| −日記帳(N0.485)2003年03月20日− | −日記帳(N0.486)2003年03月21日− |
| 米英、イラク攻撃開始 | イラクの歴史 |
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米国は今回の最期通告、そして今日、日本時間午前10時から開始されたイラク攻撃は国連決議に違反していないことを強調しております。その根拠は、安保理決議1411号でイラクが重大な違反をした場合は武力行使は自動的に容認されると判断しているので新たな決議案で容認を求める必要は無いとしているからです。
確かに、安保理決議1141号では、その決議内容を満たさなければ、イラクが「重大な帰結」に直面することを唱っており、「重大な帰結」は外交用語で「武力行使」を意味しますから、イラクが重大な違反、具体的には大量破壊兵器を廃棄していないことが判った場合は、重大な帰結、つまり武力行使を受ける局面に至ると理解されます。 従って、重大な局面に至ると言う文言が、即国連が武力行使を容認することを意味するかどうかと言う条約内容の解釈の問題に帰結します。日本の憲法第9条の解釈でもそうですが、このような条約の文言はあまり具体的に明記してしまうと効力の及ぶ範囲が狭まったり、補足説明を更に盛り込む必要が生じて膨大な文章になりかねませんのでどうしても抽象的な表現になるのが常です。 一方、国連は自衛権の行使憲章第51条)及び軍事制裁(憲章第42条)の例外を除き、武力行使を禁じております。その内容はそれぞれ次のとおりです。 国連憲章第51条【自衛権】 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。 第42条【軍事的措置】 安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。 第41条【非軍事的措置】 安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。 米国としては国連憲章第41条では不充分と判断して、国連憲章第42条により安保理決議1141号を得て国連としての軍事的措置、つまり武力行使が容認されたと解釈しているものと思います。米国のこうした解釈に基づく武力行使が国連憲章違反あるいは安保理決議違反になるのかは判りません。 しかし、国際世論を無視して国連の権威を失墜させ、国連の今後の在り方に一石を投じたことは事実であり、また日本にとっても平和憲法を遵守するためには国連中心外交に依存するしかない反面、不法な他国からの攻撃を免れるためには日米安保による米国追従外交をせざるを得ないと言う矛盾に直面し、憲法、日米安保の改廃を迫られるものと思います。 |
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現在イラクが位置している、チグリス、ユーフラティス河下流の肥沃な三日月地帯は世界最古のメソポタミア文明発祥の地であり、バグダッドから北に約240キロ離れた油田地帯のキルクークの東へ50キロのところにあるジャルモ遺跡は紀元前7000年頃、狩猟採集から家畜化、植物栽培時代への転 換が始まったことを示す貴重な古代遺跡として有名です。 現在のエジプト人が、あの偉大な古代エジプト文明を切り開いたエジプト人の子孫とは考えられないように、このイラクの地で紀元前4000年頃から シュメール王国、アッカド王国、アッシリア王国、そしてバビロニア王国など、数々の王国が栄えてきましたが、現在のイラク人がそれらの子孫とは考えられません。 その後、7世紀になってイスラム教徒が当時この地を支配していたササン朝ペルシャを破り、アッバース朝(サラセン帝国)がバグダッドを首都にして開かれ、後にオスマントルコ帝国に代わっていきます。第一次世界大戦以前はアラブ人の住む東アラブ地域(レバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン トルコ帝国の領土でしたが同帝国の弱体化により西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めておりました。 その理由は、エルサレムにはキリスト教の聖地が有り、ここををイスラム教徒の手から奪還するのは十字軍の以来のキリスト教徒にとっての悲願であったからです。そこで、第一次世界大戦中、英国は自国に有利に運ぶために以下の二枚舌外交を展開し、これが現在のパレスチナ問題、間接的にイラク問題に繋がってしまいました。 1.アラブ人への約束: メッカの守護職フセインとイギリスの高官マクマホンの間で手紙で交わされ、英国のオスマン トルコとの戦いへの協力の見返りに、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束しております。 2.ユダヤ人への約束: 英国・バルフォア外相からユダヤ人富豪ロスチャイルドへの手紙交わされた約束で、第一次大戦でユダヤ人の協力を得るために英国政府がパレスチナでのユダヤ人の国土建設を支持することを約束しております。 この相反する約束は守られるはずもなく、その後この地域のうち英国が委任統治領としたパレスチナにユダヤ人移民が大量流入したためこれに怒ったアラブ人の大反乱が起こり、第二次世界大戦終了後になって英国の手におえなくなり、パレスチナ問題の解決を国連に委ねてしまいました。 一方、英国はフランスに対しても、サイクス・ピコ協定により、東アラブ地域を英仏で分割統治する約束を1.のアラブ人との約束を無視しイラクを英国の委任統治下においてしまいました。そのためイラクで反英活動が高まり、やむなく英国はイラク国内の反発を押さえるため、1921年にシャリーフ・フセインの子ファイサルを国王にたて、立憲君主体制を樹立しました。 1932年、反英活動が益々活発化したため英国は委任統治の終了に同意してイラクは独立しました。1948年、英国の委任統治終了と同時にイスラエルが建国宣言したのを受けて、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクの連合軍がパレスチナ奪還をめざしてイスラエルに宣戦して第1次中東戦争を起こすも敗北し、イスラエルが領土を拡大しアラブ・パレスチナ人90万人以上が追放され難民化します。 1956年にイスラエルがエジプトに侵攻し、第2次中東戦争勃発、1958年にカーシム准将による民衆革命でイラク王制が崩壊しイラク共和国が成立、1963年にバース党のクーデターでカーシム政権崩壊、米CIAが支援、共和制樹立に寄与したアリーフが大統領に就任、1968年にエジプトのイスラエルの海路封鎖をきっかけに第3次中東戦争勃発するも、5日間でイスラエル軍はシナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ・ゴラン高原を占領。 1968年にイラク、クーデターでバース党政権誕生し、1973年にエジプトとシリアが失地回復をねらいイスラエルを攻撃し第4次中東戦争勃発、オイルショックを誘発。1979年にサダム・フセイン、イラク大統領に就任 、1980年にイランの「イスラムによる革命輸出」政策に端を発したイラン・イラク戦争おこるイスラム革命の波及をおそれたアラブ諸国や欧米諸国はイラクを支援し、イラクは中東随一の軍事大国になりました。そして、1991年の湾岸戦争を経て今日に至っております。 このように、イラクはイラン(ペルシャ)やトルコのように過去に大帝国を打ち立てた歴史もなく、どちらかと言えば新しい国で、、ロシア、フランス、米国等の援助を受けて軍事大国として急成長したこと、サダム・フセインによる独裁のために問題を起こしておりますが元々優秀な民族を抱え、豊富な石油・農業資源を背景に平和に繁栄できる土壌を持っているだけに1日も早く戦争を終結して復興して欲しいものです。 |
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