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6章 認識できない領域とレベルの異なる思考・・・(透明(シロ)い影)
人に備わっている機能はオールマイティーではない。しかし、その機能によって認識できることが総てとすると、本来の正しい理論を導き出すことができない。これまではそれが視力であり聴力であった。しかし、ここでは脳力(能力ではない)についても同様に認識できない領域が存在すると考える。それは頭脳とレベルが異なるために認識できないと推測する。
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| 6章 認識できない領域とレベルの異なる思考 もくじ |
科学技術と認識領域
これまでの進化の要因は遺伝子のエラーによるものとされ、なぜ思考や知性が議論されなかったのか、視点を変えてみたい。人に備わる機能能力は限定的であり、決してオールマイティーではない。そのため、人に備わる機能では自然界に存在する総てが認識できるのではなく、今日に至っても人に認識できないものが少なくないであろう。それゆえ、人はこれまでに大切な何かを見落としてきたのではないだろうか。
人に備わる機能では、犬の嗅覚に比べて人の嗅覚は遥かに劣る。同様に、他の機能についても他生物と比べて人の機能が劣るものがある。そのような機能では如何に努力しても認識できないこともある。それゆえ、人に備わる機能では自然界の総てが認識できていたのではないことになる。
たとえば、通常の視覚情報を認識するのに両眼で充分であるが、その両眼でどんなに努力しても見えないものがある。その時代はそれが当たり前で、見えないものは存在しないとすることであった。しかし、科学技術の進歩によって顕微鏡が発明されると、それまで見ることのできなかったものが見られるようになり、生物学上の新たな発見につながる。これによってそれまで不思議とされていたことが不思議ではなくなることになる。
これは顕微鏡に限るものではなく、電子顕微鏡ではさらに微細なものまで確認することが可能になり、同様に、超音波の発見の前と後のように不思議はさらに少なくなる。これらは何も顕微鏡や超音波に限るものではなく、科学技術の進歩とともにその都度書き換えられた。すなわち、科学技術の進歩によって新たなものが発明され、それまで人に備わる機能では認識することができなかったものが認識できるようになる。
生物学はその時代で新しい技術が発明されると、生物学の新たな発見がなされて生物学そのものが進歩してきた経緯がある。だからといって今日では自然界の総てが認識できているかといえば、認識できていない領域があることが容易に推測できるし、現代の科学技術でこれまでの不思議の総てが解消されたわけではない。
可視領域と可聴領域
これまでの生物についての考え方とは、人として認識できたことを前提にしたもので自然の総てを前提にしたものではない。そこで思考の別領域を理解するために思考とは異なるものに目を向ける。たとえば、犬の嗅覚は人に比べると千倍以上優れているとされ、警察犬や麻薬探知犬として活躍する。これが意味するものとは、人に備わっている嗅覚機能の能力が自然界の匂いの一部しか情報として採取できないことを意味している。
同様に、味覚音痴といわれる私は他の人に比べて味覚機能の能力が低く、それによって得られる情報領域が狭いことを意味している。人には嗅覚や味覚だけではなく他にも外部情報を採取する機能があるが、人に備わっている機能の能力は他の生物と同じではなかった。動物が備える能力によっては人が見えないものまで見ることができ、人が聞こえないものまで聞くことができるものがいる。それが理解できたとき、それまで人が認識していた領域が総てでないことを理解できる。ここではそれについてもう少し科学的に考えたい。その一つが光であり、音である。
歴史を少しだけ遡った過去の時代、光は私たちが見ることのできるものが総てであり、音は耳で聞くことのできるものが総てであるとされてきた。それらが総てとする時代では見えない光はないし、聞こえない音はないことになる。その時代はそれで良かったが科学の進歩によって新たな領域の存在を知った現在では、人が直接認識できない領域の存在を否定すると多くの矛盾が生じることになる。
視覚について、自然界に存在する光では波長の短いものから長いものまであり、その中で人が認識できる波長はその一部の可視光線でしかない。しかし、私たち人が認識できるこの可視光線を唯一無二のものとすると疑問や矛盾が生じることになる。
可視光線の波長領域はおよそ0.35〜0.8μmの範囲で、その可視光線の外側には人の眼に感じない光がある。可視光線より波長の短い領域を紫外線、長い領域を赤外線という。光は人が見ることのできるものが総てであるとする時代では、可視光線の領域しか理解されなかったために、多くの疑問や矛盾があってもそれらを解決できるものはなかった。
しかし、紫外線や赤外線の領域の存在が明らかにされることで光の正しい理解が可能になり、それまでの多くの疑問や矛盾は解決される。だからといって可視光線以外の領域の光が道具を使うことなく肉眼で直接見えるようになったかというと、従来通りやはり見えないことには変わりはない。すなわち、人の視覚機能はオールマイティーではなく、自然界には人に備わる機能では直接情報として得ることのできない領域があることを紫外線や赤外線によって認識できたことになる。
同様のことは聴覚についてもいえることである。私たちが音として聞くことができるのは20Hzから20000Hzの領域で、これを可聴領域と呼ぶ。音の振動数が20000Hz以上になると音波はあっても私たちの耳では聞くことができない。このような振動数の大きい音波を超音波という。音は人が聞くことのできるものが総てとする時代では、可聴領域の音しか理解されなかった。そのため、暗闇をコウモリが障害物にぶつかることなく飛行することが疑問や謎であっても、それらを解決できるものはなかった。
しかし、超音波領域の存在が明らかにされることで音の正しい認識が可能になり、それまでの多くの疑問や謎は解決されることになる。一方、20Hz以下の領域は超低周波と呼ばれ、超音波と同様に私たちの耳の機能では聞くことができない。象はこの超低周波領域のおよそ14Hzで声を発して会話するとされている。
