これまで見てきたように人に備わる機能は決してオールマイティーではない。それは視力や聴力だけではなく、脳力についてもいえるのではないだろうか。すなわち、人が認識している思考というものが生物に備わる総てではなく一部であったとすると、思考について必ずしも正しいものとはいえなくなる。 これまでの生物の進化では、突然変異や自然淘汰とするもので、そこでは生物の意思や目的が介在しないばかりか、生物の思考や知恵など介在しないものとされてきた。それに対して、ここでの進化の考えは、生物の意思や目的によるもので、そこでは生物の思考や知恵が介在するものとしてきた。それゆえ、従来進化では触れることのなかった思考や知恵について、ここでは考える必要があるとしている。 ここで考える思考とは個体レベルに備わる頭脳のようなものではなく、細胞レベルの思考の機能が存在するであろうというもので、これが存在しないと環境適応や適応進化はできないと考えている。ここでは思考がどのようなもので、頭脳だけのものかを考えることにする。
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| もくじ |
「生物が進化するか否かは生物の意思であり、どのように変異するかは生物の思考や創造である」。これを提起すると、自らの意思や思考を示すことのできる頭脳を備えた動物は良いとしても、動物の中にも頭脳を備えないものや、頭脳を備えないとされる植物が自らの意思や思考によって変異することは、理論的に成り立たないと反論される。
しかし、頭脳の定義とは人が定めたもので、この定義が正しいかどうかには疑問がある。さらに、動物が魚類,両生類,爬虫類,哺乳類と進化するのに対して、植物も隠花植物のシダ類から顕花植物の裸子植物,被子植物と進化している。これらは偶然の産物というよりは、むしろ理に適った知的創造に値する。そして、これらの進化の流れには脳を備えている動物と、脳を備えていないとされる植物に思考と創造の類似性を見ることができる。
一方、頭脳を備えた人が自らの意思や思考によって進化することができるかの問いに対して、大多数の人がNo,と答える。多くの人々は自ら進化したいと希望するが、それを実現できないでいる。頭脳を備えた人が思考や創造しても不可能なことは、頭脳を持たない植物にできるはずはないと考える。それゆえ、進化は動物や植物である生物の意思や思考の及ばないところで行なわれるとして、突然変異や自然淘汰が語られるのであろう。
現在、人が定義する脳とは思考や知性を司るもので、動物の頭部に収納されているものを頭脳と表現している。頭脳は動物の中でも一部の動物にのみ備わったもので、総ての動物に頭脳が備わっているのではない。私たち人の認識では思考や創造ができるのは頭の中の頭脳であり、それ以外の部分で思考はできないとしている。だから足の踵や膝小僧で思考はできないとし、同様に、胃や肝臓で思考はできないとしてきた。これまではそれが当たり前で常識であるから何の疑いも持たずに生活してきた。
その思考ができるとされる頭脳の能力については生物種によって違いがあり、頭脳の発達によって下等動物から高等動物にまで分類している。人の頭脳による思考は優れていて、生物の思考や知性を語るとき人をおいて他にはないとされてきた。一方、人に近似の哺乳動物は人には及ばないものの人に次ぐ思考能力を備えているとされている。それに比べると魚類などの能力は遥かに劣るとされてきた。
この考え方でいうならば、動物の中でもウニやヒトデのように物理的に頭脳を備えない動物は思考ができないとされ、自力移動や自己主張さえもできないとされる植物では頭脳と呼べるものは物理的に存在しないことから、植物では思考は論外とされてきた。すなわち、思考や創造とは物理的に頭脳を備えることが前提で、その頭脳によってのみ可能とされてきた。
しかし、これらの脳や思考に対する考え方は人自らが考えたことで、生物共通の考えといえるものではないのではないだろうか。なぜなら、人に備わる機能はオールマイティーではないから、生物の総てについて認識できているのではない。このことは過去に超音波や紫外線が認識できなかったように、人が認識することのできない思考や知性に類似する機能があっても不思議ではないし、むしろあると推測すべきではないだろうか。なぜなら、思考や知性から除外される分類に相当する下等動物や、頭脳が存在しないとされる植物の中から思考や知性を感じさせるものや推測させるもの、さらには思考を排除したら成り立たないであろうものを観ることができる。
