7章 形質変異以前の知恵と技術(動物)

生物が生きる上で重要なことが日常での環境変化によるストレスを解消することである。そこで生物が環境適応できるのは物理的な姿かたちだけではない。生物はすでに備わる制御機能の拡大利用を考え、あるときは知恵を使い、またあるときは技術を駆使して生き残ってきた。その結果、大多数の生物が適応進化に値するものとなる。進化の基本はこの部分にあると考えるもので、生物の環境認識,思考,知恵,技術につて考えることにする。

もくじ
   コウモリの皮膜

   ザトウクジラとトビウオ     

   チョウチンアンコウの疑似餌

   シロチドリの偽傷

   オオカバマダラ蝶

   昆虫の適応能力と極限環境生物

   道具の知恵はヒトだけではない

   過渡期の知恵や技術

   知恵や技術に基づいた変異

   見え難い適応進化と思考


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コウモリの皮膜

ここではなぜ生物の自己の認識や環境の認識、そして、知恵や技術にこだわるのか? 今日ではロボットが人の歩行と同じように直立二足歩行が可能になっているが、つい最近までロボットの二足歩行は困難であった。これは物理的に二本の足をつけて動力によって動かすだけでは二足歩行はできず、体重移動を始めとして多くの技術が必要であった。これはロボットに限定するものではないと考える。

これまでの考え方では進化の発端は遺伝子のエラーであるが、そのエラーの中には物理的形質のプラスのものが稀に登場することになり、そのプラス個体は自然淘汰の弱肉強食や繁殖力の優れたことで生き残り、争いに弱いものや繁殖力の劣るものは淘汰されるとしてきた。すなわち、地球生物が数十億年の間命をつなぐことができたのは、DNAの遺伝情報である物理的形質によるものとされ、DNAの遺伝情報には含まれない知恵や技術は、生物の生き残りや進化には介在しないとされてきた。

進化のプロセスに生物の知恵や技術が介在しないということは、生物の生き残りについても知恵や技術が介在しないことを意味することになる。それならば、もし生物の進化や生き残りの手段に知恵や技術が介在するとき、突然変異と自然淘汰では説明不能となる。そこで、進化や生き残りのプロセスに知恵や技術が介在するか否かを考えることにする。

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生物に備わる膨大な種類の機能は、遺伝子の変化だけで新たな機能が備わるだろうか。たとえば、コウモリの遺伝子が変化して翼に類似したものを備えたとしても、翼を上下に振るだけでは飛翔にはつながらない。私たちは動物の翼や昆虫の羽は飛翔するものという前提で話をするが、物理的に備わったからといって飛べるものではない。たとえば、人が飛行機を作って飛ばすのにも、鳥のような翼の形状を作ったからといって飛べるものではなかった。飛行機の歴史には多くの人の知恵と技術が必要で、それらの知恵や技術が備わったとき初めて飛ぶことができた。このことは動物が飛翔する原理も同じで、飛翔をしようとするには、そのための知恵や技術が必要であると考える。

動物が翼や羽によって飛翔するには、空気を抱き込み下に打ち降ろすことと、逆に、空気抵抗を最小限に引き上げる必要があり、これらの技術が伴ったとき揚力や推進力が働き、翼や羽としての機能が備わることになる。しかし、遺伝子の働きは物理的形質である翼や羽を形作るものとされ、このような飛翔のための知恵や技術は遺伝子が関与できないとされてきた。すなわち、遺伝子のエラーによって物理的に皮膜が備わるだけでは機能にはならず、そこに知恵や技術が備わって初めて翼の機能になると考える。生物にはさまざまな機能が備わっている。それらの機能は遺伝子のエラーによるものとされるが、それらの機能は知恵や技術によって創造されたと考えるべきではないだろうか。

さらに、従来進化の中には、一度に翼の形質が備わるのではなく、飛翔に値しない小さな変異の累積とされる考えもある。今よりも小さく飛翔に値しない皮膜で、それまで空中を飛翔したことのない哺乳動物のコウモリが、小さな皮膜から飛翔という発想に行き着くであろうか。なぜなら、動物が備える皮膜には、水鳥の足の皮膜は水かきとして使われることから皮膜は飛翔を前提にしたものではない。そして、突然変異に目的はないとされることから、たとえエラーによって形質の一部が変異したとしても、飛翔には程遠い小さな皮膜によって飛翔という発想につなげることはさらに困難であろう。なぜなら、そこに思考は関与しないとされている。

さらに、進化の変異は地質年代を要すとされることから、長い歳月に渡って小さな皮膜で飛翔に値しないとき、中間段階のプロセスに位置するコウモリにとって皮膜が何の意味をするか、皮膜の利用方法さえ理解し得るものではない。むしろ、その皮膜は日常生活の邪魔になるから取り除きたいと思うのではないだろうか。

このようなとき進化の考えの中には、飛翔には値しない僅かな皮膜でも高いところから落ちたとき衝撃を弱める緩衝の働きがあるとされ、累積淘汰のプラスの要素になり得るとして、自然淘汰で有利に働くとする考えもある。しかし、そのような動物に小さな皮膜がプラスに働くような落ちることそのものが彼らの日常生活に存在するだろうか。もしそうであるとするなら、落ちた後の皮膜を作るよりも、落ちる前の鉤爪を備えるであろう。それゆえ、軽微な変異によって皮膜に類似するものがあったとしても、生き残るか否かの選別の対象には当たらない。これは「言葉の手品」であって、生物に対する議論として相応しいものとは考え難い。

これまでの進化では、ヒトの誕生以前から存在するコウモリは、皮膜によって飛翔するものとして決めてかかり、結果からの逆推理によって判断しているから、コウモリの皮膜は飛翔に使うことを前提にしているが、コウモリの意思とは関係なく遺伝子にエラーが発生したとしても、初期段階でその変異が機能を満足できるものでないとき、そこには知恵や技術は介在しないからコウモリが皮膜の最終的な形態と機能を予測して利用方法を考えることは困難であろう。

