優れた能力の細胞脳が存在するにもかかわらず、その細胞脳にもマイナスの要素があり、そのマイナスを補うために頭脳が必要とされたであろう要因を考える。さらに、頭脳の構造形態の基本が細胞脳の基本構造に限りなく類似していることを説明する。
これまで生物進化を考えるとき、人が見ることのできる拡大コピーした頭脳で考えようとして理解できなかったことでも、これを原寸サイズの細胞脳を認識すると生物進化の本来の姿が見えてくるのではないだろうか。
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| 10章 細胞脳と頭脳 もくじ |
思考の具体性
従来では思考や知性の具体的な正体は定かではなかった。これは思考のメカニズムそのものが雲をつかむようなもので具体的なものではなかった。それは思考の原理構造が認識できなかったのであろう。動物であるヒトにとって形質として物理的に直接確認できるハードは理解が容易であるが、物理的に直接確認できない思考や知性のソフトを理解するのは困難であった。ましてやこれまではオリジナルで思考を理解するのではなく、拡大コピーした頭脳で思考を理解しようとしていた。さらに、その頭脳を唯一無二の思考体とし、それ以外の思考体は存在しないとすると生物のあらゆる現象が不思議であった。
このようなマクロゆえ漠然として認識できなかったことも、光学顕微鏡や電子顕微鏡によってミクロレベルのものが物理的に見えたとき、生物のメカニズムが理解できるようになった。しかし、これによって解明されたものの多くはハードで、思考や知性といわれるソフトは電子顕微鏡を使っても見ることはできなかった。
ここで考えるものは細胞脳の実像であり、頭脳の実像であって、どちらも虚像ではない。思考が分子レベルの細胞脳によって説明されると、思考の姿がはっきり浮かび上がってくる。これによってこれまで抽象的であった個体レベルの頭脳による思考がどのようなものかも具体的に定義することができるであろう。このことは取りも直さず、生物進化の変異が如何なる理由によって生じるかも明らかになるであろう。
このようにこれまでは思考そのものが漠然としたもので、生物進化のプロセスでどの段階から思考が備わったものかや、その思考が誕生する要因が何であるかも述べられてはこなかった。ましてや思考のメカニズムなどは進化の議論から遠く離れたもので触れられることはなかった。
これまでの思考では高等動物であるヒトにのみ備わったとされる。その一方でイルカや象に知的な行動が見られると思考が可能ともしている。もしも、ヒトが高等動物であるために思考が可能であるならば、ヒトが他の生物とは異なる方法でヒトのみが備えることができた理由を述べる必要がある。
しかし、行動や生態に賢さが見られると思考能力に結び付けてしまうのが現状で、この段階になっても曖昧さが払拭できていない。このことから、思考に関して現在はさまざまなアプローチによって間接的に証明するしかない。しかし、大陸移動がGPSによって証明されたように、近い将来これまでの技術とは異なる新たな技術によって思考が直接証明されることと推測する。
これまで動物の中でヒトが際立った違いを見せ、自動車やテレビを作ることができる技術や知性を備えるとして、その要因は頭脳にあるとしている。しかしながら、頭脳のない植物の中でも食虫植物は頭脳を備えた動物を捕食して際立った能力を見せている。食虫植物は自動車やテレビは作らないが、その内容は頭脳を備えた動物以上のものがあり、ヒトに匹敵する。これが頭脳で思考する体外技術のヒトと、細胞脳で思考する体内技術の食虫植物の違いではないだろうか。
人は自らが属する種は思考可能な知性が備わるもので特別としている。しかし、過去の地質年代において動物が両生類,爬虫類,哺乳類と進化し、植物も隠花植物のシダ類から顕花植物の裸子植物,被子植物へと進化している。これらの進化の変遷は極めて類似したもので知的でもある。このような進化ができることが知性にふさわしい。その進化の基本は生物総てに知性が備わっているとする。
人が備えているとされる知性の源は細胞脳にあり、その細胞脳によって思考された知的創造物の一つが頭脳になる。そして、頭脳も細胞脳が備えている知性のように振舞えるようになってきたのではないだろうか。これは細胞脳が進化して思考豊かになったように、頭脳も進化して思考豊かになりつつあるといえるであろう。
頭脳はなぜ必要か
これまで私たちの一般常識として思考可能な唯一無二のものは頭脳で、それ以外に思考できるものはないとしてきた。その頭脳の構造はというと、神経細胞が張り巡らされてその神経細胞が情報伝達の機能を備えていることはすでに解明されている。しかし、その情報伝達の神経細胞である頭脳で思考できるメカニズムがどのようなものかは未だ解明されてはいない。それにもかかわらず、頭脳で思考できるとされている。
ここで禅問答しようというのではない。思考そのものが抽象的でそのメカニズムさえも明らかではない。人の思考でさえこの状態であるから、他の動物が思考するか否かは推して知るべしで、ましてや頭脳がないとされる植物では言うまでもない。
ここでは進化の変異は細胞脳の思考によって創造された知的創造物としてきた。そのため、ここに至るまでに細胞脳についてさまざまな角度から詳しく述べてきた。ここからはこれまで述べてきた細胞脳と、一般常識の頭脳とに如何なる相違があり、思考による知性のシステムがどのようなものかを考え、なぜこのように二つの思考機能が存在するかを考える。
生物の中には頭脳を備えた生物と頭脳を備えていないとされる生物がいるが、これまでしばしば頭脳を備えた生物は賢いとされ、さらに、頭脳が大きく発達したものは知的な生物といわれてきた。そして、これらを進化した生物といい、そうでないものは進化から取り残された生物と表現されてきた。さらに、頭脳を備えていないとされる生物については思考など端から考えてはいなかった。
しかし、これは間違いではないだろうか。なぜならば、生物の中には単細胞生物と多細胞生物がいる。その中で頭脳そのものが多細胞からなるもので、単細胞生物に頭脳の形態が備わるはずがないことは明白である。ここでの細胞脳とは分子レベルの思考体を示すもので、頭脳とは個体レベルの思考体を示している。このことから、細胞脳と頭脳は類似の思考体であるが、レベルの異なる思考体としている。それゆえ、頭脳がないとされる生物であっても細胞脳によって思考することが可能としている。
ここでの変異は細胞脳の思考と知性によるとし、その細胞脳は総ての生物に備わるとしている。それほど賢い細胞脳が総ての生物に備わるならば、進化の変異に直接関与しないとされる頭脳は必要ではないことになる。それにもかかわらず頭脳を備えた生物がいることは、頭脳を必要とする理由が存在しなければならない。なぜならば、ここでは突然変異のように目的のないものはなく総てに目的が存在するとしているからである。
これには細胞脳の優れた能力にもマイナスの要素があったと推測する。それは生物の総てがマイナスと認識したのではない。たとえば、マイナスと認識した動物とマイナスとは認識しなかった植物とが存在し、その中でもマイナスと認識した動物の一部が、その細胞脳のマイナスを補うためにレベルの異なる頭脳を必要として創造したであろう。そのマイナスの要素は二つある。一つは思考が遅く時間がかかることであり、もう一つは思考が一時停止することであったと推測する。この二つを解消するには思考の方法を細胞脳とは異なる手段を採る必要があり、神経系の頭脳の考え方が創造されたとする。
