ゲノムは生物にとってもっとも重要な遺伝情報である。そのゲノムによって生物は過不足なく形成される。それゆえ、ゲノムが異なる生物種では表現型に違いが現れることになる。 しかし、ゲノムの変化が総て表現型に現れるわけではない。ゲノムが変わっても表現型が変化しないこともあれば、その逆に、ゲノムが全く同じでも表現型に違いが現れることもある。 ゲノムと表現型の関係は必ずしも表裏一体ではなく、そこには
「何かが介在」 しているのでは…? このゲノムと表現型の間に介在するものが、生物の適応進化や多様性にかかわるとするもので、それが何かを考えます。
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従来進化で語られる変異の発端は突然変異 (遺伝子のエラー)とするもので、DNAの塩基配列に変化が生じることで生物の遺伝情報の一部が書き換えられて形質の一部が変異するものとされる。すなわち、形質が変異するためにはDNAの変化が不可欠ということになる。このことは逆に、生物を形成する唯一無二のものがDNAということで、DNAに変化がないとき生物の形質に変異は生じないことを意味するものとなる。
しかし、生物の中にはゲノムに変化が生じなくても、形質の一部が変化することのできる生物がいる。保護色といわれる昆虫の多くは環境に似せた色彩ではあるが、場所が変わったからといって自由に色彩を変えることはできない。しかし、タコやイカの中には色素細胞の色素を環境によって変えることや、体表の凹凸の変化さえも可能である。でも、これは色や表面変化で魚の婚姻食のようなものとして扱われるのであろう。しかし、動物の中にはもっと大きな変化を可能にするものがいる。
ミジンコ (後で説明)は自然環境の変化によって単為生殖から両性生殖に変わることができるし、単為生殖に戻ることもできる。さらに、生活環境の変化によって体表に刺を備えることができるし、その刺を消すこともできる。ミジンコは自然環境や生活環境の変化を認識して、その都度形質の一部を変えて対処するが、そのときミジンコのゲノムはその都度変化してはいない。
同様に、魚の中には生活環境の変化を認識して性転換 (後で説明)できる魚がいる。この性転換で重要なことは、数匹の雌の中で一匹が雄になり、残りの複数の雌はそれまでの雌を継続する。同じ雌の中から性転換するものとしないものとの違いは何か。それはゲノムの遺伝情報ではなく、複数の雌達は自らが雄に最適か否かの判断によるもので、それぞれの個体によって判断が異なる。そして、そのとき総ての雌にゲノムの変化は起こってはいない。ゲノムが変わらなくてもこのような変化が可能な生物がいる。
ヒトではこのように変化することはできないが、生物の中にはゲノムが変化しなくても形質の一部を変えることができる生物がいる。そして、そのときの変化は自然環境や生活環境の変化を認識したもので、変化した環境に適時適切に対処するものとなっている。勿論、これらは進化といわれるものではないが、進化に相当する変化が可能な生物がいる。これが意味するものは何であろうか。
生物にとってもっとも重要な遺伝情報のゲノムであるが、ゲノムによって表現型が
「がんじがらめ」になるのではなく、ゲノムと表現型の間に介在する機能があり、この機能によって環境の変化に対処できるのではないだろうか。ひょっとすると、DNAには物理的遺伝情報とは別の機能が存在しているのではないだろうか。
生物の姿かたちや体格では、個体によって違いがあることは数多く観察できる。そして、それらの個体差を決定するゲノムは、生物にとってもっとも重要な要素されている。しかし、@DNAの一部が変化することで姿かたちを左右することもあれば、ADNAの一部が変化しても姿かたちを左右させないこともある。そして、BDNAに変化がないから姿かたちに変化はないとしても、その一方で、CDNAに変化がなくても姿かたちに変化が表れることもある。
すなわち、総ての生物に備わるゲノムと表現型には強い因果関係があるが、常に1対1の関係であろうか?
