2章 突然変異と自然淘汰の信憑性

今日大多数の人々に認知されている突然変異と自然淘汰について考えます。そこでは進化の考え方が必ずしも生態に基づいたものではないものを知ることなる。なぜか。これまで進化を考えるとき、人の見るべき視点に問題があったのではないだろうか。 生態から発せられる言葉の中からは、従来とは異なった進化の考え方が浮かび上がってくる。そのときの進化がどのようなもので、従来進化の考えと何処がどのように違うかを考えます。

もくじ
   認知された進化とは

   進化論の疑問

   評価基準の違い


   事故の変異と進化の変異

   ショウジョウバエの進化見ましたか?

   稲の品種改良

   遺伝子組換えの不安の要因は

   弱肉強食の競争原理

   進化と意図的個体差の認識
     

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認知された進化とは

進化についての考え方は、時代の流れと共に変遷してきた経緯がある。過去には、総ての生物は神様によって創造されたものであるとする時代があった。一方、数百年前に登場した考えに 「目的論」というものがある。たとえば、植物の種子に羽がついているのは、種子を遠くに運ぶ目的で備わったとすることや、動物の体表や植物の枝に備わる針や刺は捕食者から身を守る目的で備わったというもので、生物に備わる形質や機能にはそれぞれ目的があるという考え方となる。

そして、この目的論でもっとも多くの人に知られたことが、高い木の葉を食べる目的でキリンの首が伸びたとするラマルク説ということで、これらの考えは変異発生が生物の意図や目的によるという考え方である。しかし、この目的論のような考えは 17〜19世紀には生物学において支配的であったが、ダーウィンの進化論によって取って代わられ、それ以降、今日では生物進化の議論の対象とされてはいない。

なぜか? 人は自ら意識を持って目的をたてて行動することができるが、他の生物にはそのようなことはできないというもので、もしも、生物が目的をもつことができるとなると、それは神様の理論に委ねることになるとされる。今日の生物学では神様が介在しないとされることから、目的論は生物進化に相応しいものではないことで排除される方向になったと推測される。

それでは人が目的をもつことが可能で、他の生物では不可能とする要因は何か。人が目的を持つまでのプロセスには、思考や判断などが必要という以前に、自己の認識や環境の認識までもが必要とされるのではないだろうか。そして、このような環境の認識,思考,判断などの機能は、生物の中でも一部の動物に備わる頭脳によるものとしている。生物の中には動物でも頭脳を備えないものや、植物のように頭脳を備えないものが少なくない。そのような生物では目的を立てること自体が不可能なこととされてきたのではないだろうか。

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今日の進化では目的論は排除されたとしているが、それでは認知されている進化とはどのようなものか。これまでの進化論は多くの先人たちによって提唱されてきたが、進化の理論はその大部分が実験によって検証することのできない仮説とされてきた。そのような仮説の中で多くの人が正しいであろうとして、現在市民権を得ているものは 「進化の総合説」とされている。

これまで生物学の領域も科学の進歩とともに変化してきた。レンズが発明されて顕微鏡ができると、細胞レベルの理解が可能になる。そして、今からおよそ半世紀前にDNAの二重らせんが発見されて以降、進化の考え方は従来の外見的形質の個体レベルで論じるものから、分子レベルの領域に踏み込み始めている。そのような状況で 「分子進化の中立説」や、「利己的な遺伝子」などの考え方が登場するようになった。しかし、それら最近登場した進化論の多くも基本は総合説にあるとされ、その源はダーウィンにあるとされている。

この総合説とは、ダーウィンの自然淘汰説以降、ド・フリースの突然変異説や、メンデルの遺伝理論などが付け加えられて、ダーウィンの進化論を補うようになったとされている。そこで一般的な解釈を簡略して表現するならば、進化とは目的のない突然変異がランダムに発生する。その変異した生物の中で環境に適応した変異の個体は自然によって選択され、適応できない変異の個体は自然によって淘汰されるとして、環境に適応できることが重要な要素となる。これによって突然変異,自然淘汰,適応進化,交雑,さらには遺伝の知識などを合わせて進化の総合説とし、この突然変異が遺伝子 (DNA)のエラーということになる。

進化のプロセスは突然変異と自然淘汰の繰り返しと累積によるものとされるが、遺伝子のエラーはその名の通りエラーであるから、その大部分が生物にとってマイナスのものである。そのようなエラーであっても中には変化する環境に偶然マッチングできるものがあるとされる。しかし、自然界でこのようなエラーが環境に偶然マッチングすることはめったになく、一般的に進化の確率は数百万年に一つとされる。この長い歳月を必要とすることが進化の理論が仮説といわれる所以の一つで、私たち人の短い一生 (数十年〜百年)では進化の変異を観察することは困難とされる。

これらが今日の生物進化で語られて、多くの人に認知されている総合説の概略のようである。しかし、総合説が過去の幾つもの考えを取り込んだといわれる成り立ちから、その総合説についての解釈は必ずしも一つに絞りきれてはいないようである。そのため、上記に示した解釈とは異なる解釈もあるようである。しかし、ここでは総合説の解釈について云々するものではない。それゆえ、ここではとりあえず突然変異 (遺伝子のエラー)と自然淘汰による累積が進化につながるとしておく。

それでは上記の目的論で述べた植物種子の羽について、総合説ではどのように考えられているか。このときの種子の羽は風を利用して遠くに移動する目的で備わったというものではないことになる。変異の発端は遺伝子のエラーによるもので、それまでとは少しだけ変異した種子に小さな皮膜をつけたものが誕生し、その変異した種子は他のものより少しだけ遠くに行けて命をつなぐことができた。そのような偶然の繰り返しと累積によって小さな皮膜は次第に大きくなって羽の姿に進むというもので、種子に備わる羽の誕生に風を利用するという目的は存在しないというものである。

このことから、突然変異と自然淘汰の考えとは、変異の発端は遺伝子のエラーによるもので、それらエラーの変異体は生きる過程で自然環境に晒される。このとき大部分の変異体は環境適応できずに滅ぶことになるが、中には環境変化に偶然適応できる変異体がいるという。この遺伝子のエラーと自然淘汰が1回では変異の量は僅かで進化には値しない。しかし、この遺伝子のエラーと自然淘汰が繰り返されて累積されると、形質変異として認識できるものになって進化生物に値するとされることになる。