それとは反対に、鳥の飛ぶ姿を見て自ら飛翔することを欲求とするとき、新たに皮膜に類似するものができなくても、飛翔に利用しようとして前足の皮を無理に引っ張ってでも皮膜を作ろうとするであろう。そして、鳥のように羽ばたきの練習をするであろう。たとえば、水泳の選手が推進力強化のために両手の指の間の皮を引き伸ばし、指の間に蛙の水かきのような皮膜を作りたいと願うように。このように遺伝子のエラーによって形質の変異が発端にあるのではなく、それぞれの生物が何をしようとするかが基点になるのではないだろうか。

これまでの進化では、知恵や技術の関与しない遺伝子のエラーとしながら、自然淘汰では飛翔能力という知恵や技術を前提にしたもので、分離しなければならないことが分離できていないのではないだろうか。それぞれの生物が膨大な機能を備えることは、エラーによって物理的形質が備わったというのではなく、生物自らの欲求から導き出そうと思考し、知的創造した結果の一つが知恵や技術になるであろう。

そのため、このことは翼や羽に限定するものではなく、歩行のための足の機能を始めとしてさまざまな臓器の機能まで、総ての機能が遺伝子のエラーから始まるのではなく、欲求によるストレスを解消しようと思考による知的創造から始まると考えるべきではないだろうか。私たちは生物や生態について、結果として備わる物理的姿かたちだけで進化として論じているが、それらの形質を支えている直接認識できていない知恵や技術の部分が見落されているのではないだろうか。

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ここではたとえ翼の形状が物理的に備わったとしても、飛翔の技術が伴わないと空中を飛ぶことができないとしている。このような発想は何によるものか。そこでコウモリとは離れて鳥類で考えてみる。鳥は翼を備えることで空中を飛ぶことができる。鳥の中でもペンギンは空中を飛ぶことができないが、水中に潜って羽ばたくことで水中を飛ぶかの如く潜水泳ぎすることができる。一方、カモなどでは空中を羽ばたくことで飛ぶことができるが、水中で潜水泳ぎするときは翼はたたんだ状態で、足の水かきによって潜水泳ぎをするもので、水に潜って翼を羽ばたかせることはしない。多くの水鳥は水中に潜って潜水するとき翼を羽ばたかせることはしない。

空中を飛ぶことと、水中で潜水泳ぎすることの違いは何か。空中で飛ぶには重力がかかるため、飛ぶにはその重力に反して身体を浮かせる必要がある。一方、水中の潜水では浮力がかかるため、潜水泳ぎするにはその浮力に反して身体を沈める必要がある。このとき、単に翼があるからといって羽ばたいても、飛ぶことも潜水泳ぎすることもできない。もし、一つの技術をマスターしても、空中か水中のいずれか一方は可能であっても二つの領域を可能とするものではない。カモは空中を飛ぶことのできる羽ばたきができていることを示しているし、ペンギンは水中での潜水泳ぎできる羽ばたきができていることになる。それゆえ、それぞれの領域で活動することができる。

鳥類の中には空中を飛ぶだけではなく、水中を潜水羽ばたき泳ぎすることのできる鳥がいる。その中の一つにウトウがいる。この鳥は空中を飛翔するときは重力に反して身体を浮かせる羽ばたきができるし、水中を潜水羽ばたき泳ぎするときは浮力に反して身体を沈める羽ばたきができていることになる。そのとき二種類の羽ばたきは同じように見えるが、翼を大きく広げて空気を抱きこむことをすることや、その逆に、翼にかかる水の抵抗を減らすために翼を少し縮めることなど、二種類の羽ばたきは巧みに変えることで空中と水中を飛び分けている。

以上より、ここでは単に物理的に翼の形質が備わったとしても、そこに生物の知恵や技術が伴わないと飛翔にはならないことを意味している。そして、DNAに備わる遺伝情報は物理的形質を形成するもので、知恵や技術は介在できないとされてきた。それでも、これらの鳥やコウモリは頭脳を備えた動物であるから、頭脳レベルの知恵や技術によって可能ということになるのであろう。しかし、これと類似の知恵や技術に相当することが、頭脳を備えない動物や頭脳の概念がないとされる植物で窺えるとき、その拠り所は何によるものであろうか。(詳しくは植物で説明)




ザトウクジラとトビウオ     ☆

ここではなぜこのように考えるのか。生物はエラーから始まる偶然の成り行きや、自らの意思の介在しない自然淘汰の中で日常生活しているのではない。日常生活には一つひとつに生きるための目的があり、その目的を適えるのは知恵や技術に頼るところが大である。

たとえば、人がカツオを捕るときは糸に針をつけて釣り上げる。一方、イワシを捕るときには大きな網で囲い込んで捕獲する。それではザトウクジラの化石を見て餌のイワシをどのようにして捕獲するかは知る由もない。なぜなら、ザトウクジラは釣り糸や釣り針は持っていないし、イワシを囲い込む大きな網も持ってはいない。それでも餌のイワシを捕獲できているから生き残っている。ザトウクジラの生き残りも単なる形質だけによるものではなく、知恵によって生き残ってきた。

イワシは群れをつくって回遊している。ザトウクジラはイワシの群れを見つけると群れの下に潜り、群れを取り囲むように数頭で円陣を作ってゆっくり泳ぎながら頭の上から少しずつ空気をだす。空気は小さな泡となって水面に向かって上昇して円筒状の泡のカーテンを作る。これによってイワシは泡のカーテンから抜けだすことができなくなる。クジラは次第に円陣を小さくしながら上昇する。これによってイワシは海面近くで逃げ場を失う。後は大きな口を開けて海面上に浮上し一網打尽にする。

これはバブルネット・フィーディングと呼ばれ、釣り針や大きな網を持たないザトウクジラが小さなイワシを大量に捕獲する知恵である。このように生きるために餌を確保する手段はザトウクジラだけではなく、数億年前であっても地球上で活躍していた多くの動物たちも、遺伝子のエラーによって変化した形質で生き残っていたのではなく、それぞれの動物が自らの知恵や技術によって餌を確保することで生き続けていたことになる。