すなわち、生物が数千万種に変異して異なった機能や形質を備えることは、思考後の結果表現の一手段ではないだろうか。これらを認識すると生物の日常生活に思考は不可欠で、変異にも思考は欠かせないものとなる。さらに、それらは頭脳の有無とは別に思考されていると推測することができ、頭脳とは異なる「もう一つの脳」の存在を発想させることになる。ここでは、これまで途轍もないスペースを使って数多くの生態について説明してきた。なぜこのような説明をしてきたのか。それは従来の進化というよりは生物そのものに対する基本的見方に誤りがあったと考えている。
物の形状や身の回りの環境を知る手段としては、人では眼による視覚が大きなウェイトを占めている。しかし、これは人や動物の多くではあるが、それが総てではない。一部の動物や他の生物のあるものは聴覚を利用し、別のあるものは触覚を利用し、また別のあるものは嗅覚や味覚を利用して形状や環境を認識している。さらには人が知る五感とは異なるもので、未だ人の知り得ない第六感や七感によって認識可能な生物が存在することも推測すべきである。たとえば、磁気などのように。
このように考えると、生物の意思や思考についても同じことがいえるであろう。人を始めとして多くの動物は頭脳によって思考や判断しているとしても、それが総てではないとすべきではないだろうか。頭脳を持たないヒトデやウニは危険か否かの判断を何処でしているのだろうか。なぜならば、彼らも捕食者からの危険に遭遇すると方向を変えて逃げだす。同様に、頭脳を持たないとされる植物は日常生活を何処で考えているのだろうか。一部の動物や他の生物は頭脳以外の場所で思考や判断していると考えることができる。私たちは頭脳を思考するところと理解しているが、頭脳が唯一無二であるかどうかの検証も必要である。
これまで生物の進化では思考や知性が語られることはなかった。思考や知性が語られないことは、脳や頭脳についても語る必要もなかった。しかし、ここでは生物に備わる思考や知性は頭脳に限定するものではなく、頭脳を備えていないとされる植物のような生物でも思考可能な知性が存在するとしてきた。そのため、生物の思考や知性さらには脳がどのようなものかの説明は避けて通ることができない。
これらを考えるとき、これまでの脳についての定義は正しいのだろうか。動物は脳の形態を物理的に明らかにしているのに対して、植物ではその形態をなしてはいない。そのため、これらはこれまで無脳として扱われてきた。しかし、人の定義する物理的な頭脳の存在しない下等動物や無脳動物、さらには脳の範疇から除外された無脳植物でも思考や判断の機能を備えていると考えられることにある。そのため、これまで脳を備えていないとされる植物の知性についての例を数多く挙げた。
生物は進化の過程で機能分化を繰り返してきた。その中には移動手段を備えるものや環境認識のための視覚情報を備えるものなど、さまざまな機能分化がある。それらの機能分化の中には思考や判断についても分化しようとする試みもなされたはずである。その判断をさらに速くするための機能分化が頭脳であると推測する。そのことから考えると、速い頭脳の機能分化を必要としない種にとって、頭脳の機能分化をしなかったことが思考や判断ができないことにはならない。頭脳に比べてスピードは遅くても判断できるであろうし、彼らは判断の速さは求めてはいない。頭脳が優れているのは判断の速さで、この判断の速さが見掛けの知性として自己満足の過大評価をしているのではないだろうか。
動物の判断スピードが秒の単位であるのに比べて、植物の判断スピードは半日や数週間の単位であることは、動物が瞬時の判断をしているのに比べて、あたかも何も考えていないように見える。しかし、実際には動物とは比べものにならない奥深い思考がなされていると推測することは間違いだろうか。なぜなら、見掛けでは激しい火山噴火に比べて、何の活動もしていないように見える大陸移動ではあるが、火山噴火に比べて桁違いに大きなエネルギーを使って活動しているように。人は直接的に認識できるものについてのみ理解しているのではないだろうか。