進化論の疑問

それでは現在認知された総合説には誰もが納得できているのであろうか。この総合説に疑問をもつ者がいることも確かである。総合説にはその誕生の経緯からいくつかの考え方があるとされる。そして、総合説を前提にして進化が論じられるとき、使用される用語にはさまざまなものがある。その一例として、突然変異,自然淘汰,多様性,収斂進化,共進化などがあり、それに付随するものとしては相互作用,一連の化学反応,遺伝情報のプログラム化などがある。これらの用語が総て総合説で認知されたものか否かはそれぞれ解釈の違いもあるようだが、今日進化が語られるときしばしば登場する用語ではないだろうか。

さらに、総合説は新たな理論を取り込むといわれることがあり、一部では分子進化の中立説もいずれ取り込まれるのではという見方もある。総合説の名の通り多くの理論を取り込むことは、異なる生態の生物種であっても数多くの用語のどれか一つぐらいは該当するものが見つかることになる。それゆえ、対象生物によって用語を変えることや、個体レベルや分子レベルの違いによって異なる用語を引用することになるのではないだろうか。すなわち、総合説に多くの考え方を混在させることで、都合によって使い分けることが可能になるのではないだろうか。

しかし、使用される用語の中には、収斂進化と多様性は使い方によっては反対の意味になってしまうこともある。変異の発端は目的のない遺伝子のエラーとしながら、自然淘汰によって収斂進化になることもあれば、多種多様になることもある。しかし、そのときの分岐点が如何なる条件によって分かれるかは示してはいない。

これらを突然変異と自然淘汰で説明するならば、如何なる条件のとき収斂進化になり、如何なる条件のとき多様性になるかを示さなければならないが、それらは示されてはいない。一方、遺伝子のエラーは変異に目的はないとされるが、共進化では対象生物の影響を受けるもので変異に目的があると説明されることもある。このように多くの考え方や用語が混在する中では、さまざまな解釈が成り立ってしまう。これらから多くの人に認知されている総合説ではあるが、本来の生物学としての説明ができているのであろうか?

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視点を変えてみたい。数百年時代を遡ったとしよう。その頃の生物の誕生について、総ての生物は神様によって創造されたものとされ、そこに少なからず疑問が生じていたとしても、神様のなされることは人為を超えたものとされ、理論的解決できないものであってもそれ以上説明を求めることはなかった。その頃の科学者の中には化石発掘の分析から、神様の創造ではない考えをするものがいたとしてもごく少数で、多くの人は神様をオールマイティーと考えていたのであろう。

現在の生物進化についての認識は、突然変異と自然淘汰によって語られる。突然変異というものは、理論とは関係なく事故によるものであるからそれ以上の理由は必要とされない。同様に、自然現象は人為を超えたものであるから自然淘汰についてそれ以上の理由も必要とされない。それゆえ、そこに少なからず疑問が生じていたとしても、それ以上の理論的説明を求められることはない。

生物の進化は数百年前の神様の理論から、生物学の理論に移り変わったとされる。しかし、突然変異と自然淘汰の考え方は神様と類似の発想ではないだろうか。そこでは生物でありながら、生物の意図や目的さらには思考や判断が介在しないものとされてきた。しかし、生物が生物である所以とは、これら意図や目的さらには思考や判断が備わることこそが、生物たる所以ではないだろうか。

人の行動に目的があることはいうまでもないが、動物の行動にも目的があり、植物だって目的を持って生きていると考える。同様に、細胞の中で行われているセントラルドグマを初めとして、細胞レベルの活動に目的のないものは何一つない。このようなことが遺伝子のエラーからの発想と何処でつながるのだろうか。

ここでは突然変異や自然淘汰が進化の本質とは考えていない。生物は自らを認識し、環境を認識できている。さらに、生物は生きる上で思考や判断に類似する機能が備わっていると推測する。それは私たち人が経験していることに似たものということになる。勿論、それぞれの生物種が備える物理的要件に違いがあることから、それらの能力や考え方には違いがあることは言うまでもないが、生物としての根幹となる基本は総ての生物に備わっていると考える。このような根幹となる共通機能が備わることで、生物が生きるという意味での類似の発想が可能になる。その一方で、ゲノムの違いによるそれぞれの生物に備わる遺伝情報の違いと能力の違いから、生物はそれぞれ異なった進化をすることになる。それだからこそ生物なのではないだろうか。

ここで考えるように、進化には生物の環境認識,目的,思考,判断が介在するというと、進化はそのようなものがなくてもメンデルの法則によって変化することがすでに実証されているといわれる。しかし、この有性生殖は交配による組み合わせで、このときの子供に表れる形質は、すでに父方,母方に存在する遺伝子が表現型として表れるか隠れるかによるもので、新たに進化したというものではない。

さらに、メンデルの法則は有性生殖に限定されるもので、有性生殖は生物の一部であって総ての生物が有性生殖をしているのではない。それゆえ、性とは縁のない原核生物にメンデルの法則は適応できないが、その原核生物も1種類ではなく、進化をして異なった種がいることに違いはない。このように従来進化では、一つの理論で特定の生物群の進化を説明することはできても、同じ理論で別の生物群の進化を説明できないことがある。

それぞれの理論で語ることは、進化のごく限られた狭い領域の限定的理論であって、それぞれの理論が総ての生物に当てはまるものではなかった。それゆえ、いくつもの理論を混在させざるを得なかったのではないだろうか。さらに、それまでの総合説で説明できない新たなことが生じるとき、たとえば分子進化の中立説も取り込む必要になるのであろう。しかし、現実には総ての生物が進化をしてきた。これは個々の理論が混在するのではなく、大きな一つの理論によって進化が成り立っていると考えるべきではないだろうか。

これまでの進化では、生物の本質を排除して物理的形質の変異だけを進化として扱ってきたのではないだろうか。生物が環境適応することは遺伝子のエラーによる物理的形質だけではないと考える。環境適応の大部分が知恵や技術によるものであるが、これまでは遺伝情報が関与できるのは物理的形質ということから、知恵や技術は進化の要因とはされなかった。





