地球生物とは自然に選択されるような無能なものではない。地球生物の進化とは、生物自らの能力の範囲内で自然現象の変化や捕食,被食を始めとする身の廻りの生活環境を認識し、その変化を乗り越えるにはどうしたらよいかを考える。そのうえで自らの身体を形状変異させるか、それとも形状は変えずに生きる手段を変えるかなど、生物自らが意思決定するものが進化であろう。しかし、生物には進化の過程で生き方考え方の違いだけではなく、能力や表現力にも差異がある。この差異が更なる多様性を生むことになるであろう。

複雑なシステムゆえの弊害
ここでの変異には進化の変異と事故の変異があるとしている。事故の変異では遺伝子システムそのものが複雑になり、単純なシステムではあり得なかった遺伝子のエラーが生じることになる。たとえば、原核生物ではシステムが簡単で発生することのない間違いも、真核多細胞生物ではシステムが複雑ゆえに発生するものがあり、これは生物の意思に関係なく目的のない間違いの変異に当たる。従来論でいわれる変異の多くはこれに相当するものであろう。

ヒトとチンパンジーの遺伝子の違いは1.23%であり、ヒト同士でも遺伝子の違いはおよそ0.1%あるとされる。この0.1%にはいくらかの間違いが含まれるとしても、総てが間違いの蓄積というものではなく、必要としたものがそれまでとは異なる遺伝子を創造したというべきではないだろうか。このことはヒトに限定するものではない。総ての生物が自らの意思によって環境の変化を認識したうえで、その変化した環境に適応するために遺伝子を変異させたとすべきものであろう。

遺伝子のエラー発生ではその多くがシステムの複雑に由来するものと推測することができる。システムはシンプル・イズ・ベストで、単純にすれば間違いは少ないが複雑にすると間違いは増加する。DNAでも複製に際してリーディング鎖とラギング鎖とではエラーの発生頻度が1桁違うことからもわかる。もしも、二本鎖が同じ方向に複製が可能であれば間違いを少なくすることが可能であろう。これは単にシステムが複雑ゆえの間違いで、突然変異とすべき内容ではない。

システムの最初は一個体が一細胞の生物であり、以後進化するものは一個体が多数細胞になり、多種細胞に移行したとされている。中でもヒトでは細胞の種類が200種を越えるとされ、細胞の数は60兆個を超えるとされている。これほどまでに多種多数になることでシステムが複雑になった。さらに、生態系の中にはそれぞれの生物の意思を可能とするためのさまざまな機能が備わっている。それは神経系であったり分泌系であったりする。それらが複雑に関係して生物の日常生活が成り立っている。

もしも、遺伝子システムが生物の意思の関与を排除して画一的に世代交替するだけならば、システムそのものは現在の生態系とは比べものにならないくらいに単純化したものとなり、システムが単純であることは世代交替に伴うエラーの発生を最小限に抑えることができ、エラー発生量は今とは桁違いに減少させられることは容易に推測することができる。しかし、生物の意思を関与させて目的にかなった変異を引きだすことのできるフレキシブルなシステムを創造することはシステムが複雑になり、結果として、エラーが発生し易くもなる。

しかし、真核多細胞生物の生態系システムは、自然や生活の環境の変化に対応して変異することの必要性と、それぞれの生物の意思や思考による変異が可能なシステムが創られたと推測することができる。これによって画一化されたシステムとは異なり、変異に対してそれぞれの生物の思考や創造の自由度が限りなく大きくすることができるようになり、現在の生物多様性につながっている。しかし、このことは弊害が伴うことになる。変異に対してそれぞれの生物が選択可能な自由度の範囲が広がることは、システム全体は限りなく複雑化することになり、この複雑化が単純なシステムでは発生することのないエラーを桁違いに増加させる結果を招くことにつながるであろう。

従来論で論じられる突然変異はこの類で、システムを複雑にしたことによる弊害として生じた事故といえるものであろう。しかし、それらの変異の中にも環境に適応できたものや、明らかに生物の意思によるものを見い出したときでも、変異に生物の意思が関与する発想ができなかった。結果として、変異には有利なものと不利なものが混在するということになる。

その理由は、ヒト以外の生物に高等な思考は困難とするものであったと推測する。結果として、変異は総て突然変異として処理するもので、変異が生物の意思によるものか事故によるものかの判断は、自然に適応できたか否かの自然選択によって処理する結果となる。すなわち、突然変異や自然淘汰は生物の意思や思考を全く介在させることのない理論に行き着くことになる。




限界ストレス

環境適応には目的がある
生物に備わるものは外観だけではなく、体内構造や機能など多岐に渡る。擬態の形質は見た目のもので人にとって理解し易かっただけで、生物が自らの思考によって変異することは擬態に限るものではない。総ての変異は生物の意思であり思考によって創造したもので、変異を必要としたとき思考し、その思考の結果、目的となる創造ができたとき変異を開始するもので、できあがった変異が目的に合致したとき変異は終了すると考えている。この結果、終了時の変異は目的が擬態であれば対象物に瓜二つになるし、擬態でなければ自然環境や生活環境に適応したものとなる。

擬態に属さない変異は特定の生物種を目的対象物とするのではなく、環境適応を目的対象としていることに他ならない。これによって外部的要素で環境が少し変わっても適応可能であり、内部的要素で自ら他の環境に移動しても適応可能となる。擬態が可能であることも大部分の生物が環境に適応できていることも、いずれの場合であっても生物にとっての変異とは決まった目的のある変異で、生物の意思によって自ら変異を促すであろう。それゆえ、擬態の目的対象物に限りなく近似の変異ができたときや、環境に限りなく適応した変異ができたとき、それ以降の変異は起こってはならない。

従来の考え方では遺伝子のエラーは目的もなく常時発生していて、せっかく目的対象物と類似になってもさらに他の変異が発生していて、それが擬態の近似から外れることで淘汰されるとか、環境適応から外れたから淘汰されるとしている。そのようなとき環境が変化していて、その変化した環境と外れた変異が合致すると進化とみなされるとしてきた。しかし、目的対象物に近似になった以降は、それ以上の変異を見ることはない。これは進化の変異が終了した状態であることを示している。

変異には目的があり、変異を必要とするときに自ら変異を促し、それ以上の変異を必要としないとき変異は停止する。すなわち、進化の変異は生物の認識のうえに成り立っているもので、意思によって開始したり停止するもので、ランダムに目的もなく変異するものではないと考える。

擬態の変異は象徴的なもので、一般的に変異といわれるものの大部分は自然や生活の環境に適応できている。この適応は見た目の姿かたちだけではなく、直接見ることのできない代謝系を始めとする多くの機能が環境に適応していることは、擬態が偶然の産物ではなく、姿かたちの形質から体内の機能に至るまで総てが目的の定まったものというべきではないだろうか。

環境認識
生物の生活領域は水中,陸上,空中(樹上),土の中などがあり、生物の中には生活領域を変えてそれまでとは異なる領域へ移行しようとする生物がいる。領域を変えることは基本的環境条件が変わることで、それまで備わっていた身体で生活することは困難となり、何らかの変更が必要となることが多い。動物が異なる環境に移動するのはその原因が自然環境や生活環境の変化であったとしても、それまでの生活環境を変えることは自らの意思で、その後その環境に適応することになる。

これは動物に限定するものではなく植物にも適応される。動物のように自力移動しない植物では自ら異なる環境へ移行するのではなく、常に異なる環境がやって来る。このため、環境の変化に適応することは動物以上に大切なことになる。このことから、自然環境や生活環境が変化したからといって容易に自然淘汰するものではなく、多くの生物は変化した環境に適応する能力を備えていることで容易に自然淘汰することはない。そのような生物であっても瞬時の事故には対応できずに死に至る。

たとえば、陸上生活していた動物が捕食者からの身の危険を回避するため安全な水中生活に移行することや、環境変動で陸上の餌が枯渇したため餌を求めて水中に入ることは、それらの何れもが動物の意思による。なぜなら、そのような状況になったとき水中に移行するものもあれば、それでも陸上に残るものもいる。

その違いはそのときの捕食者や餌の状況が自分にとってどれだけ切羽詰ったかによって判断が異なる。このことから、自然環境や生活環境の変化は生物が生活領域を変えるきっかけではあるが、最終的に異なる領域に移行するか否かの決断は動物の意思に他ならない。

このように自らの意思によって生活領域の異なる環境に移行しながらも、異なる領域で生き残っている動物が数多く存在している。これは動物の意思によるから突然変異でないことは言うまでもない。このようなとき生活領域を移行した後で環境に身体を順応させる必要が生じる。それは分泌物の制御や体内機能の一部変更によって対応している。すなわち、自らの意思によって変更した領域の環境に自らの体内制御によって調整している。

それでは自らの意思で生活領域の異なる環境に移行するのではなく、自らの意思に反して自然環境や生活環境が変わったときどうなるかである。環境が変わってもそこに定着することは、自らの意思で環境の違いを受入れたことを意味している。先に述べたことは環境の異なる領域に自ら行ったが、この場合は環境がやって来たことであって、行ったか来たかの違いである。

自ら行ったとき異なる環境に適応できたならば、異なる環境がやって来たときでもそこに定着することは、適応できる能力が潜在的に備わっていることを意味している。この自ら異なる環境に移行するのではなく、環境がやって来る状況に相当するものが植物ということになる。

形質の裏づけの思考
従来論が初めに突然変異ありきなのに対して、ここでの進化は環境の変化を認識し、それに対処するために思考して創造した結果の一つが形質の変異で、形質の変異まで必要としないときは渡り鳥やミズナラのように思考による判断だけ済ませることもできる。それゆえ、進化の変異は変化した環境に限りなく適応している。これは変異の後先が従来とは違っている。すなわち、変異はそれぞれの生物の思考や創造であることは、総ての生物が思考能力を備えているので、知的条件とはこれを意味している。

従来論では生物の形質について多くが論じられてきた。その形質とは生物の姿かたちや色彩であった。そのため、種を区分するために比較する内容は生物の外観が主であった。しかし、生物の外観に表れる姿かたちの変異は表面に表れた結果の一部に過ぎない。実際には植物の内部組織や動物の内臓には外観には表れることのない変異も数多く存在する。そして、何よりも外観を変異させる要因は内部組織や臓器が司っている。