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私たち人は頭脳を備えたものが知的であるとか、高等であるとか表現するが、頭脳だけが優れているわけではない。頭脳は思考や判断の速さでは優れているが、生物にとって頭脳がもっとも優れたものとはいえない。この頭脳が
60兆個の細胞の考え方を総て反映しているかというと、そうでもない。とかく特権を手にしたものは独裁政治の如く必ずしも民意を反映しているとは限らない。頭脳も同様で
60兆の細胞の思考とは異なる行為をしばしば行い、その都度多くの器官の細胞は警鐘を鳴らす。同時に、頭脳の誤った行為の後始末に奔走することになる。
たとえば、人の身体にとって酒は良いものではない。しかし、頭脳は 60兆の細胞の考えを無視して飲酒して酔っ払う。それぞれの器官は顔を紅潮させたり呼吸を速めたりして警鐘を鳴らす。一方、肝臓ではアルコールの後始末である解毒作用をする。
一つの生命体について考えるとき、頭脳の判断は速いだけで思考の正しさとは必ずしも結びつかない。唯一の救いは、頭脳だけとせずに各器官に分散脳が残されていることで補正されていると考えられる。もしも、植物が人のように頭脳を備えずに分散脳だけを備えていたとすると、葉や茎や根のそれぞれの器官の集合体は多少の時間は要しても合議に基づいて生活することに何の問題もないであろう。
植物は自力移動ができない。逆に移動を必要としないことから得られたエネルギーの総てを移動以外に振り向けることができる。それに比べて動物は移動のメリットとは裏腹に、移動に際して多くのエネルギーを消費している。動物は移動することを手に入れたが、この移動に費やすエネルギーの大きさに気が付き始めている。この移動に費やすエネルギーを得るために餌を求めて移動するのであるならば本末転倒で、脳の利用は移動と獲物以外に何を考えているのか心配になる。
草食動物の多くは 1日のうち1/3〜1/2の長い時間を食事に費やし、移動しながら食事をする。同様に、マンタは泳ぎ続けなければ呼吸ができずに生きられない身体の構造になってしまった。それに対して、ナマケモノは移動することをできる限り拒否することで、エネルギーの消耗を減らして
1日に木の葉 2〜3枚で生きることを可能としている。
これらに比べて、植物は移動することなく居乍らにして獲得できる光を利用し、光合成によって得られたエネルギーの総てを移動以外の目的に使用できることになる。考える内容は危機管理の刺や毒であり、子孫存続のために種子の殻の材質であり、心豊かな文化である色鮮やか花や香りであるとしたら、今になって植物の発想の豊かさに気づくことになる。
そして、このような発想するものの多くが植物である。上記の 「生物の生活形態」で触れたように、新たなものを創造するのはその多くが独立栄養生物の植物であり、従属栄養生物の動物は植物の真似をしているものが少なくない。同様に、人もまた然りである。以上より、頭脳を備えた動物が優れているのではなく、頭脳と同等以上のことを可能にする機能が総ての細胞に備わっている。それゆえ、それら細胞の集合体は頭脳の有無にかかわらず動物でも植物でも知的な創造が可能であるばかりか、頭脳を備えた人と類似の細胞による社会生活ができていると考える。
地球生物は三十数億年前に誕生したとされる一個の生命体が、さまざまに機能分化することで現在では
150万種に及ぶとされる生物種が誕生している。さらに、分類の不充分なものを分類し直すことや未発見の生物を加えると、生物種は数千万種に及ぶと推測されている。そして、それらの生物が備えている機能や形質は知的で創造豊かである。
その知的な創造をしているのは頭脳を備えた動物に限定されるのではなく、頭脳を備えない動物や頭脳とは全く縁がないとされる植物にも見ることができる。しかし、そのように優れた機能や形質は現在の生物学では目的のない突然変異によるものとされ、そこでは生物の意思や思考は必要とされてはいないし、介在しないとされている。
これまで人と人以外の生物では、思考基準を使い分けているのではないだろうか。同じ出来事でも人のときは思考による知的創造で、人以外の生物では突然変異とされる。たとえば、人が作り出した超音波は優れた技術で知的創造物とされるが、その超音波を人が誕生する遥か以前に利用したイルカやコウモリでは突然変異とされ、そこには彼らの意思や思考が介在する余地は存在しない。