評価基準の違い

現在認知されている生物進化について、異論を唱える人は殆どいない。そのような人でも、生物について不思議と感じている人が少なくない。たとえば、過去に時代を遡って、音は耳で聞こえるものを総てとするとき、私たちの耳で聞こえない音は存在しないとしてきた。それゆえ、そのような時代では、洞窟の暗闇をコウモリが壁に衝突することなく飛ぶことは不思議とされた。しかし、その後、超音波の領域を認識できたことで、人の耳の機能で認識できない音も存在することを理解することになり、それまでのコウモリの不思議は解消されることになる。

しかし、過去のコウモリの不思議は解消できても、今日でも生物についての不思議がある。これは私たち人に備わる目や耳の機能を初めとしてオールマイティーではない機能から得られた情報を基に考えると、自然界の総てが正しく認識できているのではない。その結果、生物の生態やメカニズムになると、さらに多くの不思議や疑問を感じることになる。科学の分野で不思議や疑問があることは、その何処かが事実と異なっているか、または過去の超音波のように存在するものの一部が認識できていないのではないだろうか。

一方、これとは異質の疑問もある。私たち人の社会では、自動車,テレビ,パソコンなどの産業製品は、人の科学技術に基づいた思考による知的創造物とされている。同様に、敵潜水艦の探査を目的とした超音波装置についても、科学技術による知的創造物とされてきた。その一方で、それと同じ超音波が、ヒトが誕生する遥か以前に同じ探査を目的として、イルカやコウモリが自らの身体に備える超音波の機能は、ランダムに生じた突然変異 (遺伝子のエラー)によるものとされ、決して彼らの思考や知的創造物とされることはない。同じ超音波がなぜ人では思考による知的創造物で、人以外の生物では思考の介在しない間違い (遺伝子のエラー)によって生ずるのか。

これは何も超音波に限ったものではない。類似のものでは植物種子の表面に鉤状の突起物が備わるものがあり、この鉤によって動物の体毛を利用して種子を拡散させて、生息領域の拡大に利用する植物が存在する。この種子の鉤を真似したマジックテープは人の発明品であるが、そのオリジナルを創造した植物は間違いによって備わったとされる。一方、植物が備える代謝産物にはさまざまなものがある。それを抽出して人の利用可能なものにすると発明品とされるが、それを創造した植物は間違いによって体内に備わるとされる。

これらは動物に備わる機能や植物の代謝産物などについてだが、これ以外にも地磁気を感知する蝶や、植物のレンズ構造の利用など、他の生物が備えているであろう知恵や技術には、未だ人が理解することのできないものがたくさんあると推測する。これらは同じ一つのことでも、人では発明品や知的創造といわれるものが、人以外の生物になると遺伝子のエラーによって備わるものとされ、評価基準が異なっている。

進化がどのようなもので変異の要因がどのようなものかを論じる以前に、進化を語るとき、人と他生物との間に大きな隔たりを自ら作り、本音と建前を使い分けているのではないだろうか。なぜこのような発想になるのか。人は自らを 「万物の霊長」と表すように、生物の 「ヒト」としてではなく文化を備えた 「人」として生物の中でも特別としていることが、このような発想になるのではないだろうか。

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今日では、生物進化で語られる形質の変異は遺伝子のエラーによるものとされ、それは物理的形質が変化するもので、そこでは生物の意思や思考などが介在しないものとされている。それゆえ、私たち人の考えでは知的創造に値するものでも、それが生物の形質や機能の一部になると、思考や知性の介在しない目的のないエラーということになる。それゆえ、このような超音波を初めとした同じ対象物であるにもかかわらず、生物の進化になると異なる評価基準によって説明されてきたのではないだろうか。

人と他生物との間にこのような違いがあるのはなぜか。そして、その違いはこれまで如何なるメカニズムによって説明されてきたか、私は聞いたことがない。同じ対象物を創作することが思考によるか、間違いによるかは正反対である。すなわち、生物の進化を考えるとき思考も間違いも 「ごちゃまぜ」の状態で、生物種がヒトであるか否かによって知的なヒトでは思考であり、愚かな他生物では間違いというように、都合によって使い分けていると考えられないだろうか。生物について不思議に感じたり疑問とするのは、この辺にあるのではないだろうか。

ここで考えようとすることは、人にとってエラーからでは生じ得ない知的創造物は、他生物であっても同じ知的創造物であろうと考える。もしも、そこに違いがあるとするならば、知的創造とエラーという違いではなく、同じ知的創造でも頭脳による思考と頭脳以外による思考の違いではないだろうか。そして、前者の頭脳思考は人が認識できるものであるが、後者の頭脳以外の思考については人が認識できなかったのではないだろうか。それは過去の超音波のように。結果として、それら頭脳以外の思考はたとえ知的創造であってもエラーとみなされたのではないだろうか。

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ここでは従来進化の考え方と、ここでの生物進化の考え方に、如何なる違いがあるかを多くの生物の生態から振り返り、生態から何が読み取れるか考える。ここでは生物の進化に介在する認識,目的,思考,判断などの機能がどのようなもので、生物の何処に存在し、どのような思考メカニズムか具体的に考えようとしています。さらに、これまで唯一思考ができるとされる頭脳との関係がどのようなものかを考えます。このような中から進化が間違いによるものではなく、それぞれの生物の思考と知性によるもので、ゲノムと表現型の間に介在する細胞レベルの 「もう一つの脳」が存在すると考える。




事故の変異と進化の変異

これまで多く人に認知された進化の考え方は、まず初めに 「突然変異 (遺伝子のエラー)」ありきで、これが進化の総ての出発点になっている。そこでの遺伝子のエラーによって生じるものは形質の優位性や劣位性とされている。この結果、表現されるものは争いに強いか弱いかであることや、子孫を残すときの繁殖力が優れているか劣るかで、このときの優劣の差異は極めて僅かとされているが、このとき自然淘汰によって劣位性は淘汰され、優位性は生き残るとするもので、このとき生き残った僅かな優位性が継代によって累積されると進化生物になり得るとされてきた。これが従来の突然変異と自然淘汰の考え方の一つとされる。

このことから、従来論の進化の起点はエラーから始まるものとされ、単一の変異だけではなく一連のプロセスを必要とする変異や、如何に優れた機能であっても、総てがエラーの繰り返しと累積によるものとされてきた。しかし、ここではそのように考えてはいない。ここでは変異発生にはDNAの塩基配列が変化した段階で二種類の異なる要因が存在すると考えるもので、それが
「事故の変異」 「進化の変異」ということになる。