人の見える領域は可視光領域で赤外線や紫外線は見ることができないし、人の聞こえる領域は可聴領域で超音波や超低周波は聞くことができない。しかし、生物の中には、人が認識できない領域を認識できる生物がいる。一部の昆虫は赤外線や紫外線が認識できるとされ、一部の動物は超音波や超低周波を利用している。
一方、光や音以外にも生物の中には人の認識できないものを認識できるものがいる。北米大陸を縦断するオオカバマダラ蝶は、地磁気を認識することができる。人は最近になってGPSによるナビゲーションシステムを発明したが、この蝶は遥か昔から地磁気によるナビゲーションを備えることで、進路を迷うことなく季節変わりの渡りをすることができて継代を可能にしてきたのではないだろうか。
このように人が認識できることは自然界の総てではないし、人以外の生物が機能として備えている中のごく僅かである。その僅かな機能で知り得たことがあたかも総てかのように認識してしまうと、そこで発想できる内容は本来とは異なることになる可能性がある。
領域外の思考機能
これら人に備わる機能は視角や聴覚に限定されるものではなく、他の機能についてもいえることではないだろうか。たとえば、思考機能であるが、現在思考体として認知されたものは頭脳が唯一であって、それ以外に思考体は存在しないとされている。それゆえ、足の踵や膝小僧では思考はできないとされている。これは現在の一般的な見方で大部分の人はこれに問題も矛盾も感じてはいない。しかし、視点を変えて見直すと、上記に示したような物理的に頭脳を備えていないとされる生物でも思考や知性の存在を感じることや、推測させるに充分な資料が数多くあり、知性を備えるとされる菌類の実験も示されている。
これまで示した生物例を見る限り、生物の思考は頭脳を唯一無二として、それ以外に存在しないとしてよいか疑問になる。なぜならば、知的な機能の多くが頭脳を備えないとされる植物によるものである。このことから、現在人が思考体と認識できているのは一部の領域によるもので、存在する思考体の総ての領域が認識できていないのではないだろうか。換言すると、これまでは人が理解できたものを思考体とするが、理解できないものは存在しないとしてきたのではないだろうか。
現段階で人が認識できないものであっても、紫外線や超音波のように存在するものはある。思考体についても現在私たちが認識できていないもう一つの領域があると考えてはどうだろうか。ここでは生物の変異が頭脳とはレベルの異なるもう一つの思考体によって思考された知的創造物と考えている。そのような脳がどのようなものであり、何処にどのような形で存在するのかを考えることにする。
生物変異に対する現在の人の認識とは、可聴領域,超音波,超低周波が混在する中で人の耳で聞くことのできる可聴領域を総てとして、この領域だけで総てを説明しようとしているのではないだろうか。結果として、その領域外にある超音波や超低周波の領域で生じる現象は、可聴領域だけでは説明できずに疑問や矛盾となり不思議の範疇になる。これによって自然界が如何に大きく広いものであっても、私たちに備わった耳の機能能力が小さいと、自らに備わった機能能力の領域外は理解できないことになる。
同様に、生物に備わった思考や創造の機能が如何に優れたものであっても、人が認識できる思考や創造の機能が総ての中の一部でしかないとき、その狭い領域内でしか理解することができないことになり、生物に備わった思考や創造の全体を理解できないことになる。これは五感のように自らに備わっている機能能力の制約を受けて、存在する総てを認識できているのではないことになる。
これによって導かれることは、生物に備わっている思考機能は頭脳が唯一無二のものとされ、それ以外に思考体は存在しないことになる。そのため、頭脳による思考機能については理解することができるが、それ以外の思考機能は認識できていないし、そのようなものは存在しないとしてきたのではないだろうか。しかし、それは人がこれまで認識できたものであって思考の総てでないとしたら、頭脳思考の領域外に他の思考領域が存在すると考えても不思議ではない。
なぜならば、人の機能の能力は可聴領域のように音の総ての領域が認識できていないように、思考領域も存在するものの総てが認識できているわけではないであろう。それゆえ、生物進化の変異を思考や創造するものが頭脳とは異なるレベルの思考体であったとき、進化の変異は超音波や超低周波のように私たち人に備わっている機能では物理的に認識し難い領域と考えることができる。このため、進化の変異には多くの疑問や矛盾が生じていても、その解決策は未だ見えてはいない。しかし、頭脳領域とはレベルの異なる領域の存在が認識されるとき、これまでの生物の変異についての多くの疑問や矛盾は解決されるであろう。
遺伝子では説明できない何か
これまでの考え方は生物に備わった遺伝子が総てであり、この遺伝子の遺伝情報によってタンパク質を始めとする生物に必要なものが作られるというもので、遺伝子の物理的遺伝情報に注視してきた。しかし、「遺伝子では説明できない何かがある」ともいわれてきた。それでも説明できない何かが如何なるものかは説明されてはこなかった。
これらから分子レベルで変異を語るならば、これまでいわれてきた遺伝子のエラーとされてきた事故の理由が何であるか明確にする必要がある。たとえば、人が突然死んだとしても、その理由が交通事故か病気によるものか。交通事故ならば飲酒運転か、携帯電話使用による不注意かのように。病気ならば癌か心筋梗塞かのように。そのとき死が突然ではなく何らかの理由が存在する。
すなわち、進化の変異は事故の変異が正しく分析できたとき、それらの事故から進化に相当するものは現われないことが認識できることになり、進化の変異が思考による知的創造物から導き出されることになるであろう。なぜなら、エラーはすでに備わる機能の破損や喪失であり、マイナス以外の何ものでもないとするもので、新たな目的ある機能は思考による創造以外にないであろう。
これまで人の概念では思考できる部分は頭脳が唯一とされ、動物や植物が混在する生物進化で思考や知的創造を介在させなかったのではないだろうか。その一方で、間違い(エラー)からであっても生じた形質の変異は認知されることになる。しかし、環境適応は思考によるものと考えざるを得ない生態を多く観るというよりは、思考を排除した環境適応は困難である。