これは一例であって、植物の創りだす化学物質の多くを人は抽出することで手にしてきた。さらに、人が数百年後に手にしようとするものをすでに他の生物が自らに備わった機能や形質として備えているかもしれない。それにもかかわらず人は特別に優れた種であって、他の動物や植物とは違うとしている。そして、他の生物とは違う要因が頭脳にあるとしている。
思考に対する基準とはこのようなものでよいのだろうか。イルカやコウモリは動物であるから人が超音波を考えたように考えことができたとしよう。それでは同じ動物で多少なりとも考えることのできるハエなどの昆虫を、頭脳が存在しないとされる植物が捕獲して自らの栄養にするといわれる食虫植物をどのように考えたらよいのだろうか。
現在の認識では、食虫植物が備える機能は目的のない突然変異とされ、そこでは彼ら食虫植物の意思や思考は介在しない。しかし、類似のことを人が行なうと、それは思考による知的創造とされるのである。これらは思考基準の使い分けに過ぎないもので、生物本来の思考基準とは違うのではないだろうか。
生物について論じるとき、人は自らを特別であるとしているのではないだろうか。動物行動学でしばしば見られるものに統計数学や確率論が引用される。しかし、それと全く同じ内容を人に置き換えることはしない。なぜか、動物のときにはそれらの行動に意思や思考は介在せず、自然の成り行きの結果を示すものとし、その中に何らかの法則性があるとするもので、そこではしばしばサイコロが登場する。しかし、同じ内容でも人については思考によるもので、人それぞれの主観の相違による違いとしている。このようなことは動物行動を正しく見たものではなく偏った見方ではないだろうか。
この半世紀に分子生物学で議論されたことは、DNAやタンパク質の化学的結合でも物理的にその構造や形態を確認するものであった。これらは直接目で見る形質や計測器具によって確認できる化学結合であることは、物理的機能に傾注するあまりに、これらを裏で支えるであろう思考機能を排除した議論に終始したのではないだろうか。これらは意識的に排除したのではなく、人の認識可能な範囲を超えたため見ることができなかった。このことは現在計測できないとされている思考機能も、計測可能になったときその存在が理解されるであろう。
これまでの生物の進化では、生物の意思や思考は一切論じられることがなかった。事あるごとに人は自らを知的生物であるといいながら、その知性とはどのようなもので如何なる生物の時代から備わるようになったのかは説明していない。物理的確認を必要とするならば、人が知的生物であるとする
「思考や知性のメカニズム」を明らかにするか、計測による確認が必要不可欠である。
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従来論との相違は思考の介在
従来論とここでの考えの最大の相違は、進化の変異に生物の思考が介在するか否かである。この思考の介在の有無によって、それ以降の総てが異なることになる。従来論ではこの思考を排除したことで数多くの問題や矛盾を認識しながらも、それらを解決するには至っていない。これは人の偏った見方で、思考の領域を頭脳が唯一と限定したことに他ならないであろう。
この思考に対する基本的概念によって、一部の生物では物理的に頭脳が備わっていないことから、この思考を生物の共通項目から排除する結果となったのではないだろうか。しかし、現実には数多くの生物の生態から生物に思考能力が備わっていることは実証されたといわないまでも、思考能力を推測するには充分である。さらに、それらの思考は一部の生物に備わっている頭脳の有無に影響されるものではないことも事実である。
これらから、生物に備わっているとする思考は頭脳に限定するものではなく、総ての生物に思考能力が備わっていると推測する。このことは進化が目的のない突然変異ではなく、生物に備わった思考能力によって創造された目的のある変異ということになる。同時に、生物の思考による知的創造は変異に限定するものではなく、進化の変異は思考によって創造されたものの一つに過ぎず、変異として形質に現われない数多くの知的創造が存在すると推測する。
変異が思考を必要としない生物の意思だけならばYes,No,の二者択一で、たとえ変異したとしても、これほどまでの多種多様にはならなかったと推測する。これは従来論の自然が選択したとされる方法と結果的に近似になる。しかし、実際の生物は多種多様で、進化の変異の中には単なる形態的な変異だけではなく数多くの無形態の文化が備わり、それらの多くは未だ人に理解されていないものが数多く存在すると推測できる。