前者の事故の変異とは、従来の突然変異といわれる目的のない遺伝子のエラーで、これは生物にすでに備わっている形質の破損や機能の喪失で、欠陥を意味するもので単なる事故でしかない。それらの欠陥は内容によって事の重大さの大小があり、誕生してまもなく死ぬものと、ある程度生きられるものとがいることになる。その何れであってもマイナス要因以外の何物でもない。そして、この欠陥を負った生物が通常の営みができずに死に至っても、それは形質の相対的劣位性による自然淘汰ではなく、事故による死と扱うべきものであろう。それとは逆に、マイナス要素が軽微なことで生き残ったとしても、将来につながる進化種にはなり得ないと考える。

一方、後者の進化の変異は単なる形質の変異というよりは、形質の変異を支える細胞レベルの新たな機能の創造が必要となるであろう。これは生物自らが環境を認識して、環境の変化によって生じるストレスを解消するため、自らの思考によって目的に合わせて知的創造したものとする。それゆえ、これによって新たに備わる機能は、変化した環境に限りなく適応したもので、大多数の生物が適応進化といわれる所以はここにあると考える。だからといって、生物が変異の必要性を認識して思考したら直に新たな創造ができるのではなく、内容によっては長い時間が必要とされるものもある。

ここでの適応進化は、自然淘汰によって選別されたから環境適応できたのではなく、環境の変化を認識した生物がその対処としたものであるから環境適応できたと考える。結果として、変異が環境に適応できていることは、それだけ生物の思考による創造力が優れていることを示すものである。

これまで遺伝子病などの存在から、遺伝子のエラーがあることは事実である。一方で、生物が進化してきた事実から、進化の変異による遺伝子の変化があることも事実である。この二種類は人の頭脳レベルでは何れもが単なる塩基配列の変化として同じに見えるとしても、分子レベルのDNAの変化発生過程では全く異なる要因によると考えている。それゆえ、これによって生じる結果も事故の変異と進化の変異の二つに分かれることになる。このようにして別れた形質や機能は、もはや自然淘汰の篩にかけて選別する必要はない。このことは自然淘汰の考え方そのものが存在しないと考えている。

しかし、従来はこの二つを分離して認識することができなかったと推測する。結果として、見かけによるプラスの要素とマイナスの要素は、生物の適応進化という結果から逆推理することで、自然淘汰の理論を作り上げ、それに委ねたに過ぎないということになる。

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視点を変えてみよう。進化が突然変異と自然淘汰によるもので、総ての生物がこの理論通りに進化してきたとしよう。すなわち、DNAに変化が生じたときその総てがエラーによるものとする。そのエラーは大部分がマイナス要素のものであるが、エラーの中には稀にプラス要素もあるとして、そのプラスが進化の変異としている。そして、このマイナス要素とプラス要素は自然淘汰によって分離されるから、いつの世代であっても生き残っている生物は環境適応できているとされる。

しかし、分子レベルではそのように考えてはいないと推測する。なぜなら、分子レベルではDNAの塩基配列にエラーが生じると、直ちに修正されて正しいものに置き換えることをしている。このときのDNAの判断は、エラーは単なる間違いであって進化につながらないと考えていると推測する。もしも、エラーの後に自然淘汰によって選別されるとDNAが理解するなら、わざわざ修正する必要はなく放っておいても良いことになる。だが、DNAはエラーを放っておいて自然淘汰に委ねてはいない。

進化で語られる形質の変異には確かにエラーといわれるものがあるし、その一方で優れた機能を備えた生物がいることも確かである。しかし、これは環境適応の中でも形質についてだけ対象としているものである。生物が生き続けるために環境適応することとは形質に限定すべきではない。多くは自らに備わる制御によって可能であるし、それ以外にも知恵や技術によって環境適応できている。そして、形質の変異による環境適応は総ての環境適応の一部でしかない。

さらに、制御や知恵や形質によってなされる環境適応は、変化した環境を認識して正しく行われている。その一方で、生物が継代して生きていくためにはシステムが複雑ゆえの間違いもある。しかし、この間違いは単なる間違いであって、生物の進化とは直接関係のないものと考える。この進化とは直接関係のないエラーを生物進化の発端にすることが、もっとも大きな間違いではないだろうか。




ショウジョウバエの進化見ましたか?

今日では生物進化というと、誰もが鸚鵡返しの如く 「突然変異と自然淘汰」と回答する。しかし、ここでは突然変異が進化にはつながらないと考えている。生物の変異には事故の変異と進化の変異の二種類があると考えている。なぜ、そのような考え方をするのか説明したい。

生物の中でもショウジョウバエは進化を研究する上でこれまで利用されてきた。20世紀の初めから続けられてきたショウジョウバエの遺伝実験によって、ショウジョウバエは通常の 150倍ものスピードでX線放射を初めとして物理的に衝撃を与えたりして変異を誘発させ、何千世代にも渡って継代飼育されてきたとされる。そこで生じた変異の量は膨大なもので、ショウジョウバエの進化の歴史を凌ぐ量の変異が試みられたとされている。

これは自然界で生じる突然変異や自然淘汰を人為的に置き換えたということになる。それらの膨大な実験で誕生したショウジョウバエは翅がねじれたり、翅がまったくなかったりなど数多くの奇形がつくられたが、どれも皆ショウジョウバエであることに違いはなかった。ショウジョウバエが他の昆虫に変わることはなく、ショウジョウバエの新種さえも作ることができずに、ショウジョウバエの進化した個体は一匹も誕生しなかったとされている。

このことの意味するものは、正常体と奇形体のそれぞれの個体と遺伝子を比較することで、どの遺伝子がどの形質を表現するかは分かることになった。しかし、そうした実験によって生じさせた突然変異とは、ショウジョウバエの意思とは関係なくショウジョウバエに人為的に危害を与え、生まれながらにして傷害を負ったショウジョウバエを誕生させたことで、進化とは異なる事故による変異ではないだろうか。もしも、ショウジョウバエの進化の変異を見ようとするならば、ショウジョウバエの遺伝子を物理的傷害によって事故に遭遇させるのではなく、知的刺激によって思考可能な知性を引きだすよう促すことが採るべき手段ではなかっただろうか。