第一は細胞脳の思考速度が遅かったことによる。細胞脳の思考はDNAの遺伝情報を基礎としたもので、思考を豊かにするには多くの遺伝情報を必要とした。同時に、遺伝情報を増やすことはDNAが長くなり立体構造は密集度が増加することにつながる。これによって豊かな思考が可能となる。
一方、DNAは長い紐状であるからDNAでは如何に急ごうとも循環ルートは一本道で脇道や近道は存在しない。そのため、DNAは情報量が増加することはDNAが長くなることにつながり、情報の伝達や思考に要する時間は長くなる。このため、細胞脳で豊かな思考をしようとすればするほど長い時間がかかることになる。細胞脳の思考の遅さは長い紐状のDNAにあった。
そこで神経系では時間と距離を短縮するために、それらの蓄積された遺伝情報を削除して情報伝達に機能特化することにした。さらに、それらを一本の長い紐状とするのではなく、最短距離を直線で結ぶことと細かく切り分けて立体網目構造にした。これによって情報伝達は総ての神経細胞を通過するのではなく、必要最小限を経由する脇道や近道が可能となる。これによって情報伝達に要する時間は必要最小限となり、情報の伝達速度を桁違いに速くすることが可能になる。
第二は思考の一時停止である。細胞脳では基礎情報がDNAで、DNAの超らせんでは立体構造の時に思考可能であるとすると、DNAの複製や転写に際して一時的に超らせんを解く必要があり、この解いたとき思考が一時停止することになる。たとえば、移動中の動物が身の危険に遭遇したとき運悪く思考の一時停止状態になることは移動以前の死活問題である。この思考の一時停止については、磁力を得るのにコイルを使用するのではなく磁石に機能特化するように、その都度超らせんを解いたり再形成したりしない神経細胞にすることで、常時思考できる状態を維持することができる。
このようにしてできた頭脳は情報の伝達速度は速くなり、思考の一時停止することなく連続的に思考することが可能になった。これらは移動しない生物にとって高速の情報伝達や連続思考はそれほど重要な要素ではないが、自ら移動する生物にとっては高速の情報伝達や一時停止することのない思考は必要とされ、このような目的で機能特化したものが神経系の頭脳と推測する。
さらに、DNAの情報伝達の単位は細胞核内に限定されて細胞核から食みだすことができなかった。その制約条件を取り払うことで長さも自由に設定できることになり、細胞核の数百倍から数万倍もの長さを一つの神経細胞で最短の直線で結ぶことも可能になった。これによって情報伝達やそれに伴う判断のスピードを桁違いに速くすることが可能となる。
このことはあたかも情報伝達の専用機能として細胞の位置や大きさに影響されることなく、電気パーツを接続するかの如く必要に応じて配置することができる。さらに、DNAのように総ての細胞に均等に配置するのではなく、特定領域に集中的に配置することが可能となり、これを頭脳とすることができる。
上記のように基本には細胞脳の思考可能な創造力があり、その細胞脳の思考の低速や一時停止のマイナスを補ったものが神経系の頭脳になり、八方うまく収まったように見えるが、そうではない。細胞脳から頭脳に移行する際して削除したものが遺伝情報である。
DNA言語の基礎である遺伝情報を削除したことで神経系による情報伝達は速くなったが、思考の前提になる基礎情報が存在しない。このため、思考するには基本情報が必要で人が教育と称して長期間に渡って勉強するのはそのためであろう。しかし、これとてもマイナスだけではない。
細胞脳は基礎情報がDNA言語のため生化学に限定されていた。しかし、頭脳では記憶させる基礎情報は空である代わりに選択が可能である。そのため、何を記憶させるかによってそれぞれ異なった利用が可能となる。基礎情報がゼロの頭脳に危機管理情報を記憶させると、遭遇した危険から身を守る思考や判断が可能になり、これは多くの動物行動に見ることができる。頭脳を備えた多くの動物の親は子供に思考や判断のための基礎を学習させる。
同様に、記憶内容が日本語であるか物理学であるかによって記憶内容に応じた思考が可能になる。人類が他の生物と異なったことは、DNA言語の生化学とは別の機械,電気,宇宙工学などに進んだことであろう。この結果、自動車を走らせ、テレビ映像が可能になり、ロケットを打ち上げることが可能になった。
さらに飛躍させてDNAの塩基情報言語を記憶すると、変異の思考に限りなく近づくことが可能となるが、この中で細胞脳に近づいたものが遺伝子交換ではないだろうか。しかし、これは頭脳で考えて物理的に遺伝子を操作した。このことは遺伝子システムの制約を受けないから可能であるが、逆に、頭脳の思考は細胞脳そのものではないからシミュレーションはできたとしても、頭脳思考から細胞脳思考による形質の変異ができるものではない。最良の方法は頭脳の思考が細胞脳へ直結し、頭脳の思考内容が細胞脳の制御によって遺伝子が変異して新たな形質が備わったとき、人が進化の変異に到達したことになるのではないだろうか。一方、頭脳を持たないとされる原核生物や植物では、学習による基礎情報の蓄積は必要としない。なぜなら、基本情報はDNA言語の遺伝情報に備わっていて改めて蓄積する必要がない。
情報蓄積のない頭脳
細胞脳が長い遺伝情報を保有するのに対して、頭脳はそれらの遺伝情報を削除した。このことは細胞脳の思考がDNAに蓄積された物理情報や知的情報を前提にした思考であるのに対して、頭脳では機能特化のためにDNAらせんに備わっていた遺伝情報は削除した形態にしたため神経細胞に基本情報は蓄積していない。このため、頭脳では細胞脳のように基本情報を基にした思考はできないことになる。
一方、細胞脳の思考とは基礎知識として遺伝情報であるDNA言語による思考であるから、学習によって知識を蓄積しなくても思考することが可能である。これは植物や動物の生物総てに備わった共通言語で、これによって生物の不変性が保たれている。このことは生物の中の同じ真核生物であるならば、思考や発想までもが類似になり得ることを意味している。
生物の中でも海中生物と陸上生物のように生涯互いに遭遇することのない生物でも、さらには頭脳を備えた動物と頭脳を備えないとされる植物でも、極めて近似の発想や類似の知的創造が可能である。その喩えが毒素であり棘である。その代わり思考可能な内容は基礎知識のDNA言語である生化学から逸脱することができない。
これに対して、頭脳の思考とは情報伝達に特化した神経細胞であるから情報の伝達機能は優れているが、スピードの機能特化のためにDNAの遺伝情報を削除したことで基本となる情報の蓄積はなく、取り込まれた外部情報を拠り所とするもので、思考による知的創造ではなく見た目の現象から直感的に判断することになる。
もしも、判断以上の思考を求めるならば、事前に思考を可能にするだけの基本情報を頭脳に蓄積する必要がある。人が小中高大学と長い期間に渡って教育を必要とするのは、思考や創造を可能にするためと推測できる。もちろん動物の中には人のように頭脳を極度に機能分化した種がある。これとは反対に、頭脳の機能分化に関心を示さない種もいる。それらは知性がないのではなく細胞脳を主体にしているであろう。
