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V部 もう一つの脳
7章 思考機能とメカニズム・・・(60兆の細胞脳集団)
頭脳とはレベルの異なる「もう一つの脳」がどのようなものであり、生物の何処に存在し、如何なる思考メカニズムかを具体的に説明しようとします。そこには生物総ての原点である遺伝情報が備わるDNAが関与していると考える。
これまでDNAは塩基配列によって遺伝情報を備えるものとされているが、遺伝情報以外の機能は存在しないとされてきた。ここではそのDNAが立体構造を形成してそこにエネルギーが供給されると、思考機能が生じるであろうとする考え方である。
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| 7章 思考機能とメカニズム もくじ |
思考の原点
動物も植物も生物は細胞から成り立っている。細胞の中にはオルガネラや核があり、核の中にはDNAが収納されている。そのDNAには塩基がつながっていて生物の種や形質の違いによって塩基の配列が異なる。すなわち、生物が備えるDNAの塩基配列による遺伝子と形質には相関関係が成り立っている。これは遺伝子と形質についての概略であり、実際にはこのような単純なものではなく、複雑で緻密なシステムによって構築されている。従来から進化で議論されてきた形質の変異は、本を正せば遺伝子の変異を語るものでなければならないし、進化を正しく語るには分子レベルで議論する必要があると考える。
ここで考えたいことは、この優れた遺伝子システムが如何なる経緯によって構築されたかである。地球46億年の歴史の中でおよそ38億年前に単細胞の生命が誕生したとされている。そして、15〜10億年前に真核生物が誕生したとされ、10〜5億年前には多細胞生物が誕生したとされている。これらから、真核生物誕生以前には遺伝子を備えた原核生物が誕生したとされている。しかし、地球上に最初に生命が誕生したからといって、その生命体に付随して遺伝子システムがついてきたかどうかは確認されていない。
一方、生命の源であるタンパク質を合成するアミノ酸は、隕石と一緒に宇宙から来たとされる説もあるが、タンパク質や核酸が宇宙から来たとされる証拠は見つかってはいないとされている。万一生命体が宇宙から来たとしても、生命誕生から遺伝子が備わるまでには何億年かの期間があり、宇宙からの生命体に遺伝子システムは備わっていなかったとすると、生命誕生からおよそ23億年の間とは、地球に誕生した単細胞の微生物が思考能力を備えるための時間であり、備えた思考能力によって創造したものの一つが遺伝子システムであったと推測することができないだろうか。
すなわち、15億年以前に遺伝子を備えた原核生物が生存していたということは、遺伝子システムの基礎が構築されて思考の原型となる基本形態はその当時までに出来あがっていたと推測するもので、当時の生物にはすでに思考能力が備わっていたであろう。
従来の考え方では単細胞生物に思考機能はなく、多細胞生物の時代も後になって頭脳が備わり、その頭脳が進化することによって次第に思考機能が備わったとされている。結果として、近代になって出現したヒトはもっとも進化することができ、豊かな思考能力を備えた生物とされている。しかし、これは正しい評価であるか疑問である。
ここでの考えでは思考には形態的に二つのタイプがあり、「マクロの思考とミクロの思考」というレベルの異なる思考としている。私たち多細胞生物の考えでは集合体形成された個体レベルが単位となっているが、生物の基本単位は一個体一細胞で、この単位での思考を考える必要があるのではないだろうか。思考は単細胞生物の時代に創造され確立したものとすると、それ以降、現在私たちに備わる思考とは当時確立された思考を基礎にしたものと推測する。
しばしば日本人は比喩的表現として、単細胞生物の構造が単純であることから愚かな生き物の如く表現するが、単細胞生物にもそれなりに思考機能が備わっていたと推測する。現在では多くの多細胞生物が存在するが、それら多細胞生物の思考の源は単細胞生物にあって、単細胞が進化して多細胞になっても思考の源はミクロに存在するのではないだろうか。
思考システムは現存する
現在ヒトゲノムの解読はすでに終わり、解析が行なわれている。解読だけでも大変であるが、解析はさらに大変とされている。それほどまでに複雑な遺伝子システムを創造する並外れた思考能力と、それをシステムとして構築することが如何に大変なことかは、想像する以上のものである。さらに、このような遺伝子システムのみならず遺伝子と形質をリンクさせて、遺伝子の変化に伴って形質を変異させて進化することのできる実施能力が、一連のシステムの中に収められている。
前にも述べたように、この遺伝子システムは隕石と一緒に宇宙から来たものではないと推測するし、偶然や突然変異で出来あがったものでもないとすると、これほどまでに優れた創造可能なシステムを知性といわずに何を知性といえるだろうか。さらに、どんなに優れたものでも一度創られたものが形を変えることなく、長い期間に渡って世代交替を繰り返して継続するだけならば、創られたときのシステムは消滅しても対象物を残すことは可能である。しかし、進化することは変異を加えながら継代することで、創造されたときのシステムだけではなくそのときどきの思考も必要とされる。
たとえば、伝統工芸品を残すならば美術館に大切に保管すればそれで事足りる。しかし、その伝統工芸を時代の変化に対応させながら存続させるためには、できあがった工芸品を残すだけではなく、道具は言うに及ばず工芸品を産みだす技を備えた匠といわれる技術者が存続し続ける必要があり、その時代での新たな創造をする必要がある。一方、便利なコンピュータも、できあがったソフトを使用するだけならば電源を入れるだけで今後何十年でも使用可能であるが、今後時代の変化に伴って適応したソフトとして活用しようとするならソフトの更新は不可欠で、創られたときのシステムや考え方を存続させる必要があるし、変化するそのときどきの時代の考え方も一緒に必要となる。
このことから、生物が単なる継代ではなく変異による進化をしてきたことは、最初に創られたときのシステムや考え方が存続していたことと、その後受け継がれたさまざまな生物によってその時代の変異が加えられて継代してきたことになる。すなわち、遺伝子システムは塩基配列の結果だけが残っているのではなく、「誕生当時の考え方とその後の生物の思考」とによって進化の変異がなされてきた。そうでなければ単なる世代交替はできたとしても、それぞれの時代環境に適応した進化をすることはできないことになるのではないだろうか。
1章から始まってこの7章まで読まれた方は、ここでの考え方が随分歪んでいると考えられるでしょうが、このような考え方を持ちだすことによって荒唐無稽な仮説をでっちあげようというのではないし、21世紀の現代に19世紀まで語られた生気論を蒸し返そうとするのでもない。
でも思い起こして欲しい。食虫植物が壷や檻によって昆虫を捕獲することや、頭脳がないとされる植物のランが頭脳を備えた昆虫である蜂の生殖行動を逆手に利用し、自らの生殖に利用することが植物の思考や知的創造なくしてあり得るであろうか。さらに、人が利用する医薬品を始めとする多くの化学物質は、彼ら植物が創り出したものを抽出しているものも少なくない。
これらのことが私たち人の思考や創造と何処が違うか。違うことは何もない。なぜならば、このように植物と類似のことを人が行ったとき、それは思考であり知的創造と呼ばれている。ここからはこれまでの抽象論とは180度方向を変えた視点で話を進めたい。
二つの脳
多細胞生物の中には群体のボルボックスのように同一細胞の集合体からなるものがいる。同一細胞でもボルボックスは一部機能分化があり、群体の中の細胞を取り出したとき一細胞では死滅するものと、娘細胞として新たな群体を形成するものがあるとされている。一方これとは別に、これまで進化によって多細胞生物の身体は複数に機能分化されてきた。ヒトの身体の細胞でもあるものは骨になり筋肉になる。別のあるものは心臓や肝臓になる。さらに、別のあるものは神経になり頭脳になる。
哺乳類のような複雑な動物では、細胞の種類は200種を超えるとされている。このことは身体のあらゆる機能は一度に総ての機能ができたのではない。これは進化の過程でその都度機能分化によって一つひとつの機能が創造され追加したとされる。さらに、これらの機能分化で頭脳ができたのは随分後のことで、最初にできたものが頭脳でないことはわかっている。何を言いたいのか。