さらに、そのような内部組織や臓器の活動の変化は生物の受けるストレスによって変わる。このことから、生物の外観に見られる形質の変異は生物自身の受けるストレスに起因すると推測する。進化するとは、生物が受けたストレスに対して何を考え、何をしようとしているかを表現するもので、それぞれ生物の主観の相違による。すなわち、生物にとって自然環境の変化や生活環境の変化は進化のためのきっかけではあるが、進化を司るものではないし、ましてや、自然淘汰につながるものでもない。

適応進化の形質と知恵
生物が環境変化によるストレスを解消しようとするとき、そのときの手段は知恵であり、制御であり、形質の変異になる。これによって、あるものは知恵だけでストレスを解消し、あるものは形質の変異によって解消する。また別のあるものは、知恵と形質の変異を組み合わせることで効果を高める。そして、この知恵によるものと形質の変異の間には境界がなく、グラデーションのようになっている。これは何を意味するか。変異が間違いから生じたものではなく、知恵の延長線上の一つが形質の変異とすべきで、形質の変異は環境適応の多くの手段の一つに過ぎず、必ずしも形質の変異が必要ではなく、むしろ知恵による適応で対処できることが多いことを示している。

生物を取り巻く自然環境や生活環境はダイナミックに変化しているが、進化の変異はしばしば数百万年か数千万年に一つとされている。これが意味するものは、大多数の対処は形質の変異を必要としない知恵によって対応できていることを示しているであろう。たとえば、渡り鳥のように知恵によって対処できれば形質変異の必要はない。しかし、従来論での適応進化は物理的形質に限定され、これらの知恵は排除されて適応進化の範疇に入れられていない。このように従来論では形質が変異しないとき進化とはみなされないし、知恵の対処による適応進化は説明されてはいない。

生物が環境を認識できていることは、ホメオスタシスや制御機能によって裏付けられ実証されている。それら認識と制御の間で欠くべからざるものが、思考の介在と考えるもので、これらのことを従来の適応進化では説明されていなかった。それにもかかわらず進化の変異になると、これらの日常生活で認識されている環境認識を排除するか無視してしまって、初めに変異ありきとしてしまう。このようなエラーによる変異から、環境に適応進化した生物が誕生するであろうか。変異は環境認識から始まる一連の流れの一つであって、突然変異の如く現れるものではないと考えている。

さらに、その環境が安定することで制御が不要になるか、たとえ環境が変化したとしても、変化の大きさが生物に備わる制御能力の範囲でストレスが解消できるとき、外見的な進化の変異は必要ないことになり、進化停止状態になる。これがいわゆる生きた化石といわれるものとなる。すなわち、形質が変異することだけが環境適応ではなく、生物に備わる制御や知恵で進化停止状態になることも環境適応の重要な要素であり、従来からいわれる突然変異のように、めったやたらに変異するのではない。それゆえ、発生するDNAのエラーは直ちに修復している。

このような知恵は多くの動物に観られることはいうまでもないが、頭脳がないとされる植物に多く知ることができる。植物でも自然環境を認識して乾燥する環境では保水力を備えることになるし、動物に植食されないように刺や毒素を保有するものがいる。これらは形質を伴うものであるが、形質に及ばないものに隔年結実や数年に一度の豊作などもある。そのとき、これらの知恵を導き出す拠は何によるものか説明しなければならないことになるが、これまで説明されたことはなく、それらは不思議という言葉に置き換わっている。

一方、異種生物が互いに影響し合うことで変異したものを共進化というが、これも形質についてであり知恵は除外されている。同様に、多くの生物種間で切磋琢磨を観ることができる。これは単なる形質だけではなく知恵の競い合いにまでなると、環境適応を単なる形質の変異について論じることはたいして意味のないものになる。さらに、この生物間では捕食関係にある動物と植物に切磋琢磨を観るとき、思考の機能は動物に備わった頭脳を唯一とするのではなく、頭脳以外の思考機能が存在するであろうと考える。

すなわち、環境を認識して思考によって対策を考え、知恵,機能,形質などからそのときの最適手段を創造することで、変化した環境に適応してストレス解消する。それゆえ、従来のように、途中のプロセスを排除して突然変異とすると、切磋琢磨のような身の回りで生活する同種生物や異種生物を単に認識するだけではなく、相手のメリットやディメリットまでも理解することで保護色や擬態までが可能であり、単一の思考ではなく複数の思考が関与することや、一連のプロセスを備えた知的創造までもが可能になる。ここまでくると従来論で述べられるエラーとは程遠いものとなってしまう。

限界ストレスと制御
生物は生きるうえで自然環境の気温,湿度,海流などを認識し、生活環境の捕食者,被食者,植食者などを常に認識している。その中で環境に変化が生じると、僅かな変化に対してもその変化を認識して変化に伴ってストレスが生じる。このストレスを解消や緩和するためにホルモン系や神経系によって制御している。

この制御をすることで如何なるストレスにも安定して生きていられる。植物の多くは体内調節をホルモンによって制御している。それゆえ、多少の気温の変化にも耐えられるようになっている。私たち人では体温や血糖値や血圧などを安定させる自動調節の機構によって制御されている。このように外界の環境が変動しても身体の中を安定した状態に保つしくみはホメオスタシスといわれている。暑いとき汗をかくのはその一例である。

通常では、自然環境や生活環境が多少変化しても、それぞれの生物に備わる制御機能によってストレスは緩和される。しかし、これは生物に備わった制御能力の許容範囲内にある場合に限られる。もしも、環境の変化が大きく「生物が備える制御能力を上回るほどのストレス」 (以後これを
『限界ストレス』と呼ぶ)が生じたとき、生物の中には制御不能になるものが生じ、死に遭遇するものが出始める。

しかし、このとき総てが死ぬわけではなく、生物の中には生き残るために自らに備わっているホルモン系や神経系の自律制御の延長線上で機能の拡大利用することや、知恵を付加することによってストレスを解消しようとする。さらに、別のあるものはそれまでとは異なる手段を思考し、自らの意思によって対応するもので、これによってストレスが解消されることもある。

このとき対応の目的は、環境の変化に伴うストレスの解消可能な知恵,機能,形質などで、ストレスの内容が自然環境の変化であるとき、その後の対応は自然の変化に適応できる知恵や形質を備えるものであり、ストレスの内容が生活環境の捕食者の攻撃であるとき、その攻撃から逃れることのできる知恵や形質を備えるものである。これらによって、生物が備えることのできた知恵や機能や形質は、自然環境や生活環境を認識したものとなり、変化した環境に限りなく適応できることになる。

生物にとって自ら変異するには多くの努力とエネルギーが必要である。このことから、基本的には生物は変異を望むものではない。進化の変異には変異そのものに目的があり、目的が決まった後でその解決策が得られたとき変異が開始する。その結果、生物の意思に伴った変異ができたとき、ストレスや欲求に対して適応的結果を導きだすことになり、それまでのストレスや欲求が解消もしくは緩和される。

これによって変異のプロセスは終了することになり、新たな限界ストレスが発生するまでは通常の制御によって処理され、以後変異は必要とはならない。進化の変異は目的もなく突然変異といわれるようにやみくもに発生するものではなく、変異は発生そのものに目的があり、必要性がある。そのため、必要がゆえに変異するときと、変異の必要がないゆえに単なる世代交替を繰り返す。このようなとき自ら無駄なエネルギーを使って変異することはせず、変異は停止した状態になるであろう。

進化の本質は変異するか否かではなく、自律制御の限界領域でストレス解消の手段を見つけるための試行錯誤をする。そのため、ストレス解消の結果となるものは知恵や機能や形質である。それゆえ、必ず変異するものとは限らず、自らの思考による知的創造でストレス解消できるものも少なくない。

これらは形質の変異を伴わないことから、これまで進化とは呼ばれてはこなかった。しかし、生物にとって進化の変異が目的ではなく、ストレス解消が前提で、知恵だけのときもあれば機能や形質にまで及ぶときもある。それらの何れであっても彼らの知的創造であるから、そのとき発生したストレスに対してもっとも有効な手段で、限界ストレスの発生原因である環境の変化に限りなく適応できる。これが生物の変異の大多数が適応進化といわれる所以と推測する。

たとえば、環境の変化が自然環境の寒冷化であるならば、鳥の中には自らの形質を何一つ変えることなく、渡り鳥になることの知恵だけで生き延びることができる。これは通常の飛行距離を延長するだけでストレスのない環境を得ることができる。一方、哺乳動物の同じ牛の仲間でも低緯度で生活するヌーと高緯度で生活するヤクとでは体毛に大きな違いを見ることができる。これもすでに備わっている体毛の長さや密集度を変えるだけで可能なことで、このための新たな技術は必要とせずそれまでの機能の延長線上に他ならない。

体毛といえば通常は動物であるが、寒冷地で生息する植物のエーデルワイスは葉や茎が細かな毛で覆われている。この毛によって寒さから身を守っているがこれを熱帯では見ることはない。同様に、アフリカ・キリマンジャロに生息するジャイアント・ロベリアは膨大な数の花を円筒状に並べてその姿は鱗模様をしている。ジャイアント・ロベリアでも高山の寒冷地に生息するものは花の間から細かい毛をたくさん出して花を寒気から保護している。しかし、その高地から降りた中腹では同じジャイアント・ロベリアに細かい毛は備わってはいない。

同じ環境適応であっても、従来論のように初めに変異ありきでは、体毛が増加したものは遺伝子のエラーで可能であり、思考を必要としないとしているが、形質の変異をしない渡り鳥が環境に適応できることが何かは説明していないし、渡り鳥の知恵は遺伝子のエラーから可能ではないとされている。これは体毛増加の変異であっても、分子レベルでは環境を認識した思考による対応というべきものではないだろうか。