頭脳は空の容器に情報を蓄積するもので、DNA情報の制約を受けないことから基礎情報に何を蓄積するかでたとえDNAを逸脱した思考でも可能である。これが「頭脳思考の自由度」であろう。すなわち、細胞脳は生化学に基づくものでDNA言語は体内技術がこれに相当する。一方、頭脳では蓄積するものは自由に選択でき機械工学や電気工学などの体外技術がこれに相当する。
この教育によって得られた知識がDNAの形態で保存されるならば、次世代の者は教育を必要とせずに保存されている内容を引きだすだけで事足りる。しかし、教育によって蓄積したものはDNAのように遺伝子による記録ではなく、世代限りの記憶であるから子孫にその内容が受け継がれることはない。そのため、世代が代わる度にその都度ゼロからの教育が必要となる。もしも、人にとって頭脳のスピードが必要で教育の期間を省略しようとするならば、これらを頭脳の一部に組み込むことができたとき教育は不要にすることができるであろう。
意見の中には人は遺伝子組み替えまでできるから頭脳が細胞脳を超えたとする考え方もあるが、それは違うであろう。遺伝子組み替えはすでに生物が機能として創造した遺伝子を物理的に入れ替えただけで、そこでは新たな機能の遺伝子を創造してはいない。細胞脳とは自らの思考によって最良の方法を考えるとき、自らの意思によって新たな機能を創造して塩基配列を変異させることで形質までも変えるものであって、体内技術が体外技術と違うところである。
これまで進化は長い歳月を要して次第に積み重ねられるとしている。そのような発想は何処から来るのか。それはヒトの知性が頭脳に蓄積されることで思考できるとする所以であろう。もしも、このようなシステムではなく誕生するときには必要とする総ての知性を備えているとすると、頭脳に蓄積するための教育は必要とはしない。さらに、誕生と同時に必要とする知性の総てが整っているために適正な思考と創造が可能となる。
ヒトは多くの機能を頭脳に集中してしまったし、頭脳はゼロからのスタートであって知性は整っていない。これに対して、植物に頭脳の形態は存在せず、細胞脳にはDNA言語に基づいて物理的情報がエキソンに蓄積され、知的情報がイントロンに蓄積されているとすると、これらの情報を基にして細胞脳によって思考することができる。それはDNAが備わっていることで誕生以前の休眠中の種子であっても、発芽以降であっても、同様に細胞脳によって思考できていることになる。
さまざまな思考
多くの動物の中には誕生したままの状態で何の学習も受けていないのに、その種の動物としての知能が備わっていることを動物的本能と表現している。これらの動物はヒトに比べてそれほど大きな頭脳は備えていない。それにもかかわらず、知性が備わっているかのように行動できることは、知性や記憶は頭脳一つではなく基本は細胞脳にあると推測する。
さらに、DNAに備わっているものは物理的遺伝情報のエキソンだけではなく、イントロンに知的情報が備わっているとすると、これによってヒトに比べて取るに足りないような僅かな頭脳でも、さらに、学習の機会が与えられていない動物でもあたかも学習を受けて知識が詰め込まれたような行動ができるのは、DNAに知的遺伝情報として記録されていて、その情報を引きだすことで判断できるのではないだろうか。さらに、想像的飛躍をするならば、学習する代わりに細胞脳の知的情報の一部を頭脳の記憶領域へコピーすることができると、それによって思考や判断が可能になるであろう。
それぞれの種の動物がそれぞれ異なった行動がとれることや、同種の動物が類似の行動をすることは何らかの情報が必要である。それは種によって異なる必要がある。これを満足するものはDNA情報になる。さらに、遺伝情報でもタンパク質を作る情報によって行動や判断までもが可能ではないであろう。すなわち、動物的本能といわれる行動にはタンパク質を作るエキソン情報だけではなく、イントロンの知的情報が必要不可欠になるのではないだろうか。
それでは動物的本能と頭脳との違いとはどのようなものか。卵を産み落としたままで養育しない動物は細胞脳を活用する。これに比べて、胎生や卵生でも親からの養育期間のある動物は頭脳を拡大する傾向にある。頭脳を重視する動物は相対的に細胞脳は軽視することになる。これに対して、細胞脳を重視する動物は細胞脳を最大限に活用することになる。この両極端に位置するものがヒトと昆虫ではないだろうか。
私たちがしばしば口にすることは、ヒトはチンパンジーに比べて桁違いに進化したことである。それにもかかわらず、進化の変異である遺伝子レベルでは、その違いは僅か1%余りしか違わず大部分が同じであった。これはチンパンジーに比べてヒトが進化したとはいい難いもので、これは矛盾であり不思議であった。これらは進化の定義が定まっていなかったもので、進化以前の思考が如何なるものかが認識されていなかった。生物の進化を遺伝情報だけで比べるのか、それとも細胞脳の能力も含めるのか、さらには備わった頭脳の能力も含めるかによって違うことを意味している。すなわち、物理的遺伝情報のエキソンは生物の総てを網羅しているとはいい難い。
核膜は頭蓋骨
これまでヒトデやウニのように頭を持たない動物には頭脳は存在しないとされ、そのような動物では思考や判断はできないとされるが、そのような彼らであっても移動中に危険に遭遇すると方向を変えて逃げだす。このことが意味することは、思考や判断が頭脳に限定されるものではないことになる。
いい換えるならば、頭脳以外の場所でも神経系を情報伝達に必要とする量以上に増やすことで、そこでは思考にまで至らなくても判断ぐらいはできることになる。そのような彼らには頭脳はないが中枢神経はリング状や放射状に伸びている。その集合部で他よりも神経が密集しているところがあると、そこでは知的創造にまで至らなくても危険か否かの判断ぐらいは可能と推測できる。
動物の神経系による脳も初めは神経細胞の小さな集合体と見るべきではないだろうか。その集合体の密集度が高くなりエネルギー供給が潤沢になると、その能力が増すことになる。やがてその重要度から安全性を求めて頭蓋骨によって保護される流れとなるであろう。ウニやヒトデは神経細胞の集まり程度のもので密集とはいい難い。これに対して、ヒトの頭脳では超密集構造を形成してそこに供給されるエネルギーも充分となる。これによってウニやヒトデに比べてヒトは複雑で豊かな思考が可能になる。これは個体レベルの頭脳についてである。
これを分子レベルの細胞脳で考えると、そのプロセスも類似のものとなる。生物初期の原核生物ではDNAが細胞質に核様態の形で備わる。このときのDNAの構造は規模が小さくてDNAが核膜で保護もされていないことからエネルギー環境も充分なものではない。これに対して、真核生物ではDNAの規模は大きくてDNAが核膜によって保護されていて必要とする充分なエネルギーが確保できることと類似の流れである。