私たちの身体の機能分化は頭脳によって考えて作られたものではない。さりとて神様によって作られたものでもない。ましてや遺伝子のエラーによって作られたわけでもないであろう。これらは生物を構成する細胞に、それらの機能を創造することのできる思考能力が備わっていると考える。その知的な創造を可能にする思考体によって塩基配列と連動して機能分化がなされるとするもので、私たちが進化と称して生物の形質の違いを認識することができる。
この並外れた思考機能が如何なるもので、何処にあるかを考えるとき、名前は何でも良いのだが頭脳と区別する意味で、とりあえずこの思考体を『細胞脳』と仮定する。細胞脳とは頭脳と異なり細胞の一部に存在し、意思表示や知的思考が可能なところで、この細胞脳によって心臓や肝臓などの臓器が創造されることや、私たちヒトに備わった頭脳も機能分化の一つとして創造したと推測する。
細胞脳の思考とは単なる想像ではなく、自然環境や生活環境が変化したことを認識し、その変化に伴うストレスを解消や緩和するために思考することができる。さらに、自らの新たな欲求を満足するための思考をする。そのため、生物は変異に際して適応進化といわれるように環境に適応した形質になることや、知恵によってストレスを解消や緩和することができることになる。
このような変異は遺伝子のエラーを何万回繰り返したとしてもできるものではないと推測する。形質の変異は単に姿かたちや色彩のみならず、その形質を裏付ける身体内部のタンパク質や酵素までもが伴わなければ形質の変異は成り立たないであろう。それは偶然やエラーなどの一過性の間違いで可能なことではなく、それぞれの時代を生きた生物の細胞脳の思考に基づいた創造による変異というべきではないだろうか。
このことはストレスや欲求を解消や緩和するのに形質を変えることなく、知恵によって解決している多くの生物がいることは、エラーによるものではないことを示しているであろう。さらに、自らの意思を表現する頭脳を備える動物のみならず、意思表示の頭脳を備えないとされる植物も同じように適応進化している。このことから、頭脳は機能分化した多くの器官を維持管理することや、外部情報による速い判断をすること。さらに、進化を必要とする情報を提供したとしても、頭脳は自ら進化を実行できるものではない。
ここでは「進化の変異は生物の思考と創造によるとしてきたが、その思考と創造とは頭脳によるものではなく、細胞脳による思考と創造」である。なぜなら、頭脳を備えた動物も頭脳を備えていないとされる植物も極めて近似の思考や創造をすることができ、似たような変異を可能にしている。
これまで生物を紹介するとき、動物と植物を組み合わせるように説明してきた。これは頭脳を備えた動物と頭脳を備えていないとされる植物の思考形態が極めて近似のもので、変異の思考と創造が同じ基礎のうえに成り立っているとしている。もしも、動物が頭脳によって変異の思考するとなると、植物に頭脳はなく動物に類似の思考はできないことになる。
このことから、頭脳は変異について動植物共通の思考基準に該当しない。そこで動物や植物に共通する思考体が存在する必要があるとするもので、それが細胞脳ということになる。動物に備わった頭脳の思考とは、外部情報を基にした判断レベルに近似である。それに比べて細胞脳の思考は極めて複雑な遺伝子システムや生殖システムなど生物の根幹をなす思考で、遺伝子の一部を書き換えることで生物の形質までも変えることができる。
遺伝子と発現の間の介在
生物の細胞はDNAを複製し、細胞分裂によって増殖し、発生では遺伝子情報に基づいて機能分化する。そして、代謝では自ら必要とするものを作り出している。これまでこれらのことは総て遺伝情報としてプログラム化されていて、スイッチが入るとされてきた。生物としての根幹をなす発生過程の多くはそうであったとしても、遺伝情報の総てではないと推測する。そして、それらはプログラム通りではなく状況によって適時適切に対応しているであろう。
なぜなら、発現スイッチがプログラムされているとすると、同じ遺伝情報を備えていることは体質も病気も総てが遺伝情報に従うことを意味している。しかし、遺伝情報の中には発現するものと発現しないものとがある。このことから、物理的遺伝情報と発現の間に何らかのものが関与する要素が備わっているとするもので、そこで関与する要素とは環境や思考による余地が残されていると推測する。
たとえば、遺伝子の中には節約遺伝子や浪費遺伝子なるものが存在するとされるが、総てが遺伝子通りになるわけではない。節約遺伝子を備えていても総てが肥満になるのではなく環境によってスリムを維持できる。ここでの環境とは生物個体の生活が自制型であるか放任型であるかによるもので、これは生物個体の意思や思考ということになる。
この意思や思考によって遺伝子を備えていても発現することもあれば発現しないこともある。同様に、たとえガン遺伝子を保有していたとしても節制によっては必ず発病するものでもない。逆に、遺伝子としてプログラムされていなくても、ガンを呼び込むような喫煙や飲酒や不摂生を継続することで発病するものもある。これは病気について述べたものだが、病気に限るものではないと推測する。
すなわち、「生物の変異は総てが遺伝情報だけで決定するものではなく、環境や思考機能が関与することのできる余地が確保されている」とする。だからといって遺伝子から逸脱して無制限ではなく、基本は遺伝情報にある。だから不変性が維持されているのであろう。そして、この一連の過程を行なうことができる細胞を備えたものを生物としている。
DNAに内蔵された遺伝情報に従ってさまざまな種類の生物に成長することそのものが知的行為で、このようなことは無生物にはできない。生物は細胞そのものが知的要素というべきもので、生物にとって知性のために頭脳がある必要はなく、細胞の集合体である生物は知性の集合体ということができる。そのため、人が定義するような形態的な頭脳がなくても思考や創造することが可能ではないだろうか。
レベルの異なる思考の共通性
人の社会では誰かが新しい技術を開発すると、私たちは自分が考えたものではなくてもその技術の恩恵を享受することができる。このことは地球上で総ての人に共通の問題が発生したとき、総ての人の中から誰か一人が解決策を見つけることができるか否かである。
これは遭遇するストレスに対して、一人で解決しようとすると解決策は皆無に等しくなり、結果として解消できずに滅びることになる。しかし、一つのことを膨大な数の頭脳によって思考することと、それらの問題を専門とする人材によって解決策を見つけることができる。これは体外技術によるものだが、同様のことが体内技術でも行われていると推測する。
人では60兆個の細胞があり、それらの細胞にDNAが備わっていることは、この60兆個のメンバーは同じDNAの基礎情報を共有した運命共同体の頭脳集団(細胞脳集団)とみなすことができる。これだけの頭脳集団によって共通認識の対応策を必要とするとき、たいていの問題は解決されることになる。いい換えると、地球上の65億人の総てが頭脳集団研究所の研究員で、そのような地球が1万個集まったものが人の身体であったとしたら、たいていの問題は解決できることになるであろう。
もちろん60兆個の頭脳集団は人の細胞数であるから、生物種によっては細胞の数が人よりも多いものも少ないものもいるが、多細胞生物の細胞の多くは数億から数十億個であるとすると、地球人口と近似の運命共同体の頭脳集団となり、単細胞生物が一人で考えることとは桁違いに豊かな思考ができることになる。これが原核生物に対して真核多細胞生物が多様性を可能にしている所以ではないだろうか。そこでストレス解消可能な手段を考えると、その技術は他の細胞脳も享受できることになり、人では65億の中の誰か一人が考えた技術を世界中の人が享受できることと同じである。
従来論では継代時の遺伝子のエラーが進化の変異につながるものとされ、これは生殖細胞に限定されるもので、体細胞がエラーしても何の進化にもつながらない。体細胞の数に比べると桁違いに少ない僅かな生殖細胞が、継代時の間違いによってストレスを解消できる機能に遭遇することは皆無に等しいのではないだろうか。
多細胞体のDNAは総て同じでも、それぞれの細胞は機能分化による違いで細胞の種類によって日常作る代謝産物はそれぞれ異なり、ヒトでは細胞種は200以上あるとされている。これは65億の人の職業が異なり、それぞれが専門とする分野で活躍するのと同じで、中には機械技術者,科学者,化学者,経済学者,法学者,芸術家など200以上の専門家がいることを意味している。さらに、一つの生物体の何処に位置するかによって日常の環境も異なっている。これは居住場所が地球上の低緯度か高緯度かの違いや、都会か田舎かの違いがあるように。