私たちの概念では、生物の基本は個体レベルであるが、生物本来の基本は一個体一細胞の細胞レベルにある。細胞レベルではセントラルドグマを初めとして思考や知的創造の機能が存在するであろう生態を多く知ることができる。その細胞レベルで行われていることの総てに目的があり、思考と判断によって正しく営まれていると考えられる。それゆえ、細胞の集合体である個体レベルの私たちが正常に生きられることになる。もしも、細胞レベルの中で行われることが間違いによるものならば、その集合体である私たち生物が正常な営みをすることは困難ではないだろうか。
認識力の違い
鳥の仲間は視力が優れている。鷹の仲間のノスリは日本の里山でも見られる鳥で、彼らは木の頂から150bも離れた畑の土の中で、トンネルを掘るモグラ塚の僅かな土の動きからモグラを捕獲することを得意にしている。人の視細胞が20万個であるのにノスリの視細胞は100万個と5倍も多いことからピント調節が優れている。これによって遠距離から至近距離まで常に最適の鮮明な映像を確保でき、獲物を見失うことがないとされている。
同様に、テレビ映像でコアジサシのコロニーを見るとき、私には数万羽の鳥たちは全部同じに見える。しかし、彼らはコロニーの上空でホバーリングしながら自分の家族である雛の位置をたちどころに見つけて降下する。一方、私などではフランス人は皆同じに見えるし、ロシア人も同じに見える。けれども東京では雑踏の中からでも友人の顔は瞬時に見つけることができる。同様のことに、牧畜をする人は多くのヒツジや牛の顔を見分けられるといわれるが、私たち一般人ではヒツジも牛も群れをなしていると全部同じ顔に見える。私たちの五感による認識能力はこの程度ではないだろうか。
私たち人がこのように社会生活していることは、同じ動物である野生の小鳥や昆虫たちも基本的な生活は人と何ら変わりはないであろうと推測できる。すなわち、人である私たちが家族や友人の顔を瞬時に見分けることができるように、他の動物たちもお互いを認識や理解できていることになる。さらに、会話の手段は異なるとしても、私たちと同様にコミュニケーションをとっているのであろう。そうでなければ日常の生活が成り立たないことになる。
たとえば、生活領域の縄張りや群れの中の上下関係、さらには、もっとも大切な子孫を残す生殖行動などは意思の疎通無くしては成り立たないことになる。このことは同じ生物である植物のレンゲやタンポポも共通であると推測できる。私たちの眼には皆同じに見えて何も考えてはいないように見えるのは、私たちの認識能力に原因があるのではないだろうか。私たちの五感では認識できないものでも、彼らレンゲやタンポポもお互いを見分けて認識や意思の疎通を図りながら生活しているのではないだろうか。
多くの人が考えることは、人は凄いと思っているのである。自動車を作ったり、テレビを作ったり、飛行機までも飛ばすことができる。他の動物にはそんなことできはしない。地球生物の中でも特別な存在が人だと認識しているのではないだろうか。だから人は考えることができても、他の動物が人と同じように考えることはできるはずがない、ましてや植物などは動物に葉を食べられても、人に木を切り倒されても文句一ついえないと思っているのであろう。人には他の生物の生き様が見えないのではなく、初めから見ようとしていないことになる。
これが一般的な人の認識ではないだろうか。でもほんとうは、人の生活も他生物の生活も大差ないのではないだろうか。もしも、違いがあるとするならばそれは表現方法だけではないだろうか。生物種は多種多様であり、種によって表現の方法は千差万別である。そのため、五感が異なるように思考一つとっても頭脳でするものとは限らないであろうと推測する。
個体レベルと分子レベルの目的
ここでは生物の変異を考えるとき、多細胞生物や単細胞生物の形質の違いは個体レベルの表現であり、その表現の基はDNA塩基配列の違いの分子レベルによるとしている。さらに、ここでは変異には「事故の変異」と「進化の変異」があると考えている。個体レベルの進化の変異は生物自らの思考と創造による目的のある変異とし、このことは変異の基である分子レベルの変異が事故の変異と進化の変異によるもので、進化の変異は分子レベルの自らの思考と創造によることを意味している。
さらに、私たち多細胞生物の生物個体が外部環境を認識し、環境の変化に対してホメオスタシスによって制御しているように、その多細胞を形成する一個の細胞でも受容体によって常に外部環境を認識している。そこで外部環境の変化を受容体が認識すると、細胞は日常の営みができるよう自ら制御によってストレスの解消や緩和をするであろう。
しかし、細胞に限界ストレスが生じるとき制御が困難になり変異が必要になる。このようなとき酵素やタンパク質の形を変えることで環境変化によって生じたストレスは解消や緩和できる。これらは個体レベルと分子レベルの間には密接な相互関係が成り立っていることから、変異の原因は個体レベルも分子レベルも同じでなければならない。
何れの場合でも環境を認識していて、環境変化に伴って生じるストレスを解消や緩和しようとすることが進化の変異につながるとしている。そのため、個体,細胞,分子の何れのレベルであっても、環境の変化が小さいときには制御能力の範囲内で変異の必要性はないが、環境変化が大きくなって限界ストレスに達すると自ら変異を促すことになる。但し、変化が大きい場合であっても変異することなく知性によってストレスの回避ができると変異の必要はない。これらは個体レベルも分子レベルも同じと推測する。(詳しくは、遺伝子のところで説明します)
分子レベルの変異に目的があることは、分子レベルの日常活動そのものにも目的が必要である。中でもセントラルドグマの複雑なプロセスは知性なくして成り立つものではないであろう。そして、そこで行なわれる莫大なプロセスは、その一つひとつの目的によって代謝系が成り立つもので、それらに目的がなかったならセントラルドグマそのものが成り立たず、結果として、生体形成そのものが成り立たないことになる。
目的は何もセントラルドグマに限定されるものではなく、酵素の働きとそのプロセスを始めとする分子レベルの活動総てが優れた知性と目的が備わったうえで成り立っている。このような知性豊かなことは目的のないことや非生産的,非効率的なことはしていない。このように知的で理に適った細胞の活動や、膨大な種類のたんぱく質を初めとする物質を創ることが思考なくしてできるのだろうか。