これについて、渡り鳥は頭脳による知恵であるとすると、類似の知恵に相当するものがある。生物の中には保身のために体表に刺を供えるものや、体内に毒素を保有する生物がいる。このような生物は、頭脳を備えた動物と頭脳がないとされる植物で類似のものが観られる。もしも、知恵が頭脳によるものであると、植物がこのような発想をすることはできないことになる。それでは単なる遺伝子の変異であるか。しかし、遺伝子は形質を示すもので、知恵は含まれないとされている。これらは進化の変異の思考が頭脳ではなく、思考の基本が同じレベルにあることを意味するものであり、同じDNAを思考の基本形態としているから、極めて類似の思考や知的創造が可能ではないだろうか。

これらは日常制御の延長線上の処理に相当するもので、突然変異として扱うべきことではない。すなわち、自然環境の寒冷化の変化に対して、それぞれの生物が採る行動は知性や機能や形質の変異で千差万別である。同様に、環境の変化が生活環境の捕食者であるならば、自らの姿かたちは一切変えることなく、ミズナラのようにホルモンの制御によって数年に一度の豊作にすることで、その年の収穫の多くを捕食されずに子孫とする知恵だけで処理することができる。

現実には限界ストレスの多くは変異を必要としないものもあり、それらは知的創造のソフトで処理してハードの形質の変異を伴わないものが数多く存在する。形質の変異はソフトで解決できないときの手段の一つとして理解すべきではないだろうか。そのときの変異には限界ストレスを解消できるだけの機能を創造する必要があり、そこには思考の要素は不可欠である。

限界ストレスを抱えたままの状態で思考のない突然変異の繰り返しと累積から、ストレス解消可能なものに遭遇するまで地質年代に及ぶ期間を待つことはできない。だから、極めて短期間にストレス解消する必要がある。当初の目的が解決できたとき適応進化といわれるように環境に適応できている。これらは植物の生態の極一部である。思考は言うに及ばず意思表示の能力さえもないとされる植物がこのように知的なものである。

変異に要する期間とは、限界ストレスによって変異を必要とした生物が新たな機能を思考して創造できるまでに要する期間となる。これを人の歴史で喩えると、今日の工業化も一足飛びに到達したのではなく、蒸気機関による産業革命の時代から、それぞれの時代にはその時代の基盤となる技術の創造があり、それらの蓄積によって現代のIT時代が成り立っている。それには一つひとつの技術を思考して創造するプロセスが不可欠で、それに要する時間が必要であった。

生物の細胞種は多いものでは200種を超えるとされている。それら異なる細胞種はその時代を生きた生物によって創造され、累積されたものが現代の生物に受け継がれた機能である。生物の変異も新たな機能が突然変異によって瞬時にできるものではなく、試行錯誤の繰り返しの中から創造されるもので、この試行錯誤に要する期間が新たな変異を見つけるのに要する期間となるであろう。

一つの喩えとして、私たちの生活を考えてみよう。毎日多量の飲酒をする人では肝臓が備えている機能以上の仕事量が要求されるが、能力が追いつかずに支障をきたして肝臓の機能を不能にする。一方、通常は機能の能力範囲内でときおり限界を超える状況にあった人の肝臓では、限界を超えたときの新たな対策を肝臓の細胞は思考する余裕がある。このとき考え出される対策は、限界状態の環境が如何なるものかを認識したうえでの対策であるから環境に適応できることになる。

同様に、クマノミを始めとして毒素に対して免疫効果を備えた生物が知られているが、このように新たな機能を備えることができるということは、イソギンチャクの毒を一瞬に大量受けて死ぬのではなく、僅かな毒に対して思考する余裕があれば対抗する免疫力を備えることが可能になるであろう。

それでは毎日少しずつ毒素を受けていれば一連の化学反応によって免疫はできるのであろうか。自意識も思考もないときそこから新たな創造はありえないし、それによる根拠もない。これらは細胞が環境の変化によるストレスを受けることで、そのストレスを解消,緩和しようとするときに初めて細胞が思考によって創造できるのではないだろうか。

たとえば、地盤沈下や海水面の上昇によって陸上が海水中に没するとき、海岸付近で陸上生活していた植物の多くは生きることができなくなり枯れる。しかし、海面は潮の干満によって陸上と海中を繰り返しながら次第に海中に没するとき、そこに生息していた植物の中にはそれまでの陸上から海中に適応するための思考期間があり、海中対策が可能にすることができる。これに相当するものがウミショウブであろうと推測する。




適者の知恵と不適者の知恵

パッチワーク・テリトリーは思考による
数千万種といわれる生物の生息領域は地球上に均等に分布するのではない。あるものは熱帯雨林の林床であり、別の種は標高の高い山のように、それぞれの生物種はごく限られた狭い領域で生活している。このことは絶海の孤島に限らず大きな大陸でも生物種の生息領域は無制限に存在するのではない。動物の生息領域は縄張りやテリトリーとして表現されるが、それは地形的な条件だけではなく立体パッチワークのように昼行性と夜行性の動物が地上生活者と樹上生活者の区分けのように時間的,空間的隔離に近い眼に見えない領域があると推測される。

さらに、同じ領域内でも異なるものを主食にすることで、争うことなく生活する手段を見つけ出している。たとえば、アマゾンの森には多くのサルが生息するが、種によって主食の餌が異なり、木の葉を食べるもの、木の実を食べるもの、そして、木に傷をつけることで滲み出る樹液をなめるもの、さらに、その木に集まる昆虫などを食べるものなどがいる。これによって同一の大木に複数の異なる種のサルが争うことなく生活することができている。このようなことは弱肉強食の競争原理によるものではなく、弱いものでもそれぞれの種が生き残ろうとする知恵によるものであろう。

すなわち、適者とは環境が判断の主体ではなく、環境が如何様に変わろうともその環境を認識した生物が適応しようと思考することが適者の進化で、たとえ進化の変異ができなくても知恵によって生きる方法を創造する。これらのことはサルに限らず多くの動物で行われている。

これとは別に、自らの子供を守る方法としてカンガルーを始めとする有袋類はその適者といえる。その意味からすると鳥類にはそのようなものはない。それを不適者としよう。それら鳥類が子供をどのように守っているか。彼らは単独では危険であっても集団でコロニーを作ることで安全を確保している。一方、そのような集団を作らない鳥ではシロチドリの擬傷のように知恵を使うことで子供を守っている。すなわち、進化の変異と呼ばれるものは思考による手段の一つで、変異することだけが進化ではなく思考によって創造したものの一つが変異ではないだろうか。

生物が変異するとき総てを考えて進化の変異ができているのではない。そのときのストレスが自然環境か生活環境かによって変異する内容が変わってくる。そのときストレスの最大のものは解消されるとしても、他のストレスまでもが総て解消できるとは限らない。そのときどうするか。残りのストレスは知恵を使うことで解消できないまでも緩和することになるであろう。

生物は生存するために環境の適者になろうと変異するもので、適者の変異ができない不適者でも知恵によって生き延びている。もしも、適者だけが生き残るだけなら生物の生息領域はこれほどまでに複雑にはならないであろう。多くの生物は適者でなくても知恵を駆使することで生きられる環境を作っているというべきで、その結果が立体パッチワークになる。

生き残り思考
生物の知性を最大限に引きだすためには環境に充分満足する形質になることよりも、むしろ環境に若干のミスマッチを生じた方が生きるために知恵を出すとも考えられる。生まれ持った形質が環境に合い過ぎると知恵をだす必要はなくなるし、知恵を出さないと次の進化が難しくなる。生物種の始めは知性を出し続けることで進化が可能となるが、環境が安定し自らの居場所が確保できると進化が必要なくなる。このような環境が長く続き変異のない世代交替が繰り返されると知恵を出さなくなる。同時に、知恵の出し方がわからなくなってくる。

今日では、在来固有種の一部が外来種によって絶滅の危機に遭遇している。これらは在来種が環境安定麻痺になってしまっていたことと、本来の生物の伝播ではない飛行機や船の人為的移動によって、環境適応能力以上のスピードが在来種に要求されていることにある。本来の生物伝播ならば対応できる生物種も、能力以上の変異のスピードが要求されると対応することができない。

一方、環境が変化したとき進化の変異をすることで適者になれると、それ以上環境に適応する必要はなくなる。これによって適者は知性を働かせずに生きることができる。しかし、適者には適者ゆえの問題がある。これは何を意味するかといえば、適者ゆえに種が爆発的に増える可能性がある。このことはそれに伴って天敵も爆発的に増やし、結果として種を破滅させる危険がある。一方、天敵がいなくて爆発的に増えることは、自らの種の過剰拡大によって自らの最適な環境を破壊することで適者が適者でなくなる。このために適者の種を爆発させないためには適者にも適者なりの知恵が必要である。

地球生物は適者,不適者に関係なく、環境がどのように変化しようとも自らの知恵によって生き延び世代交替を繰り返してきた。その知恵はときには自らの身体の形態を変異させるハードであったり、種のシステムを変えて淘汰を回避するためのソフトであったりする。すなわち、進化とは生物の知恵の表現方法ではないだろうか。

地球生物は適者も不適者も生きてゆくうえで、それぞれ違った知性を最大限に使って生きる術を見つけているもので、適者や不適者が環境によって選択される生物の意思や思考を無視した考え方は存在しないであろう。もしも、適者生存,不適者淘汰ならば地球生物は全く知性のない生物の集まりになっているし、自然環境が大きく変動した何億年もの歳月を生物は生き続けることはできなかったと推測する。

自然淘汰では環境に適応できた形質を備えたものが生き残り、環境に適応できない形質のものは淘汰されるとするものだが、生物は環境に適応できない形質の不適者であっても、知恵によって生き抜く術を自ら思考して創造することで生き残っている。擬傷と呼ばれる行動は決して強くはない小形の野鳥が自らの子孫を守るための知恵であろう。




生物と人の文化認識

ヒトは誕生してから手にした文化は極めて高度なものとしている。その高度な文化は人だけのもので、他の生物に文化は存在しないとされている。しかし、ヒトも他の生物と同じように世代交代する中で進化したならば、ヒトと祖先を共有する他の生物に文化のないことが不自然である。ただ表現方法に違いがあるだけではないだろうか。長い歴史の中で多くの生物によって創造された数多くの文化は、歴史の浅いヒトにとって未だその多くが理解できずにいるのではないだろうか。