ザトウクジラは哺乳類であるから、空気を狩に利用している。それではマグロなどのほかの大型魚が小魚を捕獲するときどのようにするか。一般的には水中から水面に向かって追い込むことで、水面に達した小魚は逃げ場を失って容易に捕獲できる。このような状況に遭遇したとき、トビウオは捕食者から追われ必死に逃げ回っているとき海面上から飛び出しているのに気がつき、それによって捕食者から逃れられたとき何を考えたであろうか。

通常ではマグロもトビウオも同じ生活領域である海中生活をしている。捕食者のマグロに襲われた被食者のトビウオは、海中から海面上の空中に一時的に生活領域を変えることで、マグロが侵入することのできない別領域を数百メートル移動することができる。彼らトビウオにとって空中は危険になったときのシェルターということになる。次に危険が迫ったときには再び海面から飛び出すことで危険が回避できるかもしれないと考えるであろう。そのためには確実に逃げられるよう胸鰭を大きくするよう意図するであろうし、自ら促すであろう。

彼らは知恵によって生き残りを考え、それに基づいて形質である胸鰭を変化させようとするであろう。しかし、胸鰭の大きな魚はトビウオに限るものではなくカサゴなどもいる。カサゴは大きな胸鰭を海面から飛び出して空中を滑空するために使用してはいない。むしろ、大きな胸鰭を広げることで生殖相手にアピールする目的で使用されている。

胸鰭の使い方には水中を泳ぐときの方向転換や、海面上を滑空するだけではない。オーストラリアの海で生活するスポッテッドハンドフィッシュは胸鰭や腹鰭を足の如く発達させて海底を歩くように移動する。泳ぐような速さを求めない魚の中には、自らの求めるスピードにマッチした形態を創造すると考えることができる。これも遺伝子がエラーしたから足のように使うのではなく、それぞれの魚が自らの目的にあわせて使用していることを示している。なぜなら、遺伝子は形質を示すもので知恵や技術には関与できないとされている。

このように化石や形態を見ただけではわからない形に表れない知恵が備わっているからザトウクジラやトビウオは生き続けることができている。このことは同様に、他の動物もそれぞれが知恵を備えているから生き続けることができるのであろう。このように生物に備わった知的機能が進化の大切な要素で、ハード進化を支える要素でもある。従来では生物の意思や思考を排除し、物理的形質のみを進化の変異としているが、生物に備わるそれぞれの形質に至るまでのプロセスには目的が存在することになり、進化においては生物の知恵や技術が介在することを意味しているであろう。

中でも共進化では動物と植物の相互作用によって切磋琢磨に値するものを観るとき、生物に備わる知恵や技術は、一部の動物に備わる頭脳によるだけではなく、植物にも備わらないと成り立たないという発想になる。進化によって生物が長い期間に渡って継代できたということは、ハードの形質は付随的要素であって、むしろ知恵や技術によって生き残ってきたというべきではないだろうか。




チョウチンアンコウの疑似餌

魚の知恵や技術によって備わる形質は胸鰭だけではない。魚の中には身体の一部を変異させて、ゴカイのような魚の餌に似た形質を備えるものがいる。さらに、その疑似餌があたかも生きているかのように微妙な動きを加えることをする。これによって餌と思って近づいた小魚を逆に捕食しようというのである。

遺伝子のエラーによって生物体の一部がこのように変化するだろうか。偶然としてはあり得ないことではないだろうか。さらに、その疑似餌に微妙な動きを加えることが動物の意思とは関係のないものだろうか。ここでは身体の一部を疑似餌のように変異させることも、その疑似餌があたかも生きているかの如く微妙な動きを加えることも、その魚の意思と目的によるものと考えている。

たとえば、チョウチンアンコウは自らの大きな口の中にある小さな肉片を餌と間違えた小魚が口の中に入り込んだとしても、それだけでは単なる小魚の間違いで一過性のできごとである。小魚の最初の間違いは偶然であったとしても、その偶然をきっかけに思考することで小魚が餌とするものがどのようなものかを学習して自らの肉片の形状を似させる。さらに、餌が生きているように動きを加えることで、それまで以上に小魚を引きつけることができると考えたであろう。これらは単なる偶然によるものではなく、より積極的に考えて自ら変異を促したと推測できる。そして、このことが形質の変異だけではなく、動物の意思と目的を如実に表現している。

チョウチンアンコウについても遺伝子だけではなく知恵を使うことで、あちらこちらへ餌を求めて移動することよりは、居乍らにして餌を得ることを目的としたのであろう。もしも、チョウチンアンコウが自らの意思で知恵や技術を考えなかったなら、今日のように海底に居乍らにして餌を確保することはできずに、餌を求めて積極的に移動しなければならない状況を想像するのに難しくはない。そして、その移動では自らの身を危険に晒すことになる。

チョウチンアンコウと同じ発想にエスカーと呼ばれるイザリウオがいる。チョウチンアンコウの疑似餌は大きな口の中にあるが、このエスカーは口の前に疑似餌をぶら下げて微妙に動かすことで近づいた小魚を捕食している。チョウチンアンコウやエスカーは海水中の魚類であるが、同様の形質を備えたものに淡水中の爬虫類であるワニガメがいる。ワニガメの口の中にも同様のミミズに似た疑似餌があり、ワニガメの意思によって生餌のように動かすことができる。

以上のように単なる形質の変異だけではなく、多くが理に適った知恵と技術の上に成り立った形質である。このような形質が知恵や技術を排除した生物の意思や目的のないエラーとすることに道理があるのだろうか。ここでは形質の変異の前提には知恵や技術が伴うものとし、そのときの知恵は環境を認識した上で思考によって創造したことになる。それゆえ、環境変化によってストレスが生じても、それらのストレスは解消することができるし、生き続けることができる。





シロチドリの偽傷

生物にとって重要なことは、如何なる環境変化に遭遇しても、自らが生きることや子供を守ることで継代し続けることが重要となる。そこでは物理的形質の変異に限定されるものではなく、知恵によって対処することも少なくない。これを象徴するもので、自らの形質は何一つ変えることなく環境に対処しようとする知的な野鳥がいる。

通常時であれば捕食者に発見されても多くの場合は逃げることができるが、子育ての時期に捕食者に発見されることは、自らは逃げることができても卵や雛の命を失うことにつながる。そのため、抱卵する野鳥の羽はその大部分が褐色の保護色になっている。と同時に、卵の色も鶏の白い色とは異なり保護色のものが多い。