目に見え難い変異
極地に生息する魚の中には抗凍結遺伝子を備えた魚がいる。氷の海の水温はおよそ−1.9℃で、これは淡水と異なり塩分濃度で氷点が0℃より下がっている。無脊椎動物の体液は海水と同じ濃度であるから、海水が凍らない場所では体液も凍らずに活動できる。一方、脊椎動物では細胞外では塩分濃度に近似であるが、細胞内は塩分濃度が低いことから氷点も高くて−1.9℃では通常の魚の細胞は凍ってしまう。
ここで極地の氷海に生息する魚の中には特殊な物質を創るものが現れた。その物質が不凍タンパク質で、これを体内に備えることで氷の海での生活を可能にする。スズキ科のノトセニアはその一つで、ウロコギスなど多くの魚にもこの不凍タンパク質が備わっている。彼らは1500万年前に誕生したとされ、この不凍タンパク質は現在氷海に生息する魚の種類で50%以上、個体数では氷海魚の90%以上がこのタイプの魚とされている。
これは遺伝子のエラーによって誕生したものが氷の海に適応できたことで自然選択によって生き残ったとされている。この不凍タンパク質を合成するには抗凍結遺伝子が関与している。この遺伝子は元来消化酵素の遺伝子であったものが、その消化酵素の遺伝子をおよそ100回繰り返す反復配列することで、このような抗凍結遺伝子の機能を備えるとされている。ここでは反復配列は遺伝子のエラーとは考えずに分子レベルの思考によるものと推測している。
これまでの生物変異では外観で認識可能な姿かたちの形質であったが、外観からではその変異の違いを見比べることが困難なものもある。アフリカ・キリマンジャロに生息するジャイアント・セネシオは、成長点に不凍液を備えている。これによって標高の高い寒冷地でも凍結することなく成長することができている。これは眼に見える姿かたちから分類できるものではない。このこのとは氷海に生息して体内に不凍タンパク質を備えた魚と同じことがいえる。
一方、植物の中には体内物質の季節変化なるものの存在が確認されている。春から秋にかけてはデンプンを蓄えているものも、冬にはデンプンではなくショ糖に変換するものがある。ショ糖はデンプンに比べて凍り難い性質を備えている。このことは環境の変化に対する植物の防御であろう。
前者の不凍液や不凍タンパク質は進化としてみなされようとしている。しかし、後者のショ糖は単なる体内物質の変換で進化とはみなされてはいない。この植物は夏にも冬にも対応できる能力が備わっている。もしも、この植物が環境の変化によって熱帯に生息するものと寒冷地に生息するものとに分かれたとすると、それぞれはそれまでの四季による体内物質の変化ではなく、体内にデンプンを蓄える種とショ糖を蓄える種とに固定化することになり、その後は進化したとみなされるかも知れない。
最初にデンプンを蓄えていた植物が冬の寒さを体験したとき、ショ糖に変化するプロセスが生物の意思によるものか、偶然やエラーによるものかの違いである。意思によるとするとデンプンより凍結し難いショ糖を見つけることが可能な思考能力が備わっていると、それほど長い期間は必要としない。
これに比べて、寒冷になった初期に遺伝子のエラーによってショ糖の変異が発生する確率はゼロに等しい。なぜなら、進化の変異には地質年代に及ぶ数百万年を必要とされている。もしも、寒冷初期の短期間にこのエラーが発生しなかったならば、対応できない植物は生きられないことになる。偶然のエラーが発生するまで何百万年も寒冷地で待つことはできない。
この植物と同様のことは保護色の雷鳥に見ることができる。雷鳥では夏と冬とで羽の色を変えることで保護色による防御対策としている。雷鳥が羽の色を変えることによる防御と、植物が夏と冬とでデンプンとショ糖を変えることによる防御と何処が異なるのだろうか。どちらも自らの防御手段で、その思考に違いはない。
ここで大切なことは進化の変異が表れたか否かの結果が問題ではない。形質レベルの変異は付随的要素で、それ以前に分子レベルの変異が始まっている。その分子レベルの変異は通常では私たちの眼にするものではない。結果として、形質の変異を眼にするとき、あたかも突然に出現したかの如く眼に写る。すなわち、形質レベルの変異には分子レベルの変異が基礎に存在するもので、この分子レベルの変異は分子レベルの思考による知的創造物というべきではないだろうか。
偽遺伝子
生物に備わった機能や形質が環境に適応的であるばかりか、知的であることも知られている。これは変異に目的があり、生物が自らの意思によって知的創造していることを示しているのではないだろうか。もしも、生物が思考できないとすると、変異するのに目的を持つこと自体が不可能になる。ここではどのような状況を思考可能な知性と考えているかを示す。
進化の変異に生物の意思があるように、退化も生物の意思によって目的のある変異をしている。陸上で誕生した哺乳類が海中に移行することで、それまで移動の手段であった足が退化して鰭とすることで、新たな機能を備えることや消滅したりする。外観からでは消滅して見えなくても骨格では足であったときの名残りがある。
一方、洞窟生活する動物の眼が退化することで、触覚器官や聴覚器官が極度に感度を上げるものがある。生物にとって生活環境を変えたことで、実用にならなくなったものをいつまでも残しておくのではなく、不要なものを必要なものに移し変えていく。これは個体レベルでの思考であるが、分子レベルでも同様の思考を見ることができる。
ヒトを含めたサルの仲間の中には、ビタミンCを合成するグロノラクトンオキシターゼの遺伝子が欠質して、ビタミンCを自らの体内で合成することができない種がいる。ヒトの他にコウモリ,象,モルモットなども同様にビタミンCが合成できない。一方、原猿,兎,犬,猫などでは自らの体内でビタミンCを合成することができるので食料として摂取する必要がない。ヒトも以前は食料として摂取しなくても自らの体内で作ることができていたとされている。ではどうして過去に作り出せたものが今では作ることができなくなってしまったか。