@とBはこれまでの進化で通常いわれるもので、多くがこれに該当する。しかし、AのようにDNAの一部が変化しても、それが形質に直接的に関与しないものであるときや、真核生物のイントロンでは、たとえDNAの一部に変化が生じても、そのときの表現型に違いを観ることができないこともある。しかし、ここで考えようとしていることはCのDNAに変化がなくても姿かたちに変化が生じることである。
たとえば、カブトムシとクワガタの違いは遺伝子の違いによるものだが、カブトムシの角が長くなったり短くなったりすることや、カブトムシの雄の中でも身体の大きいものと小さいものは私たちが目にするものだが、これはすべて遺伝子によるものであろうか。これには二つのケースがあると考える。一つは遺伝子によるものであり、もう一つは遺伝子によらないもの。前者は通常いわれていることなので省略する。後者の遺伝子によらないものは、カブトムシについていえば、外骨格のカブトムシは成体になってから木の樹液の栄養によって大きくなったり小さくなったりすることはないが、幼虫時代に充分な餌を確保できた個体とそうでない個体では、成体になるときの大きさが異なることは知られている。
すなわち、ゲノムの同じカブトムシであっても、幼虫時代の生活環境に応じてその後の姿かたちの一部に変化が生じることがある。それゆえ、カブトムシの繁殖業者は幼虫が大きく成長できるような腐葉土を準備する。しかし、ここでは前提となるカブトムシのゲノムが同じであったか違っていたかは未確認なので、遺伝子によるものか幼虫時の餌の環境によるものか、どちらか一方と断言することはできない。
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一方、アマゴは渓流で生活する川魚で、成育の良いものは生涯渓流で生活するが生育の悪かった一部は海に下る。そして、繁殖期に海から戻ってきたものはサツキマスと呼ばれ、川で生活していたアマゴと比べると、体重で数倍
(5〜10倍)の大きさになっている。川から海に出たことによる環境の変化によってこれほどまでに変わることができる。これはカブトムシの角以上の大きな変化があり、一見すると別種の魚のように観られるが、アマゴのゲノムは誕生当時のままで変化はしていない。
一説には、川に比べて海は食料が豊富といわれる。そうであるとすると、川で生活するアマゴに充分な食料を与えると同じようになるのか。しかし、現実にはこれほど大きくはなれない。川で生活するはずのアマゴが海の環境に入ったことで、体内にはそれまで休んでいた遺伝子が活動して生育を助けたと推測することができる。
外骨格のカブトムシは成体では変化できないが、ゲノムが決まった産卵以降の幼虫時代の生活環境によって姿かたちに変化が生じる。同様に、内骨格のアマゴも誕生後にゲノムは変化しないが、渓流で生活するものと海で生活するものでは姿かたちに大きな変化が可能である。アマゴと同様に内骨格のヒトでは、成体になっても肥満やダイエットのように生活環境を変えることで多少の変化は可能で、体重の
10〜20%ぐらいは可変領域にある。すなわち、ゲノムにエラーが起こらなくても、姿かたちに変化が見られるということになる。
ここでゲノムが全く同じの一卵性双生児では、誕生したときの遺伝子は全く同じであるが、成長過程で必ずしも同じとは限らない。人の場合では同じ生活環境の十代までは姿かたちや性格まで似るとされる。しかし、二十代で別世帯になって生活環境が変わると、姿かたちのみならず性格や病気の発症率も大きく異なることが明らかになっている。中でも遺伝子の関与が疑われる癌であるが、胃癌や肝臓癌のように双子が同じ癌になることは極めて稀なこととされ、同じゲノムだから癌になったというものではないことになる。すなわち、全く同じ遺伝情報のゲノムを備えていても、総てが遺伝情報だけによるものではないことになる。
一方、成長過程で性格などの違いも表れてくる。同じ遺伝情報でありながら代謝によって作られるものは必ずしも同じではない。では、なぜこのような変化が生じるのか?