さらに、動物と植物の違いも極めて微少である。それぞれの原始動物と原始植物を辿っていったとき近似の相違に他ならない。現在、動物と植物を分けているのは、彼ら原始生物がそれぞれの文化の違いによって分かれたものが、今日の動物や植物ではないだろうか。それゆえ、文化はヒトのみならず動物にも植物にも同等に備わったものと推測する。人に文化があるように文化は大きな象や小さな蟻にもあるもので、海に漂うクラゲや道端のタンポポにも文化はあると推測する。

文化認識の違い
私たちの日常生活でよく使われる進化の言葉ではあるが、進化を語るときヒトがことのほか進化していて、ヒト以外の生物はさほど進化していないと語られる。どうしてそのようになるのか。ヒトはコウモリのように飛ぶための翼を持つように進化していないし、昆虫のように擬態や変態する能力が備わっているのでもない。それにもかかわらず進化したといわれるのはなぜか。それは人の文化が高度に発達したとしている。人は自動車を走らせ、飛行機に乗り、テレビ映像まで映し出すことができる。これらは他の動物にはできない。だから人は進化していると表現している。

進化を論じるとき、他の生物については姿かたちの形質の違いについて論じる。これに対して、ヒトについては姿かたちに触れずに技術や文化を論じるもので、比較対照とすべきものが異なっている。さらに、ヒト以外の生物には知性や文化が存在しないとされる。これは他の生物を理解できない人が、自ら認識できたことについてのみ語っているに過ぎないのではないだろうか。

数十億年続いた地球生物の歴史の中で、突然降って涌いたようにヒトだけに知性や文化が備わることに論理的な説明はなされていない。ここでは知性や分化の基礎となるものはヒト以前の生物に備わっていたとするもので、動物は言うに及ばず植物にも知性や文化は備わっていると考えている。すなわち、ヒトの知性や文化はそれまでの生物から表現方法を変えたに過ぎないのではないだろうか。それだからこそ数十億年の長い期間に渡って生物が生き続けることができ、その結果として、彼らの子孫のヒトも「ついで」に知性や文化の一部を備えることができた。

それでは賢いといわれるヒトがどうしてヒト以外の生物の知性や文化を理解しないのか。それはヒトの場合は表現方法が異なっている。いい換えると、ヒトの知性や文化の表現方法は、地球生物のあり方からすると異端児的な表現方法といえる。その異端児的な表現方法を当然と考え、それを知的生物が備える知性とするヒトは、自らの知性や文化の表現方法を基準として設定している。

そのため、ヒト以外の生物が備えている知性や文化を理解することが困難になり、結果として、他生物の知性や文化は排除することになる。ここでは地球生物が目的のない突然変異による偶然の産物ではなく、知性や文化によって生き残ってきたことを知る手がかりとしたい。

道具と言葉
文化を語るとき、他の生物が備えることのできない文化を人が獲得できた要因は二つあるとしている。その一つが手による道具の使用で、もう一つが言葉による会話であるとされている。道具は当初、木の枝の切れ端や石ころを使用するものであったであろうが、次第に道具の利用価値を認識してこれが石器の使用へとつながって、現在の精密工業にまで至るとするものである。

同様に、言葉による会話では、ヒトと近縁の類人猿と比べると咽の共鳴部分がヒトの方が長く、これによって複雑な音を表現できるとされている。これによってヒトは言葉によって高度な文化を備えることができたとされている。遺伝子の進化では地質年代を必要とするのに対して、言葉による進化はスピードが速くて短期間で進化することができたとしている。これは最近いわれているヒトの進化についてであるが、生物学的内容と一般論とが混同されているのではないだろうか。

前者の手による道具の使用であるが、これは体外技術で生物進化とはいい難い。体外技術では野鳥が巣を作り、蟻が巨大な蟻塚を作る。蟻塚を作ったから進化できたのではないし、遺伝子が変わったものでもない。

一方、後者の言葉であるが、咽の共鳴体によって複雑な音が出せることがどれほどのものか。たとえば、ゴリラのゲンキ
(この後登場する) がヒト以上に心の中を表現したことは、ゴリラとヒトの心のあり方に違いがないことを示すもので、これはゴリラに限るものではなく他の動物でも備えたものであろう。ただそれらをヒトが理解できないでいるだけではないだろうか。

ヒトは自らだけが会話できるとしているのではないだろうか。一部の動物は簡単な会話はできるとしても多くの動物は会話できないとしている。さらに、植物では会話はあり得ないとされている。これはヒトが想像するだけで他の動物を理解できていないだけであり、ましてや植物に至っては理解以前ではないだろうか。すなわち、人の定義する言葉が総てではないであろう。

クジラの仲間ではクリック音を発するものがいて、さまざまな音が確認されている。その音はある水深では海中を何千キロもの長い距離伝わるとされ、そのクリック音によって会話が成立している。これは何もクジラに限ったものではなく他の動物でも会話が成り立っている。だから繁殖のための生殖行動が可能で、これは総ての動物に共通している。

一方、動物の音による会話に対して、植物ではフェロモンによって会話が成立しているであろう。だから植物も繁殖のための生殖活動が可能である。植物の隔年結実や数年に一度の豊作が現実とすると、それぞれの樹木が勝手に豊作や不作にするのでは意味をなさず、総てが同時に行なう必要があり、そこには会話は必要になる。同様に、サンゴの一斉放卵についても会話なくして成立するものではない。

これらは生物を正しく認識できていないと思われる。手によって道具を使用することが目的なく動かしたり使用するものではない。ましてや言葉を使用することは生物の意思や思考によって交わされるもので、手による道具の使用も会話による意思の疎通も思考可能な知性によって可能とするであろう。

すなわち、思考能力と知性が備わっているとき、手を使わなかったとしても嘴で野鳥が巣を作り、蟻が砂粒を口でくわえて唾液で蟻塚を作ることができる。一方、会話でいうならば、声によらなくても人がモールス信号で会話したように、昆虫が触覚で触れ合うことでも会話は成立する。その会話の複雑さは人が理解し得ないだけのものに他ならない。同様に、たとえ音声を発することや触覚で叩くことをしなくても植物の互いの会話も成り立っていると推測できる。会話は総ての生物で成り立っているもので人だけが特別ではないであろう。

人に特別のものがあるとしたら、それは空の頭脳蓄積領域に数学や物理学などのさまざまな基礎情報を蓄積できたことで、その蓄積情報を考えることのできた思考能力にある。すなわち、思考能力と知性が蓄積できればそれ以降の手段は何でもよい。手や咽がなかったとしても触角でも可能で、蜘蛛のように尻から糸をだすことで可能になることもある。

さらに、植物ではさまざまな二次代謝系の中でも防御代謝系と呼ばれるものを備えている。彼らにとって思考して知的創造さえできれば手や道具は必要とはしていない。いい換えるならば、植物のようにできない不器用な人は、手と道具の試験管を使って植物の真似をしている。そのような化学物質を真似する人が進化した知的生物で、それを自らの思考によって創造した植物が知的生物といわれない。これらは本来の生態とは違うのではないだろうか。

ゴリラの失恋
ゲノムによる進化系統樹では、ヒトは類人猿から分かれておよそ280万年経過し、DNAレベルで比べるとヒトとチンパンジーの違いは僅か1%余りしかなく、進化したよりは同種と扱ってもいいくらいの変異量しかない。しかしながら、ヒトは極めて進化した種といわれている。ここで注意しなければならないことがある。

ヒトは誕生してから280万年の歴史があるとされるが、ヒトとしての280万年と、ヒトとはならずに類人猿として280万年を経過したものとの間にどのような違いがあるのだろうか。京都大学霊長類研究所のチンパンジーのアイは、280万年の長い歴史の谷間を飛び越えてしまったのか。それともチンパンジーがクシャミをしたらヒトになってしまったのか。もちろんアイはチンパンジーだから姿かたちで比較するとヒトではなくサルである。

しかし、アイは人が使用する数字の概念を理解し、数の大きさの違いを判断する。また文字の中でも色を表す漢字と色との相互関係を理解する。さらには数字の大小を判断したり、何処に何の数字があったかの記憶をすることなどはヒトに比べて何の遜色もない。アイが数字を順番に並べるのを見ていると現代人がコンピュータゲームをしているのと何ら変わりがない。私は彼女の判断の速さに追いつくのに必死になる。

一般的に、280万年の間にヒトは大きく進化したといわれ、チンパンジーは進化しなかったとされている。もしも、280万年の間にヒトが特別になったとすると、280万年隔てられて特別になれなかった現代のチンパンジーに理解させようとしても困難である。しかし、この280万年の隔たりをものともせずに、アイは長い祖先から母親までの歴史とは異なり280万年を10〜15年で飛び越えて人の文化の一部を理解する。

このことからいえることは、280万年のヒトの進化とはたいしたことがないことになる。このことは逆に280万年前に遡ったとき、すでにその段階でチンパンジーの祖先もヒトの祖先も同じような思考や判断の能力の基本は備えていたというもので、その頃の思考や判断の能力は現代と大きな差ではないと推測する。なぜなら、進化していないとされるチンパンジーが進化したとされるヒトの文化の一部を10〜15年で理解することができているのであるから。

類人猿の研究では同様のものがある。アメリカ・ヤーキーズ霊長類研究所のスー・サベージ−ランボー博士の下で勉強する類人猿ボノボのカンジとパンバニーシャは、アイとはまた違った学力の高さを発揮している。ボノボはチンパンジーともっとも近縁種である。このボノボのカンジがボードに描かれた図形や記号を使ってヒトとの会話を成立させることや、ヒトの会話を聞いて理解してリアクションする。さらに、表面に出てくる喜怒哀楽とは異なる心の内面の心理までも理解する。

これらチンパンジーやボノボが人の算数を理解できること、ボードを使って人と会話ができること、人の心理までも理解できることなどは、ヒトにとっての280万年は進化とするより単なる世代交替に過ぎなかったのではないだろうか。ここでは人がチンパンジーやボノボを研究していることになっているが、間違えてはならない重要なことは、チンパンジーやボノボが人の文化の一部を理解しようとしていることである。

