16章 間違いや偶然による進化

従来の進化では、進化の発端は遺伝子のエラーによるもので、それらのエラーの中から、環境の変化に偶然マッチングできたものが進化生物になり得るとされた。そのようにして誕生した生物は、これまでの地球生物の歴史の中で数億種に及ぶとされてきた。そのような億に達する都合の良い偶然があるだろうか。もしも、数十億年の生物の歴史で、都合の良い偶然があるとすると、それは指折り数えることのできるものではないだろうか。 その一つは生物が*認識と知性を備えたことであろう。それ以降は、この*認識と知性によって知的創造することで進化が可能になったと考える。それゆえ、数億種といわれる生物の誕生は遺伝子のエラーと自然淘汰による偶然の産物ではなく、それぞれの生物の意思によって知的創造されたもの、と私は考えている。

もくじ
   細胞レベルの擬似思考誕生の偶然

   DNAのエラーが進化になり得ない理由

   エラーからでは成立しないDNA言語
     


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細胞レベルの擬似思考誕生の偶然

この項は、数十億年前の生物誕生の時代を思い描こうとしています。それは実証できないばかりか、状況証拠とまでいえるものではない。ですから、想像か空想のようなものであることを断っておきます。なぜ、そのような空想をするのか? ここでは生物の進化が突然変異 (遺伝子のエラー)と自然淘汰ではなく、それは生物の意思によるものと考えている。ここではなぜそのような考え方をするのか?

世の中に、都合の良い偶然などというものはそれほど多くは存在しないと考えている。日常目にする多くのことについて、私たち人が認識していることは、見かけの表面的なことで真実が見えていないのではないだろうか。それゆえ、私たちが進化で語る「エラーと淘汰」の偶然と見えることでも、実際には偶然ではないと考える。中でも、生物の生態に観られる大部分は都合の良い偶然によるものではなく、それぞれの生物の意思や目的によるものと考えている。もしも、都合の良い偶然があったとすると、それは数十億年の生物の歴史の中で指折り数えられることではないだろうか。その都合の良い偶然の一つは、生物が*認識と知性を備えたことで、それ以後は、そのとき備えた思考の機能によって思考されて創造されてきたと考える。

ここでの進化は、生物に備わる細胞脳による知的創造物とし、総ての生物に思考機能が備わるとしているが、それでは如何なる要因でこのような思考機能が誕生することになったか。それらを創造するための最初の思考機能は思考に頼ることはできないから、このときばかりは偶然による物理的現象によるものであろう。そのような偶然があるとしたらどのようなものであろうか?

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最近では深海調査船によって深海底の映像を見ることができる。海底の煙突から有機物や熱エネルギーなどが絶えず噴出している。私たちが深海底の熱水噴出口を直接見ることは困難であるが、透き通った泉の底の小さな穴から湧きだす水によって、小さな虫の死骸や枯葉のメッシュになった葉脈の切れ端が回転しながら上がったり、この上昇領域から外れたものが揺れながら沈んだりを繰り返しているのを見ることができる。そのときの僅かな上昇流は風呂の排水口のようにらせんを形成する。

この泉が原始スープの淀んだ熱水噴出口と考えると、海底の小さな穴から有機物質やエネルギーである熱水の吹き出しによって、さまざまな種類の有機物質が撹拌され、回転して上がったり揺れながら沈んだりの脈動を繰り返すことになる。このとき一部の領域は僅かな上昇流によって無重力状態に近似の環境で、そこに捩れや揺れなどの小さな力が働くことになる。

このような環境の中で化学結合が行われたと仮定すると、有機物質が混濁する中で最適な次の一つがその都度結合して一本の鎖が作られる。その中でRNAに似たものができ、長く伸びた擬似RNAは複雑に絡まったと仮定する。勿論、ペプチド鎖やヌクレオチド鎖が簡単にできたとは考え難いし、ペプチド鎖に比べてヌクレオチド鎖は遥かに複雑で困難であるから偶然には起こり得ないとしても、同じ環境にできたアミノ酸合成によるペプチドに酵素活性の働きが作用すると、疑似RNA構造ができる可能性は想像することができる。これは現在でもDNAやRNAにさまざまなタンパク質が付いて活性化するように。