地上で抱卵する野鳥の親鳥の中には、巣の近くにキツネなどの捕食者が近づくと卵や雛を見つけられる前に自らを目立たせる行動をするものがいる。特によく知られたものがシロチドリの擬傷である。これは翼を半開きに地を引きずるようにすることで、あたかも傷ついて飛べない鳥のようにして捕食者の前に現れる。これにより捕食者は捕獲し易い獲物として追いまわす。擬傷の親鳥は巣のある場所とは反対の方向に捕食者を誘導し、卵や雛が安全になったとき何もなかったように捕食者の目の前から飛び去る。カンガルーなどの有袋類のように子供をお腹の袋に入れて逃げることのできない野鳥にとって、卵や雛を守るための知恵の一つである。

偽傷は動物行動の一つとされている。その行動は本能的なものとされているが、ここでは動物の思考による知的創造としている。もしも、動物に思考能力がなかったならば偽傷のような行動ができるであろうか。偽傷をする種としない種とでの遺伝子の違いはなかったとしても、それは遺伝子によるものではなく思考による知恵の表現ではないだろうか。すなわち、遺伝子や形質の変異がなくても思考によって知的行動ができることを意味している。だから進化とはいわないまでも極めて類似の内容で、それらを分離することは困難なものがある。このようにして子孫を残して継代を可能にしている。

このことから擬態は目的のない突然変異が初めにあるのではなく、思考プロセスの中で偽傷のように知恵と行動によって済ませることもあれば、自ら内分泌によって変異するものもあり、それらは思考結果によって変異を必要とするものと、変異を必要としないものとがある。これは保護色や擬態に限定するものではなく、通常の場合でも変異することなく渡り鳥のように知恵や行動だけで済ませることのできるものも数多い。言うなれば、形質の変異は思考後の手段の一つに過ぎないことになる。

従来では進化というと形質が変異することが前提になっていて、その物理的形質が生活の中で有利に働く強さなどを意味するものであった。しかし、生物は強さによってだけ生き残れたのではない。弱者であっても知恵や技術を備えることで生き残ってきたものが少なくないというよりも、ほとんどの生物が物理的形質の変異を伴わない知恵や技術によって生き残ってきたというべきではないだろうか。




オオカバマダラ蝶

今になって人が新たな技術を手にする度に思うことがある。川から海に出た鮭はおよそ 4万` (地球一周分)を回遊し、4年後生まれた川に戻って来ることや、渡り鳥が何千kmも道に迷うことなく飛行することは謎であった。鮭は川の水の臭いを覚えているといわれる。しかし、人がナビゲーションシステムを手にした今、魚や鳥の体内にはすでにナビゲーションシステムが組み込まれているのではないかと想像する。これまで、このようなものは 「動物的本能」ということで済ませてきたのではないだろうか。これは想像の飛躍としても、これに類似することは超音波以外にも存在する。

オオカバマダラ蝶はアメリカ合衆国を縦断して飛行する蝶で、メキシコのシュラスドレ山脈から、カナダと国境を接する五大湖の一つエリー湖までのおよそ 3500qを移動するが、1往復およそ 7000qのサイクルを 1年がかりで行なうのに、蝶の命は短くておよそ 4世代をかけるもので駅伝のようである。このため、それぞれの個体は生まれて初めての進路であることは言うに及ばず、親が通った道とも違うコースを飛行しないと季節に合わせた周回サイクルは成り立たず、越冬の時期までにメキシコのシュラスドレ山脈に到着することができない。

さらに、幼虫の青虫が食べられる植物はトウワタだけで、他の植物は食べることができない。この植物は蝶の飛行ルートの限られた場所に点在して、飛行ルートを外れてトウワタのない場所に卵を産んでも、生まれた青虫は生きられない。この飛行を単なる動物的本能で済ませられるだろうか。

この植物のトウワタは茎や葉を千切ると乳白色の液体が染み出す。これには毒が含まれていて、オオカバマダラの幼虫はこの毒を取り込み、体内に蓄積しておくことで捕食者からの攻撃を回避することができるとされている。

11月にシュラスドレ山脈に到着した蝶は、翌年の 3月までの 5ヶ月間をここで冬ごもりして、4月になると北に向かって飛び立つ。この蝶はトウワタの若葉を食べるため、トウワタ前線に沿って北上する。途中で世代交代をするが、産卵から 4週間かけて蛹になり、3世代目の蝶はカナダとの国境に達する。そこでの 4世代目は 9月になると南に向かって飛び立ち 11月にメキシコに戻ってくる。

この蝶は触覚で地磁気を感知する能力を備えていることは実験によって実証されているが、それだけであろうか。ナビゲーション+α (
アルファ)の α は人にとって未知の技術で、超音波のように何百年か後に人がその技術を手にしたとき、あの小さな蝶の身体の中に優れたものが備わっていることを知ることになるであろう。

人は誕生すると親に育てられ、その後は長い期間に渡って教育を受けて一人前となる。渡り鳥は誕生後に母鳥に学習を受けるチャンスはあるが、鮭の母親は卵を産むとまもなく死を迎える。卵から孵化した稚魚は母親から学習を受けることはできない。鮭と同様に魚や昆虫の多くが卵を産み落とされ、子供が誕生するとき母親は身の回りにはいないので親から学習を受けることはできない。独学で勉強しようにも本も無ければ文字もない。それにもかかわらず極めて多くの知恵を有する。

今日このようなことは動物的本能として処理されているようであるが、この動物的本能は教育によって備わるものではなく、それぞれの動物が誕生するときにはすでに備わっているものとされる。しかし、その動物的本能が如何なるメカニズムかは説明されてはいない。この動物的本能は動物種によって異なるとされることから、動物種によって異なる遺伝情報はゲノムに備わる必要があると考える。ここでは動物的本能のメカニズムについても後で触れることにする。

卵のDNAの中に学習内容を挿入することにより、学習を必要としない特別なシステムがあるとしたら、人としても見習いたいシステムである。これらから生物の進化には優れた知恵や技術がたくさんあり、単に姿かたちの変異にのみ目を向けるのは進化の正しい解析にはならないと考える。




