| −日記帳(N0.990)2004年08月21日− |
| 対馬丸の悲劇から60周年(1) |
当時、小学校4年生だった上原少年は、日本政府の沖縄から本土への学童疎開の方針に従い、大阪にいる父のもとに疎開すべく、政府が仕立てた対馬丸(日本郵船所属:6.745トン)に乗り込みました。対馬丸は1944(昭和19)年8月21日、18時35分、疎開児童767名、引率訓導・引率世話人28名、一般の疎開者866名、計1661名を乗せて、貨客船の和浦丸、暁空丸とともに、駆逐艦と砲艦に護衛されて那覇港を鹿児島に向けて出港しました。 上原少年にとって初めて乗る大きな対馬丸は、3、4階建てビルのように見え、不安な気持ちとウキウキした気持ちが錯綜していました。船の中は、段々になっていて狭くて暑く蒸し風呂のようでしたが、学童たちがお母さんが腕によりをかけてつくったお弁当を美味しそうに食べている姿は母のいない上原少年には羨ましく思えました。そして、二日目の夜、あまりの蒸し暑さにたまりかねて、上原少年は甲板上に出て心地よい夜風を受けて涼んでいました。結果的には甲板に出ていたことが上原少年は九死に一生を得ることになったのでした。 8月22日、22時12分頃、米・潜水艦ボーフィン号は、鹿児島県吐喝喇(とから)列島の悪石島の北西海上(29.33N-129.30E)を航行中、5隻からなる日本船団を捉えました。5隻のうち3隻が輸送船で他の2隻が駆逐艦等の護衛艦と識別し、最も大きな輸送船に魚雷の照準を定めました。この輸送船が対馬丸でした。ボーフィン号から発射された魚雷は対馬丸に4発命中し、22時23分に対馬丸は沈没し、水深870mの海底に沈んでいきました。 上原少年は仲間二人と甲板で寝ていたところ、鈍い音と激しい振動で目が醒めました。「飛び込み用意!」との船員の声に従って船の手すりに並んで、飛び込みの合図を待ちましたがなかなか合図がかからなかったところへ、学童のリーダーが勝手に合図をしたのをみて一斉に暗い海に飛び込んでいきました。とにかく、船から出来るだけ遠くへ遠くへと泳いでいきました。すると、真っ暗な海上のあちらこちらから歌声が聞こえてきました。声は聞えて、励ましたり、歌を歌っていました。 護衛艦が直ぐに助けてくれるとものとばかり思っていたのですが、結局、朝になっても助けはきませんでした。上原少年たちは4人は、1間四方の大きさの竹の筏に乗って台風の接近で波高くなってきた東シナ海を漂流することになりました。喉の渇きは小便で、飢えは捕まえたカワハギで何とか凌ぎましたが、鮫が群れて筏に近づいてきた時は怖かったそうです。そして、漂流6日目になって島影が見えて断崖絶壁の海岸へたどり着いて休んでいるところへ船が通りかかった船に救助されたのでした。 この上原少年は、現在は沖縄県具志川市にお住まいの上原清(70)さんのことで、彼の証言を基に当時をストーリーの形で再現させて頂きました。上原さんには貴重な体験談を引用させて頂いたことに改めて感謝の意を表したいと思います。 |
| −日記帳(N0.991)2004年08月22日− |
| 対馬丸の悲劇から60周年(2) |
昨日の日記で、上原少年の証言をもとに対馬丸沈没の様子を想像して再現してみましたが、今日はその対馬丸沈没の丁度60周年に当たる日です。対馬丸には、疎開児童767名、引率の教師等と一般の疎開者894名の計1661名が乗っていましたが、疎開学童は682名が死亡して生き残り僅か85名、残りの大人も802名が死亡して生き残り僅か92名で、併せて僅かに10%強の177名しか生き残れないと言う悲惨な遭難事件となりました。 このように生き残りが極端に少なかった原因は、生き残りの人たちの証言にもあるように、護衛艦がこれといった救助活動をしないまま現場を立ち去ったことにあると思います。ただ、この事件の約2ケ月前の1944年6月29日に、将兵ら4千人余りを乗せて沖縄守備のため南下中の富山丸(7,089トン)が鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロの太平洋で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した際に、遭難者を救助した護衛艦が魚雷攻撃を受けたために被害が拡大した二の舞にならないように敢えて救助活動をしなかったとの説も有りますが、私はそれはないと思います。 敵の船舶を撃沈した潜水艦は、その成果を確認するために浮上もしくは潜望鏡下で沈没付近の海上を監視しますが、その際、無防備な遭難者を見付けた場合は救助することもよくあります。上原さんの証言にあるように、対馬丸沈没後、幼い学童たち数百名が海上で助けを求めていたと言われます。もし、対馬丸を撃沈したボーフィン号が、遭難者がいたいけな子どもたちと判った場合、これを救助しようとする護衛艦を更に攻撃したでしょうか。ボーフィン号の航海日誌などによれば、対馬丸が富山丸と違って非戦闘員を乗せていたことを知っていたふしが有りますので、尚のことと思います。 この点を検証するためにも、ボーフィン号や日本側の護衛艦の艦長の証言が欲しいのですが、残念ながら公になっておりません。このボーフィン号はその後も保存され、現在、ハワイ・ホノルルのパールハーバーに係留されて、観光見物の対象になり、同艦の船室内にボーフィン号が撃沈した日本船(商船40隻、帝国海軍船籍4隻)の戦果が「日の丸」で掲示されているのは原爆搭載爆撃機の展示と同様にその無神経さに怒りすら覚えます。対馬丸関係者には見るに耐えない情景だと思います。 1997年12月、科学技術庁の海洋探査機が悪石島北西沖の水深八七〇メートルの海底で対馬丸の船体を発見したことから、遺族らは船体引き揚げや遺骨収集を要請しましたが、船体の傷みが激しいのと水深が深すぎることから引き揚げは技術的に不可能と結論付けられました。政府は、代替案として「対馬丸記念館」建設を提案しましたが、遺族会の間で賛否が分かれました。反対意見の多くは、建設後に課せられる自主運営の難しさを危惧したことにありましたが、「同じ悲劇を繰り返さないための学習の場に」との願いで一致し建設が行われました。 「対馬丸記念館」は、対馬丸が出航した那覇港を望む公園の一画に、厚生省が約3億円の費用を投じて建設が進められ、漸く先週、18日に開館しました。沖縄には「ひめゆりの塔」に代表される陸上での戦闘で犠牲になった人たちだけでなく、東シナ海の海上での戦闘でも数多くの人たちが犠牲になり、今尚多くの犠牲者の御霊がその海底に眠っていることを、我々は記憶に留めておくべきと思います。 本サイトでも、少しでもこの悲惨な事件を多くの人たちに知って頂くことを願って、対馬丸関係の資料を引用させて頂いてこの日記を書き下ろさせて頂きました。改めて、記念館を始め資料引用させて頂いたサイト管理者の方々にお礼申し上げます。今後、「対馬丸記念館」を維持・運営するのには入館料が頼りと思われますので、我々も沖縄に行った折りにはここに足を運んで入館料を支払うことで支援していきたいと思います。宜しくお願いいたします。 |
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