これらによって同じDNAの細胞でも、それぞれの細胞種のストレスを生殖細胞だけで考えることは不可能にしても、日常生活でさまざまな代謝活動や制御活動している体細胞の細胞脳では、通常活動の延長線上や拡大利用することは、単に体細胞脳の数が生殖細胞脳に比べて多いだけではなく、細胞種の違いや置かれた環境の違いでそれぞれ異なった思考が可能となり、ストレス解消の解決策を見いだす可能性が桁違いに増加することになる。
これは多細胞生物が単細胞生物と違って桁違いに多様性を備えている要因の一つであろうし、大多数の多細胞生物のさまざまな機能がそれぞれ環境に適応できている所以ではないだろうか。このようなことは間違いで環境に適応した機能にはなり得ないであろう。進化の変異とは生物の意思や思考による知的創造物に他ならないのではないだろうか。
このように解決できるか否かは思考能力にもよるが、思考する数が多いからといって総てのストレスを解消できるものではないし、問題発生と同時に即刻解消できるものでもない。短期間で解決できる容易な問題もあれば、解決までに相応の歳月を必要とするものもある。この歳月が次なる変異に要する期間となる。ここまでは体細胞の段階であるが、解決されたときの情報が生殖細胞に伝達されると、後の世代からはストレスを回避することのできる機能を備えて誕生することができる。これによって多細胞生物はさらなる多様性を備えることになる。
進化の変異
これまでの進化の変異とはその多くがヒトの機能能力を前提に尺度基準し、ヒトを中心とした真核多細胞生物の観察から類推した。中でもヒトが属する動物の動物行動学によって説明するものを多く見ることができる。これは分類上近似であるからヒトが理解し易いだけで、動物行動学によって説明されたことは限定的生物の特徴を示すもので総ての生物に適応できるものではなく、生物総ての進化の本質ではなかったというべきではないだろうか。
これまでの進化論が如何なる理論によろうとも、それらの理論の正誤にとらわれることなく生物は変異してきたし、進化してきた。それはそれまで存在しなかった新たな機能を作るもので、それまであったものが進化したり退化するだけではなかった。さらに、有性生殖や真核多細胞生物に限定されるものでないばかりか性とは縁のない原核生物も存在して、それらの生物総てがこれまで進化の変異をしてきたのである。
そして、それらは人が頭脳で思考する以上に遥かに知的で優れた文化を備えたものとなっている。だから数十億年の命の継代が可能で数千万種の多様性が可能になった。このようなことは遺伝子のエラーが累積したことでできるものではなく、思考による創造によってのみ可能なことではないだろうか。
生物は真核生物に限らず原核生物であっても、生物に備わった細胞脳の思考による創造で新たな変異が創造されて進化したであろう。もしも、このような細胞脳が存在しないと、進化の変異は従来の疑問や矛盾を将来に渡って解決することはできないであろう。
ここではヒトを始めとして動物に思考や文化があるならば、植物にも思考や文化は備わっているとしている。そして、植物の体内物質の多様性、中でも二次代謝産物は思考豊かな知的創造力による文化であるとしてきた。従来多くの人々は思考や文化というと直に頭脳と直結する。しかし、生物には頭脳以上の細胞脳があることで、たとえ頭脳を備えていなくても思考や文化を備えることができると考えている。
ここでは細胞脳の考え方が断固正しいと主張するものではない。なぜならば、細胞脳は机上の空論で、これを何万回か繰り返し累積すると新たな理論になるというものでもない。この細胞脳は考え方の一つで、これを正しいと主張するならば実験で得られたデータで示すしかないことは言うまでもない。
見かけの技術で満足するヒト
生物には進化の優れた手段が備わっている。その手段を利用することでたとえ環境が変化しても地質年代に相当する何億年の歳月でも継代し続けることができる。昆虫の多くは生態システムを細胞脳で理解して体内技術によって擬態や変態までも可能としている。これによって昆虫の多くは数億年もの間継代し続けることができ、生物種の半数を超える多様な種を輩出している。
一方、ヒトは頭脳による体外技術で安易な見かけの技術で満足している。「人は考える葦である」などというが、人が考えていることは思考よりも判断に近いものではないだろうか。さらに、技術は細胞脳を基本とした体内技術ではなく、頭脳による体外技術である。そのため、自動車を走らせることやテレビに映像を映すことはできても、生態に関する技術についてはその方向性さえ見えていない。
たとえば、何の変哲もない芋虫が美しい羽を備えた蝶になることさえも解明されていない。これは生物に備わった生態システムから乖離して見かけの変化で満足をしている。それらは洋服を着る、化粧をする、フィクションに心を酔わすなどで、これでは人が何万年継代したとしても地質年代の期間に渡って存続する技術にはなり得ない。
これら見かけの満足ではどんなにすばらしいものを作っても、人に備わる遺伝子は何一つ変化するものではなく、進化には値しない一時的な見かけの欲求解消にしかならない。ロボットが存続し続けるには現代の体外技術でよいが、生物の一員として人が存続するためには細胞脳に立ち返り、思考方法から改めないと生き残り続けるための進化ができないであろう。
人が進むべき方向とは地質年代に対応できるヒトの進化ではないだろうか。現在の体外技術は進化ではないし、進化できない種は容易に消滅する運命にあることは生物の歴史が語っている。進化とは環境に適応する手段である。同時に、自らを促進し抑制する手段で総ての生物に平等に備わった極めてハイレベルのシステムではないだろうか。
このシステムを理解して自らの技術の一部として利用することができたとき、化粧や刺青をすることなく自ら望む姿かたちに変異させることも可能になるであろう。これには極楽鳥にさまざまな彩色を施したものや優雅な飾り羽を備えることを可能にしている。同様に、一部の昆虫が擬態によって目的対象物に瓜二つに変身することにもつながる。
地質年代に及ぶ地球には大きな環境変動が何度も訪れたことと、そのたびに莫大な数に及ぶ生物が死んでしまうことも過去の歴史からわかっている。考えるべきは如何なる環境変化が起きようとも、柔軟に進化の変異が対処可能な能力を備えることではないだろうか。
地殻変動や隕石の衝突によって多くの生物が死んでヒトが死んでも、数百年か数千年後に再びヒトが甦り、他の生物も甦させることのできる技術が必要ではないだろうか。たとえば、古代ハスでは千年以上も土の中に埋もれた状態の後に掘り起こされると発芽して成長できるものがある。さらには、ミジンコのような技術が生物のヒトとして備えるべき技術ではないだろうか。
細胞脳は何処にある
生物には頭脳以外に思考可能な場所があるとし、ここではそれを細胞脳としている。前記では、細胞脳とは細胞の一部に存在して意思表示や知的な思考が可能なところとしている。しかし、真核細胞のサイトゾルには核やさまざまなオルガネラがあり核にはDNAがあるが、細胞の中の何処を見渡しても細胞脳なるものは見当たらない。ましてや原核細胞では核さえも見当たらない。そのような細胞の何処に細胞脳があるのか。
そこで細胞脳が何処にどのような形で存在するのか説明する必要がある。結論から先に述べると、ここでいう「細胞脳とはDNAの立体構造による二次的機能」としている。タンパク質が高次構造を形成することで特有の機能を発現するように、RNAも立体構造によって特有の機能を発現するとされている。このことから、DNAも立体構造によって特有の機能を発現すると推測している。ここでいう細胞脳とは臓器のように物理的に機能分化したものではないから、細胞中のオルガネラのような形態のものではなく、DNAが立体構造を形成することによって発現する二次的機能としている。
タンパク質はアミノ酸配列が置き換わることで機能が変化するが、そのタンパク質の機能が発現するのは高次構造になったときで、一次構造のペプチド鎖にはタンパク質の機能は備わっていないとされ、RNAも機能が発現されるのは立体構造を形成することによるものとされている。RNAには何種類ものタイプがあり、タンパク質の種類になると無限とされるほどである。
これらに比べるとDNAの形態は一種類である。細かく分けると原核細胞と真核細胞とでDNAの立体構造は若干異なることから、厳密にいうと二種類のタイプとしても、そのDNAがタンパク質の高次構造やRNAの立体構造のように、らせん構造を基本とした立体構造を形成することは、それによって必要とする機能を引き出す目的があると推測する。