そのようにしてできた疑似RNAにエネルギーが供給されると、複雑に絡まった部分から*認識と知性に似た疑似思考が二次的機能として生じ、それが思考の原型になったと想像してはどうだろうか。このとき疑似RNAに供給された一次エネルギーは雷放電のように瞬間的なものではなく、太陽光や海底の熱水噴出口のように持続的に供給されるものと推測する。その結果、現在のDNAも持続的エネルギー供給によって活動することができる。ここで起こったであろう偶然は最初に起こったのではなく、さまざまな形の結合ができたり壊れたりする中での一つであって、それがある時点で偶然に*認識と知性に類似の機能を保有したのではないだろうか。

勿論、今日私たちが考えている*認識と知性とは比べらものにならないくらい稚拙なものであったと推測する。たとえば、今日の最先端の産業技術から比較すると、蒸気機関誕生以前の青銅器か石器時代の技術のようなものであったであろう。そのような初期の*認識と知性であったとしても、ひとたび能力が備わることは、その能力を基にしてそれ以降、能力アップを計ることになる。

疑似思考も最初の稚拙なものから派生的に向上させることで、今日のようになり得ることを意味している。今日の*認識と知性といわれるものはそのときの姿が源で、もしも当時、別の機能が有効とされていたならば、今日の思考の概念も違っていたであろう。一方、累積というのは技術であっても思考であっても、基盤となるものがあって初めて累積されるものであって、基盤のないエラーが如何に繰り返されようとも、そこから累積なるものは生じ得ないと推測する。すなわち、さまざまな事象が発生してもそれらがエラーであるならば、掛け算で0をかけるようなものとなる。

これまで進化でいわれる突然変異の有利なものや生物にとって都合の良いものは、生物の歴史の中で 1回か 2回は起こったとしても、それは指折り数えることのできるもので、それほど数多くの都合の良い偶然はないと推測する。今日の生物種が 150万種とか、それ以上の数千万種と推測されるものが突然変異によるならば、都合の良い偶然が数百万回から数千万回起こったことになる。さらに、この数字は現在生息している生物種であり、現在では滅んでしまったものの過去には多くの生物種が繁栄していたことから、都合のよい偶然は数億回あったことになる。

それほどまでに都合のよい偶然が起こるであろうか。なぜならば、突然変異のほとんどが生物にとって不利なもので、有利なものは地質年代に一つとされている。もしも、生物にとって都合の良い偶然があったとすると、突然変異の如く数千万や数億回起こったのではなく、このような基本とすることに偶然が起こったと考えるべきではないだろうか。

一方、生命誕生の環境が先に述べた無重力状態に近似の環境とすると、そこでの化学結合は強制されることなく、捩れや揺れなどの僅かな動きによって最適な次の一つに遭遇したとき結合して絡まったとすると、そのような環境では無理な結合はしないであろう。DNAのらせんの捩れる方向が同じになることや、アミノ酸に鏡像異性体のL型D型があるが、生命ではL型の一方が使用されることも、生命誕生の地域が地球の北半球か南半球かによって、一方のみが結合し易い環境にあったと想像してはどうだろうか。

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それではなぜ疑似RNAに*認識と知性が備わるようになったかである。さまざまな物質やエネルギーが混濁する中で、ペプチド鎖やヌクレオチド鎖など、複雑に絡み合って立体構造までは通常の状態でできたとしても、それにあることが追加されたときで、ヌクレオチドの 5´と 3´の両末端がたまたま接触してつながったときではないだろうか。その閉じたループ構造ができ、周りからのエネルギー供給によってループの中にはヌクレオチドの内部循環が可能になり、この循環によって生物の生物たる所以の擬似思考が備わったと推測する。この生物の生物たる所以とは、自己の認識や環境の認識そして思考や判断など、ここでいう*認識と知性ということになる。

ここで*認識と知性の歴史を考えると、RNAが一本の紐状のときに思考能力は備わることがなく、その両端がつながって環状になったときエネルギー循環によって思考能力が備わったとするもので、*認識と知性の初期タイプは環状一本鎖の立体構造によるもので、次のステップでは相補性の塩基対にすることで安定保存することができたであろう。これが原核生物の二本鎖DNA環状タイプになる。