この真核生物の細胞を見ると、細胞の中心部分の広い領域を占めて細胞核が位置して中にはDNAの細胞脳が密集している。その核の周りには細胞脳を維持するに足りるだけのオルガネラがサイトゾルに配置されている。これを動物に喩えると、オルガネラは生態を維持するための内臓に相当し、細胞核の核膜は動物の頭蓋骨に相当することになる。
このことは個体レベルでも分子レベルでも粗に始まり密になることで機能は充実する。さらに、隔離保護することでエネルギーの充分な供給によってさらに機能が増す。結果として、臓器の中心部に位置しない神経系は頭蓋骨によって隔離保護しているように、DNA系では細胞質の中にもかかわらずさらなる隔離のための核膜を設けることになる。これによって生物に備わる個体レベルの頭脳の形態と、分子レベルの細胞脳の形態は極めて類似しているといえるのではないだろうか。
もしも、従来からいわれるようにDNAはことのほか長い、その長いDNAを核に収納するためにコンパクトにしたというものなら、何も真核生物のように核を設けるのではなく原核生物のように核様態の状態にすると、それほどまでの密集構造は必要ないことになる。しかし、ここではDNAを核に収納することが目的ではなく、立体構造の超らせんにすることが目的であり、エネルギー環境のための核膜による隔離が必要であったと考えている。
一方、初めに分散脳なるものを提示したが、この神経系は動物を主体とするものとしても情報伝達は神経以外にホルモン系もあり、ホルモンの流れの中に濃度勾配が生じるとき、濃い部分の分散脳では類似のことが推測できるのではないだろうか。木の葉の付け根にホルモンの濃い部分によって濃度勾配があるときや、肝臓の中でも神経が集中しているところがあるとしたら、さらに、大企業の多くの営業所の一つでも所長に指示命令系統が備わることなどは、その部分は入手した情報から思考や判断に類似することを意味することになるのではないだろうか。
神経系は情報伝達か思考か
上記では細胞脳が思考可能であることをそのメカニズムから説明してきた。しかし、私たちの一般常識として認知された思考とは、頭脳によってのみ可能なものとされてきた。しかし、頭脳による思考のメカニズムが明らかにされているのではない。それはなぜか。
私たちの身体には神経細胞が張り巡らされて神経系のネットワークが身体全体で形成されている。この神経系によって身体中の情報が伝達されることは言うに及ばず、視覚や聴覚などを利用することで外部情報までもが伝達されている。すなわち、頭脳には身体の何処よりも多くの神経細胞が張り巡らされ、それらの情報の集積地が頭脳となる。
その神経細胞のメカニズムとは、樹状突起に入った情報が軸策を通って軸策終末に到達してシナプスを介して次の神経細胞に情報を伝達するもので、情報伝達のメカニズムはすでに解明されている。しかし、これは神経細胞が情報伝達の機能を備えるもので、この神経細胞である頭脳にさまざまな情報が伝達されていることを示すもので、思考していることではない。何を言いたいか。
頭脳に張り巡らされた神経系とは情報伝達であることは解明されているが、神経系によって思考できることを解明したものではない。なぜならば、神経系は頭脳だけではなく身体全体に配置されている。それにもかかわらず、頭脳だけで思考できることに整合性はない。さらに、しばしば頭脳が大きくなることが思考能力を高くすることと結び付けているが、情報伝達の神経細胞が増えたことが思考能力に直接結びつく説明はなされてはいない。
これらからいえることは、神経細胞は情報伝達でこの神経細胞が増加したとき情報の伝達の処理能力が拡大することにつながるとしても、これによって思考能力が備わることを述べるならば、頭脳による思考メカニズムが如何なるものかを説明しなければ頭脳で思考できることを解明したことにはならない。同様に、これまでDNAの塩基配列による物理的遺伝情報や、サイトゾルにあるさまざまなオルガネラの物理的機能は解明されてきた。しかし、細胞内の何処を探しても思考の機能を備えた部位は存在しない。そのため、細胞脳の存在どころか細胞脳の発想そのものが存在しなかった。
このことはDNA系の細胞脳も神経系の頭脳も類似である。それにもかかわらず、DNAでは思考など考えもしなかったのに、頭脳では思考ができるとされている。この違いはどのように説明するのだろうか。ここでは分子レベルと個体レベルの基本は同じで、レベルが違っても理論が変わってはいけないとしている。そこで個体レベルの神経系の頭脳を考える前に、これまで述べてきた分子レベルの細胞脳について振り返っておく。
細胞脳とはDNAが立体構造を形成し、そこにエネルギーを供給したとき二次的機能として生じるもので、立体構造によってのみ生ずるものとしている。これはタンパク質の高次構造やRNAの立体構造が備える機能と類似の形態である。そのためタンパク質の高次構造やRNAの立体構造が解かれたときその機能を失うように、DNAの複製や転写において一時的に立体構造を解くとき、備わっている機能は一時的に消失し、再び立体構造が復元されたとき機能は取り戻されるとしている。
このことはゲノム解読のために立体構造を解いても、塩基配列のようにDNAに物理的に備わったものとは異質であることを示している。さらに、細胞脳ではDNAの長さや立体構造の密集度の違いが思考能力の違いとしている。一方、頭脳から神経細胞を取り出してもその神経細胞は情報伝達の機能を備えている。これと同様に、細胞脳であるDNAの一部を取り出してもそのDNAには遺伝情報の塩基配列が備わっていることと同じである。中でもDNA系の細胞脳も神経系の頭脳もそれぞれの方向性が定まっていることから循環が可能であることを示している。
これらは何れもが物理的に備わった情報伝達の機能であり遺伝情報である。しかし、それらが単体ではなく密集して立体構造を形成してエネルギーが供給されると、そこには単体の機能や情報とは別の新たな機能が備わるとしている。そして、細胞脳がDNAの密集構造を備えたとき物理的遺伝情報とは異なる思考能力が備わるとするように、頭脳が神経細胞の密集構造を備えたとき物理的情報伝達とは異なる思考能力が備わるであろうと推測している。
頭脳思考のメカニズム
これを前提に神経系の頭脳を考えると、頭脳の思考とその能力には三つの要因がある。その第一は機能変換できる媒体の存在。第二は媒体へのエネルギー供給であり、第三は媒体の構造形態である。
第一の媒体とは、それまで存在しない思考の機能を何によって可能にするか、それにはどのようなものを必要とするかである。これを可能にするものが細胞脳では遺伝情報を備えたDNAの超らせんとするのに対して、頭脳では情報伝達の機能を持つ「神経系の密集構造」とする。これらは細胞脳が遺伝情報の蓄積で頭脳が情報の伝達であることは、何れも思考に不可欠の情報が関与している。これを媒体にすることで情報から逸脱しない思考ができることになる。
ここで大切なことは密集構造である。なぜなら、DNAは超らせんを解いても塩基の遺伝情報は備わっているし、神経系では密集しない単体の神経細胞でも情報伝達は可能である。ここで考えるものはDNAの遺伝情報でも神経系の情報伝達でもない。これらによって思考できるためには超らせんや密集構造が媒体として求めるものであろう。