これまでDNAは遺伝情報を蓄積するものとされていたが、それは塩基配列によって物理的に備わるもので、この塩基配列は立体構造を解いても保存されている。すなわち、タンパク質のポリペプチドの一次構造と同じ条件である。ここで重要視するものは、DNAが立体構造を形成したときにポリヌクレオチドの物理的塩基情報とは別の機能が生じるであろうとしていることで、その機能が思考能力ということになる。これらから、生物が思考するのは頭脳に限定したものではなく、細胞核の中に収納したDNAの立体構造による機能としている。
これまでタンパク質の高次構造やRNAの立体構造による機能が研究されてきた。しかし、DNAについて立体構造による機能は語られることがなかった。その理由は、長いDNAは小さな細胞や核に収納するためにはコンパクトに折りたたむ必要があるとしてきた。さらに、DNAには生物にとってもっとも重要とされる遺伝情報の塩基配列が存在することで、DNAが存在する最大の要因がこの遺伝情報としたことである。
生物にとってこれほどまでに重要な機能を発見したことで、それ以外の機能が存在するとはしなかった。しかし、ここではDNAの塩基配列はタンパク質のアミノ酸配列の一次構造に相当するもので、タンパク質の高次構造やRNAの立体構造に機能が備わるならば、タンパク質やRNAにもっとも近縁なDNAの立体構造にも機能があるのではないかの推測をする。
さらに、DNAに生物として欠くことのできない遺伝情報の機能があることは、DNAが備えるであろう二次的機能はその遺伝情報に関連するもので、同等に重要な機能が存在すると推測することは特別のものではなく、生化学での考え方の一つとしてはどうだろうか。
ここで二次的機能としているのは、塩基配列のように固定的に備えるものではなく、一次としてのエネルギーを供給したときに限り、DNAの立体構造から機能が引き出されることを意味するもので、たとえDNAが立体構造を維持していても、エネルギーが供給されないと二次的機能の思考能力は生じないとしている。すなわち、エネルギーの一次に対する二次的機能の意味である。
DNA構造の目的
これまでDNAの働きは大きく二つあるとされている。その一つはDNAの保存であり複製である。これによって生物の種が維持される。もう一つはDNAの一部の遺伝情報をRNAにコピーする。これによって生物が生きるのに必要な代謝ができる。この二つが生物の日常生活と継代を可能にしている。これについて角度を変えてみることにする。
DNAの目的の重要な部分を占めるものに遺伝情報の保存がある。遺伝情報の塩基配列を安定的に保存するための対策が二本鎖になる。一本鎖のRNAでは変性し易いが、DNAを二本鎖にすることと、その二本鎖が相補性の塩基対を備えることで変性し難くし、安定的に保存できる形態が採られている。
このことは一本鎖のRNAの中でも自らの塩基の中での相補性の塩基配列を探して、部分的に対を作るものもある。これが意味することは、一本鎖と二本鎖のそれぞれが持つメリットとディメリットが認識されているのであろう。それに基づいてDNAでは目的である遺伝情報の安定的な保存に合致した二本鎖が採用されていると推測する。
次に複製と複写について考える。複写ではDNAの一部の遺伝情報をRNAにコピーするが、コピーするのは一本鎖で大きな問題はなく、問題は複製である。DNAの複製では二本鎖に組み合わさったものを解き、その二本鎖を鋳型にしてそれぞれの相補鎖を作る。結果として、四本二対のDNAにするとされている。
このとき問題になることが、DNAの二本鎖の進行方向が逆向きになったアンチ・パラレル構造である。DNAの流れは5´から3´に向かって流れるため、5´から3´へのリーディング鎖については通常の複製が可能であるが、3´から5´へのラギング鎖については流れに逆行して複製することになる。
このため、通常の複製ができずに、複製に際して先へ飛んで逆走するという特殊な方法を採らざるを得ないことになる。この逆戻りの面倒な工程を繰り返してそれぞれをつなぎ合わせる複雑なプロセスをたどる。いわゆる岡崎フラグメントである。これによってラギング鎖はリーディング鎖に比べると、エラー頻度がおよそ10倍に達するとされている。
DNAの二本鎖がアンチ・パラレル構造している理由について、もしも、二本鎖がパラレル構造であると、相補対の塩基が同一方向に手を伸ばし水素結合ができないとされている。そのため、一方の鎖を逆向きにすることで塩基の水素結合が可能になる。
ここで一つの問題がある。それではDNAがなぜ二本鎖にしたかである。一本鎖では塩基が変性し易いが、二本鎖の相補性の塩基対にすることで塩基を安定させることができるとしている。しかしながら、二本鎖アンチ・パラレル構造にすることで、複製に際して片方のエラーが10倍にも及ぶことは、塩基の安定保存である相補性の塩基対のメリットまでも打ち消すことは本末転倒である。アンチ・パラレル構造にする理由とは水素結合の手をつなぐ目的だけであろうか。これは遺伝子システムが備える方法とは考え難い。
ここでタンパク質を構成するアミノ酸について触れてみることにする。アミノ酸では側鎖のつく方向が反対のものがあり、鏡像異性体が存在する。これによってアミノ酸にはL型D型の左右異なる鏡像異性体が存在する。生体を構成するアミノ酸はL型が使用されているものの、この鏡像異性体の考え方は有機化学の考え方の中には存在するとされている。しかもDNAにもっとも身近なアミノ酸にこの考え方が存在する。
このことから、DNAの二本鎖が鏡像異性体の構造を採用していたなら、DNAの複製で一本の鎖はノーマルに進み、もう一本の鎖は先へ飛んで逆戻りのアブノーマルなことをすることなく、岡崎フラグメントも必要とせずにそれに伴うエラーの発生も防ぐことができ、二本鎖の相補性の塩基対にしたことの理由が理解できる。
もしも、鏡像異性体の考え方が最初からないならば仕方ないとしても、もっとも身近なアミノ酸に鏡像異性体の考え方があるにもかかわらず、さらに、この鏡像異性体の考え方が、DNAの塩基配列の正確な保存と複製の二本鎖において有効な手段である。それにもかかわらず採用しなかった。無駄なことや非効率なことはしない遺伝子システムが、10倍のエラー発生というリスクを覚悟してまでアンチ・パラレル構造にこだわったのは何を考えてのことであろうか。
このことから、アンチ・パラレル構造にはDNAの目的とされている遺伝子の保存や複製とは別の目的が存在すると推測できないだろうか。そして、そのものが遺伝子の保存や複製よりもプライオリィテーが高い。それゆえ、複製に際して逆走のリスクを甘んじて受入れざるを得ないのではないだろうか。
DNA情報の循環と方向性
生物誕生の歴史の中では初期にはポリヌクレオチドもさまざまな結合がなされ、パラレルに類似のものもあったであろう。しかし、パラレルではDNAが機能を備えることはなく価値を見出せなかったと推測する。何を言いたいか。それはポリヌクレオチドの塩基配列による物理的遺伝情報以上に、DNAがアンチパラレルにこだわったことは循環ではないかと推測する。その循環の目的には二つある。一つは外部からの環境情報の循環による情報の更新であり、もう一つはエネルギーの循環による思考能力の機能発現である。
現代産業の象徴である電気製品では、さまざまな機能を備えた部品を配置する。同時に、エネルギー供給である電池を配置してそれぞれを繋げることが必要となる。そして、電気製品の機能を得ようとするときにはスイッチを入れる。それまでスイッチの部分で接続が切れていたものがつながることで、電池に蓄積されたエネルギーが循環する。電流は流すのではなく循環させることで電気製品としての機能を生じることになる。
ここで循環についての理解を容易にするために喩えを示したい。物の流れや情報の流れについて考えるとき、鉄道システムが理解を助けてくれる。一般的に、鉄道は上下二車線によって構成されている。その上下二車線には長距離列車が運行し、その長距離列車の合間をぬって地域内を行き来するローカル列車が運行する。
利用者は目的に応じて長距離やローカルを乗り継ぐことにで目的地に行くことができ、物の輸送も可能になる。さらに、長距離もローカルも上下二車線を往き来することで大小さまざまなループの組み合わせができる。これによって何処から乗っても最短時間で到達することができる。
次に、このシステムに情報が流れたとしよう。何処で発生した情報でもあってもこのシステムに供給すると、目的は一ヶ所であれ複数箇所であれ最小時間で情報を伝えることができる。このシステムの成り立ちは上下二車線よるもので、この二車線はアンチ・パラレル構造によるもので、決してパラレル構造になってはいない。もしも、二車線がパラレルで同一方向に向かっていたなら列車は運行できなくなり、情報は循環できないものになってしまう。