これらの研究での対象物は、彼らの設定ではなくヒトの設定にもかかわらず、彼らの2〜3世代前には見たこともないようなコンピュータディスプレイを使いこなしてしまう。これらからいえることは1万年前に同じようなことをしたとき、ヒトと彼らの間では同じような結果がでていたと推測すべきである。このことは280万年前であっても600万年前であっても、同じように知性や文化がすでに備わっていたと推測することができる。

一方、類人猿の中では比較的ヒトとは遠い関係のゴリラの心理について触れることにする。日本の動物園では従来の狭い檻の中に1〜2頭の動物を押し込む形態から、それよりも広く自然に近い環境で繁殖飼育する方法を採用し始めている。そこで上野動物園はゴリラの担当となり、全国から集められることになった。

すでにいたゴリラは雄のビシュと雌のゲンキは恋人だった。そこに千葉の動物園から新たに雌のモモコが加わったことで三角関係が生じた。雄のビシュはそれまでの恋人雌のゲンキを振ってしまいモモコを新たな恋人とした。この結果、ゲンキは失恋して元気をなくした。それまで100kg以上あったゲンキの体重は60kgに激減した。さらに、失恋のストレスから自らの指を噛み切ってしまった。

2002年モモコには雄の子供が生まれた。名前は桃太郎。ここで振られたゲンキの心理は、私たち人とゴリラのどこが違うのか。違うところは何もない。むしろゴリラの方が現代の人よりも人らしいと思うのは私だけであろうか。

ゴリラはチンパンジーより分岐点が古く、数百万年より大きな隔たりがあり文化など微塵もないとされるが、彼女の行動からは人と同等以上のものを見ることができる。このことはヒトが大きく進化してヒト以外の生物が進化しなかったとすることに疑問を持たざるを得ない。さらに、これが数百万年に限らないとすると、チンパンジーやゴリラとヒトについてではなくそれ以前の他の生物との垣根も取り払われることになる。ここまで来ると知性や文化を備えているのは人だけではなく、頭脳を備えた動物は思考可能な知性を備えているといえるのではないだろうか。

鳥たちの文化
オーストラリアには16種類のニワシドリが生息し、彼らには他の鳥類には見られない行動を見ることができる。彼らのある種は木の葉を集めて薄暗い森の地面に並べる。そのとき葉は裏返して葉の裏の白い部分を上にする。薄暗い森の中を明るくしてその廻りで踊って雌を引きつけようとする。

また別の種のアオアズマヤドリはたくさんの小枝を二列に立て掛けて通路を作る。同時に、青いものを集めて通路の周りに敷きつめる。青いものなら何でも良い。他の鳥の青い羽やプラスチックの青いスプーンや青いストローなどである。雄鳥はその中の一つを咥えてその廻りをダンスする。それを見ていた雌が小枝の通路を通るとカップルが誕生する。

また別の種は、一本の木の幹を支柱にしてたくさんの小枝を集めて大きなオブジェを作り、その周りの落ち葉は足で蹴飛ばし嘴でくわえて取り除ききれいに掃き清める。そして、そのオブジェの周りをダンスする。彼らはどうしてこのような行為をするのか。

一般的に鳥類の雄の羽はカラフルで美しい。しかし、ニワシドリの雄の羽はカラスのような色で、私の目から見ても決して美しいとは思えない。そのことを彼らは自らを自覚しているのではないかと推測する。彼らはオオムのような美しい羽になりたいと希望していながらも、その進化の術を知らない。結果として、彼らは美しいと思うものを集めることや小枝を使ってオブジェを作り、美しくはない自分を精一杯雌にアピールするためのディスプレイと見ることができる。

これらの行為はけなげな反面、惨めにも見える。なぜか、彼らニワシドリを見ていると人の姿を鏡に映しているように見える。きれいな色の洋服を着ることや顔に化粧をしてネックレスやピアスの装飾を施すことは、野鳥や蝶のように美しくなりたいがニワシドリのようにその術を知らない人の姿である。

一方、羽の美しさで知られた鳥フウチョウには何種類もの種があり、それぞれの羽の色が異なるだけではなく飛行するのに必要とはしない、むしろ飛ぶには邪魔になる優雅な飾り羽を備えているものがいる。これらの美しい飾り羽さえもが遺伝子のエラーとする考え方には同調できない。百歩譲ってそうであったとしても、彼らは自らに備わった飛ぶための羽や飾り羽を巧みに使ってプロポーズのためのダンスをする。

従来論ではこのようなダンスまでもが遺伝子のエラーというのだろうか。人のようにさほどレベルが高くなくてもプロポーズの時には美しい衣服を身に纏い、美しく見られるように化粧をして愛のダンスをする。人以上の形質を備えたフウチョウが自らの羽の色をカラフルにするだけではなく、飾り羽を用意して美しいダンスをすることがフウチョウの意思によらない遺伝子の間違いによるものとすると、生物の意思の表現とはどのようなものかを尋ねたい。

鳥の文化には他にもある。孔雀の雄の尾羽は飾り羽になっていて目玉のような紋様があり、一羽の雄では数十個の紋様が施されている。雌の孔雀はその紋様の数が一個でも多い雄を交尾相手に選ぶとのことだが、雌は雄の紋様数の違いを瞬時に見分けることができるとされている。

これが事実ならば、鳥の目は空中を飛行しながら地上の景色をデジィタルで認識できることになる。このことはテレビ映像でコアジサシのコロニーを見るとき数万羽の鳥たちは私には全部同じに見える。でも彼らは自分の家族を上空から瞬時に見つけ出して舞い降りる。しかし、沖縄・西表島の仲ノ神島の観察では、アジサシが上空から子供を捜すのは鳴き声で捜すともいわれている。

一方、蝶に至っては人一流のディザイナーも真似のできない美しいデザインを紙や布に描くのではなく、自らの羽に絵の具を使わずして書きあげている。これほど優れた文化には肌色一色の人は遠く及ぶべくもない。これらは進化論でいわれる地質年代に及ぶ長い時間や、突然変異と自然選択では説明できないばかりか矛盾以外のなにものでもない。彼らは単に生き残るのではなく彼らの意思によって美しく生きることを実践している。

人でも生き残るためには皆が殺し合いを職業とする軍人となるのではなく、顔に化粧をしてきれいな色の洋服を着るモデルの職業があるように、彼らは人よりも遥かに高等な芸術によって自らの身体をキャンバスにして描いている。オオムや蝶のようにできない人は、カラフルな洋服を着ることや顔に口紅やアイシャドーを塗ることで彼らの文化を真似しているのではないだろうか。

人の洋服や化粧はたとえどのようなことをしたとしても自らのDNAを変えることはない。人の文化そのものは命の再生産をすることができない。しかし、彼らの文化はDNAによって命の再生産が可能で、世代交代によって引き継がれる。人にそれだけの文化や化学,生態学,分子生物学が進歩したとき、人も化粧や美容整形することなく顔や身体を肌色一色から解放されて各部位をカラフルにすることができるであろう。まるで刺青をするかの如くに。

植物の文化
これまで見てきた動物に文化があるように、植物には植物の文化があると推測する。花は同じように咲いているけれども、人が見て理解できないだけで趣味や嗜好に違いがあるのではないだろうか。花は色や形の違いだけではなく香りやフェロモンの放散などがあり、これらは現在の人の技術では解析できないために植物には文化がないと考えられているが、人より優れた文化を持ち合わせていると推測する。そのような植物が公害も出さずに道具も使用せず、自らの希望することを自らの身体だけで作り出せる技術を持ってして、これ以外にどのような道具が必要か。

植物が体内に保有するタンパク質やビタミンを始めとするさまざまな物質は、人にとって有効である。しかし、植物自らにとって如何なる理由で異なる物質を保有するのか。ここではこの膨大な種類の物質は彼ら植物の思考によるもので彼らの文化を表現するものと推測する。

従来の考え方では、頭脳を持たない植物は思考することは言うに及ばず、意思表示することさえもできないとされている。そのため、植物に備わった形質のみならず、さまざまな体内物質の表現までもが、総て突然変異によるもので植物の意思や思考は排除されてきた。しかし、これだけ知性に富んだ創造を突然変異とすることに疑問はないのだろうか。

生物には生き残り継代する目的があり、その目的へのプロセスが試行錯誤で、同種及び異種生物の知性とによって切磋琢磨する。その中から思考された知的創造物が生物の変異であり、進化であろう。これら植物に含まれる体内物質のそれぞれの成分が他の生物にとって、とりわけ人にとってさまざまな有効性もわかってきた。しかし、これらは人や草食動物にとっての見方である。重要なことは、それぞれの植物がこれほどまでに多種多様な体内物質を保有することは、植物自らにとってどのような意味があるかは未だわかっていない。

一般的には、虫や動物の植食者からの防御のための工夫といわれている。しかし、それだけの単純なものではなくもっと奥深い意味があるように感じる。アマゾン川流域には未だ人が手にしていない有効な成分を蓄積した植物がたくさん眠っているといわれている。それら植物からさまざまなものを抽出して利用している人や、食べることで利用している動物に知性や文化があるならば、その大元を創造した植物に知性や文化は備わっているとすべきで、植物の体内物質の多様性は知的創造力の豊かさを示す文化といえるのではないだろうか。

文化の認識
生物が進化するのは天敵による死の恐怖から身を守るだけではない。綺麗な花を咲かせる植物、蝶のようにカラフルな昆虫、雄鳥の羽のように美しい動物など美を追求する生物も進化の一つの方向性で、生物が持っている文化であろう。

ヒト以外の動物でも単に生き残るためならば昆虫ではカマキリのように凶器を持ち、野鳥ならば猛禽類のように嘴や爪を鋭くする手段を選ぶことができたし、実際その道を選択した動物がいた。それにもかかわらず敢えて戦うことよりも美しさを追い求めたところに、個性的で心豊かな文化があったことを推測することができる。