第二は媒体へのエネルギー供給である。脳で必要とされるエネルギーは血液によって供給されている。そこで人体の血流量を考えることにする。成人の筋肉や皮膚は体重のおよそ52%を占めていて、安静時この筋肉や皮膚で使用されるエネルギー量は全体の25%とされている。これに対して、脳の重さはおよそ1.5kgで体重のおよそ2%にあたる。そして、この脳で使用されるエネルギー量は全体の18%とされている。
身体全体に占める脳の重量比率が小さいにもかかわらず、極めて多量のエネルギーを使用している。神経系がこれまでいわれている情報伝達の機能であるならば、その比率からそれほど多くのエネルギーを必要としないであろう。そのような領域にこれほどまでに多くのエネルギーを供給することは、脳の働きが通常の情報伝達だけとは考え難く、そこには二次的機能に変換するために必要とする充分なエネルギー供給と考える以外にエネルギーの使い道がない。
第三は媒体の構造形態である。タンパク質の高次構造、RNAの立体構造、そして、DNAの超らせんが立体構造による機能を備えるとすると、神経系の密集構造は立体構造に相当する機能を備えるとしている。ここで神経系の構造形態に立ち入って考えると、神経系はDNAと異なりらせん構造の形態はとってはいない。
ヒトのDNAは46本から成り立ちそれぞれが長い紐状をしているが、神経細胞の一本一本は分離している。たとえば、人体にはおよそ1400億個の神経細胞があるとされている。そのうち大脳皮質にはおよそ140億個があり、これは全神経細胞の10%にあたる。この神経細胞がそれぞれ接合することにで複雑に絡み合った状態になり、あたかも全体が一つながりの密集構造の形態をしている。
これは遺伝情報機能を備えたDNAが何段階にも渡って立体構造の超らせんを形成するように、情報伝達機能を備えた神経細胞は立体的網目の密集構造を形成している。もしも、神経系が情報伝達だけであるならば、身体全体に張り巡らせた神経系の配置で情報伝達は充分可能である。それそれにもかかわらず、なぜ頭脳には神経系を高密度に配置するかである。
このことは手足の神経系でも情報伝達には充分であるが、神経の密集度では粗に相当する。このことは手足の神経系で情報を伝達するのは充分であっても思考するには不充分ということになり、神経系が情報伝達以上の密集構造になったとき思考が可能になると推測する。さらに、この密集構造が超密集になると思考能力は一層向上することになる。
これら三つの特徴を備えた頭脳の神経系は、全体重のおよそ2%の小さな脳に、全神経細胞の10%を集めて密集構造を作り、その密集構造に全エネルギーの18%を血流によって供給している。これは他の神経細胞の密集度が粗で少ないエネルギーでも正しく情報伝達できていることからすると、これほどまでの密集とエネルギー供給は頭脳の神経細胞には情報伝達とは別の目的があると推測すべきではないだろうか。それはDNAの立体構造に基本とする原理構造が備わっていたからこそ類似の形態を創造することができたのではないだろうか。これによって頭脳にも思考能力が備わるとしている。
分子レベルでも個体レベルでも思考可能な機能を備えた部位としての物理的構造物は存在しないことを意味するもので、思考の機能はDNAの立体構造や神経系の密集構造にエネルギーを供給することで生じさせることのできる機能ということになる。そのため、細胞脳であっても頭脳であってもエネルギーの供給が停止したとき、備わっていた思考の機能は停止することになる。
これまでDNAは遺伝情報の蓄積であるとされ、同様に、神経細胞は情報伝達であるとされてきた。しかし、ここではDNAは物理的遺伝情報の蓄積と、その立体構造による無形の思考能力とするものであり、神経系は物理的情報伝達と、その密集構造による無形の思考能力が備わるとしている。
たとえば、細胞の中ではミトコンドリアを始めとするオルガネラによってエネルギーが作られ供給されている。その中の少なからず量が核の中で消費される。これは細胞レベルであるが個体レベルでも類似のものを見ることができる。人体では腸を始めとする臓器によってエネルギーが作られ血液によって供給されている。その中の少なからず量が頭脳によって消費されている。
個体レベルの臓器は細胞レベルのオルガネラに相当するもので、個体レベルの頭脳は細胞レベルの核に相当している。ここでは分子レベルと個体レベルでレベルの違いはあっても基本は同じで、細胞脳と頭脳の両者には思考について共通もしくは類似する原理構造が存在するとしている。
細胞脳ではDNAの立体構造に形態や規模に相違があり、ウィルス,原核生物,真核生物をグループ分けすると、このグループの違いにはDNAの形態や立体構造の違いが確認されているし、それに伴ってそれぞれの生態にも違いが確認されている。このことはDNAの構造形態の違いが特異的性質として表れるとしている。このDNAの長さや立体構造の違いとそこに供給されるエネルギーの違いが細胞脳の思考能力の違いを示すとする仮説が正しいとき、同じことが神経系でもいえるであろうと推測する。
すなわち、頭脳では神経系の量による規模と密集度に相違があり、魚類,爬虫類,哺乳類,さらに類人猿でグループ分けすると、各グループでは頭脳の容量に違いが確認されている。魚のように頭部の神経系の量や密集度が少ないものと、ヒトのように神経系の量でも密集度でも過剰のものとの違いがある。この神経系の構造形態の違いが特異的性質として頭脳の思考能力の違いとしている。
このことから、細胞脳と頭脳は何れにも類似した思考能力が備わるものとし、そのときの立体構造の形態や規模、さらには、密集度の構造形態の違いと、そこに供給するエネルギーの違いによって思考能力に差異が生じると推測する。これによってDNAの立体構造の形態や規模の違いは細胞脳の能力の違いを示すものであり、頭脳の密集度と規模の違いは頭脳の能力の違いを示している。
なぜこのように考えるかであるが、DNAでは原核生物のようにDNAが粗に相当するものでも物理的遺伝情報は蓄積しているが、その規模は小さく豊かな創造力までには至らないとする。同様に、神経系では手足に配置された神経細胞でも情報伝達の機能を備えているが、その規模は小さく豊かな創造力までには至らないとする。
一方、タコには両眼の間に脳があるとされていて、その脳の指令で8本の足を動かしている。しかし、タコの足の付け根には脳とは別に足神経節あり、それぞれの足を独自に動かすことが可能とされている。これは足先の情報伝達と頭脳思考の中間的機能を備えることが推測できる。進化の過程で機能分化ごとに神経節に類似するものがあると、そこでは判断や思考に類似することができることを推測させる。
さらに、もう一歩踏みだすことが許されるならば、掌に頭脳に匹敵する神経細胞を密集させて充分なエネルギーを供給したならば、頭脳で考えることなく掌が自ら考えて動き、工業製品を作ることや、小説を書くことができることになる。さらなる想像はいくらでも飛躍できるが、それは空想の類としてここではこれ以上飛躍させないことにする。
これらが意味することは神経細胞の配置は身体全体が一様ではない。神経系では電気パーツの如くその配置に制約はない。そのため、配置に粗密の密度差を設けることができる。神経系は粗でも情報伝達の機能が充分確保されている。それにもかかわらず、頭脳を密にするには密にする目的があるはずで、その目的が思考能力や判断能力ということになる。