それは当時熱帯雨林に生活することで、食料として摂取するものには常にビタミンCが豊富に含まれていて不足することがなかったとされている。このことを自ら認識することで自らの体内でさらにビタミンCを作ることは無駄で、作ることを止めたと考えられている。その結果、ヒトを含めた一部の哺乳類ではビタミンCを作る遺伝子はその機能を果たさない偽遺伝子になっている。このような偽遺伝子はこの他にも確認されている。
このことから、生物の変異は進化の変異であっても退化の変異であっても、その変異には生物の意思による確たる目的があって変異していると推測する。さらに、その目的を解決することのできる思考能力が備わっていると推測する。そのため、生物自ら環境が異なる新たなところへ移行すると、それに伴って環境に適応すべく変異する。これとは反対に環境が変化することも同様で、自らが移行するか環境の方から移行して来るかの違いに他ならない。
このことから、生物の意思とは反対に生息域の環境が変わったときでも、変化した環境に適応すべく変異することが可能で、その変異に伴う思考能力を備えていることを意味する。またビタミンCの偽遺伝子に見られるように、常時摂取できるものまで作るような無駄なことは避けて、非効率的なことはしない。このようなことは思考なくして行なわれるものではなく、優れた知性が備わった思考によって可能であると推測することができる。
ビタミンCと類似のことがある。アブラムシの脂肪体の細胞にはバクテリアのブフネラがたくさん共生生活している。このアブラムシとブフネラの関係が際立っている。アミノ酸20種類の内、必須アミノ酸+2個をアブラムシは自ら合成することはできないが、これをブフネラは合成することができる。逆にアブラムシが合成できるアミノ酸の多くをブフネラは合成することができない。アブラムシが合成できるアミノ酸は10種類あり、ブフネラが合成できるアミノ酸は11種類ある。その大部分が互いに重複しないものになっている。この結果、両者が共に作りだせないアミノ酸は1種類だけである。
このことが意味するものは何か。アブラムシはブフネラを共生相手にすることで自ら合成できないアミノ酸をブフネラに頼っている。同時に、両者が共に合成できるものは一方を省略することで無駄を省くとする彼らの意図が見て取れる。この状況はアブラムシにとって有利に見えるが、ブフネラにとってもアブラムシから離脱すると生きられない。これは彼らの思考によって考えられ、意思によって実行されているであろう。
このことはもっと身近なものとして真核細胞のミトコンドリアDNAにも見ることができる。ミトコンドリアDNAは細胞核の遺伝子に共通する遺伝子を省略して、その遺伝子によって作りだされていたタンパク質などは自給せずに細胞から供給してもらう。さらに、独自の遺伝子も細胞核に移行することで自らのDNAはスリムになり、ミトコンドリアは自らの機能に全力が投入できるとされている。
個体レベルの生物種間の共生では、大型魚の寄生虫を小魚が取り除いて自らの餌とすることや、アブラムシと蟻のように甘露の提供とボディーガードなどがあり、ギブ&テイクの共生が成り立っているものを多くの生物種間で見ることができる。これは自らのマイナスを認識できていることであり、そのマイナスを相手によって補えると認識していることを意味している。
同様に、分子レベルの共生では互いの遺伝子のマイナス部分を相互補完している。遺伝子の相互補完が意味するものは、自らの遺伝子を認識していることであり、相手の遺伝子も認識できていることを意味している。さらに、自らの遺伝子のマイナス部分が相手の遺伝子の一部によって補えると認識できていることを意味するもので、個体レベルの共生であっても分子レベルの共生であっても、そこには相互に思考が関与しているであろう。
生物の行なっていることは個体レベルに限らず、分子レベルであっても非効率なことや無駄なことはしていないし、レベルをどのような状態でとらえても類似の思考が成り立っていることは、基本となる思考システムが存在することを意味しているであろう。これは頭脳を備えていないとされる植物や単細胞生物でも思考能力が存在するのではないだろうか。
生物が生活の中で常に考えているかといえばそのようなことはない。実際にはほとんど考えていない。考えなくても生きていけるし、このことは人も同様である。それでは人の頭脳は何のためにあるのか。思考よりはその大部分が日常生活の判断するためではないだろうか。人のいう知性や文化を考えるとき、人が他の動物や植物に比べて特別な存在ではないことが理解できる。
思考の定義の信憑性
「生物が進化するか否かは生物の意思であり、どのように変異するかは生物の思考や創造である」。これを提起すると、自らの意思や思考を示すことのできる頭脳を備えた動物は良いとしても、動物の中にも頭脳を備えないものや、頭脳を備えないとされる植物が自らの意思や思考によって変異することは理論的に成り立たないと反論される。
しかし、頭脳の定義とは人が定めたもので、この定義が正しいかどうかには疑問がある。さらに、動物が魚類,両生類,爬虫類,哺乳類と進化するのに対して、植物も隠花植物のシダ類から顕花植物の裸子植物,被子植物と進化している。これらの進化の流れは脳を備えている動物と脳を備えていないとされる植物に思考と創造の類似性を見ることができる。
一方、頭脳を備えた人が自らの意思や思考によって進化することができるか、の問いに対して、大多数の人がNo,と答える。多くの人々は自ら進化の変異をしたいと希望するが、それを実現できないでいる。さらに、頭脳を備えた人が思考や創造しても不可能なことは、頭脳を持たない植物にできるはずはないと考える。それゆえ、進化は動物や植物である生物の意思や思考の及ばないところで行なわれるとしている。
現在、人が定義する脳とは思考や知性を司るもので、動物の頭部に収納されているものを頭脳と表現している。頭脳は動物の中でも一部の動物にのみ備わったもので、総ての動物に頭脳が備わっているのではない。私たち人の認識では思考や創造ができるのは頭の中の頭脳であり、それ以外の部分で思考はできないとしている。だから足の踵や膝小僧で思考はできないとし、同様に、胃や肝臓で思考はできないとしてきた。これまではそれが当たり前で常識であるから何の疑いも持たずに生活している。
その思考ができるとされる頭脳の能力について、その頭脳に備わっている能力は生物種によって違いがあり、頭脳の発達によって下等動物から高等動物にまで分類している。人の頭脳による思考は優れていて、生物の思考や知性を語るとき、人をおいて他にはないとされてきた。一方、人に近似の哺乳動物は人には及ばないものの人に次ぐ思考能力を備えているとされている。それに比べると魚類などの能力は遥かに劣るとされてきた。