一卵性双生児の研究者はこれを 「ゆらぎ」という表現によって説明する。すなわち、備わる遺伝情報が同じであっても、総てが遺伝情報だけによるのではなく、「環境に応じて」変わる要素があるとしている。
ここで重要視することは 「環境に応じて」の部分です。これまでの生物進化の考え方では、DNAの複製ではエラーが生じ、そのエラーは大部分がマイナスの要素であるが、そのようなエラーでも中には、環境の変化に適応できるものに偶然遭遇することがあるとされてきた。それを選別するのが自然淘汰とされる。しかし、DNAは塩基配列に変化が生じると、放っておいて自然淘汰に委ねるのではなく、自然淘汰に晒される以前に自ら修正している。
そのようにして誕生した生物に備わるゲノムは、誕生当時のゲノムが生涯に渡って維持され、途中では変わらないものとされてきた
(転写や翻訳で生じるエラーもその殆どが修正される)。それゆえ、大部分の生物は正常な営みができて成体が維持されることになる。その一方で、DNAに変化が全く起こらなかったとしても、姿かたちの一部を変えることも可能である。このことは単に姿かたちにとどまるものではないと考える。すなわち、ゲノムに変化がなくても、それぞれのゲノムに備わる許容範囲の中で環境の変化に対応することができると考える。
視点を変えてみよう。一生物体が 100種類の表現型によって形成されるとする。その表現型は遺伝子と1対1の関係にあると、一つの遺伝子の変化によって表現型の一つが変化することになる。しかし、ここでは一つの表現型を複数の遺伝子によって形成すると考える。たとえば、100の表現型を備える生物の遺伝子が 300であるとすると、その中の一つを表現するのに、(175,176,179番目)によって表現されていたものが、環境の変化を認識することで、(175,176,181番目)に変えたとする。これによって表現型の一部が変化したとしても、これは誕生当時のゲノムで可能であり、遺伝子の変化も必要としない。
多細胞生物では細胞の種類によって異なる働きをして生物体を構成する。ヒトでは細胞種は
200以上とされることから、一つの細胞が必要とするゲノムの中の遺伝情報はごく一部で、多くは使用することなく生活できている。環境の変化によって大きなストレスがかかったとしても、成体中には誕生当時のゲノムを変えることはできないが、総ての細胞に総ての遺伝情報が備わっている。それぞれの細胞が日常必要とする遺伝情報は僅かであるが、一つの細胞で未使用の遺伝情報を利用することは、すでにゲノムの一部であるから遺伝子に変化が生じなくても使用可能と考える。すなわち、選択的スプライシングと類似のことが可能であると、ゲノムが変化しなくても形質の一部を変えることも可能になるのではないだろうか。
ここで考えることは、生物は誕生当時のゲノムによってゲノムと表現型が 1対1で画一的に固定されるのではなく、基本はゲノムによって定まるものの環境の変化に適応可能な可変領域があると考える。それは餌の確保によって充分な体格になったり痩せたりすることや、運動することで筋肉や骨格などを変えることが可能ということになる。
しかし、この可変領域もゲノムに存在しないものまで表現できるのではなく、それぞれの生物に備わるゲノムの範疇に限定される。それゆえ、カブトムシにクワガタの大顎が生えないことは、カブトムシにクワガタの大顎の遺伝情報は存在しないが、たとえカブトムシのゲノムに変化がなかったとしても、幼虫時の生活環境によっては、角や体格の可変可能な領域は存在することを意味している。同様に、ゲノムが全く同じ一卵性双生児であっても、ヒトにはないゴリラの遺伝情報を使用することはできないが、ヒトゲノムの中で一つの細胞が未使用の遺伝子であったり、そのゲノムに最初から備わる可変領域は、環境の変化によって対応できると考える。
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このようにゲノムは誕生当時のままで変化がなくても、姿かたちの一部に変化が生じるのはどういうことか。自然環境の変化や生活環境の変化に単に対処するだけではなく、環境変化に応じた適時適切な対処ができていることの意味するものは、細胞レベルで制御できるだけではなく適時適切な思考や判断に類似する機能によるものと推測する。もしも、そのような機能がなかったならゲノムが変わることなく形質の一部を変えることや、その変化の内容が環境適応と呼ばれることはないであろう。
