−日記帳(N0.1005)2004年09月04日−
庭先で躓いて大怪我

今日の昼過ぎのことでした。家族を近くの駅に迎えに行くために、家の前に止めておいたマイカーに乗ろうとして玄関からの段差を下りようととした、その瞬間、左足を躓かせて駐車場の平らなコンクリート面に万歳の恰好をしたままドスンと大きな音をたてて倒れ込んでしまいました。左手に持っていた車のキーがコンクリート面にチリンチリンとワンバウンドして片隅に転がっていきました。コンクリート面に腹這いの状態になったまま、暫くの間そのまま痛みを堪えていました。

しかし、家族をそのままに出来ないので、数分して痛みが遠のいたところで、痛む手でハンドルを握って駅まで行って、家族をキャッチアップしてから帰宅し、応急手当を妻にしてもらいました。傷は右肘、両膝3ケ所の擦過傷と左掌の打ち身でした。倒れ込む瞬間に反射的に顔面をガードするために両手が咄嗟に前に出たため右肘と左掌がコンクリート面に当たり、その後両膝が当たったことから体のこの部位に傷を負うことになりました。やはり、最初に当たった右肘の傷が一番重く、擦り切れた後血が滲んでいました。

これだけの衝撃を受けながら骨折しなかったことは不幸中の幸いでした。昨今の若者は反射神経が鈍っているため、咄嗟に手が出ずに顔面を打ってしまうケースが多いと聞いているだけに、私には結構反射神経がまだ残っているもの一安心しました。そこで、二度とこのような怪我をしないように、今回転倒事故の原因を探り、再発防止対策を考えることにしました。

まず、原因として次の2点が挙げられます。ひとつは、服装にありました。実は短パンのゴムが緩んでいたため短パンがズリ落ちそうになったため、左手で短パンを上げようとしながら段差を下りようとしたのです。そのため不安定な状態で左足で段差を下りた時に一瞬、体が不安定な状態になったことが考えられます。

ふたつめは、裏ゴムが擦り切れたスリッパを履いていたことです。バランスを失った時に左足がしっかり着地しておれば転倒は免れたと思われるのですが、裏ゴムが擦り切れて滑りやすい状態にあったため滑って転倒に至ったものと考えられます。それ以外にもいろいろ有ることでしょうが、この2点はそれ自体が不安全行為で常に危険を誘発しやすいので、このスリッパと短パンは廃棄することにしました。 物を大事にすることも大切ですが、危険を伴う状態になるまで使うのでは何にもなりません。いい経験をさせて頂いたと思いながらも痛む手を使ってこの日記を書きました。

−日記帳(N0.1006)2004年09月05日−
ロシアでのテロ事件に思う


初土俵から14場所というスピードで幕内昇進し、12日に始まる大相撲秋場所で晴れて新入幕を果たす露鵬関(24)は、記事内容までは判らなかったものの祖国で起こったテロ事件で犠牲になった知人の姿を日本の新聞の一面で見て思わず絶叫して悲嘆にくれました。彼が生まれ育ったロシア南部の北オセチア共和国にあるベスラン第一学校(小・中学校併設で生徒数は約1,000人))では、この日、9月1日は新学期が始まる日でした。子どもたちは、夏休みの楽しい出来事を話し合いながら登校しましたが、その数時間後に悲劇が幕を開けたのです。

32人の武装集団が突然、校内に現れ、チェチェンからの連邦軍撤退を要求し、児童、教師、保護者1,182人(当局は何故か、当初500人程度と公表)を人質にして狭い体育館に押し込めて立て籠もったのです。犯人側は2日夕刻になって女性と子供計26人を解放し事態の好転が予想されたもののその翌日、特殊部隊が人質を救出しようとして学校の建物に近づいたところ、学校の中で爆発が起き、犯人側と激しい銃撃戦になり悲劇はクライマックスに達したのです。

特殊部隊は武装勢力側と激しい銃撃戦の後、突入して1時間後に制圧しましたが、少なくとも338人が死亡、400人以上が負傷していると伝えられております。これが事実なら人質の約8割が死傷するという凄惨な救出劇だったことになり、救出は結果として失敗に終わったことになります。3日間もの間、水も食糧も与えられないまま体育館に閉じこめられ、犯人グループが仕掛けた爆弾の爆発で、隙を見て逃げようとして後ろから銃撃されたりして大勢の死者が出たわけです。