昆虫の適応能力と極限環境生物

これまで人は植物から新たな有効成分を見つけ出し、薬にすることを考えてきた。しかし、最近では植物に代わって昆虫から新薬を開発しようとする動きがある。昆虫の身体の中には、人が必要とするものが数多く備わっているとされている。その理由が何かを考えるとき、発生から成長過程の環境にあると考えられている。多くの昆虫は多かれ少なかれ異なる環境を経験するもので、それぞれのプロセスを異なる環境で生きる術を備えている。

多くの哺乳類は母体から地上付近の陸上に誕生してそのまま成体となり、環境にたいした違いはない。鳥類は哺乳類と異なり卵として産み落とされるが、地上付近か樹上で環境のたいした違いはないし、魚類の多くは水中で同様である。これに対して、昆虫では卵が産み落とされる場所は、あるものは水中であり、他のものは地中に産み落とされる。また別のあるものは植物の身体である木の幹や動物の身体に産み落とす。

これら地球環境のあらゆる場所に産み落とされた昆虫の卵は、孵化した後その場で成虫になるものは少なく、卵から幼虫そして成虫になるに従ってその生活環境を変える。水中から地上に出て再び地中に潜って再度大気中に出てくるものまである。多くの昆虫は多かれ少なかれ異なる環境を経験するもので、それぞれのプロセスを異なる環境で生きる術を備えている。

幼虫期を細菌の多い腐葉土の中で生活するカブトムシの幼虫は、体液の中に抗菌作用を備えている。同様に、動物の排泄物の中で生活するウジムシにも、抗菌作用が備わっていると推測されている。昆虫に備わった機能はこれだけではなく、たとえば、サシガメは動物の血液を吸い取るとき、自らの体液を注入することで空気に触れた血液が固まらないようになっているし、その体液で血管が広がり血液を吸い易くしている。この機能は人にとって血栓の治療に最適とされている。

一方、チョウの蛹の体液には細胞を殺す機能のものがある。これは癌治療に有効とされている。これは新たなチョウの形質を作ることとは反対に、幼虫期の細胞をアポトーシスする目的の機能があるとされている。昆虫に備わっている機能はこれだけではなく、未だ知られていない多くの機能が存在していると考えられている。

これらは昆虫に備わった機能が人に役立つものであるが、昆虫の優れた機能に類似するものの一つにミジンコに似たものがある。ミジンコは生活領域の水が少なくなると、それまでの単為生殖から両性生殖に変更して休眠卵を産み、卵の状態で乾季を乗り切る。

これに対してネムリユスリカの幼虫は、ミジンコと同じ水中生活をするが乾季になって水がなくなると、自らの身体の水分もなくなりミイラ状態となる。この状態が何年も継続することができ、再び水が戻るとおよそ 20分で元の活動状態に戻ることができる。このミイラ状態になるときネムリユスリカの幼虫には休眠ホルモンが働くとされている。

このホルモンの機能を人は癌治療に利用しようとしている。これは癌の病巣にこの休眠ホルモンを注入することで、活発に増殖する癌細胞を休眠させる目的である。すなわち、ある人が健康診断によって癌が発見されたとき、この休眠ホルモンによってその後数十年癌細胞を休眠させることで、生涯癌の発病によって苦しまずに生活することができるのではないかとされている。

ネムリユスリカはアフリカ・ナイジェリアに生息し、永久休眠することで知られている。これまでの観察で 17年間の休眠が記録されている。このネムリユスリカの幼虫は休眠するとき、体内の水分をおよそ 3%にまで下げて身体の活動を止める。この休眠状態に移行するときトレハロース (糖)を爆発的に作る。このトレハロースは食品の保存に利用される。乾燥したワカメやシイタケと類似である。

ネムリユスリカの幼虫がこの休眠状態のとき、−196℃の凍結環境や、+70℃のお湯の環境、そして、有毒なアセトンの環境に晒されても再び蘇生できることが実験によって証明されていて、このような生物は 「極限環境生物」と呼ばれる。これまでの地球には気候大変動といわれるものが何回も繰り返されとされて、多くの生物はこのときの極限環境に耐えられずに絶滅していったとされてきた。しかし、このネムリユスリカはそれらの極限状態の環境さえも乗り越えることができたことの証明でもある。

逆を返すと、ネムリユスリカの幼虫がこのような極限環境に耐えられることは何を意味するか。これまでの地球の歴史の中には、−196℃の凍結環境,+70℃のお湯の環境,有毒なアセトンの環境が過去の事実としてあったことを示しているのではないだろうか。そして、この地球が将来これまでとは違った極限環境が起こって多くの生物が滅んでも、ネムリユスリカの幼虫は新たな極限環境を乗り越えるための思考と知的創造を模索するであろう。

ここに登場したものは昆虫であるが、そのような極限環境でも生き残ってきたのは動物だけではない。先に紹介したように、本来なら高湿度の環境に生息する苔であっても、乾燥した環境になっても生き残るものもいる。これらは動物のネムリユスリカの幼虫のみならず、植物の苔であっても生き残るという同じ目的意識が存在する。虫けらと呼ばれる昆虫や、考えることのできる脳を持たないとされる植物が、身体の中に備えた機能には計りしれないものがある。そして、これらの機能は総て目的があって備わったもので、目的のないものは何一つない。さらに付け加えるならば、これらの機能が目的のない遺伝子のエラーとすべきものでもない。これらは昆虫の知恵が考え出した知的創造物以外の何ものでもないであろう。昆虫も植物もその多くが数億年の歴史によって裏付けられている。僅か数百万年のヒトは、虫けらと呼ばれる彼らの歴史の 1%にも満たないものでしかない。

これは環境を認識することで対処するために考えだされたものではないだろうか。今日生息している生物は極限生物に達しないまでも、これまでさまざまな環境を経験してきている。ゲノムにはそれらの経験したときの多くの情報が蓄積されている。それゆえ、多くの環境変化に対処できると考えるべきではないだろうか。