さらに、二本鎖にしたことで環状でなくても二本鎖の両端がつながり、環状循環から往復循環が可能となって環状から紐状へと移行することができる。これが真核生物のDNAの形態にあたる。すなわち、ヌクレオチドが連続的につながっても機能はなく、両端の連結によって閉じた回路が成立すると環状循環や往復循環が可能になり、*認識と知性が可能になったのではないだろうか。

真核生物がDNAを複製するとき、DNAの1起点から両方向に向かって伸長して複製される。私たちの考えでは紐状の端からすると考えることが一般的である。しかし、そのようにしてはいない。これは真核生物の源が原核生物にあったとすると納得できる。原核生物のDNAは環状構造で端が存在しない。複製するにはスタートするときの起点が必要になる。すなわち、この起点が残っているから複製が端から行われないと考えることができる。これは環状由来ということになり、環状から紐状に形態が変わっても複製の形態は環状当時の名残ということになるのではないだろうか。

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この考え方からすると、相補性の塩基対を備える二本鎖DNAは、もはや偶然の産物とは考え難い。同様に、嫌気性の細菌と好気性の細菌などさまざまなものが混在していたとき、たまたま嫌気性の細菌が好気性の細菌であるミトコンドリアを取り込んで共生したとされると、これによって真核生物の新たなステップにつながる。これはミトコンドリアや葉緑体には細胞核のDNAとは別に独自のDNAが備わっていて、新たな真核生物に移行する過程で、取り込んだ嫌気性の細菌にも取り込まれた好気性の細菌にもすでにDNAが備わっていた。このことは何れの細菌も、すでに*認識と知性に類似する能力が備わっていたと推測する。

最初の一過性の偶然による擬似RNAは、能力においても形態においても不安定で不充分なものとしても、疑似RNAに*認識と知性の能力が備わったことで、次には疑似RNAを安定させることを思考することになる。すなわち、DNAは疑似RNAの思考によるものと推測する。その安定なDNAの形に移行する際、なぜらせんにこだわったかであるが。最初に長く伸びた擬似RNAが複雑にからまったとしているが、熱水噴出口や泉の噴出し口のような状況では、その領域内の物質は無重力に近似の環境に僅かに働いた力がらせんの作用をしたとするもので、同じ複雑な形でもらせんを主体とする力が偶然の中にも働いていたと推測する。

このときできた形状はコイルに類似のものとなり、これはあたかもコイルに電流が流れて電流とは異質の磁力が発生するように、湧きあがって供給される一次エネルギーによって、エネルギーとは異質の二次的機能が生じ、それが自己の認識や自力の活動であり、思考能力であったと推測する。すなわち、最初は偶然による一過性のできごとであったとしても、そこには*認識と知性に類似のものを生じさせるに足りる自然の環境が揃っていたことになる。地球生物で偶然がプラスに作用することとは、このようなことではないだろうか。

なぜこのような考え方をするのか。保存のDNAと発現のタンパク質の中間にRNAが位置し、保存と発現の両方に関与できていることにある。さらに、らせんの形状が安定しないと安定した機能が得られないことから規則正しいらせんが求められたと推測する。これによって擬似RNAからDNAに移行することで備わった思考機能を安定させることができる。さらに、真核生物ではヒストンを配置したヌクレオソームを形成した超らせんによって、原核生物に比べて思考機能の能力アップを求めたと推測する。

すなわち、一本鎖擬似RNAから相補性塩基対の二本鎖DNAは容易に変性することを避けるためのものであり、ヌクレオソームによって規則正しいDNAの形態は思考の能力アップで、もはやこれらは偶然のものではなく当時の知的創造物とみなしてはどうだろうか。これらは生態に備わるものから、過去を逆推理したもので、その内容は想像を越えて空想に近いものとなっている。それゆえ、ここでの考え方を正しいというものではないが、生物の意図も目的もない間違い(遺伝子のエラー)から進化生物が誕生するという考えよりは、信憑性があると考えている。