このことは変異が二者択一の選択ではないことを意味するもので、それぞれの生物が日常生活で試行錯誤しながら、他の個体と切磋琢磨することによって思考の限りを尽くした結果が多種多様な変異を生み出していると推測する。すなわち、進化は生物の意思のみならず、思考による知的創造物と考えている。
私たちの日常は大部分が判断である。いい換えると、判断さえできれば思考できなくても生きてゆける。これと異なるものは、日常で求められるものは思考で判断は必要とされない。そのような社会があるならば、それは思考的社会であるかもしれない。
前者の判断さえできれば思考できなくても生きてゆける判断的社会とは、どのようなものか。たとえば、自動車の運転はその最たるものであろう。運転中に判断を遅らせて考えていたら事故が起こることから判断が総てである。会社の業務の多くはそれまでの経験に基づいた判断の繰り返しをしているに過ぎないし、社会から一目おかれる弁護士でも過去の判例との比較判断である。このように見てくると、人の社会は判断の社会で日常の大部分は思考しなくても判断さえしていれば生きてゆける。
今では一歩進んで判断から反射になりつつある。多くの人がコンピュータゲームしているのは、判断を通り越して反射的操作しているに過ぎない。これは遊びとしても、そこには判断はもとより思考などは存在しないであろう。過去において学習の場でも同様のことがあった。最近でこそ少なくなったが、過去には日本では
「そろばん」が重要視されていた。特に上級クラスの暗算になると思考や判断では間に合わず反射的処理であった。さらに、現在では判断であるコンピュータが人にとって尊重されているように、人では記憶,判断,反射の優れた者は知的であるとされる。このような見掛けの強さばかりがもてはやされ、もはや思考が軽視される以上に除外の憂き目に合うほどである。
一方、後者の思考的社会とは植物に見られるようなものではないだろうか。捕食者 (植食者)が目の前に現れて食べられようとしたとき、私たち動物は危険と判断して反射的に逃げようとする。しかし、植物は自力移動をしないことからそのような瞬時の判断は必要とはしないし、たとえそのような判断をしたとしても逃げることができない。食べようとするものには食べさせておいて、この次捕食者に食べられないようにするにはどうしたらよいか考える。
そこで考えるものが棘や毒であろう。棘を創るにしてもカラタチのように大きく鋭い棘か、薔薇のように小さく弓なりの棘にするかは捕食者の唇の大きさや舌の厚さを考慮に入れて創る。一方、毒もただ作るのではなく、捕食者が葉を食いちぎるとき残した唾液から効果のある化学物質を創造するであろう。この結果どうなったか。植物は種類によって体内の化学物質は千差万別で、身近なものの真似ではなく個性豊かである。このように見てくると植物が瞬時の判断することは皆無に等しく、多くが思考と知的創造になる。
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教育を省略して思考する
頭脳を極度に進化させた人は、もはや思考よりも判断や反射の速さを重要視したもので、これによって見掛けの強さを手にすることになる。しかし、そのような頭脳に記憶された内容は、子孫への蓄積ではなく子孫は世代交替の度に判断するのに必要な知識を蓄積するために常にゼロからのスタートを繰り返す。
そのような知識といわれる記憶に学校教育と称して 16年もの長い時間をかける。皆が同じことを記憶する必要があるならば、それらの内容は遺伝子として子孫に継続すべきで、これによって誰もが同じ記憶に費やす無駄な時間を省略することができる。今日、人は百科事典数十冊分の情報量を一つのCDに収めることが可能になった。一方、ヒトゲノムで表される塩基配列の情報量は百科事典数十冊分に相当するとされている。これとは反対に
16年で学習する内容は百科事典の情報量に比べて遥かに小さな情報量で賄うことができる。