昆虫の幼虫が抗菌作用を備えていたとしても、形質の変異がなければ進化とは見なされない。でも、そのようなものを備えることで生き残りや継代することができたというもので、優れた環境適応の一つというべきである。同様に、極限生物といわれるようなものは、過酷な環境でも生き続けられることが優れた環境適応であって、形質の一部が変異することは取るに足りないことではないだろうか。




道具の知恵はヒトだけではない

人の思考能力,知恵,技術が語られるとき、必ず引用されるものが道具の使用である。道具では初期のヒトが石器を使ったことが知恵の象徴とされている。そこでヒトのように石を使って固い木の実を割るチンパンジーは、知恵や技術がヒトに近い動物とされている。しかし、同じ目的で石を使用するのはアフリカに生息するチンパンジーだけではない。南米・ブラジル高原に生息するフサオマキザルは、チンパンジーのように硬い木の実の殻を割るのに石を使って叩き割っていることが確認されている。

一方、石を道具として使うのはヒトやサルだけではない。南米に生息する猛禽類の中には動物の肉を食べた後、骨の中の骨髄を食べるものがいる。そのとき骨を割る必要があるが、猛禽類の嘴をしても骨を割ることができない。このとき、この鳥は足で骨を掴んで上空に舞いあがり、地上の大きな岩の上空に達すると掴んでいた骨を離す。骨は落下して岩に直撃して破壊して中の骨髄を食べることができる。上手く割れないときは何回かこれを繰り返す。サルの場合は石を持ち上げるが、猛禽類では石を持ち上げずに骨を持ち上げる。何れもが石を利用することで目的を果たしている。

同様のことは他の鳥でも見ることができる。固い殻の木の実を割るのに上から落として地上の石に当てるが、確実に石に当てるための工夫がある。石の真上で木の枝が二股になったところを目印にして必ずその位置から落とす。彼らは草や土の上に落ちると無駄になることを知っている。

一方、ラッコは貝を割るのに石や別の貝を使って叩き割っている。このような動物には思考能力があるとされている。これに比べると魚はそれほどの能力を備えていないとされている。そのような魚でも東南アジアの海では、貝を口に咥えて砂の海底に点在する石に叩きつけて貝を割る魚がいる。そのとき魚は身をねじりスナップを利かせて貝を石に叩きつける。そのような石の周りには割れた貝殻がたくさん散らばっている。これまでいわれてきた知恵や技術とは人を前提にしたもので、人と似ていると知恵を備えた動物と評価しているのではないだろうか。

道具は石だけではなく石以外の道具もある。有名なものでは細い木の枝や草の茎を使って道具とするもので、チンパンジーやゴリラの一部では、この細い枝や草を使って木の穴に差し込みアリを釣り上げて食べる。同様に、一部のカラスは倒木の中にいる昆虫の幼虫の芋虫を釣り上げる。このとき木の枝の細い部分を嘴で加工して最適の道具として使用する。

これらの石や木の枝を使用することを知恵とするならば、これらは人が知ることのできた一部で、これら以外に人が認識できていない数多くの知恵が存在していると推測するのに難しくない。すなわち、真の知恵や技術とは道具のように形に見えるものに限定するのではなく、そのときの状況を認識して思考することで如何なる知的創造ができるかではないだろうか。





過渡期の知恵や技術

これまでの生物進化では、本来、遺伝子の変異が伴うものとされている。進化の中で優れたものに保護色や擬態がある。これは他の生物に姿かたちを似させるために形質を変異させるもので、遺伝子の一部が変化するものでもある。このような保護色や擬態の生物は数多く観ることができるが、それらの多くは遠い過去に形質として変異を終了してしまったもので、今日ではほとんど変異のない継代を繰り返しているに過ぎない。

しかし、多くの生物の中には遺伝子を変えることなく知恵だけで対処しているものがいる。これは遺伝子を変えるものではないから、その意味からすると進化ではない。しかし、これが生物の意思をこの上なく表現したもので、変化の過渡期を示していると表現できる。そのような生物の生態を観ると、保護色や擬態が遺伝子のエラーから誕生したものではないことを窺わせてくれるものがある。そして、今日では擬態と呼ばれる昆虫や海中動物も、進化の過渡期には遺伝子に変化がなくても知恵によって対処していたであろうと推測することができる。

上記の 「4章進化は日常生活の延長線上から」に示したように、葦原で生活するヨシゴイは、身体全体を細長くして葦の茂みに溶け込むポーズをとることで、捕食者から身の安全を守っている。同様に、南米に生息するヨタカの中には、日中眠るときのポーズは枯れ木の一部になりきっていて見分けがつかないものがいる。ヨシゴイやヨタカは等身大の鏡を持ち歩いてはいない。しかし、彼らは鏡を使わなくても自らの姿がどのようになっているのか認識できている。

このことは彼らが自らの意思で擬態や保護色の変異を希望しても、それを可能とする術が備わっていないときでも、身の危険を回避するためにこのような行動に行き着いたと推測するもので、これは彼らの意思以外の何ものでもない。これは外観のポーズを変えるだけで、形質を表現する遺伝子が変わるものではないから進化の変異に属さない。しかし、このときのポーズには擬態と同じ目的があり、これは彼らの知恵である。

上記は鳥類に関するものであるが、このようなことは鳥類に限定されるものではない。タコやイカも擬態の名人である。タコの多くは岩やサンゴの隙間を生息領域とするものであり、多くは自らの体表の色彩や表面粗さを周囲の岩や砂に似させるものである。一方、通称漂流ダコと呼ばれるムラサキダコは、海底ではなく海面近くを生活領域としている。海面近くを漂流するような移動ではクラゲのように捕食され易い。そこでこのタコの姿は中型魚のシーラにとても良く似た擬態行動をする。このタコも他の魚もシーラの強さを知っているので、シーラに似ることで危険を回避しているのであろう。そこでは明らかに目的が認識されていることになる。

さらに、海草の茂る海底で生活するカニの中には、身の回りにある海草を切り取って甲羅の刺に突き刺す。こうすることで周りの海草に溶け込む。カニの遺伝子は何一つ変わるものではないが、彼らはこのようにして身を守っているもので、環境適応の一つである。