これらを前提にすると、ヒトの文化はヒト以外の他の生物が持っている文化の中から、ヒトが理解することができたものの「いいとこ採りの、ものまね文化」といえるのではないだろうか。それらは多くの生物が所有する文化の極一部で、大半は物まねする以前にその良さを理解できずにいると推測できる。さらに、技術の基本は同じでも手段にこれだけの違いがあることは、技術と同様に文化においても相応に乖離していると推測できる。すなわち、ヒトがヒト以外の生物の文化を理解するには、技術の乖離に匹敵するだけの文化の溝を埋めるのはヒト側の遅れ分と理解すべきではないだろうか。

チンパンジーのアイやボノボのカンジがヒトの使用する文字や数字の概念を理解してヒトの心の内面を読むことができることは、彼らはすでにヒトと同等のものを持ち合わせていることになる。もしも、そうでなかったならば彼らは理解不能となる。現在、ヒトが進んでいる無生物の方向から生物の方向へ方向転換することができたとき、生物が備えている文化や技術の偉大さを知ることができるのではないだろうか。

ヒトの歴史は未だ数百万年で、他の生物に比べて桁違いにその歴史の長さに違いがある。地球の歴史でもっとも浅いヒトに人格が与えられて、それより格段に長い期間この地球上で生息している動物に動物格が与えられないばかりか、昆虫に対しては「虫けら」であり、植物の中でも雑草に至っては単なる一個の物として「石ころ以下」の扱いをしている。これらの動物や植物が身に備えたものを文化といわずに何といえようか。ヒトの使用する道具とは、自らの体内でどうにもできない不器用なヒトが欲望の末に考えたものではないだろうか。

間違えた文化
私たちが日常使用する進化の言葉には、近代になって姿かたちを変えたものはもっとも進んだ最先端と評価されている。その意味ではヒトは地球生物の中でもっとも最近になって誕生した最先端で、他の動物は言うに及ばず植物に至っては進化の名のもとから見捨てられた存在になっている。でも実際はといえば、ヒトが突如知性を持って誕生したのではなく、ヒトが誕生するまでの間他の動物や植物が築きあげた文化や知性の大きな基礎が存在して、その上に僅かばかりの知性をヒトが上乗せしたことでこうしていられる。結果として、ヒトのしていることの多くは動物や植物の真似をしていることが多い。

さらに、ヒト以外の動物には、ヒトの及びもつかない技術や文化が存在することをヒトはその多くを未だ知らずにいる。ましてや動物と同等の長い歴史の植物には技術,文化を含めて、動物を遥かに凌ぐものが隠されている。いや隠されているのではなくオープンにされている。それにもかかわらず地球生物として最後に現れた未熟で高慢なヒトには、それらの優れたものを未だ見ることができないでいる。そして、生物の多くの事柄について「不思議,謎」の言葉で済ませているのが現状ではないだろうか。

多くがそうであるように、今後遠い将来において人の知力がステップアップしたとき、たとえば、分子生物学の分野で際立った進歩が達成されたならば、植物の思考が証明されるときも来るであろう。そのとき初めて人は植物の偉大さに気が付くことになるであろう。

でも一つ心配なことがある。自らを万物の霊長と称している人は、この後に及んでも戦争と称してドンパチ殺し合いを繰り返している。そんな次元の低い人が他の動物の知性に追いつき追い越して、植物の域に達するのは極めて困難であろう。そのような人は植物の偉大さに気づく前に滅亡するであろう。恐竜達も長い間自分達が地球で一番と考えていたはずだが。その恐竜が活動した1/50の時間しか生きていないのが現在の人である。

なぜこのようなことをいうのか。超音波を思い出していただきたい。暗闇の洞穴の中でコウモリが壁にぶつかることなく飛ぶことができたことの意味を江戸時代の人は理解することができなかった。しかし、現代人は超音波を知ることで理解可能となっている。コウモリやクジラに比べて遥かに遅くになって超音波を知ることになった人は、今日になって音波をさまざまな方面で利用をする。

中でも敵の潜水艦を探査するために使用される低周波アクティブソナーは海中生物に多大な影響を与えているとされる。大国の海軍が大規模軍事演習をした後、その近海で多数のクジラが浅瀬に乗り上げて死亡することが報告されている。死体解剖から血液に気泡が見つけられた。これは潜水病と同じ症状である。これは海中のクジラがアクティブソナーを受けて正常な行動が不可能になり、急浮上したためと見られている。これは人技術の最悪利用で、もしこれが事実とすると人とはこの程度で、他の生物を思いやることなど思考範囲外のことのようである。




思考形態の類似性と多種多様性

生物種の分類では大きく異なる種であっても、それぞれの生物が備える機能,形質,生態には限りなく類似するものがある。反面、極めて近似の種に属するものであっても、機能,形質,生態が異なるものがある。前者は収斂進化で説明し、後者は多様性で説明している。そして、それらは目的のない突然変異や自然淘汰によるものとしている。すなわち、総てが目的のない突然変異であるが、自然淘汰によって収斂進化になることもあれば多種多様になることもある。しかし、そのときの分岐点が如何なる条件によって分かれるのかは示されてはいない。

これまで数多くの生物の事例を紹介してきたが、自然淘汰という選択肢だけで類似性と多様性が生じる説明にはなり得ない。同様に、相互作用,プログラム,一連の化学反応によって何らかの変異は発生する説明にはなるとしても、類似性と多様性の説明には不充分である。

生物思考の基本
進化は動物でも植物でも行われているし、海中や陸上の何れでも行なわれている。動物は誕生以来さまざまに姿かたちを変えて進化してきた。一方で、何万年も変わらずに生き残ってきた動物もある。同様に、植物も時代の経過とともに姿かたちを変えて生き残る。一方で、何万年も変わらずに生き残った植物もある。

進化に関して動物も植物も同じような移り変わりをしている。進化において動物と植物の区分けがない。同様に、水中生物と陸上生物の区分けもない。生命の起源は海中とされることから海中で進化してきた生物が陸上に上がった後、陸上でさらに進化をしてきた。これらから地球生物の進化は動物と植物が同じシステムのうえに成り立っているであろう。

そのような地球生物の進化の変遷は地殻変動に呼応している。地球の地殻変動は大陸移動に見られるようなゆっくりとした動きと、火山の爆発噴火のような瞬時に大きく変化する二つがあり、地球の歴史はこのゆっくりとした微動と瞬時の爆発の激動との組み合わせによって歴史が作られたといえる。そのように変化する地球の表面領域を借り受けて生物は生息している。

そのため、地球の表面領域で発生する自然現象は、生物にとって大きな影響を与えることは言うまでもない。そのため、生物の進化も大陸移動のようにゆっくりとした変異と、火山噴火のように極めて速い変異の二つの異なる組み合わせで形成されている。これを従来型の表現をするならば、軽微な変異の累積と自然淘汰であり、突然変異と自然淘汰として処理されてきた。そのため、生物の変異は目的のない変異にもかかわらず、自然淘汰によって選択されると生物に備わった形質は限りなく環境に適応できた姿かたちになるとしている。

生物の中には個性あふれるものと、極めて類似のものとの二種類がある。個性あふれるものは独創性に富んでいることと、高い技術のために他の種が真似できないものである。その一方で、種の領域を超えてさらには動物と植物の領域までも越えて極めて類似のものを見ることができる。この類似については創作者と偽作者の識別ができることもある。無から有を創作する者は知性の限りを尽くして思考するのであろうが、これは尊敬に値する。一方、真似をするにも技術が必要で簡単に真似できるものではない。

従来論では変異は偶然や突然のとするもので、如何なる変異が発現するかはその変異発生に目的がないことから事前に予測することは不可能なものであった。このことから、進化に生物の意思は関与しないとされている。さらに、これまでの変異とは形質の変異を示すもので、結果として表現されたものについて考えられてきた。しかし、実際に変異が生じることは結果としての変異が表れる以前に変異を促すべき体内活動がなされる必要がある。

擬態一つ取りあげても目的対象物に瓜二つの形質に変異が完了したものから、適時適切に体内ホルモンを制御することによって姿かたちや色彩を変化させるもの、さらには形質も体内ホルモンも変えることなくポーズをとることによってカムフラージュする。これらはどれもが変異に相当する。外観の見た目の認識を進化と見なして直接眼にすることのない知性による変化は、認識しながらも進化と見なしてはいない。この姿かたちと知性の境界が何処にあるのかは明確にされていない。

適応進化の目的
ここでの考え方では進化の変異が環境に適応していることは、環境の変化を認識した生物が自らの思考によって新たな変異を創造し、自ら変異を促すとしている。そのため、従来進化論の目的のない突然変異では議論の対象外であった思考や知性が、この進化論ではもっとも重要な要素になっている。これらから、ここでは生物に備わるとする思考能力や知性が如何なるものかを説明しなければならないし、思考や知性のメカニズムにまで立ち入る必要があると考えている。

ここで述べる進化の変異のみならず、生物に備わる形質や機能や知性など、それらの総てが生物自らの思考と創造によるものとしている。私たちにとっての思考や創造というものは頭脳と直結するもので、頭脳なくしてできるものではないとしている。しかし、数多くの生態をみるとき頭脳が存在しないとされる植物であっても思考や創造が可能と推測できるものを見ることができる。

これまでいわれている遺伝子のエラーはないのか? それは存在する。しかし、それらは事故による。事故は生物にとって総てがマイナスでプラスのものは存在しないと考える。それゆえ、エラーは総て取り除くものとするが、中には取り除くことができないものもある。だからといってそれらのエラーの繰り返しや累積が新たな変異につながるものではなく、誤り以外の何物でもない。

生物に備わるソフトやハードは、思考によって最良のものを求めたから優れた機能を発揮することができている。事故はそれらの一部を破損や喪失するもので欠陥を意味することになる。それゆえ、生物に備わる優れた機能は生物に備わる思考能力によって知的創造されるに至る。そのときの思考は頭脳ではない。なぜならば、頭脳を備えた私たちが変異しようとしても可能ではない。さらに、変異は頭脳を備えていない生物にも見られるばかりか、脳の概念が存在しない単細胞生物でも変異して異なった種が存在する。

