| −日記帳(N0.972)2004年08月01日− |
| 阿波丸の悲劇に思う(1) |
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| 阿波丸(11,249t、1943年三菱重工・長崎で完成) |
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| 緑十字にペンキで塗られた阿波丸のモデル |
一昨日の30日、NHK総合テレビで、ドキュメンタリー「悲劇の航海?阿波丸はなぜ撃沈されたのか?」(午後9時15分から午後9時58分)を、風格のある松平アナのナレーションにつられて、プロ野球中継終了後に、途中からでしたが観ました。歴史好きの私にはもってこいの内容で、最初から観なかったことが悔やまれました。その終わりに翌日31日にこの事件を題材にしたNHK総合特別ドラマ「シェエラザード?海底に眠る永遠の愛?」の放送予告が有りましたので期待して観ましたが、豪華な俳優が出演した割には内容は凡庸で期待外れでした。 このドラマは、作家、浅田次郎氏の同名小説をもとに鄭義信氏が脚本を担当、太平洋戦争末期を舞台に、ある密命を受けて出航した豪華客船「弥勒丸」が、米・潜水艦に撃沈されるまでを、船客の安全第一に考える船長(竜雷太)ら船員たち、秘密の任務遂行を第一に考える陸軍少佐(反町隆史)ら軍人たち、の心情を交えながら、反町隆史の義妹で恋人役の長谷川京子、親友役の小澤征悦の出演で描いておりました。 しかし、弥勒丸が阿波丸をモデルにしているのに、前の日に同じNHKで放送された、前出のドキュメンタリー「悲劇の航海?阿波丸はなぜ撃沈されたのか?」の内容(撃沈された原因)が全く異なること、ドラマと同時並行で進められた「弥勒丸」の引き揚げに絡む事件との関係が、今一説明不足の上、浅田次郎氏の原作ともかけ離れた荒唐無稽の筋書きになっておりましたので興ざめでした。むしろ、「タイタニック」のように、この事件で不運にもこの船に乗り合わせた人たちの悲劇を中心に描くべきだったと思います。 太平洋戦争末期に、日本の占領下の南方地域には16.5万人の連合国側の捕虜、市民等がおり、米国政府は日本政府に彼等に赤十字を通じて救援物資を送り届けるよう要請しました。これを受けて日本側は、日本郵船所属の1.2万トンの大型貨客船「阿波丸」(浜田松太郎船長)を徴用して、1945年2月17日に救援物資約2千トンを門司港で積んで同港を南方に向けて出港させました。 その際、日本政府は連合国側から往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」に仕立てるべく、上の写真に見られるように阿波丸を緑十字に鮮やかに塗装し、スイスを通してその日程、航路等を連合国側に連絡し、その承認を得ておりました。そして、高雄、香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタに寄港して救援物資を届け、帰途につくべく最後の帰港地であるシンガポールに1945年3月24日に再入港しました。阿波丸の悲劇はここから始まりました。(明日の日記へ) |
| −日記帳(N0.973)2004年08月02日− |
| 阿波丸の悲劇に思う(2) |
救援物資を運び終えた阿波丸は、本来の任務を終えましたが、復路の航行の安全も保証されていたこともあって、ジャカルタ、シンガポールで多数の在留邦人が乗り込みました。更に、ゴム、錫等の先ラク物資を積み込み、1945年3月28日にシンガポールを出港しましたが、厳しい選考基準をパスして航行の安全を保証された阿波丸に乗船出来たことに無上の喜びを感じていた乗客たちは、まさかその数日後にその阿波丸と運命をともにするとは思っててもいませんでした。 記録によれば、最終の乗員乗客は2045人で、内訳は一般人61人、海軍1013人、陸軍773人、外務省関係46人、日本郵船148人、外国人3人となっております。軍関係者の殆どは負傷者、技術要員で、中には本土決戦に備えて有用な民間の専門家が軍属として乗船していた可能性も有るようです。 阿波丸の船室は一等船室が37人分しか無かったので、多数の乗客は船倉に押し込められていたものと思われます。