一方、過去には進化の実験と称して何千匹ものネズミの尻尾を切り続けたが、その子孫から尻尾のないネズミは産まれてこなかった。それゆえ、獲得形質は遺伝しないとする理論を主張した研究者もいた。このようなことは進化の本質を間違えているのではないだろうか。X線放射で遺伝子を破損させることや物理的に尻尾を切り落とすことは、その何れもが生物の意思とは関係なく、生物の意思を無視して危害を与えたもので、生物にとっては身に降りかかった事故である。事故は生物にとってマイナスの要素であって、たとえ何万回繰り返しても、そこから進化につながるものにはなり得ないであろう。

ショウジョウバエとネズミの違いは、ネズミは肉体的損傷であって遺伝子に事故は起きてはいなかったもので、ショウジョウバエではX線によって遺伝子傷害が起きていたことの違いによるものであろう。遺伝子にまで傷つけることで子孫に影響を及ぼしたからといって、遺伝子に事故の変異が発生したことの確認はできるとしても、これによってショウジョウバエの新たな種の誕生にはなり得ないことになる。これまで進化で語られてきた遺伝子のエラーであるが、如何に多くの遺伝子のエラーを起こしても、そのエラーから進化生物が誕生することはないということになる。

もしも、生物の進化が突然変異と自然淘汰によるものであるとすると、これだけ多くの遺伝子のエラーを生じさせたということは、人為的に突然変異を作り出してきたことになり、それらの実験の中で 5種や 10種の進化した生物を見ることができるのではないだろうか。たとえば、ショウジョウバエがクモにはならないとしても、小型のハチかアブに類似する昆虫ぐらいには変異して欲しいと願うのは、私だけであろうか。しかし、そのような進化生物を私は見たことがないし、ショウジョウバエの進化種という話を聞いたこともない。

ショウジョウバエの歴史を凌ぐほど膨大な突然変異から一つの進化も起こらなかったならば、それは進化の発端を突然変異とすることが誤りではないだろうか。すなわち、突然変異は進化にはつながらず、進化は突然変異とは 「別物」ということになる。ここでは事故の変異と進化の変異に分ける要因の一つはここにある。




稲の品種改良

ショウジョウバエの実験では、自然界で生じる遺伝子のエラーを人為的に起こして自然淘汰を人為淘汰に置き換えることで、ショウジョウバエの歴史を凌ぐ進化実験がされたとしている。これに類似のものが家畜や栽培植物の品種改良ではないだろうか。品種改良では自然淘汰を人為淘汰に変えることで進化のスピードを速めるとされ、それらの多くは数十年で新たな品種が登場している。そこで稲の品種改良について触れたい。

たとえば、数十年前まで北海道では稲作はできないとされてきた。それゆえ、北海道の主要農産物はビートやジャガイモなどであった。その後の稲の品種改良によって北海道でも稲作が可能になり、今日では北海道でもさまざまな品種が栽培されるようになっている。その結果、現在北海道は新潟県に次いで全国で第二位の収穫量を上げるまでになっている。過去には寒い北海道では稲は育たないとされたが、その寒さにも適応できる品種が誕生したことは、進化でいわれる環境適応の一つである適応進化ということになる。平均気温の数度の違いに生息できなかった稲が、生きるだけではなく籾を作れるまでになったということは、これが数十年ではなく数百年から数千年になると、さらなる変化も可能ということになるのではないだろうか。

その品種改良の細かなプロセスは知り得ないが、推測するに。日本でもっとも寒い東北の稲を北海道に植えて、枯れずに生き残ったものを選んで交配を繰り返す中から、籾が確実に稔るものを選び出したのであろう。この品種改良がなぜ可能であったか推測するに、東北地方の稲を北極圏近くで栽培したとすると、大部分が生きられずに枯れてしまったであろう。すなわち、短期間に限界ストレス (生物に備わる制御能力を上回るほどのストレス (後で説明))を超える環境になったことを意味するもので、このときの稲は事故に遭遇したことになる。しかし、東北地方より少し寒い北海道では、稲は限界ストレス付近で生き残りの対処のために試行錯誤することになるであろう。

稲の中には寒さで枯れるものがあったとしても、かろうじて生き残るものもでることになる。それらのなかから成育の良いものを選ぶことで、確実に実の詰まった籾が誕生することになる。ショウジョウバエと稲の違いは、前者は強制的に遺伝子にエラーを起こさせたものであるが、後者は自然環境の寒さを変えることで稲自らに生き残りのための変異を促したということになるのではないだろうか。すなわち、東北の環境から北海道の環境に変えることで、生物 (稲)自らが生きようとする能力を引き出そうとしてきた。

稲の品種改良では北海道という異なる環境でも生きることのみならず、籾を実らせるまでになったということは、環境の変化に対しての適応進化に値するものである。この時期にはまだ遺伝子組換えの技術は確立されていなかったが、これに要した期間は数十年とされる。この数十年で可能になった適応進化は進化には属さないのであろうか? そのようなことはない。突然変異と自然淘汰では、このような繰り返しと累積によって環境適応できることが進化につながるとされてきた。一方、ショウジョウバエでは彼らの歴史を凌ぐほどの遺伝子のエラーを繰り返したにもかかわらず、進化種は誕生しなかった。

もしも、北海道で実を結ぶ稲が進化と扱われないとすると、その理由は何なのだろうか。ひょっとすると、東北から持ってきたものと外観の姿かたちに際立った変化が見られないことだろうか。それとも、進化には数百万年必要とされるのに、数十年という短期間に環境適応できたため進化として扱われないのであろうか?

