−日記帳(N0.972)2004年08月03日−
中国人サポーターと重慶爆撃

1937年に、北京郊外の盧溝橋での一発の銃声に端を発して、日本と中国の間で宣戦布告しないままに戦争が始まり、世にこれを「日華事変」と称しております。どちらが仕掛けたのかは依然として不明のままですが、中国側は日本が仕掛け、その戦争で日本軍は南京大虐殺、重慶爆撃、ハルピンの細菌戦争等の残虐行為を行ったと主張し、教科書にこれを更に誇大表示しているため結果的に反日教育となったため、戦争を全く知らない若い世代の人たちまでも、日本や日本人のことを「小日本」などと蔑んで呼ぶようになっております。

このことが、図らずも現在中国で行われている2004アジアカップでの、中国人サポーターたちの日本チームや日本人サポーターたちへの言動で実証されてしまいました。重慶での日本対オマーン、日本対タイ戦では日本選手に対する激しいブーイングが会場を覆ったほか、試合終了後に日本チームのバスが中国人観客に取り囲まれる騒ぎも有りました。私は、日本人嫌いの中国人が日本以外の国に声援を送り、その国が不利になった時にブーイングするのはサッカー観戦ではよくあることで大したことではなく、むしろ、日本のマスコミの過剰反応のようにも思えます。

しかし、日本人選手や日本人サポーターの安全を脅かしたり、試合中に反日スローガンを掲げたり、国歌吹奏の時にブーイングや口笛を吹いたりするのは絶対に許せない行為と思います。田嶋幸三・日本サッカー協会技術委員長は「試合中のブーイングは仕方がない」としながらも「日本から足を運んだファンが物を投げられたりして楽しくサッカーを見られないのは問題」と遺憾の意を示しております。

また、中国共産主義青年団機関紙「中国青年報」は29日、このような中国人サポーターの礼儀を失した行動を戒める異例の記事を掲載し、ホスト国の危機感を示しており、署名記事では、「日本が選手の安全を理由にアジアカップに出ないようなことになれば、アジアサッカー史上最大の醜聞」「2008年には北京五輪が待っていることを忘れるな」とファンを厳しく批判しております。とは言え、一方では、この程度のことはサッカー観戦ではよくあることで、むしろ日本のマスコミの誇張として日本を非難する記事も見られるようです。そこで、この重慶のサポーターに代表される反日行動についてその背景を私なりに探ってみました。

1937年に盧溝橋で始まった日華事変後、日本軍は同年12月13日には南京を占領し、その際に約20万以上の非戦闘員殺害したとされる南京大虐殺を行い、更に国民政府の蒋介石政権打倒を目的に徐州・武漢・広東を攻撃する大規模な連続作戦を展開し中国大陸の大部分の工業地帯の占領に成功しました。敗退を余儀なくされた国民政府は降伏を拒否して首都を南京から重慶に移して徹底抗戦を続けたため日本軍は重慶を最大の攻略拠点としました。

しかし、重慶は揚子江の上流にある武漢から更に長江を1370キロ溯った奥地にあり、陸軍では攻略できないため、日本は空爆による攻略に作戦変更して徹底的に重慶爆撃を敢行しました。後に中国側はこれを無差別爆撃による「重慶大爆撃」と称し、日本軍の代表的な残額行為と位置づけ、現在その時の被害者やその子孫たちが日本政府を相手取って訴訟を起こしております。

無差別攻撃との表現には異論が有るようですが、私は重慶大爆撃(死者約1万)は、ドイツによるスペインのゲルニカ爆撃(死者約0.5万)、米軍による東京大空襲(死者約10万)とともに、通常兵器による世界三大無差別爆撃のひとつと考えております。1937年から5年にわたって、戦艦主砲弾を改造した800キロ爆弾から、通常弾、焼夷弾などが昼夜を問わず重慶市内に打ち込まれ、その回数は延べ200回を越えたと言われます。

特に8月20日の爆撃では、陸攻90機、陸軍九七重爆18機の大編隊の爆撃で重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められたと言われます。 1940年7月下旬に漢口に進出した零戦隊の飛行隊長横山大尉は十月頃のある日、重慶爆撃の効果確認のため重慶の低空偵察を決行した時の重慶市街は文字通り廃墟と化し惨憺たる光景を呈していたと報告しております。死者は一応、1万と言われておりますが実際はそれ以上だったと思われます。

あれから70年近い歳月が流れておりますが、この悲劇は重慶の人たちに語り継がれ、更には教科書による誇張とも受け取れる反日教育によって増幅され、この悲劇を知らない子孫たちに、日本憎しの思いが有るのは無理もないことと思います。そして日本の教科書では、重慶大爆撃についてはあまり触れていないため、重慶まで応援に駆けつけた日本人サポーターたちも、そのことは殆ど知らなかったものと思われます。重慶での一部の中国人の行為は許されるものでは有りませんが、70年前にここで起こった悲劇に思いをかけて多くの亡くなられた方々の冥福を祈るぐらいの度量も必要かと思います。