NHKドラマでは、連合国側の監視をかすめるために甲板上にも乗客を出したとの設定になっておりましたが、1万tクラスの船に9,800tの貨物と2,000人以上の人が乗船したら甲板に人が出ざるを得なかったかも知れません。 一方、1945年4月1日、第17機動部隊所属のアメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」が東シナ海の台湾海峡北口を哨戒活動中、22:00頃、約5,700m南方に一隻の艦船がレーダーに捕捉されたため360mまで接近して、23:00頃、4本の魚雷を発射した結果全てが命中しその艦船は瞬く間に沈没しました。この艦船こそ阿波丸でした。撃沈後、直ちに生存者の救助活動が行われましたが、救助されたのは阿波丸司厨員の下田勘太郎氏ただ1人だけでした。こうして、彼を除く乗員乗客全員が阿波丸と運命を共にしたのでした。 下田勘太郎氏の証言から、「クイーンフィッシュ」艦長(ラフリン中佐)が緑十字船である阿波丸を駆逐艦と見誤って誤射したことが明らかになり同艦長を軍法会議にかけ戒告処分としております。日本は直ちにその不法行為に対して抗議するとともに賠償請求を行いました。しかし、米国側の要請により賠償交渉は戦後行われましたが、何故か日本側は米国側の要請により、1949年、吉田内閣は国会で損害賠償請求権を放棄を決議し4月14日 日米協定で賠償請求権を放棄しております。また、ただ1人の生き残りの下田勘太郎氏は、翌年帰国したものの阿波丸に関し沈黙し続け1970年に69歳で亡くなっております。 1950年、阿波丸事件に関する法律が定められ、政府は被害者一人当たり7万円の見舞金を支払い、遺族は阿波丸遺族会を結成し、遺骨遺品の引き上げ運動を行いました。ところが、NHKドラマに有ったように阿波丸に金塊 が積まれていたとの説が飛び交い、商社をも巻き込んでひと騒動有ったようですが、日本側での引き揚げは実現せず、中国政府が1977年から極秘に引揚げ作業に取り組み1980年12月、阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えたと発表し、その間中国は3回にわたって、遺骨368柱、遺品1683点を日本に返還しております。 以上、阿波丸事件をレビューして、私なりに四つの疑問をリストアップし自問自答してみました。 1.米国潜水艦は何故、阿波丸を駆逐艦と見誤ったのか? 2.日本側は何故、阿波丸事件の損害賠償請求権を放棄したのか? 3.下田勘太郎氏は何故、阿波丸事件に沈黙を保ったのか? 4.中国側が何故、阿波丸を引き揚げようとしたのか? 1.については、次のように推論します。 当時この海域は霧が立ちこめ視界が悪かったため上阿波丸の白十字の夜間用イルミネーションと貨客船特有のマストを確認出来なかったことと、左ページ上の阿波丸の写真で判るように、阿波丸の船体がやや細長い上、積み荷と過剰乗員乗客で船体が沈んだため駆逐艦に似てしまったのが原因だと思います。現に、見誤ったレーダー係は今でも生存しており、NHKのインタビューに応じ「今、また当時と同じ状況で判断を迫られたら、再び同じミスを犯してしまうだろう。」と言っております。 2.は、日本が飢餓状態にあった時、米国からガリオア・エロアによる巨額の援助物資を供与されたことで凌げたことが有り、阿波丸事件の損害賠償請求権を強硬に発動すると、援助物資相当額の返済を求められることを危惧したものと推測します。 3.は、たった1人生き残ったことに、常に自責の念を感じ、真相を述べることで亡くなられた方々の名誉を傷つけることになることを懸念されたのだと推論します。 4.については、次のように推論します。 中国側は、引き揚げの目的を、日本が、北京原人の化石など中国北方の文物・宝物を阿波丸で持ち帰ろうとしたことから、貴重な中国の文化遺産を回収することとしていたようですが、本当の目的は金塊等の回収にあったように思います。しかし、阿波丸は爆発の衝撃で二つに折れて沈没したため広い範囲に船体や積み荷が散乱し探索は容易でなかったため引き揚げを中止してしたものと推論します。 この日記を書くに当たって、このサイトを参考、引用させて頂きました。 |
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