この考え方でいうならば、動物の中でもウニやヒトデのように物理的に頭脳を持たない動物は思考ができないとされ、自力移動や自己主張さえもできないとされる植物では頭脳と呼べるものは物理的に存在しないことから、植物では思考は論外とされてきた。すなわち、思考とは物理的に頭脳を備えることが前提で、その頭脳によってのみ可能とされてきた。
しかし、これらの脳や思考に対する考え方は人自らが考えたことで、生物共通の考えといえるものではない。なぜなら、思考や知性から除外される分類に相当する下等動物や、頭脳が存在しないとされる植物の中から思考や知性を感じさせるものや推測させるもの、さらには思考を排除したら成り立たないであろうものを観ることができる。
すなわち、生物が数千万種に変異して異なった機能や形質を備えることは、思考後の結果表現の一手段ではないだろうか。これらを認識すると生物の日常生活に思考は不可欠で、変異にも思考は欠かせないものとなる。さらに、それらは頭脳の有無とは別に思考されていると推測することができ、頭脳とは異なる「もう一つの脳」の存在を発想させることになる。
ここでは2章から5章までの途轍もないスペースを使って数多くの生態について説明してきた。なぜこのような説明をしてきたのか。それは従来の進化論というよりは、生物そのものに対する基本的見方が間違えていたと考えている。さらに、進化論では変異に目的がない突然変異という間違いと、進化の変異に思考や知的創造を関与させなかったという間違い。この二つの間違いにより進化の理論が誤った方向に進んだものと考えている。
頭脳は思考するところか
人が物の形状や身の回りの環境を知る手段としては、眼による視覚が大きなウェイトを占めている。しかし、これは人や動物の多くではあるが、それが総てではない。一部の動物や他の生物のあるものは聴覚を利用し、別のあるものは触覚を利用し、また別のあるものは嗅覚や味覚を利用して形状や環境を認識している。さらには人が知る五感とは異なるもので、未だ人の知り得ない第六感や七感によって認識可能な生物が存在することも推測すべきである。たとえば、超音波や磁気などのように。
このように考えると、生物の意思や思考についても同じことがいえるであろう。人を始めとして多くの動物は頭脳によって思考や判断しているとしても、それが総てではないとすべきではないだろうか。頭脳を持たないヒトデやウニは危険か否かの判断を何処でしているのだろうか。なぜならば、彼らも捕食者からの危険に遭遇すると方向を変えて逃げだすのである。同様に、頭脳を持たないとされる植物は日常生活を何処で考えているのだろうか。一部の動物や他の生物は頭脳以外の場所で思考や判断していると考えることができる。私たちは頭脳を思考するところと理解しているが、頭脳が唯一無二であるかどうかの検証も必要である。
これまで生物の変異では思考や知性が語られることはなかった。思考や知性が語られないことは、脳や頭脳についても語る必要もなかった。しかし、ここでは生物に備わる思考や知性は頭脳に限定するものではなく、頭脳を備えていないとされる植物のような生物でも思考可能な知性が存在するとしてきた。そのため、生物の思考や知性さらには脳がどのようなものかの説明は避けて通ることができない。
これらを考えるとき、これまでの脳についての定義は正しいのだろうか。動物は脳の形態を物理的に明らかにしているのに対して、植物ではその形態をなしてはいない。そのため、これらはこれまで無脳として扱われてきた。しかし、人の定義する物理的な頭脳の存在しない下等動物や無脳動物、さらには脳の範疇から除外された無脳植物でも思考や判断の機能を備えていると考えられることにある。そのため、これまで脳を備えていないとされる植物の知性についての例えを数多く挙げた。
生物は進化の過程で機能分化を繰り返してきた。その中には移動手段を備えるものや環境認識のための視覚情報を備えるものなど、さまざまな機能分化がある。それらの機能分化の中には思考や判断についても分化しようとする試みもなされたはずである。その判断をさらに速くするための機能分化が頭脳であると推測する。
そのことから考えると、速い頭脳の機能分化を必要としない種にとって、頭脳の機能分化をしなかったことが思考や判断ができないことにはならない。頭脳に比べてスピードは遅くても判断できるであろうし、彼らは判断の速さは求めてはいない。頭脳が優れているのは判断の速さで、この判断の速さが見掛けの知性として自己満足の過大評価をしているのではないだろうか。
動物の判断スピードが秒の単位であるのに比べて、植物の判断スピードは半日や数週間の単位であることは、動物が瞬時の判断をしているのに比べて、あたかも何も考えていないように見える。しかし、実際には動物とは比べものにならない奥深い思考がなされていると推測することは間違いだろうか。なぜなら、見掛けでは激しい火山噴火に比べて、何の活動もしていないように見える大陸移動ではあるが、火山噴火に比べて桁違いのエネルギーを使って活動しているように。人は直接的に認識できるものについてのみ理解しているのではないだろうか。
変異の思考
動物の生活形態では数十年の間季節に関係なく活動するものにサルや鹿などの哺乳類がいる。一方、春から秋にかけて活動して秋には身体に栄養を蓄えて冬の間は冬眠する熊などがいる。さらには春に孵化して夏まで活動して秋には卵を産み落として死ぬ多くの昆虫がいる。これらは動物の生態の一部であるが、これと同じような生活形態をするものに植物がある。
熱帯や温帯の常緑樹は数十年もの間途切れることなく緑を保持し続ける。一方、温帯の落葉樹は秋には葉を落として冬の間は冬眠状態になる。類似の草本についても、秋には葉や茎を枯らして根だけで冬眠状態になる多年草と、数ヶ月の間緑を茂らせ種子を作った後枯れる一年草がある。
これらは動物と植物の生活形態の類似性を表したものである。これらは自然環境の好条件を活用して悪条件を上手に回避する能力が備わっていることを示している。このような生活形態を考えたのはどちらか考えてみると、もしも、動物が考えたとすると、動物の餌となる木の葉や花蜜,果実,樹液,そして草本類などが伴わないと、動物は考えたとしても実行することはできない。