細胞レベルでは、本来遺伝情報を前提に代謝が行われるが、環境情報によって変化する要素があるということは、細胞レベルの何らかの機能によって環境の変化を認識し、遺伝情報の知識を基に思考を巡らせ、その上で判断されたものが、「ゆらぎ」と呼ばれるものの正体ではないだろうか。この細胞レベルの何らかの機能とは、環境の認識や思考や判断に類似する機能と推測する。生物の細胞は機能分化が可能ということで、それら分化した細胞が優れた機能を備えるということは、認識,思考,判断に類似する細胞レベルの機能によって導かれていると考えられる。
すなわち、ゆらぎが意味するようなファジーなものではなく、一連の認識,思考,判断を可能にする細胞レベルの機能が備わっていると考えるべきではないだろうか。生物の細胞レベルでこのように理に適った活動ができているということは、私たち人を初めとして多くの動物が日常活動の制御を頭脳が司っているように、生物の細胞レベルの制御はこの機能が司っていると考える。環境に適応することはDNAの変化だけではない。基本的知識は遺伝情報にあり、その情報を基にして変化する環境を認識して思考する。その思考によって環境適応の最適手段を創造し、それに基づいて判断された結果が代謝や形質,機能などの変異として表現されることになるであろう。
ここでは今日認知されている進化とは異なる考え方をしている。これまでは進化を考えるとき、動物の足が鰭に変異することや、それまで哺乳動物になかった翼がコウモリに備わることが進化とされてきた。しかし、進化はヒト,ナマズ,タンポポなどという個体レベルで行われるのではなく、細胞レベルで行われる。すなわち、ヒトの細胞が
200種以上あるように、進化とは新たな細胞種に機能分化することや、一つの細胞種であっても細胞の数と分布によって形質や機能が異なることになり、それら細胞の集合体の変化で足が鰭に変わることで進化と見なされることになる。
このとき細胞単位でなされることは、総てのプロセスに目的があるゆえ生物体が維持されるもので、そこでは一つのエラーも許されてはいない。現実にはエラーはあるが、それらのエラーは正しいものに修正されることで細胞は日常の営みをすることができている。それゆえ、それら細胞の集合体である私たち多細胞生物も日常の営みができることになる。
従来論とここでの考え方が決定的に異なることが二つある。一つは初めに突然変異ありきか否かで、もう一つは変異に目的があるか否かである。ここでの考え方の基本は、進化の変異は 「むやみやたら」に生じるとはしていない。総ての生物が自然環境や生活環境が認識できている。その中で環境に変化が生じると、それに伴ってストレスが生じる。しかし、生物に備わる制御によって多くのストレスは解消できるが、自らに備わる制御能力以上のストレスを受けると新たな対処が必要になる。その対処が知恵だけでストレスを解消できれば良いが、知恵で解消できないとき変異が必要となり、新たな形質や機能を創造するもので、この創造ができたとき自ら変異を促して実行することになる。それゆえ、変異発生段階で目的は必要不可欠で、得られた形質や機能は変化した環境にこの上なく適応できることになる。適応進化といわれる所以はここにあると考える。
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生物が目的を持つこととは、その前提として、自己の認識や環境の認識、そして、思考や判断が可能ということになる。そこで思考や知性についてこれまで私たち人の一般的な考えでは、生物の中でもっとも優れた知性を備えたものがヒトとされ、そのヒトが思考できる部分は頭脳が唯一のものとされ、他に思考機能は存在しないとされてきた。だから、足の踵や膝小僧では思考できないことになる。そのような思考可能な頭脳であるが、生物の中にはヒトや鳥のように頭脳を備えた動物と、ウニやヒトデのように頭脳を備えない動物、さらに、頭脳の概念そのものが存在しないとされる植物が総て生物の範疇である。それゆえ、生物進化を考えるとき、思考や判断は一部の生物についてのもので、進化について生物総ての共通項にはなり得なかったと推測する。