現在生息する多くの保護色や擬態動物は、遠い過去に形質として変異を終了してしまってゲノムによって姿かたちが決まっているが、そのような彼らも移行の過渡期には、今日でも観られるようなそれぞれの生物の意思によって知恵や技術を駆使したものであろう。

彼らが変異することで身を守ろうとしたことは、彼らには捕食者の大きなストレスがかかっていたと推測できる。この恐怖のストレスは今日でも見ることができる。アフリカ・ケニヤの 2000mの高地に生息するジャクソン・カメレオンは、体長およそ 30cmで体色は緑色をしているが、蛇などの捕食者に睨まれると恐怖のストレスによってみるみる黒く変化してしまう。動物の多くはこのようなストレスを解消もしくは緩和しようとするもので、そのときの手段が知恵であり技術ということになるであろう。




知恵や技術に基づいた変異

環境適応の形質の変異が、従来からいわれる遺伝子のエラーによるものとすると、そのとき形質の変異と知恵とが密接に関連したときの環境適応は、如何なるものであろうか。そのときの形質は知恵を排除したら成り立たないとき、単なるエラーで環境適応の形質が生じるであろうか。その一つ、野鳥の嘴ではガラパゴスのフィンチが有名である。同様に、ハチドリやミッスイの嘴もそれぞれが異なった形状を備えている。嘴の長さの長いものや短いもの,真直ぐなものやカーブしたものなどさまざまである。ここではそれらは生物の意思と目的によって変異したとしている。しかし、従来進化の考えでは遺伝子のエラーによって変異したものが、自然淘汰の選別によって生き残れたとされている。百歩譲って、従来からの考えが正しいとしよう。

ミッスイの中には、嘴の上下の形状が異なる種がいる。嘴の上は長く華奢で先の方は弓なりにカーブしている。一方、下の嘴は短くて丈夫になっている。そして、このような嘴をしたミッスイが存在する。このような野鳥が今日でも生きているということは、従来進化の考えに基づくと適応進化の範疇ということになる。このように通常では考えられない嘴の鳥は、生きるために日常の餌をどのように確保するのだろうか。この鳥は餌を採るとき上下の嘴を左右にずらす。そして、下の短くて丈夫な嘴でキツツキのように木に穴をあける。その後、木の中で虫道を作って移動する芋虫を、長い弓なりの上の嘴で掻きだして食べる。

これはミッスイの知恵と技術であって、単に目の前にある餌を捕食することとは意味が違う。これは一部のカラスが小枝を加工して木の穴の芋虫を吊り上げることと類似であり、このミッスイでは小枝の道具を使用するのではなく、自らの嘴を形状変化させたことになる。さらに、上下とも同じにすると、木に穴を掘るか掻きだすかの一方しかできない。そこで両方を兼ね備えることを考えたであろう。逆に、遺伝子のエラーによってこのような形質が突然現れたなら、餌の採取方法が見つかるであろうか。ここでは日常生活の中で意図的に繰り返すことで、一方は丈夫に短くなり、他方は長く弓なりになったとするもので、日常の負荷と使用目的に応じて変化したことになる。この野鳥の餌の採取方法が彼らの知恵であり、技術ということになる。

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一方、イソギンチャクはウニやヒトデなどのように頭脳が存在しないとされる動物である。ヤドカリは成長に伴って貝殻を取り替える動物で、そのとき共生生活するイソギンチャクを古い貝から取り外して新しい貝に移し変える。イソギンチャクのある種では、触手を始めとする従来の軟らかい形質とは別に自ら固い物質を作り、身体の多くの部分を割いて貝殻形状を作るものが発見された。勿論、発見されたばかりで名前もない。このイソギンチャクは貝殻形状とイソギンチャクの一体型である。なぜこのようなものが誕生したかを推測する。

ここからは推測で証明されたものではないが、このように考えて実行できるイソギンチャクの目的を考えてみたい。イソギンチャクは通常自力移動ができない。この移動に際してはヤドカリに依存する。ヤドカリは自らの成長に合わせてそれまでより大きな貝殻を探して新たな宿とするが、そのときヤドカリの好みや気まぐれによっては、必ずしも新たな貝に移し変えてもらえるとは限らない。そこで考えたものが一体形状ではないだろうか。

もしも、イソギンチャクが模擬殻の形状を少しずつ大きく変えることができると、ヤドカリは成長段階で宿を変える必要がなく住み着くことになる。一方、イソギンチャクにとって好みではないヤドカリに遭遇したとき、模擬殻を収縮することでヤドカリを追い出すことができる。これは自力移動不可能なイソギンチャクが、自力移動可能なヤドカリから移動のイニシアチブを得ることができる。これによって、ヤドカリの気まぐれでおいてきぼりにならずに優先的にヤドカリに運んでもらえる。

このように自らの形質の一部を変えることにより、安定した生活条件を確保することができる。頭脳がないといわれるイソギンチャクであるが、通常、ヤドカリの貝殻に乗っているだけのイソギンチャクとは異なり、単に生きるだけではなくどのように生きるかの目的によるものと考える。彼らには優れた知恵が備わっていると考えられるし、さらに、自ら固い物質によって貝殻形状を作る技術さえも備えている。

なぜここではこのような考えをするのか。ここには掲載できなかった数多くの動物に知恵や技術が窺えるとき、頭脳がないとされるイソギンチャクが自らの身体の多くの部分を割いてまで模擬の貝殻形状を創造することは、たいした頭脳ではない私如きの考え以上の思考がなされているであろうと推測する。

このような多くの生態が意味するものは、生物に備わる形質は遺伝子のエラーや自然淘汰の累積によるものではなく、それぞれの生物の知恵や技術によって裏付けられたものといえる。それゆえ、彼らに備わる形質や機能は、如何に変化する環境であっても適応することは言うに及ばず、この上なく知的創造力に溢れている。その中には人の科学技術の航空力学に匹敵するものであることや、人のバイオテクノロジーを超えたものである。これまで知恵や技術というと、私たち人の認識では頭脳を備えた動物ということになるが、ここではそのようには考えていない。生物の進化は頭脳を備えた動物だけではなく、頭脳を備えないとされる植物や単細胞の生物も含めて、総ての生物が進化してきた。