なぜなら、動物は従属栄養生物である。これに対して、独立栄養生物の植物は動物の存在がなくても生きることができるものもある。このことから、動物は植物が創り出した生活形態に便乗しているもので、このような生活形態を創造したのは植物ということになる。
動物の多くは自力移動が可能であるから環境が変化したならば自らの最適環境を求めて渡り鳥のように移動することができる。しかし、直接的自力移動のできない植物は動物のように最適環境を求めて移動することができない。そのため、環境が変化すると自らを変異させて生き残る術を考えなければならないことになる。このように植物と動物には類似することが数多く見られるが、その多くを創作するのは植物で、動物は植物を見て同じことが活用できるか否かの判断をしているに過ぎない。その最たるものが人である。
現在では膨大な化学物質が作られているが、その大部分は植物が創作したものを抽出して真似しているに過ぎない。植物がこのように進化できることは、頭脳を備えた動物の真似をしているのではなく、知的な人の真似をしているものでもない。何よりも真っ先に進化の変異を創造しているものが植物であるとすると、その植物の変異は知的で創造性が豊かである。これは遺伝子のエラーではなく植物の思考ではないだろうか。
このことは植物以外の生物の変異も生物の意思であり、生物の思考によるものと考えるべきではないだろうか。このことから、生物の思考や創造は頭脳に限定するものではなく、生物の変異の思考が頭脳とは別のところでされていると推測すべきではないだろうか。
思考基準の使い分け
地球生物は三十数億年前に誕生したとされる一個の生命体が、さまざまに機能分化することで現在では150万種に及ぶとされる生物種が誕生している。さらに、分類の不充分なものを分類し直すことや未発見の生物を加えると、生物種は数千万種に及ぶと推測されている。そして、それらの生物が備えている機能や形質は知的で創造豊かである。
その知的な創造をしているのは頭脳を備えた動物に限定されるのではなく、頭脳を備えない動物や頭脳とは全く縁がないとされる植物にも見ることができる。しかし、そのように優れた機能や形質は現在の生物学では遺伝子のエラーによって生じるとされ、そこでは生物の思考や創造は必要とされてはいないし、関与しないとされている。
これまで人と人以外の生物では思考基準を使い分けているのではないだろうか。同じ出来事でも人のときは思考による知的創造で、人以外の生物では遺伝子のエラーとされる。たとえば、人が作り出した超音波は優れた技術で知的創造物とされている。一方、その超音波を人が誕生する遥か以前に創り出したイルカやコウモリでは遺伝子のエラーとされ、そこには彼らの思考や知的創造が関与する余地は存在しない。
これは一例であって、植物の創りだす化学物質は未だに人が知り得ないものもたくさんあり、このようなことは数多く見ることができる。さらに、人が数百年後に手にしようとするものをすでに他の生物が自らに備わった機能や形質として備えているかも知れない。それにもかかわらず人は特別に優れた種であって、他の動物や植物とは違うとしている。そして、他の生物とは違う要因が頭脳にあるとしている。
思考に対する基準とはこのようなものでよいのだろうか。イルカやコウモリは動物であるから人が超音波を考えたように考えことができたとしよう。それでは同じ動物で多少なりとも考えることのできるハエなどの昆虫を、頭脳が存在しないとされる植物が捕獲して自らの栄養にするといわれる食虫植物をどのように考えたらよいのだろうか。
現在の認識では、食虫植物が備える機能は遺伝子のエラーとされ、そこでは彼ら食虫植物の思考や知的創造は存在しない。しかし、類似のことを人が行なうと、それは思考による知的創造とされるのである。これらは思考基準の使い分けに過ぎないもので、生物本来の思考基準とは違うのではないだろうか。
生物について論じるとき、人は自らを特別であるとしているのではないだろうか。動物行動学でしばしば見られるものに統計数学や確率論が引用される。しかし、それと全く同じ内容を人に置き換えることはしない。なぜか、動物のときにはそれらの行動に思考や知性は関与せず、自然淘汰の成り行きの結果を示すものとし、その中に何らかの法則性があるとするもので、そこではしばしばサイコロが登場する。しかし、同じ内容でも人については思考や知性によるもので、人それぞれの主観の相違による違いとしている。このようなことは動物行動を正しく見たものではなく偏った見方ではないだろうか。
この半世紀に分子生物学で議論されたことは、DNAやタンパク質の化学的結合でも物理的にその構造や形態を確認するものであった。これらは直接眼で見る形質や計測器具によって確認できる化学結合であることは、物理的機能に傾注するあまりに、これらを裏で支えるであろう思考機能を排除した議論に終始したのではないだろうか。これらは意識的に排除したのではなく、人の認識可能な範囲を超えたため見ることができなかった。このことは現在計測できないとされている思考機能も計測可能になったとき、その存在が理解されるであろう。
これまでの生物の変異では生物の思考能力や知性は一切論じられることがなかった。人は事あるごとに自らを知的生物であるといいながら、その知性とはどのようなもので如何なる生物の時代から備わるようになったのかは説明していない。物理的確認を必要とするならば、人が知的生物であるとする「思考や知性のメカニズム」を明らかにするか、計測による確認が必要不可欠である。しかしながら、それらの確認ができないため抽象的表現で済ませているのではないだろうか。
従来論との相違は思考の関与
従来論とこの仮説の最大の相違は、進化の変異に生物の思考が関与するか否かである。この思考の関与の有無によって、それ以降の総てが異なることになる。従来論ではこの思考を排除したことで数多くの問題や矛盾を認識しながらも、それらを解決するには至っていない。これは人の偏った見方で、思考の領域を頭脳が唯一と限定したことに他ならないであろう。
この思考に対する基本的概念によって、一部の生物では物理的に頭脳が備わっていないことから、この思考を生物の共通項目から排除する結果となった。しかし、現実には数多くの生物の生態から生物に思考能力が備わっていることは実証されたといわないまでも、思考能力を推測するには充分である。さらに、それらの思考は一部の生物に備わっている頭脳の有無に影響されるものではないことも事実である。