さらに、鉄道と情報について考えたい。鉄道には紐状形態の東海道線や東北線がある。一方、山手線のように環状形態のものも存在する。両者の何れもが上下二車線のアンチ・パラレル構造になって機能を果たしている。紐状形態では東京を出発して下り線を走り終点の大阪に到着すると、今度は線路を変えて来たときとは別の上り車線を走ることになる。これによって列車は上下二車線の両方を走ることによって往復することができる。
これに対して、環状形態では内回りと外回りの二車線があり、同じ東京駅を出発しても内回りの電車は内回り線を何度も周回するものの外回りの線路を走ることはない。同様に、外回りの電車も内回り線を走ることはない。同じアンチ・パラレル構造でありながら紐状形態と環状形態では電車と情報の流れは異なる。ここで東京と新橋の間で事故が発生したとすると、外回りの電車は東京駅に到着後に線路を変えて内回りの電車として、これまでとは反対方向に走ることになる。この事故が発生したときの運行が東海道線と同じ紐状形態となる。
次に、線路の枕木の一つひとつに情報が記録されて、列車の進行方向に向かってその情報を読み解くことができるとすると、紐状の東海道線では一つの列車に乗って一往復すると、枕木に記録された上下二車線総ての情報を読むことができる。しかし、環状の山手線では一つの電車に乗り続けて何回周回しても、枕木に保存された情報は半分しか読むことができない。一方、線路の両側の景色は日ごとに変化する場所と、いつ見ても変化しない場所とがある。これは人が作り出したシステムであるが、この鉄道システムを頭の隅に置いて再び遺伝子システムに戻りたい。
生物の遺伝子システムでは、原核生物と真核生物の二つのタイプが存在する。生物の起源を考えるとき原核生物が先に誕生し、後になって真核生物が誕生したとされている。それぞれのDNAの形は何れも二本鎖のアンチ・パラレル構造で共通しているが、原核生物が染色体の数が一本で環状タイプであるのに対して、真核生物は染色体の数が複数本で紐状タイプをしている。さらに、環状タイプと紐状タイプについての一つの推測は、先に誕生した原核生物の環状タイプDNAに事故が発生して切断され、環状タイプから紐状タイプになったと推測することができる。
原核生物のときの情報は環状のため片側のみの認識で情報が共有されていなかったと推測できる。これに対して、真核生物の情報は紐状のため情報は両方向が入り混じり共有することができたと推測できる。これは上下二車線の進行方向の異なった線路の枕木に記録された情報の解読に相当する。
一方、通勤で見る車窓からの景色のように、工事やビル建設によって日ごとに変化する景色がある。一方、何年も変化しない田園風景もあるように、DNA全体では塩基の変化が発生し易い部位もあれば、長い歳月に渡ってほとんど塩基の変化が見られない部位も存在する。
DNA二本鎖が情報の保存と複製だけではなく、複製以上にプライオリティーの高い目的が存在するとき、それは情報の循環と方向性ではないだろうか。もしも、二本鎖がパラレル構造であると情報の保存と複製には最適であるが、循環することができない固化したものになってしまう。すなわち、生きた情報ではなく死んだ情報になってしまうであろう。
生物は毎日変化する環境の中で自律制御や意思制御によって生活していることから、生体内には持って生まれた情報以外に、日常の情報が循環することで成り立っている。それら循環する情報の中から必要とするものは上書きされるもので、それら上書きされたものは新たな情報の一つとして次世代に引き継がれるであろう。これらの環境情報は生存中のDNA情報が固化したものではなく、新鮮な情報が循環していると推測する。
これまで遺伝情報はタンパク質を作ることや、生物の形質を決定するもので獲得形質は遺伝しないとされてきた。このことから、生存中にDNAは変化しないものとされ、親から受け継いだものをそのまま子孫に伝えるとされている。唯一、世代交替のときに限りDNAの複製で間違いが起こり、その間違いによって新たな形質が発現するものとしている。
しかし、これではDNA上での情報の循環は必要ないもので、環境の変化に適時適切に自律制御や意思制御さえもできなくなるであろう。さらに、このDNA情報が固化した形態では、DNA二本鎖はアンチ・パラレル構造にする必要はない。しかし、生体内には絶えず情報が循環しているし、このことは同様に細胞の内外でも情報が循環しているであろう。このことから推測すると、細胞核内のDNAの中でも情報が循環していると推測する。このような流れがあることで分裂のための複製が行なわれることや、RNAへの転写ができるのではないだろうか。
DNAでの情報の流れは5´から3´に向かって流れるとすると、情報を循環させるためには二本の鎖は流れの向きを逆方向にすることで初めて情報を循環させることができる。情報によってはDNA総てを流れる全域情報と、類似遺伝子上を小範囲で循環する地域情報とが循環していて、次から次へと情報が循環するにはDNAの構造はパラレルであってはならず、アンチ・パラレルが必要であった。
無駄なことや非効率なことはしない遺伝子システムが、複製の逆走によってエラーの発生し易い岡崎フラグメントの処理で、発生するエラーリスクを覚悟してまでもアンチ・パラレル構造にこだわったプライオリィテーの高いものがあったとすると、それは情報の循環であり、エネルギーの循環が必要であったことを語っているのではないだろうか。それを可能にしたのがDNAに備わる5´から3´への方向性であろう。
このことは、DNAの二本鎖は両親からの情報を固化した状態で保存と複製や転写することが目的ではなく、常に情報を循環させて更新するか否かを思考することが前提に備わっていたであろう。そして、この情報とエネルギーが循環することは、情報の保存や複製以上にプライオリティーが高かった。
伝統工芸の説明を思い出していただきたい。伝統工芸品を保存するならば美術館に大切に保管すれば長期に渡って保存することができる。しかし、伝統工芸品ではなく伝統工芸を残すならば美術館に保管するのではなく、工芸技術者が継承して後世に渡って工芸品を作り続けることが必要である。もしも、DNAが従来からいわれるものであると、複製や代謝は可能であるから世代交代はできるが、ホメオスタシスのような制御ができないばかりか、伝統工芸のように進化の変異ができないのではないだろうか。
このことから、遺伝子システムは固化した情報の保存と複製や転写ではなく、生きた情報の循環による更新と保存や複製とするもので、何よりもエネルギーの循環によって思考能力を備えるものと推測する。すなわち、生物には生体内にも細胞にもDNAにも最新情報が循環されていて、その情報を基にして最良の手段を思考したものの一つが変異の発生と考えている。
このことが大部分の生物が適応進化といわれる所以であろう。このことから、環境の変化を配慮しない目的のない突然変異から適応進化は起こらないし、あってはならないとするもので、ましてや擬態のように目的対象物が決まった変異が思考や目的なくして発生することは、万に一つもあってはならないと考えている。
生と死のはざま
DNAには生物固有の遺伝情報が保存されている。そのため、生物の身体の一部であれば毛根や血液からでも遺伝情報を解読することができる。これは生体についてであるが、生体ではなく死体からでも遺伝情報は解読することができる。その意味から、これまでDNAの情報は常に固化した状態で保存するとされてきた。しかし、ここではDNAを固化したものとは考えてはいない。
生物にはそれぞれ決まったDNAが備わっている。そのDNAにはエネルギーが供給される。同時に、情報も供給されているとするもので、それらの情報は必要に応じてDNAの情報を上書きできるとしている。生きているときエネルギーと共に供給していた情報も、死を迎えるとエネルギーが供給されなくなり、それに伴って情報の供給も停止する。この情報の停止した状態が以後の死体に保存されているDNA情報となる。
これまで遺伝情報は両親から受け継いだものをそのまま子孫に受け渡すもので、この遺伝情報は自らの世代では変異するものではなく、世代交替時に遺伝子のエラーによって一部が変異するものとされてきた。すなわち、世代交替での間違いさえなければ変異しない固化したものとされている。しかし、ここでは遺伝情報に関して、生体と死体には明らかな相違があると推測している。
生体のDNAの遺伝情報は固化したものではなく、常に最新の情報が循環している。循環の過程で一部の遺伝情報は新しい情報によって古い情報が上書きされることがある。これに対して、死体のDNA遺伝情報は循環していた情報が停止し、停止時の遺伝情報が固化した状態で残されているとみなす。