ヒトのように頭脳領域の神経系を極度に密集させることは、神経系による情報伝達が目的ではなく思考能力を充実させることが目的であろう。ここでは細胞脳が思考できる前提で、頭脳が細胞脳と類似の形態を備えているから思考可能としているが、本来は頭脳の神経系がここで示す三つの条件で思考していることを証明する必要があることは言うまでもない。
頭脳について媒体,エネルギー,構造形態の三つについて考えたとき類似のものが見える。頭脳は頭蓋骨によって安全に保護されている。これは頭脳が極めて大切なことを示している。これは真核細胞のDNAが細胞の中でもサイトゾルからは核膜で保護されて必要とするエネルギーを潤沢に得られるようになっている。同様に、核膜のない原核生物のように、動物でも頭蓋骨は言うに及ばず頭脳の形態さえも備えていないウニやヒトデのように中枢神経がリング状や放射状にあるだけのものもいる。彼らに備わる思考は決して豊かなものとはいえないであろう。
今日の多種多様な生物も初めは一個の単細胞の生命体とされていることは、分子レベルであっても個体レベルであっても思考形態は同じでなければならないとしている。頭脳の思考システムは細胞脳に基本とするシステムが存在し、その細胞脳が機能分化の過程で新たな機能の一つとして創造したものが頭脳と推測する。
記憶のメカニズム
ここでは細胞脳の思考はDNAの立体構造によるもので、頭脳の思考は神経系の密集構造によるものとしている。ここで未だに解明できていないものがある。それは基礎情報の保存方法である。細胞脳がDNAの塩基によって遺伝情報を記録し、この情報を基にして思考することができている。そうであるならば、頭脳で思考する基礎情報は何によって記録されているのか。
細胞脳の基礎情報は変性し難い二本鎖相補性の塩基対によって半永久的に保存されて遺伝情報として子孫に伝えられる。一方、頭脳の基礎情報は削除して空の状態である。それを学習によって基礎情報を蓄積するが、問題はその蓄積方法が如何なるメカニズムによるものかが未解明である。頭脳の基礎情報がDNAに乗っていないことから継代しないことは当然として、細胞脳の基礎情報が半永久的に安定保存されているのに対して、頭脳の基礎情報は不安定で、しばしば忘れることがある。
このことからすると、情報の記録は塩基配列のように安定した形態で記録されているとは考え難い。頭脳の特徴は記録ではなく記憶で、記憶が不安定であるため容易に消失することや間違えることが頻繁に発生する。その消失したり間違えたりする量はDNAの変異に比べると桁違いに多い。細胞脳の思考で考えると、DNAの複製や転写によって発生するエラーの一部が進化の変異とするとき、これを頭脳で考えると、神経系の記録をすべきところで記録漏れによって忘れることと類似を意味する。この忘れから生まれるものは何一つない。
ここで記憶のメカニズムがどのようなものかを推測する。考え方として、情報の循環ではDNAは二本鎖双方向循環であるから一回循環すると総ての遺伝情報を経由することができる。これはDNAが長い紐状であるからDNAでは如何に急ごうとも循環ルートは一本道で脇道や近道は存在しない。そのため、必ず総ての遺伝情報を経由することになる。DNAの細胞脳では時間はかかるが確実に情報の認識ができていることになる。
一方、神経系の情報の蓄積であるが、ヒトの大脳皮質の神経細胞はおよそ140億個とされてそれらが接合している。すなわち、一つひとつの神経細胞は独立している。この一つひとつに独自の情報が記憶されるとすると140億の情報が記憶できることになる。大脳皮質では言語野,視覚野,聴覚野などと領域が定まっていて、それぞれの領域の中にある膨大な数の神経細胞が異なった情報を蓄積し、必要に応じてその情報を引きだすことができるとされている。
神経系では情報伝達のスピードが売り物で、不要の情報を避けて最短距離を循環することを可能にしている。神経細胞は二本鎖構造ではなく立体網目構造の形態を備えるが、それぞれの情報の流れる方向は定まっていることから循環が可能になる。しかし、循環するルートは決まったものではなく神経細胞の数だけの異なったルートがあり、そこには脇道や近道が存在する。
そして、その都度経由する神経細胞は極一部で、常に必要とする情報の神経細胞を経由するとは限らない。それらのルートから必要とするルートが選択されて経由できたとき保存された情報を導き出すことができて記憶が甦るのではないだろうか。このとき日常頻繁に使用しているルートは循環し易いルートで容易に情報を導きだすことが可能であるが、日常あまり使用していないルートは循環し難いルートになり、たとえ情報が保存されていてその場所をルートに選んだとしても、循環し難くなっているとそこに記憶されている情報は導きだすことが困難になる。
同様に、手前の神経細胞が損傷してその神経細胞を経由することができないと記憶を導きだすことができなくなる。このため、ルートを一つ外れてしまうと記憶された情報であっても引きだすことができなくなる。これが神経系の記憶の方法であるとすると、DNAの細胞脳の記録が確実であるのに対して、神経系の頭脳の記憶は不確実ということになり、記憶した情報が曖昧になることや、忘れることにつながるであろう。
どうして進化できない
私たち人の中には進化したいと考えている者が数多くいる。しかし、そのようなことは希望してもできない。なぜか。それは頭脳が考えたことであって細胞脳はそのような変異を考えてはいないことになる。細胞脳が思考して創造することは、細胞脳がDNAと直接連動しているというより、DNAそのものである。そのため、細胞脳が思考する拠り所はDNA情報に基づいたもので、思考の結果としての判断はDNAに直接反映させることができる。
これに対して、頭脳では情報伝達のスピードは桁違いに速くすることが可能になったが、思考の拠り所はDNA情報に基づいたものではなく外部情報によるもので、細胞脳のように結果判断を直接DNAに反映させることはできない。頭脳は細胞脳によって創造された機能の一つである出先機関に過ぎない。進化の変異を制御できるのは細胞脳で、頭脳には進化の変異を制御できる能力は備わっていないことになる。もしも、人が進化の変異を望むなら、頭脳で考えるのではなく細胞脳で考えたなら変異することが可能になるであろう。
細胞脳は思考や判断するのは遅いが実効性のある考え方に基づいた判断ができている。これに対して、頭脳は判断が速くなったことで著しく強くなった。この強さが知性の証しのように考えられているが、これは見かけの強さで真の強さではない。いい換えるならば、裏付けのない強さである。
この細胞脳と頭脳の関係は類似のことを日常生活で見ることができる。それは大家と店子の関係に似ている。店子がアパートの造作に何がしかの変化を必要としたとき、それがたとえ襖1枚でも大家の許可なく変えることはできない。店子にとってそれが良いと考えることであっても、大家が同じ考えでないと店子は自らの勝手にはならない。
同様に、頭脳にとっては自らの身体であり、良かれと考えて変えようとしても自由にはならない。これは頭脳が変化を必要としたときそれを情報として細胞脳に伝えることはできたとしても、最終的に変異させるか否かは細胞脳が決めることで頭脳には許されてはいない。すなわち、私たち人が進化しようとしてもできないことは、変異の最終的決定権のない頭脳で考えていることに他ならないであろう。