ショウジョウバエと稲の二つが語るものは、生物進化はエラーから起こるのではなく、環境の変化を認識した生物自らの生き残りのための意図した手段ではないだろうか。そのようにして品種改良できた稲と、東北から持ってきた稲との間で遺伝子に違いがあったとすると、従来論では遺伝子のエラーによって適応進化に至ったとされるであろうが、ここではショウジョウバエのようにエラーは進化にはつながらないと考える。稲が北海道の寒い環境に適応するためには、DNAとして自らの遺伝情報の一つや二つ変える必要があったとすべきではないだろうか。

このことは稲だけではなく人についてもいえることである。ヒトという生物種だからといって総てのヒトのゲノムが同じではない。ヒトの中でもそれぞれが持つ遺伝子にはおよそ 0.1%の違いがあるとされている。事件を起こした犯人を識別するDNA鑑定は、その違いを利用することになる。それではこれは遺伝子のエラーか。それは違うであろう。有性生殖の組み合わせによる変化があるが、人であっても地球上のどこで生活するかによって自然環境は違い、生活環境も違う。そのような異なる環境で生活するには、遺伝子の幾つかは変える必要がある。

もしも、この 0.1%の違いが突然変異 (遺伝子のエラー)であるとき、従来の考えではそれらの大部分はマイナス要素で自然淘汰されることになり、そのよう人たちは生きていないことになる。結果として、ほんの僅かな違いを拠り所にしたDNA鑑定はできないことを意味している。すなわち、遺伝子のエラーによって 0.1%の違いが起こり、変化した環境に偶然マッチングできたのではなく、異なる環境で生活するには必要がゆえの遺伝子の変化というべきものではないだろうか。

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一方、近年稲作では寒冷気候の北海道とは別の問題がある。温暖化によって従来の気候より暑すぎて、これまでの品種の稲では高温障害が起こり籾の品質が悪くなって、米飯にならないものが増加している。そこで南の沖縄や九州では北海道のときとは反対に、今までより暑い気候でも正常に籾の稔る稲の品種改良に最近になって取り組み始めているとされる。その取り組みは夏の温室にさらにボイラーで室温を上げて、酷暑の環境でも生き残れる稲を探しているのだそうである。そして、数十年後には平均気温が 2〜3℃上がっても栽培可能な稲ができる予定だそうである。

ここで一つの問題がある。稲の品種改良ではそれまでより寒い環境でも生きられて、実を結ぶことのできる環境適応した種が数十年で誕生した現実がある。このような品種改良の稲も環境適応であるから、適応進化の一つに値する。一方、通常の進化では遺伝子のエラーの中から環境の変化に偶然適応できるエラーは数百万年に一つとされる。その数百万年とするのは、最後に登場したとされるヒトの誕生が数百万年前ということが根拠になっているとすると、この数字にはたいした意味があるとは思えない。

さらに、ヒトの歴史より長いショウジョウバエの歴史を凌ぐほどの遺伝子のエラーを起こしても、進化の一つも見られなかった。これまでの適応進化とは何を基準に進化というのであろうか。このようなとき進化ではどのように説明されるか。その一つの例は、自然淘汰と人為淘汰の違いといわれる。自然淘汰を人為淘汰にすることによって、進化の速度を速めることができるとされる。しかし、稲もショウジョウバエも何れも人為淘汰の範疇である。

これまでの考え方では、生物によって数十年で進化できるものもあれば、数百万年必要とするものもある。さらに、数千万年に値する遺伝子のエラーを繰り返しても進化が起こらないとする整合性はどこにあるのか。これは変異の発端とする遺伝子のエラーという考え方そのものに問題があるのではないだろうか。

一方、自然淘汰は生き残りか死滅かの選別をするものであって、環境の変化に適応した遺伝子の変化を導き出すことに自然淘汰は介在することはできない。進化の本質がDNAの塩基配列の変化であるなら、遺伝子を変える要素は目的とする形質を備えた人工交配であろう。しかし、たとえ人工交配によるとしても、それまでとは異なる環境に適応できる遺伝子がエラーから起こり得るであろうか。

生物は環境が認識でき、環境が変わって限界ストレス状態では死ぬものがでるが、総てが死ぬだけではなく生き残ろうとするものがいる。そのとき、その生き残りの対処が制御や知恵であったり、遺伝子の変化であったりすると考える。




遺伝子組換えの不安の要因は

ショウジョウバエでは進化種が誕生しなかったにもかかわらず、遺伝子組換えでは新たな機能を備えたものが次々に生み出されている。これは進化であるか否かであるが、これは定義のしかたの問題であろう。ある生物が異なる遺伝子を備えることで、それまでなかった機能を得ることができたとき進化と見なすならば、これも進化の一つに含まれる。しかし、遺伝子組換えでは物理的に変異はしているが、その変異に対しての細胞レベルの思考や創造は一切なされていない。これは生物自らに備わっている遺伝子でありながら、自らの思考や創造によらない物理的変化で、生物にとっては事故に相当するものである。

遺伝子組換え食品はすでに市場に出回っているが、消費者の多くはこの遺伝子組換え食品に不安を抱いている。その理由は何か。従来の考え方では、変異はすべて遺伝子のエラーとされている。そうであるならば人によって物理的に遺伝情報を移し替えることは、生物にとって遺伝子のエラーに相当する。もしも、従来論を正しいとするなら遺伝子組換え食品に何の不安もないはずである。それにもかかわらず消費者の中に不安を抱く人がいる。その不安は消費者のみならず、行政や専門の学者さえも安全性に疑いを持っている人がいる。このことが意味するものは何か。

これは生物が備えている遺伝情報は遺伝子のエラーではなく、思考による知的創造物と認識しているのではないだろうか。多くの人は口にはしないが、生物に備わる多くの知的な機能は、間違いによってできるとは考えていないのではないだろうか。それゆえ、ある生物から遺伝情報の一部を切り取って他の生物に物理的に移し変えることは、生物が遺伝情報を備える本来の手段とは異なると考えているのであろう。

すなわち、生物は遺伝情報の間違えによって進化するのではなく、知的創造によって進化していると考えると、単に遺伝情報を切り取って移し変えることは、生物自らの思考によらない変異に伴うリスクがあることを心配していると推測できる。そして、これは現段階では人の頭脳で予測できない領域としているのではないだろうか。

これまでの遺伝子研究とは、遺伝子を傷つけたり一部を入れ替えたりするもので、それもDNAの中で全体の数lの領域しかないエキソンに注目し、DNAの大部分を占めるイントロンなどはジャンクDNAと呼ばれ、それらガラクタの多くが研究の対象外の扱いでしかなかった。結果として、物理的機能であるタンパク質やRNAについて知ることはできたが、それらの機能を新たに創造する生物にとって根幹となる思考や知性については、無視するか排除してきたのではないだろうか。