人が体外技術であるのに対して、他の多くの生物が体内技術で処理していることは、人の体外技術のCD情報は他生物の体内技術のDNAか、それと類似のオルガネラによって置き換えることも可能ではないだろうか。そうすることによって判断のために必要とする知識の蓄積である教育を止めることができる。これによってこれまでの記憶,判断,反射のレベルから思考のレベルへと方向転換すべきで、人が進化すべき方向とはそのようなものではないだろうか。
動物の中でも昆虫を始めとして多くの動物は卵を産み落とされ、孵化するときに母親の姿は見ることはできない。学習を受けることは言うに及ばず養われることさえなく成長するが、成体になっての知性はしっかりと備えている。これらは動物だけではなく植物にもいえることで、種子は親から学習を受けなくても知性を備えていると見なせるのではないだろうか。
いい換えると、多くの生物では親から子への世代交替の度に毎回ゼロからの教育する時間的余裕はない。そのようなことをしていると思考の時間が少なくなり、変異を必要とするとき変異に要する思考の時間が足りずに進化ができなくなり、種が滅ぶことになる。進化しようとする生物は基本事項は世代交替で済ませておいて、進化に必要な思考をしていると考えてはどうだろうか。
文化を語るとき、他の生物が備えることのできない文化を人が獲得できた要因は二つあるとしている。その一つが手による道具の使用で、もう一つが言葉による会話であるとされている。道具は当初、木の枝の切れ端や石ころを使用するものであったであろうが、次第に道具の利用価値を認識してこれが石器の使用へとつながって、現在の精密工業にまで至るとするものである。
同様に、言葉による会話では、ヒトと近縁の類人猿と比べると咽の共鳴部分がヒトの方が長く、これによって複雑な音を表現できるとされている。これによってヒトは言葉によって高度な文化を備えることができたとされている。遺伝子の進化では地質年代を必要とするのに対して、言葉による進化はスピードが速くて短期間で進化することができたとしている。これは最近いわれているヒトの進化についてであるが、生物学的内容と一般論とが混同されているのではないだろうか。
前者の手による道具の使用であるが、これは体外技術で生物進化とはいい難い。体外技術では野鳥が巣を作り、蟻が巨大な蟻塚を作る。蟻塚を作ったから進化できたのではないし、遺伝子が変わったものでもない。一方、後者の言葉であるが、咽の共鳴体によって複雑な音が出せることがどれほどのものか。たとえば、ゴリラのゲンキ
(この後登場する)がヒト以上に心の中を表現したことは、ゴリラとヒトの心のあり方に違いがないことを示すもので、これはゴリラに限るものではなく他の動物でも備えたものであろう。ただ、それらをヒトが理解できないでいるだけではないだろうか。
人は自らだけが会話できるとしているのではないだろうか。一部の動物は簡単な会話はできるとしても多くの動物は会話できないとしている。さらに、植物では会話はあり得ないとされている。これは人が想像するだけで他の動物を理解できていないだけであり、ましてや植物に至っては理解以前ではないだろうか。すなわち、人の定義する言葉が総てではないであろう。
クジラの仲間ではクリック音を発するものがいて、さまざまな音が確認されている。その音はある水深では海中を何千キロもの長い距離伝わるとされ、そのクリック音によって会話が成立している。これは何もクジラに限ったものではなく他の動物でも会話が成り立っている。だから繁殖のための生殖行動が可能で、これは総ての動物に共通している。
一方、動物の音による会話に対して、植物ではフェロモンによって会話が成立しているであろう。だから植物も繁殖のための生殖活動が可能である。植物の隔年結実や数年に一度の豊作が現実とすると、それぞれの樹木が勝手に豊作や不作にするのでは意味をなさず、総てが同時に行なう必要があり、そこには会話は必要になる。同様に、サンゴの一斉放卵についても会話なくして成立するものではないと考える。
これらは生物を正しく認識できていないと思われる。手によって道具を使用することが目的なく動かしたり使用するものではない。ましてや言葉を使用することは生物の意思や思考によって交わされるもので、手による道具の使用も会話による意思の疎通も思考可能な知性によって可能とするであろう。