このように環境の変化によって情報が上書きされると、日常の総ての変化を書き換えるように想像するかも知れないが、頭脳と細胞脳の時間的スパンは大きく異なっている。このことは私たちが暑いとか寒いとかや明日はこうしたいというようなものではなく、生物として長い世代を継続できるようなレベルの考え方に基づいた思考がなされ、それに該当する情報が上書き更新されるとするもので、情報が循環するからとめったやたらに更新するものではない。
さらに重要なことは、それらの情報を更新するか否かの判断が如何にされるかである。ここでの判断にも思考は欠かせない。このことは継代によってDNAに如何なる遺伝情報が保存されていたとしても、新たな情報が循環できることと、そこにエネルギーが供給されることが必要である。単なる化学物質の連結や情報が循環できない固化したものであるとき、そこには情報を上書きするか否かの判断のための思考能力さえも発生しない。
媒体の創造
生物が生物である基本とは、存在するものから新たなものへの機能の変換ではないだろうか。ある媒体にエネルギーを供給したとき、通常の化学変化ではない異質の機能を生じるとき、そのプロセスこそが生命体としての生物の根幹ではないだろうか。それは自力活動であり、自己認識であり、思考能力の類と考える。
そこで必要なものはエネルギーであり媒体である。さらに、エネルギーはどのようなものであっても、利用可能なエネルギーから目的とする機能に変換をするための新たな媒体を創造する。そこで創造されるものは酵素や特定のタンパク質ということになる。
このようにあらゆる機能はその媒体を創造することで可能となるのではないだろうか。それらの媒体を始めとして総てを産みだすもっとも基本となる媒体が思考能力になる。すなわち、「生物としての基本となる思考能力を可能にする媒体がDNAらせんの立体構造」によるものとしている。
DNAはこれまでいわれている物理的遺伝情報の保存のみならず、らせんを繰り返すDNAの立体構造は、機能媒体として現段階では物理的に計測することのできない思考能力が備わっていると推測する。このことについて以後さまざまな角度から考えることにする。
この媒体の理解を容易にするものとして現代の科学に触れることにする。ラジオから流れる音は物理的に叩くことで音を発生させるのではなく、電気の流れを振動に変換している。このことはテレビや自動車についても同様である。これらはあるものの変化ではなく、異質のものへの変換である。そして、それらを可能にするには変換するための新たな媒体が必要となる。それはテレビでは液晶装置であり、自動車ではエンジンである。それらの媒体ができたとき異質の機能変換が可能になる。
それではこの媒体は如何にしてできるのか。それらは人の思考によってのみ作られるもので、それ以外の方法の偶然や突然の事故によってできるものではない。これまで人がさまざまなものを作り産業革命やIT革命といわれることをしてきた。これらは体外技術であるから生物進化の変異にはあたらない。しかし、これらも通常の化学変化に相当するものではなく、新たな機能を可能にするための変換ということができる。
これを前提に生物の変異を振り返ると、事故の変異はそれまで備わっていた機能の破損や喪失で、一過性の突然変異であっても事故は発生し得る。しかし、進化の変異は新たな機能を得るために媒体を創造することで、そのためには媒体を創造することのできる思考能力が不可欠である。それらは現代科学のように思考によって初めて可能になるもので、後先が関係しない一過性の突然変異で目的のある媒体を創造することは不可能であろう。
ヒトの細胞種は200種を超えるとされている。これらは有史以来あらゆる生物によって目的とする機能がその都度一つずつ創造されて、累積されたものが今日に至っている。たとえ小さな携帯電話の一つでも、数多くの機能部品が揃ったとき電話としての機能を発揮するように、生物の形質も数多くの機能媒体が揃ったとき新たな形質を備えた生物種が形成される。それに関与する総ての媒体は、目的に合わせて知的創造されたと推測すべきではないだろうか。
DNAが超らせんを作る目的
今日では、DNAといえば誰もが二重らせんと答えるように、DNAの二重らせんと立体構造は認知されている。これはタンパク質の高次構造やRNAの立体構造に類似するもので、真核細胞のDNAの立体構造は超らせんと呼ばれている。しかし、なぜDNAが超らせんを形成する必要があったのかとなると、それについて語られることは少ない。語られるときには、DNAはことのほか長い、その長いDNAを小さな核に収納するためにコンパクトに折りたたむ目的でこのような超らせんを形成したとされている。はたしてそうであろうか。ここではDNAの超らせんには収納することとは別の目的があると推測している。
最近ではタンパク質の高次構造が如何なる形をしているかの構造解析が盛んであるが、緒についたばかりで多くの解析はこれからとされている。タンパク質は種類が多くて総てを解析することは困難とされるが、タンパク質は高次構造の違いによってさまざまな機能が備わる。
タンパク質とRNAはDNAと密接な関係にあり、その中のタンパク質の高次構造とRNA立体構造の機能は注目されるが、DNAの超らせんの機能については語られることはない。それはDNAがタンパク質やRNAのように複数の種類が存在しないためと想像する。逆説的に推測すると、タンパク質やRNAが複数存在することは、それぞれが目的の異なった機能を保有するもので、そのように異なった機能がないならば数多くの種類が存在する必要がない。
そして、現実にタンパク質やRNAは種類の違いによって目的の異なった機能を保有する。この結果、一種類しかないDNAは機能を保有しないとした。というよりは、DNAでは遺伝情報の塩基配列を発見したことにあるのではないだろうか。この遺伝情報が生物にとって必要不可欠のもので、タンパク質やRNAが備えた機能以上にDNAの存在目的が認識されてしまった。そのため、それ以上の目的意識を欠くことになった。
しかし、タンパク質の高次構造やRNAの立体構造に機能があるのに対して、DNAの塩基配列は物理的情報で、超らせんによって備わるであろう機能ではない。RNAが立体構造によって機能を保有するならば、DNAも超らせんを形成することで機能が備わると推測ことは自然の思考ではないだろうか。それは物理的塩基情報と異なる機能で超らせんを解いたとき消失するようなものである。
それではそのような機能を備えた超らせんとはどのようなものか。真核細胞ではヒストンを介して規則的に何段階にも渡ってらせんやループの折りたたみを繰り返してクロマチンの超らせんを形成する。単にコンパクトにすることが目的であったならばこのような規則性は必要ない。
DNAの超らせんは小さな核に収納することが目的ではなく、他に意図する目的があって超らせんを形成したと推測する。その意図する目的がタンパク質の高次構造やRNAの立体構造のように、DNAの超らせんによる新たな機能を求めたとしている。なぜなら、もしも、DNAが小さな核に収納するためにコンパクトに折りたたむならば、らせんを基本とした超らせんにこだわることなく如何なる形状であっても小さく圧縮すれば事足りる。
さらに、DNAは長くつながったポリヌクレオチド鎖を生涯に渡って折りたたんだ形態を維持すればよいのではなく、DNAの複製や転写に際してその都度超らせんを解くもので、何段階にも渡ったらせんやループを解いたり、再び超らせんに戻したりを繰り返す。そのように面倒なことをしてまでも超らせんを維持することは、単にコンパクトにするためではなく「形成する超らせんに本来の目的が存在した」のではないだろうか。このとき、複製や転写のためにDNAをほどいたとき、細胞核からDNAがはみ出してしまうなら目的がコンパクトにすることとしても、このようなほどいた状態でもDNAは核からはみ出すことはない。このことはDNAが超らせんにする目的はコンパクトにするためではなく、他の目的が存在すると考える所以である。
それは超らせんを解いても保存されている塩基配列の遺伝情報とは異なり、らせんを繰り返した超らせんから発現するものに求めるものがあったと推測することができる。すなわち、生体にもっとも影響を及ぼすタンパク質が高次構造によって機能を備えることや、RNAが立体構造によって機能を備えるように、DNAも超らせんを作ることで、通常の化学合成では得ることのできない機能を備えることが目的であったと推測する。
このことは真核細胞の祖先型とされる原核細胞に核はなく、細胞質に核様体の形で収まっている。原核細胞のDNAは真核細胞に比べて桁違いに短く、必ずしもコンパクトにしなければならないものではない。それにもかかわらず原核細胞のDNAもらせんを繰り返すことは単に収納するためにコンパクトにすることが目的ではないと推測する。ここまではDNAの形態について考えた。次に、その超らせんの細部について考える。