細胞脳と頭脳の連携
通常、私たちは頭脳で考えているとされている。それゆえ、細胞脳は荒唐無稽のもので仮にあったとしてもミクロのもので頭脳とは直接関係ないとされるであろう。なぜなら、頭脳で進化しようと思っても進化の変異さえできない。それでは別のアプローチをしてみよう。
毒を保有する蛇が攻撃してきて牙で刺し毒を注入することは、速い動きと判断から蛇の頭脳の思考と判断による。しかし、使用して少なくなった毒液を補充のために作ることは毒液はタンパク質で、実際にタンパク質を作ることはDNAの遺伝情報によるセントラルドグマである。このときの思考と判断は細胞脳によるもので頭脳の思考と判断は直接関与してはいない。
これと同様のものがタコやイカの墨で、細胞脳で作り頭脳によって使用する。一方、自律制御と意思制御で喩えを示したようにホンソメワケベラ,ハナダイそしてクマノミなどの一部の種では、複数の雌と一匹の雄によって群れを構成するが、雄が死ぬと複数の雌の中からもっとも大きな雌が雄に性転換する。ここでは雄が死んだことや自らが群れの中でもっとも大きいと自覚することは、自らの眼による情報で頭脳の思考と判断による。その情報が伝達されて実際にホルモンを作ることは蛇のときと同じセントラルドグマによる。
一方、これらとは少し異なるものがある。それは危険を感じたときのアルマジロに見られる。通常時は餌を求めて陸上を歩行するが、捕食者に遭遇して非常時になると体を丸めてボールのように球状になる。そのとき外表面に表れる部分は固い鱗で覆われて顔や腹の柔らかな部分は内部に隠される。そのとき背中と頭と尻尾が過不足なく球表面に一致しなければならない。どこか一箇所でも大き過ぎてはみだすか小さ過ぎて隙間があると、そこを攻撃されて命を失うことになる。頭頂の形や尻尾の長さまでもが精密に作られたパズルのようでなければならない。同様に、固い鱗も多ければよいのではなく、余分なところまで作ると収納できなくなる。これは頭脳で考えることと、その考えに細胞脳が同調して変異する必要があるのではないだろうか。
これに類似するものが細胞脳と頭脳の連携によって創造された擬態ではないだろうか。環境を認識するのは眼による情報収集で、頭脳によって認識されたものを情報として細胞脳に伝達される。細胞脳ではその情報を基にして形質を変異させて環境に合わせることになる。これらは何れも頭脳と細胞脳の連携によるものと推測する。従来ではこれらは遺伝子のエラーとするが、人が自動車やテレビを目的に合わせて作るとき頭脳のエラーとはせずに知的創造物とする。
従来では個体レベルと分子レベルで変異の発生に理論の相違がある。同様に、ヒトとヒト以外の生物との間で事象に対する思考に理論の相違がある。ここでの頭脳は細胞脳によって創造された情報伝達機能の一つであり、他の臓器などと同じように互いの情報を交換することで機能している。
ヒトのように頭脳を著しく機能分化することで細胞脳の存在そのものが見え難くなっているが、ホンソメワケベラ,ハナダイそしてクマノミなどの一部の種では、頭脳と細胞脳の両方の存在を認識できていると推測することができる。これによって自らの意思によって生殖機能までも変化させることができるものもいる。だからといって総ての動物が同じようなことができるのではない。これは動物によって意思制御領域に違いがあることを示している。なぜなら、人は自らの意思だけでは如何に努力したとしても性転換することはできない。
すなわち、それぞれの生物が自らに備わった機能で何を考え、どのようにしたいかが生物の知的創造である。だから頭脳の思考であったとしても、その知的創造が細胞脳を直接制御できなくても、細胞脳を理解させ納得させることができたとき、DNAの塩基配列を変えることにつながるではないだろうか。このことから、マクロの個体レベルもミクロの分子レベルも変異の発生は同じ原因でなければならないと考える。
前に記したように、多くの人は自ら進化しようとしても進化することができない。だから進化の変異は私たち生物の意思とは関係ないもので、進化の変異は目的のない突然変異なる理論を導き出している。もしも、自らの頭脳で考えても進化できないならば、そのときの思考は細胞脳の思考とはかけ離れていることを認識すべきではないだろうか。
これにもっとも類似するものが白鳥の長い首ではないだろうか。すなわち、白鳥の細胞脳は首を長くすることなどは考えなかったであろうが、より多くの餌を求めようとする頭脳の影響を受けて細胞脳は首を長くすることに制御した。それでも鶴のように足まで長くはしなかった。白鳥の頭脳は足まで長くしようとはしていなかったし、それは細胞脳も同じ考えであったであろう。
人は美しくなりたいと考えながらも化粧で処理して美しくなったと思い込む。翼を付けて大空を飛びたいと考えながらも飛行機によって飛んだとみなしている。このように体外技術によって処理することで、それ以上の欲求による限界ストレスを回避している。このことは美しくなることや大空を飛行すること、そして、その他の多くの欲求も見かけの体外技術で満足したとみなし、大部分の人の頭脳には変異を希望するに値するだけの強い欲求がないことを意味しているのではないだろうか。もしも、限界ストレスを超える欲求があるならば、それがたとえ頭脳によるものであったとしても、その欲求は情報の一つとして細胞脳に伝達されて変異の対象になるのではないだろうか。
これまでここでは進化の変異は細胞脳の範疇で、細胞脳によって制御可能なものとしている。それゆえ、頭脳思考は変異に関与できないこととしてきた。しかし、これは直接的要因とするもので頭脳思考が全く関与できないというのではなく、中には頭脳思考によって変異することも可能であると考えられる。それは頭脳思考が細胞脳に働きかけて細胞脳がそれに理解を示したとき、頭脳思考でも変異が可能になるであろう。
細胞脳と頭脳の世界
従来では思考や知性とは頭脳を備えた高等動物に備わったもので、進化によって獲得したものとされている。そのため、多細胞動物でも頭脳を備えないものに知性はないし、頭脳を備えていても進化しない下等動物に知性は存在しないとされてきた。そのため、私たち動物は頭脳の思考によって生活するもので、他に思考体は存在しないと考えられている。それゆえ、頭脳が存在しないとされる植物は生きてはいるが思考しているとはみなされてはいない。
しかし、ここでの思考はそれとは違う。アメーバーを始めとする単細胞生物には一つの細胞脳が備わっているし、カイメンやボルボックスのような群体生物には細胞の数だけ細胞脳が備わっている。さらに、ヒトを始めとする動物には細胞の数の細胞脳と神経系の頭脳の両方が備わっている。このことから、頭脳がないとされる植物にも細胞脳が備わっていて思考ができるとしている。
ここでは細胞脳も思考体の一つとして活動しているもので、その活動内容は私たちが頭脳でしていることと極めて類似したもので、生命系を維持するうえで必要不可欠の思考である。ただ原核生物では真核生物とDNAの構造が異なっているので思考能力に違いがある。さらに、「三人よれば文殊の知恵」の諺で示されるように、単細胞生物が一個の細胞脳で考えることに比べると、多細胞生物が数多くの細胞で考えることのできる内容はより広範囲の思考が可能になる。さらに、機能分化した生物では異なる細胞種によって思考も変わり、同じ細胞種でも位置する場所によって環境が異なることで思考もバラエティーになる。これは多細胞生物の細胞同士が運命共同体として同一テーマに対処して思考していると考えられる。