−日記帳(N0.973)2004年08月4日−
日本決勝進出して中国と対戦

昨日、中国・済南で行われたアジアカップ準決勝、日本対バーレーン戦で、日本はからくも延長戦の末、4:3で勝利をおさめ、7日にイランをPK戦で破った中国と決勝戦を戦うことになりました。ここで不思議に思うのは、試合会場、先日の重慶、昨日の済南と、日本の日華事変でいろいろと問題の有った都市を選んだことです。重慶は大都市ですからある程度理解できますが、済南は、山東省の省都とは言え人口で中国では16番目の都市ですから不思議でなりません。

この済南は、日本軍と蒋介石軍が衝突した済南事変が起こったところで、後の南京大虐殺の伏線になったと言われておりますので、重慶、南京と並んで反日感情の強いところと言われております。実質的に中国最大の都市、上海が選ばれなかったのも不思議です。

前半6分、右サイドからサルミールのパスをペナルティーエリア内でA・フバイルがワントラップして振り向きざまにシュート。GK川口の左手下をすり抜け、バーレーンが1−0と先制のゴールをしましたが、格下のバーレーンだけに、前半で充分追いつけるものと思っていました。決定的な場面を含め、3回ほどシュートチャンスが有りましたが、厚い守りに阻まれて得点出来ないまま、前半39分、遠藤が中盤でインターセプト。カウンターへ転じる時、相手顔面へ遠藤のひじ打ちがとられ(実際には打っていませんでした)一発退場するに至って、これはヤバイとの思いがつのってきました。

。 結局、バーレーンが1−0とリードで前半終了。後半3分、中村の右CKを中田浩がヘッド。地面に叩き付けたシュトはGK右を抜けて、日本1−1の同点に追いついた時点でこれはいけそうだとの思いに変わってきました。そして、後半10分、中央の中村からパスを受けた左サイドの玉田がトリブルでペナルティーエリア内へ突進し、1対1のDFを交わして放ったシュートは、豪快にゴールネットを揺らして日本が2−1と逆転した時は、勝利を実感しました。

ところが、とんでもないことが起こりました。後半26分、ジャラルが右サイドからペナルティーエリア内へと走り込むA・フバイルにスルーパス。右足でのスライディングシュートは、ゴール左隅に転がり込む。バーレーンが2−2同点と追いついたのです。更に、後半40分、カウンターからパスをつなぎ、中央のナセルが左サイドから走りこんだM・フバイルにスルーパス。右足で放ったシュートはゴール右隅へ決まり、バーレーンが3−2と逆転した時は、正直諦めました。

しかし、ヨルダンとのPK戦で見せたあの諦めない粘り強さがここでも発揮されました。後半45分、まさにロスタイムに入る寸前、右サイドでパスを受けた三都主がゴール前に絶妙クロス、これに飛び込んだ中沢のダイビングヘッドはゴール右隅へ決まり、日本が再び土壇場で3−3に追いついた時は思わず大声を上げてしまい、女房に窘められました。

そして、延長前半3分、相手DFを振り切った玉田がGKと1対1となり、ゴール右へ決める。日本4−3と勝ち越した時は、大声ではあきたらず、ビールを冷蔵庫から取り出して早々と勝利の乾杯をしました。例え、PK戦に持ち込まれても大丈夫との安心感に加え、私にはバーレーンの選手の動きが流石に鈍ってきたように思えたからです。こうして、予想どおり、延長前半が終了しました。

延長後半5分、目を瞑る場面がやってきました。右サイドからのFK、グラウンダーのクロスはDFに当たり浮いたボールがオーバーヘッドでゴール前にいたA・フバイルの前にコロコロと転がり、そのままゴールに向かって蹴れば同点ゴール間違いなしの場面だったからです。あまりの絶好の位置だったために慌ててしまったのか、A・フバイルの足は空振りしてしまったのです。これで、勝利を確信しました。その後は決定的なチャンスはお互いに無いままついに終了の笛が吹かれました。本当にサッカー史に残るいいゲームでした。

こうして、日本はイランをPK戦で破った中国とアジアカップ2連覇をかけて7日に、北京で決勝戦を行うことになりました。日本にとってこれはラッキーだったと思います。FIFAランキング64位の中国と日本(24位)より上の21位のイランより、中国の方が楽だからです。どっちとやるにしてもアウエーであることに違いなく、むしろ相手が日本となると、中国選手が意識過剰になることも考えられるからです。


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