見え難い適応進化と思考

ここではなぜこのような発想をするのか? 過去に時代を遡ったとき超音波や紫外線が認識できていなかったように、人に備わる機能はオールマイティーではない。それらの機能によって認識できたことが総てとすると、誤った理解をすることになる。さらに、そのような機能で生態を観察した内容に誤りがあると、その生態を拠り所に導き出した理論は、必ずしも正しいとはいえないことになる。

私たちが現在認識していることは全体の一部であって、認識できていないことが少なくない。このことは聴力や視力に限定されるものではなく、頭脳の能力についてもいえるのではないだろうか。すなわち、頭脳の思考機能では細胞レベルに備わる機能までは認識できていないということになる。

従来の適応進化で語られる環境適応は、生物の姿かたちの形質についてのもので、そこでは生物の意思や知恵などは介在しないとされてきた。これは環境適応の一部でしかないと考える。環境が変化したときそこに生息する生物が生き残りの手段にすることは何も形質だけではない。多くは自らに備わる制御機能の拡大利用によって生き残るし、また知恵によって生き残ることもある。これまでは形質の変異だけを進化として扱い、それ以外の制御や知恵は進化から排除されてきたのではないだろうか。このことが未だに進化の本質に至っていないことと推測する。

たとえば、自然環境の寒さに遭遇したとき、ある動物は夏毛から冬毛に体毛を変えることで寒さを凌ぎ、ある植物は茎や葉を細かい毛で覆うことで寒さを凌ぐ、これらは形質の変異であるから適応進化と見なされるかもしれない。しかし、姿かたちの表面に現れない環境適応が少なくない。

自然環境の寒さに対して生き残った動物がいる。それが極地の氷海に生息するノトセニアという魚である。氷の海の水温はおよそ−1.9℃で、これは淡水と異なり塩分濃度によって氷点が 0℃より下がっている。細胞外の塩分濃度は海水に近似であるが、細胞内は塩分濃度が低いことから氷点も高くて−1.9℃では通常の魚の細胞は凍ってしまう。

ここで氷海に生息する魚の中には、特殊な物質を創るものが現れた。その物質が不凍タンパク質で、これを体内に備えることで氷の海での生活を可能にした。スズキ科のノトセニアはその一つで、ウロコギスなど多くの魚にもこの不凍タンパク質が備わっている。彼らは 1500万年前に誕生したとされ、この不凍タンパク質は現在氷海に生息する魚の種類で 50%以上、個体数では氷海魚の 90%以上がこのタイプの魚とされている。これらの魚は氷海という環境に適応できたことで生き残ってきたが、姿かたちの外観に変化は現れないから適応進化したとは見なされない。

これは遺伝子のエラーによって誕生したものが氷の海に適応できたことで自然選択によって生き残ったとされている。この不凍タンパク質を合成するには抗凍結遺伝子が関与している。この遺伝子は元来消化酵素の遺伝子であったものが、その消化酵素の遺伝子をおよそ 100回繰り返す反復配列することで、このような抗凍結遺伝子の機能を備えるとされている。ここでは反復配列は遺伝子のエラーとはせずに魚が意図したもので、分子レベルの思考によるものと推測している。

一方、植物の中には体内物質の季節変化なるものの存在が確認されている。春から秋にかけてはデンプンを蓄えているものも、冬にはデンプンではなくショ糖に変換するものがある。ショ糖はデンプンに比べて凍り難い性質を備えている。このとき最初にデンプンを蓄えていた植物が冬の寒さを体験したとき、ショ糖に変化するプロセスが生物の意思によるものか、偶然やエラーによるものかの違いである。

意思によるとすると、デンプンより凍結し難いショ糖を見つけることが可能な思考能力が備わっていると、それほど長い期間は必要としない。これに比べて、寒冷になった初期に遺伝子のエラーによってショ糖の変異が発生する確率はゼロに等しい。なぜなら、進化の変異には地質年代に及ぶ数百万年を必要とされている。もしも、寒冷初期の短期間にこのエラーが発生しなかったならば、対応できない植物は生きられないことになる。偶然のエラーが発生するまで何百万年も寒冷地で待つことはできない。しかし、この植物も体内物質の変換によって生き残ってきたが、デンプンからショ糖に変えることは単なる体内物質の変換で、姿かたちの概観に変化として現れないから適応進化と見なされることはない。

この植物と同様のことは保護色の雷鳥に見ることができる。雷鳥では夏と冬とで羽の色を変えることで保護色による防御対策としている。雷鳥が羽の色を変えることによる防御と、植物が夏と冬とでデンプンとショ糖を変えることによる防御と何処が異なるのだろうか。どちらも自らの防御手段で、その思考に違いはない。あえて違いをいうならば、姿かたちに現れるか否かということになる。しかし、変化する環境に適応することで生き残る手段は姿かたちだけではない。さらに、動物の中には身体の内部さえも変化させずに、寒い環境から暖かい環境を目指して移動することで渡り鳥となるものがいる。これも環境適応の重要な要素である。

ここで大切なことは進化の変異が姿かたちに現れたか否かの結果が問題ではない。形質レベルの変異は付随的要素で、それ以前に分子レベルの変異が始まっている。その分子レベルの変異は通常では私たちの目にするものではない。結果として、形質の変異を目にするとき、あたかも突然に出現したかの如く目に写る。すなわち、形質レベルの変異には分子レベルの変異が基礎に存在するというべきではないだろうか。

一方、これまで多く人に認知された進化の考え方は、変異の発端は遺伝子のエラーということになる。これは私たち人から見て如何に優れた知的な変異であっても、発端がエラーであるから生物の意思や目的は介在しないとされた。ましてや生物の思考,知恵,判断が介在しないとされた。これまでは形質の変異に限定してきたから、物理的変異にかかわる遺伝子のエラーとしたが、これは逆に、環境適応の大部分である制御機能,環境の認識,思考,知恵,判断などが排除されてきたことになる。しかし、生物は形質が変化することだけが環境適応できなく、変化した環境に対処しようとする。そのとき自らに備わる制御機能を活用することや、知恵によってストレスを解消しようとする。すなわち、形質の変異は環境適応の一部であって、多くは姿かたちに現れない環境適応ということになる。