DNAのエラーが進化になり得ない理由

ここでは変異の発生について、事故の変異と進化の変異の二種類に分けている。生体内でのDNAは細胞分裂のための複製や、代謝のための転写などの膨大な数のコピーが行なわれている。そこでエラーが発生していることは事実のようである。ここで大切なことはDNAのエラーが発生したとき、遺伝子システムが如何なる認識をして対応するかである。

基本的にDNAでは通常時にエラーが発生しないように相補性の塩基対を作り、変性するのを避ける工夫している。さらに、DNAの複製では塩基にエラーが発生すると、正しい塩基である鋳型の塩基を基準にその場で修正する。修正が不可能なときはエラーを含む領域を削除して、その領域を正しい塩基配列に修復している。このことが意味するものは、正しくできたものと誤ったものとを認識するだけではなく、エラーは生態にとってマイナスとDNAが認識できていることを示していることになるであろう。

一方、RNAではセントラルドグマの転写やスプライシングそして翻訳に際してもエラーが発生している。このエラーについても複製と同様に何段階にも渡って修正をサポートするシステムが整っていて、正しい営みができるようシステムが構築されている。このエラーの修正は遺伝情報だけでなく、細胞内のタンパク質の品質管理でもエラーが発生しないように複数のエラー防止機能が備わっている。

生体のシステムにこのような修正の機能が整っていることは、DNAやRNAに限らず生体内で起こる如何なるエラーも、生体にとってマイナスの要素であることを認識しているもので、エラーは正しく直すべきものとして細胞脳は受け止めていると理解できる。そこで校正酵素や修復酵素によってそれらのエラーは最大もらさず処理されている。このことから、「遺伝子システムではエラーを放っておいて、後は自然淘汰に任せて処理させる考え方になってはいない」。このことは同時に、個体レベルである突然変異によって発生したエラーを自然淘汰によって処理していることでもない。

すなわち、従来進化でいわれるエラーを放っておいて自然淘汰に委ねるのではなく、積極的に修正している。もしも、従来から論じられる突然変異と自然淘汰が正しいならば、DNAのエラーを発生直後に修正する必要はないし、修正してはならない。なぜならば、遺伝子のエラーは目的のない突然変異で、生物が進化する上でなくてはならない必要条件だからである。そして、この突然変異によって発生したエラーはこの段階で修正せずに放っておいても、マイナス要素のものは後で自然淘汰によって消滅する運命にある。だからわざわざ手間をかけて修正する必要はないとするのが従来の考え方である。そのとき自然淘汰によってマイナス要素のものが淘汰され、ごく稀にプラス要素のものもあり、これが進化につながるとされてきた。

これまで地球上に登場した生物は数千万種から億に達するとされている。これはDNAの変化発生段階で、エラーとして総てを以前と同じに修正して書き戻したのではないことを示している。進化の変異は書き戻されることなく、DNA情報として残すことで新たな機能を備えた生物が誕生できることになる。もしも、DNAが塩基配列の変化の総てをエラーと判断して以前と同じに書き戻してしまうと、エラーによる欠陥を防ぐことはできるが、マイナスの変異だけではなくプラスの変異までもが修正されることになり、これは逆に、進化の変異ができないことで進化生物が誕生できないことになる。

人は進化の発端はエラーの中のプラス要素とするものであるが、細胞脳の考え方では遺伝子のエラーは単なる間違いであって進化につながらないと考えているであろう。これが人と細胞脳との考え方の違いということになる。すなわち、DNAは塩基配列に変化が生じたとき、間違いとして正しいものに書き戻すものと、進化と理解して書き戻さずにそのままとする二種類を認識できていたことになる。

このように人の見た目では同じに見えるDNAの一部の変化について、事故として修正するものと、進化として書き戻さずに残すことが塩基配列の変化発生直後に認識されて、環境に晒される自然淘汰の介入以前に対処されている。それゆえ、誕生した大多数の生物は正常な営みができる。このことは自然淘汰する必要がないばかりか、自然淘汰の考え方そのものが存在しないと考える。さらに、明らかにエラーに属するであろう遺伝子病といわれるものが自然淘汰されずに存続していることは、総てのエラーが修正できるのではなく修正の網を潜り抜けてしまうものがあることを示すもので、この修正の網を潜り抜けて固定したエラーが総てであるかのように表現されてきたことになるのではないだろうか。

