−日記帳(N0.479)2003年03月14日−
善光寺から草津温泉へ

一昨年はパレスチナ紛争、今年はイラク問題でそれぞれ、エジプト、トルコ旅行を断念しました。そこで、今年はかねてよりの憧れの日本三大名泉、草津温泉への旅行で気を紛らわすことにしました。名古屋駅から東名・春日井ICに入り、中央道経由長野道終点の長野ICで降りて、善光寺詣での後、白根山麓の草津温泉に泊まり、翌日浅間山麓の軽井沢に寄って帰路につくと言う往復約700キロの早春の信濃路の旅でした。
中央道は岐阜、長野県境付近で国道19号、JR中央線と分かれて木曽山脈(中央アルプス)を貫通する形でその南端の恵那山の真下をトンネルで潜り抜け、木曽山脈と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた天竜川沿いの伊那谷に出て国道153号、JR飯田線に合流し岡谷方面に北上します。一方、国道19号、JR中央線は御岳と木曽山脈にに挟まれた木曽川沿いの木曽谷を通ってやはり岡谷方面に北上する結果、これら二つの国道、二つのJR線と中央道の全てが岡谷近辺で合流することになります。バスは中央道の方を通っていきました。


車窓から望む恵那山(2191m)車窓から望む御岳(3067m)


昔、インドに月蓋という欲の深い長者が居り、51歳で初めて授かった「如是姫」と言う名の愛娘が国中に流行した悪疫に罹り危篤になったため、全ての罪を懺悔し釈迦に助けを求めたところ、「西方の極楽浄土に居られる阿弥陀如来さまにすがりなさい」と説かれたことから、一心に念仏を唱えると、まばゆい光の中に、阿弥陀如来が左右に観音、勢至の両菩薩を従えた三尊の姿で現れその体から放たれた光で愛娘が助かりました。月蓋は仏の教えに帰依することを誓い、三尊の姿を残して終生お仕えしたいと釈迦に申し出たところ、釈迦は阿弥陀如来とともに純金製の「一光三尊」の如来像を作って彼に与えました。、これが韓国・百済を経由して日本に伝わり、善光寺の本尊になったと言われております。 しかし、654年に勅命により秘仏になった代わりに分身の如来像を前立本尊として拝まれるようになり特別の宝庫に安置されております。数えで7年に一度(丑・未の年)、前立本尊を公開する御開帳が行われ、今年がその御開帳の年です。(前回 1997年)


善光寺本尊の前立本尊
(本体は654年以来封印中)
JR長野駅前の如是姫像
(善光寺に向けて立っている)


前述の月蓋の手を離れた如来像は韓国・百済の聖明王の手に渡ります。彼の父、武寧王は日本生まれで、その子孫が桓武天皇の生母との説が有り、平成天皇が2001年の誕生日を前にした記者会見でそのことに言及している程に日本との縁が深かったことから、聖明王も息子を日本に遊学させる程の親日家でした。彼はこの如来像を豪華な船を仕立てて欽明天皇に贈りましたが、それが仏教導入派の蘇我一族と仏教反対派の物部一族との抗争を招いて物部一族の手に落ちます。彼等はこれを壊しきれないまま捨てたため仏罰により滅亡し、その結果、聖徳太子が大化改新を実施出来ました。その捨てられた如来像を信州から上京してきた本田善光と言う男が発見し、故郷信州に持ち帰り祭ったのが善光寺の本尊であると、善光寺縁起は語っております。御開帳では、本堂の祭壇に祭られている前立本尊の如来像の右手に結ばれた金糸が白い善の綱に接合し本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは前立本尊に触れるのと同じとされることから多くの人がこの綱に触れようと参詣します。壮大な縁起話を持ち、無宗派で神仏を祭り、元禄年間再建の日本有数の木造建築の本堂を有する善光寺は魅力的なお寺でした。



善光寺本堂
(本尊と本田善光が祭られてる)
過去に使われた回向柱
(本堂の近くに展示されている)


戦局が不利になると地下壕を掘るのは何処も同じでベトナムの250kmに及ぶ地下壕を筆頭に世界各地に残されておりますが、日本でも敗色濃厚の1944年春、陸軍は本土決戦に備えて大本営、皇族、政府各省庁、NHK等の首都機能を長野に移す計画を極秘裏に進めていました。 工事は長野市松代町の3カ所の山(象山、舞鶴山、皆神山)の下に総延長10kmに及ぶ地下壕が掘られ敗戦時にはその80%が完成しておりました。この工事には、約1万人が動員されましたが、うち6000人は強制連行された朝鮮人と言われております。 1985年に地元の篠ノ井旭高校の高校生による、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるための戦争遺跡として保存しようという活動が実って1990年に象山地下壕の一部(500m)が長野市によって一般無料公開されました。ほぼ日本の中央に位置し、適当な高さの山が有りその下の地盤が強固であることに加え労働資源が豊富だったことが この地を選んだ理由とされております。6000人の朝鮮人のうち数百人が過酷な労働と栄養失調で亡くなられたのですが身元が判明したのは僅か数人でしかなかった言われ、ここにも戦争の悲劇が見られます。フセイン大統領がこのような地下壕に入る日が間近に迫ってきました。



地下壕の入り口付近
(幅3m、高さ2m程度)
削岩機で削った痕跡
(幅3m、高さ2m程度)

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