タンパク質のポリペプチド鎖はアミノ酸が連結しただけの一次構造は単なる化学結合で、タンパク質としての機能は備えないとされている。αへリックスやβシートの二次構造、さらにはホールディングによって三次,四次構造を形成するとタンパク質としての機能を備えるものとなる。
これとは逆に、タンパク質はアンモニアなどによって高次構造を解くことができる。解いたときそれまで高次構造が備えていたタンパク質の機能は失われる。一方、DNAの超らせんも熱を加えると超らせんが解ける。その後、加えていた熱を除去すると再び超らせんに戻ることができる。このとき熱を加えてもポリヌクレオチド鎖は壊れず超らせんだけが解けるとされている。
これから何を推測するかである。タンパク質の一次構造では機能を保有せずに高次構造になって初めて機能を発現できることは、DNAも超らせんになったとき機能が備わり、逆にDNAの超らせんが解けたときには備わっていた機能は消去されると推測することができる。
たとえば、ゲノム解析のためにDNAの超らせんを解いたときでも、化学結合は壊れず保存されていることで塩基配列は解読することができる。このときDNAが超らせんを形成することで備える機能があるとすると、超らせんを解いてゲノム解析することは、超らせんに備わっていた機能は自ら消去していることになる。このことはDNAが備えているとする機能も超らせんと共に現われたり消えたりすることになる。
これは人為的なものであるが、DNAでは自らの意思で超らせんを形成したり解いたりしている。細胞分裂のための複製やRNAへの転写では一時的に超らせんを解く必要がある。このときDNAの超らせんが備えていた機能は一時的に消えるが、複製終了後再び超らせんに戻ると消えていた機能も復帰すると推測する。
従来ではDNAには塩基配列の遺伝情報が備わるとするもので、複数の機能は存在しないと考えられている。しかし、塩基配列の遺伝情報は超らせんの有無に関係のない化学結合による物理的性質である。それゆえ、ここでは「物理的塩基配列とは別に、超らせんによる機能が存在する」と推測している。
それではDNAの超らせんにどのような機能が備わっているか。タンパク質のアミノ酸配列による高次構造はさまざまである。このため、アミノ酸配列が変わることによるタンパク質の種類は無限で、それぞれのタンパク質が備える機能は千差万別である。これに対して、DNAの構造はただ一つの超らせんで他の形態を採ることがなく、総ての生物が同じであることは生物に共通の機能と推測する。
一方、DNAには塩基配列の物理的遺伝情報が備わっているが、それらの情報は必要に応じて料理する必要があり、遺伝情報に基づいた機能を創造する必要がある。しかし、それらの機能を考えている部位はサイトゾルのオルガネラの中には見当たらない。だからといって目的のある機能媒体が目的のない遺伝子のエラーによってできることは可能とはいい難い。この機能を創造する能力は細胞内の何れかに存在しなくてはならないもので、それがDNAの超らせんに備わっていると推測する。
これによって過去の遺伝情報を継代したうえで新たな環境情報が循環すると、DNAの超らせんに備わった機能である思考能力によって、環境の変化に適応した必要とする機能媒体を創造することのみならず、自らの強い欲求にも知的創造が可能となる。これが目的のある擬態や食虫植物の変異をも可能にする。
もしも、DNAが従来からの遺伝情報だけであったならば、遺伝情報をそのままの状態で継代できたとしても進化の変異は不可能であろう。それは進化の変異の大部分が環境に適応できていて、その適応は知的創造なくして創りだすことは至難の業である。
コイルと磁力
DNAがらせんを主体とした立体構造の超らせんを形成することで、糖やリン酸そして塩基の化学結合による通常の化学的性質ではない別のものを求めるとき、そこには変換による何らかの媒体機能の創造が存在すると推測する。これについて理解を容易にするために喩えを示したい。
電流が一たびタングステンを流れると光が発生し、ニクロム線を流れると熱が発生する。そして、銅線に電流が流れると磁力線が発生する。ここで流れるエネルギーは皆同じ電流であるが、媒体に何を使用するかによって発生するものが変わってくる。
このときタングステンもニクロム線も真っ直ぐであると発生する量は僅かある。そこで直線ではなくコイル形状にすることで、光や熱として利用可能な媒体にすることができる。これによって実用化されたものが電球であり、ヒーターである。同様に、銅線をコイル形状にすると方向性を備えた磁力として得ることができる。
このことは電流を一次エネルギーとして供給すると、コイル媒体に何を関与させるかによって得られる二次的機能が異なることを意味している。さらに、磁力については銅線のコイルを幾重にもすることで磁力を強くすることができる。この磁力の機能を利用したものがモーターであり、逆の構造にすると発電機の機能を備えることができる。さらに、この原理で磁力発生のためにその都度コイルを巻くのではなく、定常的に磁力の機能に特化させたものが磁石となる。この考え方は単に電流と磁力に限定されるものではないと推測する。
たとえば、太陽の光を一次エネルギーとして、葉緑体の媒体を関与させることで糖を作る二次的機能が生じることと同じであるし、その糖を一次エネルギーとして、酵素の媒体を関与させることで運動の二次的機能が生じることになる。
すなわち、電気を一次エネルギーとして、光,熱,磁力などを発生させるさまざまな媒体の中から、必要とするものを有機的に組み合わせることで、デジカメや携帯電話を作り出すことができる。同様に、さまざまな機能を備えた酵素などのさまざまな媒体の中から、必要とするものを有機的に組み合わせることで、多種多様の生物になるのではないだろうか。そこには採取可能な一次エネルギーから異質の二次的機能を得ようとする意図が見て取れる。これによって得られた二次的機能が生物の根幹で、これらの媒体を寄せ集めたものが植物や動物の生物体を形成するであろう。
エネルギーの供給方法とDNAらせんの思考能力発生では、二つの考え方ができる。第一に一次エネルギーを電流として流す磁力発生タイプである。これはDNAらせんにエネルギーを循環することで、磁力に相当する二次的機能である思考能力を発生させる。これとは逆に、第二では流れる電流を二次的機能として取りだす発電機タイプである。これはDNAの廻りに磁力に相当するエネルギーを供給することで、らせんには二次的機能である電流に相当する思考能力を循環させる。
何れの場合としても、DNAのらせん媒体に一次エネルギーを供給することで得ることのできる二次的機能は、化学物質や物理的機能に限定するものではなく、関与する媒体や供給する一次エネルギーによっては「無形態の思考能力さえも得ることができる」とする。
ここで注目すべきは、ヌクレオチド鎖にエネルギーを供給していることで、たとえヌクレオチド鎖が超らせんを形成したとしても、エネルギーを供給しなければ二次的機能は生じない。ここで媒体にエネルギーを供給することは連結されたヌクレオチド鎖によって化学物質を得ることが目的ではなく、化学物質とは異なる二次的機能を得ることが目的であろう。
従来論のようにDNAが備えたものが物理的塩基配列であり、それは固化したもので世代交替時のエラーさえなければ変異することさえないとすると、DNAがすることは複製であり転写である。この複製や転写は促すタンパク質によってなされると消極的な受身でたいしたエネルギーは必要とせず、休眠状態とみなすことができる。
しかし、DNAそのものが多くのエネルギーを必要とすることは休眠状態ではなく、超らせん構造による機能を導きだす自力活動のために多くのエネルギーを必要としていると推測する。このことから、エネルギーの本来の目的はDNAの思考能力の機能発現が目的と推測する。このことはたとえDNAが超らせんを構成していても、生体から死体になってエネルギーの供給が停止すると、複製や転写することはもとより、二次的機能の思考が停止することになる。
一般的に、DNAの遺伝情報は生体のみならず死体からでも採取が可能であることから変異しないと考えられているが、化学的に合成した塩基の物理情報は死体になっても保存されるが、無形の機能はエネルギーの供給されている生体にのみ備わるもので、エネルギー供給の停止した死体では無形の機能は消滅することになる。
さらに、磁力を発生させるときのコイルは単一素材の銅線であるが、ヌクレオチド鎖はリン酸や糖の鎖であり塩基もつながっている。銅線のような単一素材ではないヌクレオチド鎖のらせん媒体に、一次エネルギーが供給されることで得ることのできる二次的機能があるとしたら、それは単に遺伝情報を保存したり転写したりするような消極的な機能ではなく、知的で積極的な機能であると推測することができる。