これらの間違いと認識したものに対して、如何なる処理をしたら正しいものに置き換えることができるかということに、思考や判断は必要としないか。これらのことを処理することのできる能力が如何なるものか。もしも、DNAに細胞脳による思考や判断の機能が存在しなかったとすると、遺伝情報に記録されたプログラムにしたがってスイッチの入った順番に処理されることになる。そこでプログラムと異なる事故が発生しても、そこには思考機能は存在しないから誤りか否かの思考や判断はできずにプログラム通りに処理され終了する。このようなエラーはどうするかといえば、自然淘汰に任せることになる。でも、現実には自然淘汰に任せずに修正されている。一方、エラーが発生したときにはオリジナルと同じに書き戻すことまでプログラムされているとすると、思考機能はなくてもエラーを修整することができる。しかし、これでは総てが修正されて進化ができないことになる。

もしも、従来論で進化の変異がDNAのエラーによるならば、エラーが発生してから自然淘汰までの間にエラーを修正するか、それとも修正せずに自然淘汰に任せるか、この二つの認識と修正の有無の判断を如何にしているかである。そこには思考や判断が介在できると推測できる。もしも、従来論のように生物の意思や思考が介在しないとき、単なるエラーと進化の変異のこの二つを識別することができるだろうか。

従来の目的のない突然変異と自然淘汰の考え方には、自己の認識や正誤の認識と判断することのできる思考機能は存在していないことを意味している。そのため、遺伝子のエラーと自然淘汰の考えでは、DNAレベルでなされている修正や修復はできないことになるのではないだろうか。従来の考え方が正しいというならば、このDNAレベルで発生している遺伝子エラーの修正について、如何なる方法で処理しているのか説明する必要がある。




エラーからでは成立しないDNA言語     ☆

従来では、DNAのエラーが進化の起点として語られるが、ここではDNAの変化にも、事故の変化と生物の意図による変化があるとしている。この事故の変化と意図による変化の理解を助けてくれるものに言語がある。そこで視点を変えて言語について触れることにする。

DNAの塩基配列は化学物質に違いないが、情報の範疇と考える。人はこれを文字としてATGCで表現することや、CDに保存するためにデジタルに変換して 0と 1の組み合わせで表現する。これはDNAが塩基を暗号化していることを示すもので、イギリス人が英語を使い日本人が日本語を使うように、DNAはDNA言語と表現できるのではないだろうか。 これは人が自らの知性によって置き換えを可能にしたというよりは、DNAにはすでにそのようなDNA言語なるものが創造されていたと推測する。そして、そのDNA言語の基礎の上に誕生した生物のヒトであったから、アルファベットのような言語が使えるようになり、ATGCに置き換えることができたといえるのではないだろうか。

人は最近になってようやくDNA言語の一部が何であるか読み解くことができるようになり、生物の中でもっとも優れた存在であるとしている。しかし、これは逆ではないだろうか。すなわち、数十億年も前に備わっていた遺伝子システムの塩基配列は暗号であり言語で、人はアルファベットのATGCの文字を手段としたが、これは人のアプローチの方向であって総ての生物が文字を手段としたのではなく、他の生物では文字とは異なる手段によってDNA言語を理解したと推測する。

擬態のカマキリや食虫植物に英語や日本語の文字がないとしても、DNA言語を理解する手段は他にもあることを示しているのではないだろうか。そして、多くの生物がそれらを理解して擬態や変体のみならず、環境に適応した進化の変異をしている。但し、その理解度は生物種によって異なるもので、総ての生物が同じレベルの理解ではない。なぜなら、人は最近になってようやくDNAの一部が理解できるようになった。

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私たち人が意思の疎通を図るのに、英語や日本語を始めとして数多くの言語が存在する。それらの言語は正しく使用することで、互いに意思の疎通を図ることができる。このとき同じ日本語による会話であっても、間違えた使用をしたならば意思の疎通を図ることのみならず、言語そのものが成り立たない。これは日本語や英語に限ったものではなく総ての言語に共通する。