しかし、生物に備わるものは形質と呼ばれる物理的機能のみならず、日常生活の中で変異以前の行動や表現を知ることができる。それらは知性の豊かさを感じさせるもので思考による創造を推測させるに充分なものであった。そこでここでは頭脳とはレベルの異なるもう一つの脳が存在すると過程するものとなる。以上より、生物には頭脳とは異なる類似の思考体が存在するという所以である。

思考形態の種類
多細胞生物の思考形態には幾つかのタイプがあると考える。第一に私たちの理解し易いもので、身体の一部に判断するための機能である頭脳を備えたタイプである。第二にカイメンやサンゴのように機能分化が行なわれずに同一形態の集合体で成り立ったタイプである。第三にはその中間タイプがあると考えられる。しかし、これらは三つに区分けできるものではなくグラデーションのように境界をはっきりと線引きできるものではない。

生物が進化の過程で獲得した機能はそれが最終到達点ではなく現在の状況に適応したもので、必要によっては今後変わる要素があることを意味している。それでは第三の中間タイプとはどのようなものか。植物の多くがこのタイプと考えられる。

第二のカイメンは群体で小さな個体の集合体で判断機能も身体全体に分散していると考えられるが、植物では根,茎,葉などのように身体全体は総てが同じではなく目的に応じた機能分化をしている。この場合の頭脳は全身に均一に配置されるのではなく、根,茎,葉などのように機能分化に対応して備わっているものと推測する。たとえるならば、樹木では樹皮(根も含む)の裏側に配置されているのではないだろうか。生物は種によって機能分化の状態が異なる。このことから、集中脳にも分散脳的集中脳と、分散脳の性質をほとんど失ったものとがあると推測する。

私たちは五感と称して分散脳からの情報を受け取っている。分散脳には五感以外に機能分化の数だけ存在すると考えられる。そのため、分散脳の情報としてはたとえば心臓や胃からの情報もあるが、これらは自律制御の範囲であって日常生活では私たちの意思によって制御するものではない。私たちは集中脳と腕や足の筋肉の分散脳が自由に会話できているように、動物の中にはタコやカメレオンのように集中脳と表皮組織の分散脳が自由な会話によって表現できる生物がいる。分散脳はヒトが表現する物理的形態は示していないが機能分化に伴った機能を備えている。

植物の葉は太陽光の方向を向き、福寿草の花は太陽光を求めて向きを変える。ヒトデやウニは餌を求めて移動するが危険を感じると逃げだすのである。生物が生きていることは日々異なる環境に対応している。この対応に生物の思考や判断は欠くべからざる要因であろう。




生態と科学の類似性

野鳥とコンピュータ
近年になってコンピュータ時代を迎えてパーソナルコンピュータ,スーパーコンピュータ,インターネットなどを知ると、人以外の生物の新たな一面を見るようである。多くの動物は植物と異なり移動の手段を手に入れたことから、移動に伴う衝突を回避するうえで瞬時の判断が要求される。そのため、体外情報を入手する視覚や聴覚の近くに判断するための脳を集中させたと考えられている。これは身体中に散らばっていた判断機能の脳を一ヶ所に集めた形態でスパコンの形態に似ている。

一方、アフリカ南部カラハリ砂漠では小形野鳥のコウヨウチョウが数十万羽で大群を作って大空を乱舞する。その情景は全体が一つの大きな生き物の如く、その形を変幻自在に変えながら高速三次元マスゲームを展開するかの如く飛行する。そのような中でもお互いに衝突して墜落する鳥は一羽もいない。

これをコンピュータに置き換えるとき、一羽の野鳥がパソコン一台とすると、まさにインターネットである。一羽一羽が常に変化する最新の情報を発信する。と同時に、周りから発信される情報を受信することで群れ全体が一つの生き物の如くシステム化した動きをすることができる。人が行なうマスゲームは競技場などで行なう平面の二次元であるが、それでも失敗して互いに衝突することも少なくない。ましてや三次元のマスゲームの難しさとスピードには目を見張るものがある。

コウヨウチョウと同様に南アフリカ南東沿岸の海中では、何億匹ものマイワシの大群が数千キロも移動するのを見ることができる。彼らもまた野鳥と同様、まっすぐ進むのではなく渦巻きになったりさまざまに隊形を変えながら回遊している。このような編隊を組むことは捕食者からの攻撃を避けるためのものとされている。彼らもまたコウヨウチョウと同じように衝突するものはいない。

彼らマイワシは身体の側面にある黒い斑点を目印に互いを認識しているとされている。同時に、自らの体内にある浮き袋によって左右からの振動を受け取ってその振動を内耳で感知しているとされている。これによって廻りの魚の接近状況を時々刻々把握することで衝突防止が備わっているとされている。このマイワシもコウヨウチョウと同じインターネットの形態と同じである。

一方、これと比較対照できるものに蜜蜂がいる。蜜蜂はコウヨウチョウやマイワシの大群と同じように群れを作って生活しているが、基本的な違いがある。鰯は一匹一匹がパソコンで全体を統括するスパコンに相当するものはいない。しかし、蜜蜂には女王蜂がいてスパコンの形態をしている。他の蜂たちは働き蜂や兵隊蜂で、彼らはディスプレイやキーボードに相当するであろう。

すなわち、コウヨウチョウやマイワシは総ての個体が同じ機能を備えているが、蜜蜂は総てが同じではなく個体ごとに機能分化している。両者は同じように群れで生活していながら全く別の形態は、現代のコンピュータシステムにも合致するものである。ここで蜜蜂はスパコンに相当し、脳ならば集中脳に相当する。一方、コウヨウチョウやマイワシはインターネットのパソコンに相当するもので、脳ならば分散脳に相当する。

植物の情報伝達
このように見てくるとこの分散脳の形態を通常の植物に転写することができる。動物のように自力移動をしない植物は視覚や聴覚の形態的なセンサーを持たないばかりか、衝突を回避するための瞬時の判断をする集中脳の形態を必要としない。そのため、動物が所有するような集中脳を持つ必要がない。その代わりセンサーを備えたパソコンタイプの簡易脳を身体全体に分散させていると考えることができる。

植物の葉が光合成をしている状態で、強い信号が発信される場所は太陽光が充分に当たっていることを示し、弱い信号の場所はそこが日陰になっていることを示す。さらに、枝葉は光を感じ、風を感じ、接触圧力を感じることで自分を取り巻く自然環境や生活環境も認識することができる。

これまで届いていた信号が突然来なくなることで枝葉が折られたことを認識できる。そのときの周りの枝葉の信号から強い風によるものか、動物によって食いちぎられたものかも知ることができる。これらの繰り返し情報の中から強風に耐えられる構造にすべきか、動物に食べられないようにすべきか考える。強風であれば繊維量を増やすことや表皮を丈夫にすることが対策として挙げられるし、動物に捕食されたのであればカラタチのような棘をつけるかユーカリのように葉に毒素を保有する対策を考える。

これを間違えると原因が強風であるにもかかわらず、葉に毒素を保有しても実効性のないものになってしまう。このような思考や対策は形としての集中脳があるか否かではなく分散脳の形でも思考や対策ができることは、コウヨウチョウやマイワシの群れ全体を植物一個体と見なすことと類似である。

同様に、インターネットによって世界中の情報が手に入ることで世界全体を思い描くことができる。そのために集中脳に相当する国連の代表になる必要はなく、65億の中の一個人であっても誰もが情報を共有できて世界全体を思い描くことができる。すなわち、植物の葉や茎や根のそれぞれの分散脳が情報によって自らの全体像を認識でき、周りの環境をも認識できていることを意味している。

このようなことを前提に植物を観てみると、植物は姿かたちにおいても体内の化学物質についても理に適っていることが理解できる。これらは植物が自然や生活の環境を確実に認識していることを意味するもので、植物の体内には適切な情報が伝達し、その情報内容は栄養などの物理情報だけではなく知的情報が伝達されていることと、その情報を正しく分析して対策を考えて実行可能であることを意味している。

これらを行なうために人と同じような形態的な脳があるか否かは問題ではなく、情報が適切に処理されているか否かである。たとえば、形状や大きさを認識するのに眼によって見る方法もあれば、超音波によって知る方法もある。このことは頭脳は情報の伝達場所で、情報が伝達できるのであれば頭脳に限定する必要はない。しかし、形態的な脳が影も形もない植物を人の最先端のインターネットと同様であるとする分散脳の考え方は、多くの方々から異論が出されるのである。

蛍の通信手段
クリスマスシーズンになると分散脳を考えさせてくれるものがある。この時季になると街路樹の葉は落ちて幹と枝だけになる。その枝に沢山の豆電球を張り巡らせて点滅させている。点滅を制御しているのは一箇所で集中脳の形態であるが、これをセンサーと制御装置が個々の豆電球に配置されたとすると、周りの明かりを認識する中で自らの点滅を制御する分散脳の形態に類似する。

これに類似するものを東南アジアに見ることができる。田園風景の中に数本の大木があり、そこには無数の蛍が集まり灯りを点滅させる。そのとき彼らはランダムに点滅させるのではなく点滅を同期化させることで雌を呼び寄せている。蛍の雄は灯りを点滅し、雌は灯りを点灯する。雄が灯りを点滅させてもそれぞれが勝手に点滅させると遠距離からはぼんやりとして点滅か点灯か識別できず、雄がいるかどうかの判断が困難である。そこで蛍の雄たちは点滅のタイミングを合わせることで遠距離の雌に雄の存在を認識させようとしている。

このときのホタル一匹を分散脳の一つとするとき、一匹のホタルは周りの情報を得たうえで自らも情報を発している。そして、大木全体のホタルがあたかも一つの生物の如く表現している。このようなホタルの光景はこの場所以外にもパプアニューギニアを始めとして世界の何箇所かで見ることができる。このときクリスマスイルミネーションのようにそれぞれの蛍を結ぶ電線は存在しない。しかしながら、彼らは無線LANによって信号のやり取りをしている。

これをそっくり葉の茂った樹木に置き換えるならば、豆電球を持たない樹木は太陽光をエネルギーとして体内の分泌系に乗って信号のやり取りが行なわれているであろう。これによって身体全体から発信されている信号から自らの身体がどのような構成であるかを認識できる。木々は葉を茂らせるにもすでにある枝葉から送られてくる信号によってまるで等身大の鏡を見ているかの如く自らの姿全体を立体的に認識していると推測する。