すなわち、思考能力と知性が備わっているとき、手を使わなかったとしても嘴で野鳥が巣を作り、蟻が砂粒を口でくわえて唾液で蟻塚を作ることができる。一方、会話でいうならば、声によらなくても人がモールス信号で会話したように、昆虫は触覚で触れ合うことでも会話は成立する。その会話の複雑さは人が理解し得ないだけのものに他ならない。同様に、たとえ音声を発することや触覚で叩くことをしなくても植物の互いの会話も成り立っていると推測できる。会話は総ての生物で成り立っているもので人だけが特別ではないであろう。
さらにもう一歩進めると、これら個体レベルではなく細胞レベルでの細胞間の会話も成り立っているであろう。もしそのようなものがなかったとしたら、多細胞生物のそれぞれの細胞が共通認識持つことはできずに、多細胞体が成り立たないことになるであろう。
人に特別のものがあるとしたら、それは空の頭脳蓄積領域に数学や物理学などのさまざまな基礎情報を蓄積できたことで、その蓄積情報を考えることのできた思考能力にある。すなわち、思考能力が備わればそれ以降の手段は何でもよい。手や咽がなかったとしても触角でも可能で、蜘蛛のように尻から糸をだすことで可能になることもある。
さらに、植物ではさまざまな二次代謝系の中でも防御代謝系と呼ばれるものを備えている。彼らにとって思考して知的創造さえできれば手や道具は必要とはしていない。いい換えるならば、植物のようにできない不器用な人は、手と道具の試験管を使って植物の真似をしている。そのような化学物質を真似する人が進化した知的生物で、それを自らの思考によって創造した植物が知的生物といわれない。これらは本来の生態とは違うのではないだろうか。
ゲノムによる進化系統樹では、ヒトは類人猿から分かれておよそ 280万年 (化石では異なる年代)経過し、遺伝子レベルで比べるとヒトとチンパンジーの違いは僅か
1%余りしかなく、進化したよりは同種と扱ってもいいくらいの変異量しかない。しかしながら、ヒトは極めて進化した種といわれている。ここで注意しなければならないことがある。
ヒトは誕生してから 280万年の歴史があるとされるが、ヒトとしての 280万年と、ヒトとはならずに類人猿として
280万年を経過したものとの間にどのような違いがあるのだろうか。京都大学霊長類研究所のチンパンジーのアイは、280万年の長い歴史の谷間を飛び越えてしまったのか。それともチンパンジーがクシャミをしたらヒトになってしまったのか。もちろんアイはチンパンジーだから姿かたちで比較するとヒトではなくサルである。
しかし、アイは人が使用する数字の概念を理解し、数の大きさの違いを判断する。また文字の中でも色を表す漢字と色との相互関係を理解する。さらには数字の大小を判断したり、何処に何の数字があったかの記憶をすることなどはヒトに比べて何の遜色もない。アイが数字を順番に並べるのを見ていると現代人がコンピュータゲームをしているのと何ら変わりがない。私は彼女の判断の速さに追いつくのに必死になる。
一般的に、280万年の間にヒトは大きく進化したといわれ、チンパンジーは進化しなかったとされている。もしも、280万年の間にヒトが特別になったとすると、280万年隔てられて特別になれなかった現代のチンパンジーに理解させようとしても困難である。しかし、この
280万年の隔たりをものともせずに、アイは長い祖先から母親までの歴史とは異なり
280万年を 10〜15年で飛び越えて人の文化の一部を理解する。
類人猿の研究では類似のものがある。アメリカ・ヤーキーズ霊長類研究所のスー・サベージ・ランボー博士の下で勉強する類人猿ボノボのカンジとパンバニーシャは、アイとはまた違った学力の高さを発揮している。ボノボはチンパンジーともっとも近縁種である。このボノボのカンジがボードに描かれた図形や記号を使ってヒトとの会話を成立させることや、ヒトの会話を聞いて理解してリアクションする。さらに、表面に出てくる喜怒哀楽とは異なる心の内面の心理までも理解する。
これらチンパンジーやボノボが人の算数を理解できること、ボードを使って人と会話ができること、人の心理までも理解できることなどは、ヒトにとっての 280万年は、進化とするより単なる世代交替に過ぎなかったのではないだろうか。ここでは人がチンパンジーやボノボを研究していることになっているが、間違えてはならない重要なことは、チンパンジーやボノボが人の文化の一部を理解しようとしていることである。
これらの研究での対象物は、彼らの設定ではなくヒトの設定にもかかわらず、彼らの
2〜3世代前には見たこともないようなコンピュータディスプレイを使いこなしてしまう。これらからいえることは