すなわち、変異に目的があるとすると、目的までのプロセスではその目的を考えることのできる頭脳に類似する機能が必要になる。さらに、それ以前に自己の認識や環境の認識ができないと、目的を導き出すまでの思考や判断には至らないことになる。最近では粘菌の知性について語られることもあるが、今日認知される進化論が議論された時代に遡るとき、これらの思考や判断は生物総ての進化の共通項にはなり得ないということになり、目的論
(後で説明)は進化の議論から避けられるか、排除されてきたのではないだろうか。
一方、たとえ頭脳を備えたとしても、進化は細胞レベルによるもので頭脳の思考が介在できるものではない。なぜなら、創造可能な頭脳を備えた人であっても自らの意思で進化することはできない。これに対して、従来進化の発端は遺伝子のエラーゆえ、思考や判断が介在しなくても如何なる条件でもエラーは起こり得る。同様に、自然淘汰は人為の介在しないものである。このようなことで従来進化が認知されるようになったのではないだろうか。
しかし、生物ではセントラルドグマを初めとして総てが目的の上に成り立っている。この目的を強く後押しするものに適応進化がある。このときの環境適応は明らかに目的のあるものということになり、生物の大多数がこの環境適応を可能にすることで、変化する環境にも対処できてきた。しかし、それさえも目的論ということで排除されることになる。その対処として自然淘汰を利用することになり、変異の発端は目的のないエラーであっても、自然淘汰によって選別されることで、その時代に生息する生物は環境に適応できた生物ということになる。
しかし、自然淘汰の理論は単なる選別であって進化の要因ではない。進化の要因は変異の発端であるが、エラーから新たな環境適応可能とする機能誕生の創造が起こり得るであろうか?
遺伝子のエラーとは生物にすでに備わる形質の破損や機能の喪失であって新たな創造ではないと考える。
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ここではなぜこのような考えをするのか? 私たち人の日常が頭脳の制御と思考や判断によって営まれているように、ここでは頭脳に類似する機能が細胞レベルに存在するというもので、その機能で制御と思考や判断によってなされていると考える。もしも、そのようなものがなくエラーの繰り返しとその累積であったなら、それらの細胞はセントラルドグマを初めとする日常の営みができないことになり、このことは細胞の集合体である私たち生物も日常の営みができないことになるであろう。
これまで進化をすることとは、DNAは物理的遺伝情報で知恵や技術は介在しないとされ、物理的形質の変異について語られてきた。それゆえ、エラーであってもゲノムが変化することで物理的形質の進化につながることになる。
ここでは進化でもっとも重要とされる 「ゲノムと表現型」について考える。生物の形質となる表現型は遺伝情報であるゲノムを基にして形成される。それゆえ、異なる生物種を作るには異なるゲノムが必要になる。このゲノムによって総ての生物が過不足なく形成される。そして、ゲノムが変わると表現型は変わり、ゲノムが同じであると表現型も同じになる。これは通常いわれることであるが、これが総てではない。
ゲノムが変わっても表現型に変化がないことや、その一方で、ゲノムが全く同じでも表現型に違いが出ることもある。これはゲノムと表現型は必ずしも表裏一体ではないことを示すもので、ゲノムだけが生物の生体形成を司るのではないことになる。ここで考えるべきは、ゲノムと表現型の間に介在するものがあるのではないだろうか。
すなわち、総ての生物の基本はゲノムであり、ゲノムの変化によって生物種が異なることや、形質の一部が変異することになるが、生物の総ての部分がゲノムによって 「がんじがらめ」になるというのではなく、可変可能な領域がある。それは環境の変化を認識して環境適応できることになる。本来進化で語るべきは、この 「ゲノムと表現型の間に介在するものが何か」を語るべきもので、これが説明できたとき進化と多様性のメカニズムを生物学として説明できたことになるであろう。
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