植物細胞の中を覗くと原形質流動が行われ細胞内は循環している。このことは情報も循環していると推測するもので、細胞内だけではなく細胞間でも情報伝達がなされているとするもので、これによって自らの全体像を認識することができるのであろう。それは擬態のヨシゴイやヨタカが周りの環境を認識し、さらに、自らの姿を等身大の鏡に映すかの如くポーズをとり自らの身体が環境に同化していることを認識しているのと同じである。

地球人と同じ細胞体
人はおよそ60兆個の細胞の集合体によって一個体が形成されている。生命を維持するうえではそれぞれの細胞がコミュニケーションを採りながら最良の方向性を見つけ出している。なぜなら、もしも、こられの60兆個の細胞がコミュニケーションを採れていなかったならば、機能的な生物体を維持することはできないであろう。これほどまでに多くの細胞が合議を得るには時間がかかり過ぎるし、機能的に充分ではない。そこで機能分化することになるが、機能が複数になることによって機能どうしの関連も必要になる。そこで頭脳を備えることとしたのではないだろうか。

この頭脳が60兆個の細胞の考え方を総て反映しているかというと、そうでもない。とかく特権を手にしたものは独裁政治の如く必ずしも民意を反映しているとは限らない。頭脳も同様で60兆の細胞の思考とは異なる行為をしばしば行い、その都度多くの器官の細胞は警鐘を鳴らす。同時に、頭脳の間違えた行為の後始末に奔走することになる。たとえば、人の身体にとって酒は良いものではない。しかし、頭脳は60兆の細胞の考えを無視して飲酒する。それぞれの器官(自律神経)は顔を紅潮させたり呼吸を速めたりして警鐘を鳴らす。一方、肝臓ではアルコールの後始末である解毒作用をする。

一つの生命体について考えるとき、頭脳の判断は速いだけで思考の正しさとは必ずしも結びつかない。唯一の救いは、頭脳だけとせずに各器官に分散脳が残されていることで補正されていると考えられる。もしも、植物が人のように頭脳を備えずに分散脳だけを備えていたとすると、葉緑体や根や茎それぞれの器官の集合体は多少の時間は要しても合議に基づいて生活することに何の問題もないであろう。

植物は自力移動ができない。逆に移動を必要としないことから得られたエネルギーの総てを移動以外に振り向けることができる。それに比べて動物は移動のメリットとは裏腹に、移動に際して多くのエネルギーを消費している。動物は移動することを手に入れたが、この移動に費やすエネルギーの大きさに気が付き始めている。この移動に費やすエネルギーを得るために餌を求めて移動するのであるならば本末転倒で、脳の利用は移動と獲物以外に何を考えているのか心配になる。

草食動物の多くは1日のうち1/3〜1/2の時間を食事に費やし、移動しながら食事をする。一方、ナマケモノは移動することをできる限り拒否することでエネルギーの消耗を減らして1日に木の葉2〜3枚で生きることを可能としている。一方、マンタは泳ぎ続けなければ呼吸ができずに生きられない身体の構造になってしまった。

これらに比べて、植物は移動することなく居乍らにして獲得できる光を利用し、光合成によって得られたエネルギーの総てを移動以外の目的に使用できることになる。考える内容は危機管理であり、子孫の存続であり、心豊かな文化であるとしたら、今になって植物の偉大さに気づくことになる。

情報の相互伝達
ヒトの心臓は二心房二心室の四つに分かれ、それぞれの部屋の境界は逆流防止弁が設けられている。だからといって動物総てがこのようなものではなく、動物によっては部屋数が少ないものや逆流防止弁のないものもある。人の場合、それぞれの部屋の膨張収縮を司る心筋細胞と弁の開閉にはタイミングがあって、そのタイミングが乱れると血液を正常に循環させることはできない。そして、心臓の活動は他の臓器とも関連するもので単独で動けばよいものではない。さらに、臓器だけではなく身体全体を司る頭脳との情報の授受も必要である。

そのときの情報の授受では、心臓の総ての細胞が他の臓器や頭脳と連絡をとるのではなく情報授受の窓口なるものが存在すると推測する。身体の機能が分化するのに伴って情報の伝達ルートも機能分化されると考えるものである。しかし、情報の集積地である頭脳は形態的に見ることはできるが、心臓の情報ターミナルは形態的に見ることはできない。これを肝臓について考えてみたい。

肝臓は心臓と異なり細かな細部の機能分化ではなく同じ組織が密集している。たとえば、肝臓で100億個の細胞が同じ働きをしていたとする。近隣の臓器や頭脳との情報の授受を100億個の細胞がそれぞれ個別にしているとは考え難い。肝臓としての情報を一括して他の臓器や頭脳と情報の授受をしていると推測でき、受けた情報によっては新たな判断が必要になる。

そのときの情報ターミナルは何処にあるのか形態的に見ることはできない。情報ターミナルは細胞の機能分化に伴ってそれぞれの機能に付随して設けられ、分化された機能の情報管理とその情報に対する判断をしていると推測できる。これらの情報全体のターミナルが頭脳であるが、情報ターミナルの中には形態的にあらわれるものと分化された機能に付随した状態で形態的に表れないものがある。

これを現代の企業形態に置き換えると情報の受け渡しが見えてくる。類似のものに企業の本社と支店の関係がある。支店の日常業務の詳細は本社からの指示を受けることなく進行することができる。しかし、業務の中で他支店との連絡や本社への報告並びに本社からの指示は、支店の誰もが勝手に行なうのではなく支店長がその情報の授受を行なう。

本社からの指示に対する実行は支店長が命じるものである。支店長室のある企業は第三者が見て知ることができるが、支店長室のない企業は第三者にとって知ることは困難である。しかし、支店の社員には支店長が誰であり、情報授受の窓口が誰にあるのかわかっている。そうでないとスムーズな日常活動ができない。情報の流れは形態的なものではなくシステムとして備わっているか否かである。

同様に、植物ではヒトのように複雑な機能分化をしていない。主要部分は根,幹,枝,葉から成り、内部構造は幹の中は導管と師管の維管束や、葉の葉緑体から成り立っている。このような樹木にはヒトの頭脳に相当する樹木全体の情報ターミナルと呼べるようなものは形態的には存在しない。しかし、動物に比べて何の遜色なく生活している樹木にも情報の伝達は必要で情報伝達をしていると推測することができる。ヒトでは形態的に存在する頭脳も植物に頭脳は存在しない。これは存在しないのではなく機能は存在しても形態として表れていないと考えるべきであろう。支店長室のない支店のように。

分散脳でも生物体全体に均等に分散しているものと、分散脳の濃いところと薄いところの濃度勾配を備えた形態があると推測する。宇宙から夜の地球を写真に写すと、暗い森と明るい都会が照明の明るさの違いとなって表れる。同じ町でも普通の町と大都会とでは明るさに大きな違いがある。海上は人の生活圏ではないから真っ暗であるが日本海には明るい場所がある。それはイカ釣り舟が群がる漁り火である。

これを人体で置き換えると、通常の皮膚などはぼんやりした状態としても、活発な臓器や頭脳では明るくなるであろう。一つの生物体の中は情報活動の濃度勾配が生じていると推測される。その濃度の濃い部分がここでいう分散脳になる。これは神経系に限定されるものではなく、分泌系でも濃度勾配があるとき、その濃い部分は分散脳に相当するということができる。すなわち、植物であっても分散脳によって情報の授受と判断が可能であると推測する。

生態と電車の機能分化
集中脳や分散脳がどのようなものかを理解していただくための比喩的方法を紹介したい。鉄道の客車用車輌について、個々の車輌には車輪の他にモーターやブレーキも備わっていて、それぞれの車輌が自力で動いている。ただ数両の車輌を連結することでモーターの回転数やブレーキの強さを連動させるために先頭車輌には運転台が設けられている。

これを生物の身体と考えると各車輌は身体の一部と考えることができる。体には大部分の機能が備わっていることを示しているが、それら全体を制御するものとして頭脳に相当する運転室がある。すなわち、一つの集中脳と多くの分散脳があることになる。一方、貨物用車輌を見ると、貨車にはモーターは存在せずに先頭の機関車によって総ての貨車が牽引されている。この場合、貨車一両に備わった分散脳は極僅かで大部分が先頭の機関車である集中脳に頼ることで成り立っている。

客車用車輌の集中脳を10%とすると、分散脳は90%となり車輌それぞれの独立性が高い。しかし、これが貨物用車輌になると、それぞれの車輌にあたる分散脳は10%で、残り90%は機関車である集中脳に備わっていることになる。分散脳90%の客車用車輌にはモーター以外に冷暖房を始めとしてテレビなどさまざまな機能が備わっているのに対して、分散脳10%の貨物用車輌では荷台以外の機能は備わってはいない。同じ分散脳でも大きな違いがある。

機関車によって貨車を牽引するならば貨車には動力は必要ないし、客車用車輌のように個々の車輌に動力を設けたならば機関車は必要ない。このことは生物の場合も同様で、一つの機能は分散脳か集中脳のいずれかに配置すればよいのであって両方に配置する必要はない。

ただ配分の量が生物種によって異なるもので、分散脳が10%のものから50%や80%に至るものまであり、中には100%分散脳の生物もいることになる。車輌の設計の場合、各車輌に何を配置するかによって分散脳と集中脳の配分が決まる。生物も種によって分散脳と集中脳の配分量が異なることで機能形態も大きく変わる。

ここでは野鳥とコンピュータ、蛍と通信など、生態と科学を無理やりこじつけるつもりはない。私たち人が作り出す科学は無生物であるが、発想の基本は生物と違わないものではないだろうか。すなわち、人が考えることであっても、他の動物が考えることであっても、さらには植物が考えることであっても、思考や創造の基本的プロセスは同じことを示しているのではないだろうか。それでは、人による科学の思考は頭脳であるとして、生物の生態変異の思考は何処にあるか。それがここで説明できなければならないと考えている。