これらから、生物に備わっているとする思考は頭脳に限定するものではなく、総ての生物に思考能力が備わっていると推測する。このことは進化は目的のない突然変異ではなく、生物に備わった思考能力によって創造された目的のある変異ということになる。同時に、生物の思考による知的創造は変異に限定するものではなく、進化の変異は思考によって創造されたものの一つに過ぎず、変異として形質に現われない数多くの知的創造が存在すると推測する。
変異が思考を必要としない生物の意思だけならば Yes,No,の二者択一で、たとえ変異したとしても、これほどまでの多種多様にはならなかったと推測する。これは従来論の自然が選択したとされる方法と結果的に近似になる。しかし、実際の生物は多種多様で、進化の変異の中には単なる形態的な変異だけではなく数多くの無形態の文化が備わり、それらの多くは未だ人に理解されていないものが数多く存在すると推測できる。
このことは変異が生物の意思による二者択一の選択ではないことを意味し、それぞれの生物が日常生活で試行錯誤しながら、他の個体と切磋琢磨することによって思考の限りを尽くした結果が多種多様な変異を生み出していると推測する。すなわち、進化は生物の意思のみならず、思考による知的創造物としている。
記憶、判断、反射と思考
私たちの日常は大部分が判断である。いい換えると、判断さえできれば思考できなくても生きてゆける。これと異なるものは、日常で求められるものは思考で判断は必要とされない。そのような社会があるならば、それは思考的社会であるかもしれない。
前者の判断さえできれば思考できなくても生きてゆける判断社会とはどのようなものか。たとえば、自動車の運転はその最たるものであろう。運転中に判断を遅らせて考えていたら事故が起こることから判断が総てである。会社の業務の多くはそれまでの経験に基づいた判断の繰り返しをしているに過ぎないし、社会から一目おかれる弁護士でも過去の判例との比較判断である。このように見てくると人の社会は判断の社会で、日常の大部分は思考しなくても判断さえしていれば生きてゆける。
今では一歩進んで判断から反射になりつつある。多くの人がコンピュータゲームしているのは判断を通り越して反射的操作しているに過ぎない。これは遊びとしても、そこには判断はもとより思考などは存在しないであろう。過去において学習の場でも同様のことがあった。最近でこそ少なくなったが、過去には日本ではそろばんが重要視されていた。特に上級クラスの暗算になると思考や判断では間に合わず反射的処理であった。さらに、現在では判断であるコンピュータが人にとって尊重されているように、人では記憶,判断,反射の優れた者は知的であるとされる。このような見掛けの強さばかりがもてはやされ、もはや思考が軽視される以上に除外の憂き目に合うほどである。
一方、後者の思考的社会とは植物にみられるようなものではないだろうか。捕食者(植食者)が目の前に現れて食べられようとしたとき、私たち動物は危険と判断して反射的に逃げようとする。しかし、植物は自力移動をしないことからそのような瞬時の判断は必要とはしないし、たとえそのような判断をしたとしても逃げることができない。食べようとするものには食べさせておいて、この次捕食者に食べられないようにするにはどうしたらよいか考える。
そこで考えるものが棘や毒素であろう。棘を創るにしてもカラタチのように大きく鋭い棘か、薔薇のように小さく弓なりの棘にするかは捕食者の唇の大きさや舌の厚さを考慮に入れて創る。一方、毒素もただ作るのではなく、捕食者が葉を食いちぎるとき残した唾液から効果のある化学物質を創造するであろう。この結果どうなったか。植物は種類によって体内の化学物質は千差万別で、身近なものの真似ではなく個性豊かである。このように見てくると植物が瞬時の判断することは皆無に等しく、多くが思考と知的創造になる。
教育を省略して思考する
頭脳を極度に進化させた人は、もはや思考よりも判断や反射の速さを重要視したもので、これによって見掛けの強さを手にすることになる。しかし、そのような頭脳に記憶された内容は、子孫への蓄積ではなく子孫は世代交替の度に判断するのに必要な知識を蓄積するために常にゼロからのスタートを繰り返す。
そのような知識といわれる記憶に学校教育と称して16年もの長い時間をかける。皆が同じことを記憶する必要があるならば、それらの内容は遺伝子として子孫に継続すべきで、これによって誰もが同じ記憶に費やす無駄な時間を省略することができる。今日、人は百科事典数十冊分の情報量を一つのCDに収めることが可能になった。一方、ヒトゲノムで表される塩基配列の情報量は百科事典数十冊分に相当するとされている。これとは反対に16年で学習する内容はDNAの情報量に比べて遥かに小さな情報量で賄うことができる。
人が体外技術であるのに対して、他の多くの生物が体内技術で処理していることは、人の体外技術のCD情報は他生物の体内技術のDNAか、それと同様のオルガネラによって置き換えることも可能ではないだろうか。そうすることによって判断のために必要とする知識の蓄積である教育を止めることができる。これによってこれまでの記憶,判断,反射のレベルから思考のレベルへと方向転換すべきで、人が進化すべき方向とはそのようなものではないだろうか。
動物の中でも昆虫を始めとして多くの動物は卵を産み落とされ、孵化するときに母親の姿は見ることはできない。学習を受けることは言うに及ばず養われることさえなく成長するが、成体になっての知性はしっかりと備えている。これらは動物だけではなく植物にもいえることで、種子は親から学習を受けなくても知性を備えている。
いい換えると、多くの生物では親から子への世代交替の度に毎回ゼロからの教育する時間的余裕はない。そのようなことをしていると思考の時間が少なくなり、変異を必要とするとき変異に要する思考の時間が足りずに進化ができなくなり、種が滅ぶことになる。進化しようとする生物は基本事項は世代交替で済ませておいて、進化に必要な思考をしていると考えてはどうだろうか。
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