DNAは生物の基本を構成するもので、生物が他の無生物と異なる最大の要因は自己の認識や環境の認識、そして思考や判断ではないだろうか。このような生物を理解するのにDNAの数lを切り刻んだとしても本質を知ることはできないであろう。残りの 90数lについて本来の姿を理解することと、物理的機能以外にDNAに備わっているであろう知的機能を見いだす必要があるのではないだろうか。




弱肉強食の競争原理

自然淘汰の理論でしばしば登場するものに弱肉強食がある。これは競争原理に基づいたものとされているが、これは生物の極めて狭い一面しか見えていないと推測する。生態を見るとき、必ずしも強いものだけが生き残ってきたのではなく弱い生物でも生き残っていて、弱い生物が淘汰されてはいない。この弱肉強食の考えはボクシングの試合のリング上に類似するもので、逃げ隠れすることのできない条件の限定的環境ということになる。

ライオンやハイエナがヌーやシマウマを襲って食べることから、しばしば弱肉強食と表現されるが、同じ動物の中でも肉食動物と草食動物がいて、肉食動物は草食動物を食べるが、草食動物が肉食動物を食べることはしない。この食性の違いによって、あたかも肉食動物のライオンやハイエナが勝ち、ヌーやシマウマが負けるかの如く表現するが、それは適切ではない。このことは肉食動物が草食動物を捕獲するからといって、弱肉強食の勝利者というものではない。

ここではなぜこのような考えをするのか。生態系の頂点とされるネコ科の哺乳動物はもっとも強いとされているが、そのような彼らの中には少なからず絶滅危惧種が入っている。その一方で、そのような彼らに襲われる立場にある牛の仲間や馬の仲間は世界中で繁栄している。同様に、鳥類の中で食物連鎖の頂点に位置するといわれる猛禽類の中にも絶滅危惧種がいる。その一方で、草食鳥類のカモたちは絶滅とは縁がないほど栄えている。

食物連鎖の頂点とされながら種の個体数が増加できないのは、彼らにとって餌の確保が難しいことを示している。野鳥の中でも猛禽類の意図的個体差 (後で説明)とは、それを意味している。彼らはたまたま肉食ということでしかない。自然淘汰の説明で、弱肉強食や競争原理で彼らが生態系の頂点といわれるならば、絶滅危惧種ではなくもっと繁栄して良いはずである。食性の違いから草食動物が争いに勝つことはないとしても、肉食動物に比べると桁違いに多くの個体数が維持されている。

従来からいわれる弱肉強食の環境とはサバンナのような環境に相当するが、このような環境を生活領域にする生物は全体の 1%にも満たない生物種で、多くの生物が生活する領域ではない。そこでの一部の捕食関係を捉えて弱肉強食と表現することで、あたかも全生物に共通的に弱肉強食による自然淘汰を説明したかのように印象を与えることは、生態を正しく説明できていないのではないだろうか。

現実に生物が生息する環境とは、生物種の半数以上が生息するとされる熱帯雨林であり、海中ではもっとも多くの海中生物種が生息するサンゴ礁になる。このような場所は薮やサンゴによって障害の多い環境であるため、強者であっても必ずしも弱者を滅ぼすことにはならない。このような環境は弱小型の動物が生きられる環境が整っていて、弱肉強食が自然淘汰につながるものにはなり得ない。それゆえ、多くの生物種が生息することになる。

さらに、弱肉強食では強い動物が弱い動物や植物を捕食して、淘汰させるかの如く示されることがあるが、そのようなものではない。捕食は自らが生きるために餌とする行為で、むやみやたらに殺すものではない。さらに、捕食によって被食者を淘汰させることは、その後の自らの餌を失うことにつながる。それゆえ、自然界では通常の捕食者は被食者を淘汰させることはしない。たとえば、アフリカ・セレンゲティーの草原にはおよそ 150万頭のオグロヌーがいて、彼らがとどまると草は全くなくなってしまう。そこで彼らは草原が維持されるように食べながら移動している。もしも、捕食者が被食者を淘汰させているとすると、それは人によるものではないだろうか。たとえば、熱帯雨林を無秩序に伐採するように。

一方、新たな形質を備えた生物の登場によって、それ以前の古い形質を備えた生物が淘汰されるかの如く表現されることがある。そのときの違いは争いに強いものが生き残り、争いに弱いものは滅びるとされてきた。しかし、ここではそのように考えてはいない。たとえ相対的に優位性の個体が出現して、その結果として劣位性になったものも多くは淘汰されてはいない。あるものは陸上生活から水中生活に移行するものや、陸上から樹上へと生活領域を変えることで生き残る。別のあるものは昼行性から夜行性へと生活スタイルを変えることで生き残っていて、決して優位性によって淘汰されるものではない。

生物は弱肉強食や競争原理だけのものではなく、そこには生物の思考と判断によって、それまでとは違う環境を創造してきたのではないだろうか。生物が生き残ることは熱帯雨林やサンゴ礁の領域だけではない。環境が適さない生物や、自らには物理的に排除できないマイナス要素が備わった生物でも、知恵によって生き残ることをしているものがいる。そこで生き残った生物とは、あるものは自然環境を認識して渡り鳥として生き残り、あるものは生活環境を認識して保護色や擬態によって生き残る。また別のあるものは偽傷のような知恵を使うことで生き残ってきた。そして、そこでの環境認識や思考や判断は動物だけではなく、植物についても同様であることは言うまでもない。これによって生物の多様性が一段と進むことになる。




進化と意図的個体差の認識     ☆

現在認知された生物進化の考え方に比べると、ここでの考え方は大きく異なっている。この懐疑的といわれるような考えは、なぜ導き出すことになったか? それまでの私の認識を根底からひっくり返されたことがいくつかあります。ここではその一つを示します。従来進化が語られるとき、自然淘汰で引用された生態の中には遺伝子のエラーによるものではなく、親の意図によってあたかも遺伝子に変異が生じたかのように語られてきたものがある。その一つに野鳥の子育てがある。

これまで生物進化は地質年代に相当する長い期間を要すもので、一般的に数百万年とされている。そのため、研究者の短い生涯では実証できないものとされてきた。そこで実験室,家畜,栽培植物によって自然淘汰を人為淘汰に置き換えて説明されてきたが、これが日常の野鳥の生態で観察できるとなると、進化についての貴重な資料になる。そのような資料に誤りはなかったか考えたい。