私たち一人ひとりが異なる環境で生活し、考える中で世の中が変化しているように、細胞脳の一つひとつがそれぞれ考えて、そのうえで生物体の方向性が決まっている。この理解を容易にする喩えを示したい。現在地球上ではおよそ65億の人が生活している。その中の一人である私一個人が何かを考えたとしても地球全体に影響を及ぼすことは何一つない。そのような一人ひとりであっても、全体としては有機的に関係しあって社会全体が成り立っている。
同様に、私一個人はおよそ60兆個の細胞から成り立っている。その中の細胞の一つが何か違うことを考えたとしても、私の頭脳はそれに影響受けることはない。しかし、一つひとつの細胞が考えて活動しているから全体である私一個人が生きていられるし、生活することができている。
生物の中でも動物の多くは頭脳を備えている。この頭脳が膨大な数の細胞脳を統括しているように見える。このことは私たち人がそれぞれ考える中で65億人を国連が統括しているようなものである。しかし、国連がそれぞれの考え方の総てをまとめ切れていないように、頭脳もまた細胞脳の考えの総てを掌握できてはいない。
頭脳はしばしば細胞脳の考え方とは異なり逸脱した行動をする。それではもしも国連がなかったとしたらどうなるか。なければないなりにそれぞれが知恵を働かせて生活することになり、これは頭脳を持たないとされる植物に相当する。植物には頭脳が存在しないが、植物の一個体を形成する何億個もの細胞脳がそれぞれ考えて生活しているから全体としての一個の植物が成り立っているであろう。
進化の変異とはそれら細胞脳の一つひとつが如何に考え、何をしようとしているかの表現の一つであろう。このことは私の身体の中では何の変哲もない60兆個の中の一細胞であっても私の方向性のための思考をしている。これは一人の私が見たり考えたりの体験していることと全く同じことが細胞の一つひとつで行われていることになる。
これは細胞の世界が私たちを真似しているのではない。私たちの生態系には細胞の世界が基礎にあり、そのうえに私たちの日常が成り立っている。このことは私たちの生活は細胞の世界を拡大コピーしていることに他ならない。なぜならば、私たちの世界である頭脳の世界は、細胞の世界の細胞脳によって創造されたものに他ならないとしている。
このことから、私たちの世界で真実を知ろうとするであるならば、拡大コピーされた頭脳を調べるのではなく、オリジナルの細胞脳を解析することで証明されるであろう。私たちは頭脳が唯一無二と考えることから総てが近視眼的になり、思考さえも視野が狭くなるもので、思考の視野が広げられるようになったとき細胞脳が掌の上に現われるであろう。
近視眼的視野
現在、人の脳の活動は脳波によって調べられているが、現在の脳波計測器がナノの感度を捕らえることができたとき、細胞脳が思考している状況が写し出されるのではないだろうか。ここでいうところの細胞脳と頭脳とでは、大きさとスピードが桁違いに異なるもので、まるで大陸移動と火山噴火に類似することから頭脳で細胞脳の思考を理解することが困難であろう。
このことは私たちが直接眼にすることのない細菌が何かを考えていたとしても、それを想像することは至難の業である。ましてや一個体として考えている私の身体の中に60兆個もの思考体があるとは考え難いことと類似である。少し考えを置き換えて欲しい。月面着陸した宇宙飛行士が見た地球は暗闇に浮かんだ青い星だった。もしも、彼らが地球人でなかったならば、青い星の表面近くに人を初めとした膨大な数の生物が活動していることを想像できたであろうか。私たちが火星や木星を見てもたいした想像できないように。
私たちはおよそ60兆個のそれぞれの細胞を見ているのではなく人や動物や植物として見ている。これは月面から地球見ているに相当するものである。宇宙飛行士が地球に戻ったとき人の生活がわかるように、私たちが細胞レベルの思考ができたとき細胞本来の活動状況を知ることができて理解が可能になるであろう。今はこのような大きさやスピードの違いのみならず、頭脳の概念とは形態としてもレベルとしても異なるものに頭脳による理解が追従できないのではないだろうか。
私たちは身の回りだけが良く見えて少し離れるとぼやけてしまい認識し難くなる。ヒトである私たちはヒトだけについては細かなところまで理解できるが、ヒトから少し離れると理解困難になる。東京の雑踏の中から友人を瞬時に見つけることはできても、牧場の牛の顔は総て同じに見えてしまう。ましてや春の田んぼに咲くレンゲの花はそれぞれの個性の違いを見極めることなどできるはずがない。
このことは直接的な視野に限ったことではなく、思考についても同様ではないだろうか。すなわち、ヒトの考え方はこのうえなく理解できるのに、他の動物については理解できないことが多い。ヒトと近似の類人猿については行動の多くを理解しようとするが、生物の系統樹で離れた種になると、たとえば、ヒトデやイソギンチャクは同じ動物でも理解することが困難になり、植物に至っては論外としている。ましてや個体レベルとは異なる分子レベルの思考など端から理解しようともしていない。
多細胞生物では一個体の総ての細胞が同じDNAを備えていているものの、それぞれの細胞は機能特化することで、体細胞では日常必要とする遺伝情報はDNAの中の極一部分でそれ以外の大部分は情報として備わっているが日常生活で必要とされることはない。いい換えると、余分なことをして間違えるのではなく、特化したことのスペシャリストになることであった。
これは現代社会では自動車のライン生産でボルト締めに作業特化することと類似である。機能特化した多細胞生物ではそれぞれの細胞が自らの領域で活動することや思考することである。このことは機能特化した頭脳についても同様ではないだろうか。
すなわち、頭脳は司令塔といわれながらもその大部分は自律制御の領域で、頭脳が意思制御できるのはごく限られた領域でしかない。このことは結果的に思考とする対象も極限られた身の回りの狭い領域に収まってしまうことになる。このようなことから考えるとき単細胞生物に頭脳は存在しないし、細胞が一個であるから機能特化もしていなため自律制御はなく意思制御であるとすると、総ての情報を自らの意思で活用する必要がある。このことは細胞脳の思考では近視眼的ではなく広い範囲が領域になる。
これは逆に総てを考えなければならないことは、能力の容量から次のステップに踏みだすことが難しくなるかもしれない。細胞脳が共通のDNA言語の不変性であるのに対して、頭脳には基本となる遺伝情報はない。それぞれの動物種が備えた情報を基にしている。そのため、動物による互いの会話が困難であることを意味している。さらに、頭脳のヒトが細胞脳の植物と会話するには、ヒトが細胞脳に立ち返る必要があることは言うまでもない。
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