一方、生物には総ての生物にDNAが備わり、同一個体の多数の細胞には同じDNAが備わることで、それぞれの細胞間で意思の疎通を図ることができる。これは細胞にとって共通の相互理解の手段ということができ、日本語や英語のようにDNA言語と表現することができる。このときの言語は、DNA言語であってもDNAは生物種によって異なっている。たとえば、生物の中でも植物のタンポポと動物の犬ではDNAに大きな違いがあり、それは言語でいうなら日本語と英語の違いに相当する。一方、同じ植物のタンポポとアザミではそれほど大きな違いはなく、同じ日本語の標準語と関西弁に近似であろう。

これまで生物の変異はDNAのエラーとされ、そのエラーの繰り返しと累積で新たな生物が誕生し、今日の多様な生物種を形成したとされてきた。これを言語に置き換えると、英語や日本語が正しい使い方をされたのではなく、支離滅裂に間違えた繰り返しと累積の結果が今日の日本語や英語ということになる。これでは私たちの意思の疎通が図れないことは明らかであり、このことは生物に備わるDNA言語についても同様で、DNA言語は生物の歴史の中で正しく使われてきたとみなすことができる。

それならば、これまでいわれてきた遺伝子のエラーとは何を意味するものであろうか。DNAの変化にも事故と意図による二種類があり、事故は単なる間違いであるから修正している。一方の意図ではそれはエラーではなく、言語でいうなら 「外来語」や 「新語」に相当するものではないだろうか。私たちの生活でも時代の変化と共に外来語が導入されることや、それまでなかった新語と呼ばれるものが誕生するように、DNA言語でも変化する環境の外部情報から入手した外来語や、それに対する思考の中で新たな新語を創造したであろう。

もしも、これが外来語や新語ではなく間違えとするならば、DNA言語はメチャクチャになって言語として成立しないし、生態系は維持できなくなり地球生物の歴史がこれまで続くことはできなかったと推測する。これまで数十億年もの間、生物が継代できて進化の変異ができたことは、その数十億年の過程でのDNA言語は正しく運用されてきたと考える。現在でも大多数の動物や植物が通常に生活して継代できていることは、DNA言語はエラーの累積ではなく、正しく運用されて適正な機能を果たしてきた、と私は考える。

私たち人の言語も、生物のDNA言語も、正しく使用することで意思の疎通や機能発現が可能であり、間違いから意思の疎通や機能発現は可能ではない。すなわち、遺伝子のエラーによって使用がでたらめになると、伝えるべき言語とはならないし、このでたらめからDNA言語の共通の認識や運用は可能なことではない。だから分子レベルでは間違いが発生すると、形質として現れる以前に修正や修復して正しく直している。

現在でも動物や植物が通常に生活を営み継代できていることは、進化の変異は間違いではなく遺伝子システムは正しく運用されている。分子レベルでの変異にも事故の変異と進化の変異があり、事故の変異は間違いで、たとえ事故を累積しても進化の変異につながるものにはなり得ない。進化の変異とは生物の思考による創造物で、遺伝子のエラーによるものではないであろう。

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遺伝子組換えと臓器移植
もう一歩踏み込んで考えてみよう。遺伝子組換えと臓器移植である。遺伝子組換えでは動物と植物の垣根を飛び越えて動物の遺伝子の一部を植物に組み込むことや、その逆のことが行われている。これは言語中の単語を移行したもので、組替えた遺伝子は他の生物に移行しても情報を正しく伝達することができている。これは外来語に相当するもので、たとえ外からきた単語であっても同じ意味のDNA言語の単語が追加されることで、単語の持つ意味は変わることなく意思の疎通が可能となる。

これに対して、臓器移植は日本語で会話している集団の一部を外して、英語で会話する集団に置き換えるようなものである。そのため、肝臓などの同じ機能の臓器であってもDNAの違いによって意思の疎通を図ることが困難になり、スムーズな会話をすることができずに拒絶反応が生じる。それでも、ヒトの中での遺伝子の変異率はおよそ0.1%とされ、99.9%が共通している。このため、DNA言語の多くが共通することから、免疫抑制剤の通訳を介すことによって拒絶反応を低下させることで何とか意思の疎通を図ることができているのではないだろうか。