1万年前に同じようなことをしたとき、ヒトと彼らの間では同じような結果がでていたと推測すべきである。このことは
280万年前であっても 600万年前に遡ったとしても、すでにその段階でチンパンジーの祖先もヒトの祖先も同じような思考や判断の能力の基本は備えていたというもので、その頃の思考や判断の能力は現代と大きな差ではないと推測する。なぜなら、進化していないとされるチンパンジーが、進化したとされるヒトの文化の一部を
10〜15年で理解することができているのであるから。
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一方、類人猿の中では比較的ヒトとは遠い関係のゴリラの心理について触れることにする。日本の動物園では従来の狭い檻の中に
1〜2頭の動物を押し込む形態から、それよりも広く自然に近い環境で繁殖飼育する方法を採用し始めている。そこで上野動物園はゴリラの担当となり、全国から集められることになった。
すでにいたゴリラは雄のビシュと雌のゲンキは恋人だった。そこに千葉の動物園から新たに雌のモモコが加わったことで三角関係が生じた。雄のビシュはそれまでの恋人雌のゲンキを振ってしまい、モモコを新たな恋人とした。この結果、ゲンキは失恋して元気をなくした。それまで
100kg以上あったゲンキの体重は 60kgに激減した。さらに、失恋のストレスから自らの指を噛み切ってしまった。
2002年モモコには雄の子供が生まれた。名前は桃太郎。ここで振られたゲンキの心理は、私たち人とゴリラのどこが違うのか。違うところは何もない。むしろゴリラの方が現代の人よりも人らしいと思うのは私だけであろうか。
ゴリラはチンパンジーより分岐点が古く、数百万年より大きな隔たりがあり文化など微塵もないとされるが、彼女の行動からは人と同等以上のものを見ることができる。このことはヒトが大きく進化してヒト以外の生物が進化しなかったとすることに疑問を持たざるを得ない。さらに、これが数百万年に限らないとすると、チンパンジーやゴリラとヒトについてではなく、それ以前の他の生物との垣根も取り払われることになる。ここまで来ると知性や文化を備えているのは人だけではなく、頭脳を備えた動物は思考可能な知性を備えているといえるのではないだろうか。
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ここではなぜこのような考え方をするのか。上記のチンパンジー,ボノボ,ゴリラで示されるように、思考も感情も人に類似するものが他の動物にも備わっていて、大差がないことが分かる。これまでヒトに進化するには数百万年を要すとされた。それゆえ、ヒトにはなれなかったチンパンジーやゴリラは、ヒトに比べて数百万年の遅れがあり、進化から取り残されたと考えられてきた。しかし、そのようなチンパンジーやゴリラであるが、今日のヒトと比べて何の遜色もない。
チンパンジーがヒトとの数百万年の進化の差を乗り越えるだけの思考や感情を備えているということは、ヒトや類人猿にもはや隔たりはない。この隔たりは類人猿だけではなく、他の動物も同じように備わっていたのであろう。すなわち、数百万年とか数千万年などという単位ではなく、遥かそれ以前に地球生物は自己の認識や環境の認識、そして、思考や判断の機能が備わっていたというべきであろう。それゆえ、環境変化に対して適時適切に対処でき、進化をすることができていた。これは決してエラーとか偶然といわれるものではなく、それぞれの時代の生物の意思や思考によるものであろう。さらに、それらは動物だけではなく、植物についてもいえることではないだろうか。なぜなら、動物以上に環境に適応してきたものが植物である。
ヒトはたまたま産業というものを手にしたことで、生物の中では特殊と考えるようであるが、確かにその部分は優れている。しかし、その産業によって自動車やテレビを作ることは、多くの昆虫が変態や擬態によって多種多様になっていることと類似と考えることができる。ヒトは物理や数学によって機械や電気の産業を体外技術によって行っているが、昆虫はDNAの遺伝情報をによって生化学の体内技術によって変体や擬態をしていることになるのではないだろうか。
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