20種類のアミノ酸を異なる配列によって構成する高次構造から、10万種以上の異なる機能のタンパク質を作ることに比べて、リン酸と糖の繰り返しのヌクレオチド鎖に求めるものとは、タンパク質のようなバラエティーに富んだものとは考え難い。さらに、このヌクレオチド鎖には遺伝情報の塩基が付随していることから、塩基配列の遺伝情報に無関係の機能を備えることは考え難い。このことから、総ての生物に備わる遺伝情報を料理することのできるオールマイティーの機能とすると、思考機能を推測することになる。
立体構造の違いが能力の違い
進化の変異である形質の変異は、本を正せば遺伝子の変異に他ならない。DNAの立体構造に思考機能がないとすると、変異発生の違いは遺伝情報の量の違いだけとなる。しかし、多様な生物が誕生できることや、知的な環境適応能力が物理的情報量の増加だけでできるとは考え難い。一個体一細胞の原核生物の塩基配列が増加して情報量が増えたとしても、一個体多細胞の真核生物にはならないであろう。なぜなら、これは単にDNAの物理的遺伝情報の量が増加したというレベルではなく、システムや知的創造を可能とする機能の存在が必要ではないだろうか。しかし、これまでDNAにそのようなものは存在しないとされてきた。
さらに、真核生物より原核生物が祖先に近い歴史があり、存続期間は原核生物が長いことから原核生物の方が多様性を備えていなければならないことになる。しかし、両者の多様性は逆であるばかりか、桁違いの相違がある。このことは目的のない突然変異がランダムに発生することの理由にはなり得ない。
これまで説明されてきたことは、核やオルガネラの有無についての物理的構造の違いが述べられるものの、それらの違いが多様性に如何に関与しているかの説明にはなっていない。すなわち、生物の多様性が如何なるメカニズムによるかの証明できる理論ではなかった。
それでは視点を変えてみよう。上記で触れた電流からの磁力の発生では、らせんのコイルの巻き数が多いと磁力は強く、供給する電流が多いと同様に磁力は強いものとなる。このことから、ここで考える媒体のDNAらせん構造によって二次的機能の思考能力が変化したとすると、DNAらせんの巻き数と供給するエネルギーの量によって得られる思考能力に違いが生じることになる。ここで真核生物と原核生物とではDNAの構造に如何なる違いがあり、その違いによって生態が異なるか否かである。
真核細胞と原核細胞では、DNAのポリヌクレオチドは共に二本鎖アンチパラレルでらせんを巻くことまでは共通した基本構造を備えている。それ以降、真核細胞は紐状形態している。真核細胞は結合タンパク質のヒストンを介して規則的にヌクレオソームを形成し、さらなるらせんやループの折りたたみを何段階にも渡って繰り返して超らせんのクロマチンを構成している。折りたたまれたクロマチンは核膜に覆われた核に収納することで、さまざまな物質が浮遊するサイトゾルからは隔離保護されて、DNAが必要とするエネルギーに充分満たされた環境とみなすことができる。
通常、DNAのヌクレオチド鎖はことのほか長い。この長い鎖にエネルギーを供給するとエネルギーが途中で減衰することや、エネルギーの強い場所と弱い場所の斑が発生することが推測できる。このようになると安定した機能を得ることが困難になる。
このことから真核細胞ではヒストンを一定間隔で配置することで、長いDNAのどの場所も均等にらせんを作り、多段階に渡ってらせんやループを繰り返すことと、核膜による隔離で必要とするエネルギーの供給が安定する。さらに、ヒストンが結合だけではなく、DNAへのエネルギー供給の安定にも関与しているとするもので、これによってDNAに供給されるエネルギーは斑なくなり安定する。結果として、この媒体から得られる能力は優れたものにすることができる。
これに対して、原核細胞は環状形態をしている。原核細胞にヒストンはなくらせんや折りたたみはするが真核生物ほどではなく、長さも短いことでらせんの繰り返し数も少ないとされている。さらに、原核細胞に核膜はなくて折りたたまれたDNAはサイトゾルに核様態の裸の状態であることから、エネルギーの供給環境も真核細胞に比べて充分ではなく、発生する能力も劣ると推測できる。
このことから、真核生物と原核生物では「DNAの物理的構造とエネルギーの供給環境の違いによって思考能力に差異が生じる」と推測する。その思考能力の違いが真核生物が原核生物に比べて思考が豊かであり、多様性に富む生態系を構成することが可能とする要因である。
真核生物のDNAが超らせんと呼ばれるのに対して、原核生物ではやや簡略化されたものとなり、ウィルスに至っては超らせんとは程遠いもので、中にはDNAではなくRNAを遺伝情報とするものもいる。これら真核生物,原核生物,ウィルスの三つのグループでは、真核生物が多細胞異種細胞に対応できる能力が備わっているものの、原核生物では多細胞に対応できる能力には至らず単細胞止まりとなる。さらに、ウィルスでは自力能力も低いことから他の生物に寄生して、宿主のDNAによって自らの再生産までも頼っている。このため、ウィルスは寄生する宿主から外れると活動できなくなる。これまでもウィルスが生物に属するか否かが議論され、しばしば生物として扱われなかったこともある。
もしも、ここでのDNAの立体構造による思考能力が存在しないとすると、これら三つのグループは基本とする遺伝子システムは共通するが、生態には明らかな違いがある。その違いは如何なる要因であるか説明する必要があるが、これまで説明されてこなかった。
これに対して、ここでの考え方では、同じシステムのDNAでもそのDNAの立体構造に思考能力が備わるものとし、その「思考能力は立体構造の大きさや密度さらには構造の形態とエネルギー環境によって違いが生じる」としている。この結果、三つのグループは生態に違いが生じることになる。
すなわち、DNAに備わる機能が物理的塩基配列だけとすると、現在解明されているセントラルドグマによる代謝活動は可能で、生物が生きて活動することまでは説明できる。しかし、これは代謝産物でいうと一次代謝産物に相当するものに過ぎない。生物の中には真核生物や原核生物の異なる生態の生物がいることは単に生きるだけではない。どのようにして生きるのかの二次代謝産物に相当するものがなければ三つのグループの違いは現れないであろう。
すなわち、生きるためだけの塩基配列の遺伝情報だけではなく、どのように生きるかの思考能力が必要不可欠で、その思考能力の違いが三つのグループの違いとなり、異なる生態の生物種が誕生することになる。ここでは生物の多様や適応進化には思考機能を必要とするものであり、多様性や適応進化は細胞脳の思考能力の違いによるものと考えている。
将来において新たな進化を考えるとするならば二つの方法が考えられる。一つはDNAの超らせんをさらなる立体構造にすることである。立体構造の違いは思考の形態を左右するもので、それは単に思考能力が高い低いではなく、思考の許容領域の違いを示すようなものである。原核生物から真核生物に移行したとすると、現在の真核生物のDNA超らせんをもう一歩ステップアップできると、同じDNAを備えていても思考の許容領域が現在とは格段に違う進化した生物体が誕生することが推測できるであろう。
二つめはポリヌクレオチドではなく、他の化学結合によってDNAに代わるものが創造できたときである。このことは思考や創造を始めとして総ての基本が一変することになり、現在の生物の分類である真核生物,原核生物,ウィルスの三種類のグループに属さない生物が誕生することが想定される。もしも、SFでいわれる地球外生命がいるとすると、その生物はこの領域に属すると想像することができる。
見えないものを見る
これまでに述べた細胞脳の考え方はこれまでの常識とはかけ離れたもので、常識人からは軽蔑視されるであろうと予想している。しかし、考えていただきたい。これまでの常識が如何に現実と乖離していたかを。たとえば、遺伝子のエラーが繰り返し発生し、そのエラーが蓄積されると新たな機能を備えた生物に進化できるということを。
もしも、これが正しいとするであるならば、コンピュータシステムにおいてもプログラムやデータ入力に際してエラーが繰り返され、それが何万回か累積すると新たな機能を備えたソフトができあがることを意味している。しかし、現実にはエラーを繰り返してどれだけ累積したとしても、そこから新たなものが作られることはない。新たなものとは無生物のコンピュータシステムであっても、生物の遺伝子システムであっても、思考による創造でしかでき得ないのではないだろうか。
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