私たちの観察では同じように見えることでも、異質のものが存在することがあり、その一つが事故の変異と進化の変異ということになる。ここでは同一親からの複数の子供の変化でも遺伝子の変化によるものと、遺伝子の変化によらないものとに分ける必要があると考える。もしも、これらを一緒にすると遺伝子の変化に関係のない進化が起こることになり、理論の一致を見ないことになる。

ここでは競争原理の実例として挙げられるものに、動物の成長過程が引用される。母親から誕生する子供が一個体のときは比較できないが、複数個体のときに個体差が認識できるものがいる。このとき陸上哺乳動物では成育途上で移動して、その後の成長を観察することが困難なものが多いが、樹上巣作りの鳥類では巣立ちまで雛は移動できない。中でも鳥の中には高い木の頂きや絶壁の崖に巣を作るものがいる。このような巣の雛は親に近似の飛翔能力が備わるまで巣にいることで、成育過程の観察に最適となる。

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たとえば、鳥の雛が成長するとき巣の中の複数個体 (カッコウやホトトギスなどの托卵によるものは別として本来の親の卵による雛)には個体差の観られないものと、明らかな個体差が観られるものがある。そして、このときの個体差が遺伝子の違いであり、その後の競争原理の象徴的実例としてもっとも多く引用され、進化理論の一つとされる。いい換えると、この実例によって自然淘汰の正当性を証明しているといっても過言ではない。ここで二種類の鳥について触れる。

オシドリは通常水面を浮遊して生活するが、繁殖時期になると大木の洞に場所を移す。およそ7〜8個の卵を産んで温める。卵は一度に全部産めるのではなく何日かかけて産むことになる。この結果、そのままの状態では早く産んだ卵と遅く産んだ卵では孵化の時期は異なることになる。しかし、親鳥は卵を暖めるとき調節することで、総てを一斉に孵化させる術を備えている。

孵化した雛に与える餌はない。孵化した翌日には大木の洞から親鳥の後に続いて巣立ちをする。しかし、孵化したばかりの雛は鶏のヒヨコと同じで、飛翔できずにその姿は単なる落下そのものである。そして、親に導かれて水辺に辿り着いて水草を食べることができる。このとき孵化した雛はみな同じような姿かたちで体格にばらつきはない。このような光景は、カモが都会の一角で産卵孵化し、その後、水辺まで移動するのに交通を遮断する光景が、しばしばTVのニュースで見ることができる。そのときのカモも同様に雛に個体差を見つけるのは困難である。その後、水辺で生活するオシドリやカモの複数の雛は、皆同じような成長をして個体差は観られない。

一方、オシドリとは異なり鷲や鷹の猛禽類では通常 2〜3個の卵を産む。卵の数が少ないから産卵に要する期間も短くでき、オシドリよりも均一な雛になるのであろう。しかし、そのときオシドリやカモには観られない際立った個体差が観られることがあり、巣立ちまでに成長の遅いものは死に、しばしば 1羽に減ってしまう。そして、このときの個体差が遺伝子によるもので、競争原理によって選別されるという説明になる。しかし、ここには一つの誤解がある。

繁殖に際して親鳥は最適環境を選んで産卵するが、雛に与える餌が常時確保できるものと、安定した餌が確保できないものがいる。すなわち、餌の環境は野鳥が生活する総ての地域が同じではないし、毎年同じとは限らない地域がある。オシドリの餌は水草や水生昆虫などで安定的に確保できる。しかし、植物の中には隔年結実 (後で説明)や数年に一度の豊作のように年によって変化する種がある。鳥類はその植物の開花や結実を直接採取するものや、その開花や結実を拠り所に生きる昆虫や、それに付随する動物を捕食するものがいる。このとき餌となる果実や動物は一定ではなく、年によって大きく変化する要素があるし、ここでいう台風や旱魃のような事故によっても大きく変化することもある。

肉食の鷲や鷹の餌は環境によって大きく変動することで、2〜3羽の雛を成長させることが困難なこともある。そのとき全滅させない方法の一つとして、雛に個体差をつけて採取可能な餌の量に比例して、発育の良いものから順に生き残らせる目的とされている。勿論、餌が充分にあるときは総ての雛を成長させることができるが。

そのため、集中的に産卵するのではなく、敢えて間隔をあけて産卵する。当然、孵化の時期はずれることから、早く孵化した個体と遅く孵化した個体では際立った違いがでることは当然である。さらに、その後の給餌でも複数の雛に平等にするのではなく差をつける。これによって違いは一層明らかになる。

従来では一つの巣で複数の雛に個体差があったとき、それは遺伝子による優位と劣位の形質の違いとされてきた。しかし、このとき巣にいる複数の雛の個体差は、産卵時期や給餌という親鳥が意図的に雛に違いを生じさせたもので、この個体差は従来進化でいわれる遺伝子の変化とは直接関係のないものである。

それゆえ、未熟の個体が生育途上で死ぬか捕食者の餌食になったとしても、自然淘汰でいう形質の劣位によるものではない。逆に、順調に成長したものが優れた形質を備えて進化したのではなく、親と同等を意味することになる。しかし、前者を自然淘汰と表現し、その逆に、後者を進化と評価することで、自然淘汰の正当性を述べているのではないだろうか。

上記では観察によって認識し易い鳥類について記したが、動物の多くが子供を育てるとき、複数個体の中から成体になれるものは 5割〜3割とされ、少ないものでは 2割〜1割とする動物種もある。すなわち、産卵や出産をしても自然環境の変化や生活環境によって総てが成体になれないことを知っていることは、このような制御は鳥類に限定されるものではなく、多くの動物で考慮されているであろうと推測される。このようなことは単に環境によって淘汰されるというものではなく、過去の環境を認識したそれぞれの動物が、子孫を残すための知恵によるものではないだろうか。

進化してきた鳥は鷲や鷹だけではなく、オシドリを含めた総ての鳥類が進化してきた。しかし、弱肉強食の自然淘汰で引き合いに出されてきたのは鷲や鷹で、オシドリやカモが引き合いに出されることはない。特定の種だけに引用される理論は進化に相応しいものではない。さらに、事故の変異と進化の変異を混在した状態で論じるのは適当ではない。生物の形質を左右するもっとも重要な遺伝子であるが、このように親の意図することで生じる個体差までもが自然淘汰に引用されると、進化の本質を損なうことになるであろう。