今回のテロもチェチェン問題によるものでした。2002年10月のモスクワ劇場占拠事件(67名死亡)、今年2月のモスクワ地下鉄爆破テロ(39人死亡)、5月の親ロシア政権のカディロフ・チェチェン大統領暗殺事件と続き、チェチェン問題はロシア最大の課題となってきました。チェチェン問題は、我々日本人にはどうも判り辛いので、2002年10月25日の日記「チェチェン紛争の歴史的背景」で解説しておりますので、ここでレビューしてみたいと思います。

チェチェンのテロ組織が何故、このような残酷なテロ行為に走るのかはパレスチナ問題と同様に、大国支配による少数民族の悲しい虐げられた過去によるものです。モスクワから1500キロほど南の黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈の北側にカフカスと呼ばれる地域が有ります。この地域は北にロシア、南西にトルコ、南東にペルシャ(イラン)という、3つの強国の境界にあたり、いくつもの勢力がこの地で攻防を繰り返していた点ではアフガニスタンと似た歴史を辿っております。

18世紀末、チェチェン南のオスマントルコ帝国の衰退に乗じてロシア帝国が南下してチェチェンなどカフカス地方多くの小さな民族を征服していきましたがチェチェン人は果敢に抵抗したものの抵抗空しく1859年に隣国のダゲスタンと共にロシア帝国に併合されてしまいました。そして1917年の ロシア革命の乗じてチェチェンとその周辺のイスラム教徒たちは「北カフカス首長国」建国を目指してロシア側と戦いました。

当時、ロシアは共産軍が皇帝軍が対決しており、共産軍はチェチェンを味方にすれば戦局有利とみて 大幅な自治権を認めることを見返りにチェチェンを味方に取り入れ、戦勝後の1922年にチェチェンを約束どおり自治州としましたが形だけのことで、チェチェンでのイスラム教スーフィズム信仰はロシア革命に反するとして、これに反発する多くの宗教者たちを犯罪人として逮捕、処刑したのです。

チェチェン人は結束を固め、宗教ネットワークを作って村と村を繋ぎスーフィズム信仰は地下組織的活動ながら生き残っていったため手を焼いたソ連当局は、村を解体して集団農場にすることで結束を崩そうとしましたが、それでも血縁と信仰が絡み合ったチェチェン人同志の強い絆を断ち切れず、チェチェン人のロシアに対する憎悪は拡大するばかりでした。

ところが、この絆を断ち切る絶好のチャンスが見つかりました。第2次大戦でナチスドイツが1942年にカスピ海バクーの油田地帯を目指してチェチェンを占領した際にチェチェン人がナチスに協力したとして、チェチェン人等を強制移住させる口実が出来たのです。1944年2月、当時のチェチェンの半分近くを占める25万人、北カフカス全体では100万人が、スターリンの命令で家族ごとカザフスタンに強制移住させられたのです。しかしチェチェン社会を解体するに至らず、強制移住先での生活の中で氏族とスーフィズムのネットワークが復活して逆に人々の受難は信仰心を強化することに繋がっていきました。

1957年に漸く許されて漸く祖国に戻って我が家に辿り着いたところ、懐かしい我が家には見知らぬロシア人たちが住んでおりました。強制移住後、チェチェン人の土地は当局によって所有者不在とされ、政策によって移民してきたロシア人に割り当てられてしまっていたのです。現在、チェチェンの人口の2割を占めるロシア人の多くはこの末裔で、1994年と99年にロシア軍のチェチェン侵攻はそのロシア人を守るという名目が有りました。

チェチェン人にとって、1991年のソ連崩壊は帝政ロシア、ソ連に数限りない迫害を受けたチェチェン人が憎むべきロシアから分離独立する絶好のチャンスと考えるのは当然の成り行きでした。そこでこの機を捉え、チェチェンでもソ連空軍の将軍だったチェチェン人のドダエフが共産党のザガイエフをクーデターによって追放し、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にすることを目指して独立を宣言しました。 しかし、チェチェンの独立を認めることはカスピ海油田からのパイプラインの利権が脅かされ、更には他の共和国に独立気運が高まる恐れが有ると考えてロシアは、これを認めないで、1994年と99年にロシア軍のチェチェン侵攻に見られるように武力行使して押さえつけたのでした。

帝政ロシア崩壊、大戦終結、ソ連崩壊等の節目毎に100年以上に渡って独立を図ったものの屈辱的な強制移住、家屋没収等の数々の迫害を受けて真の独立を果たしていないチェチェン人の独立を勝ち取ろうとする執念とロシア人に対する憎悪は我々の想像を遙かに超えているように思います。確かにテロ行為は憎むべき行為ですが、今回のロシア当局による強硬突入に代表されるロシア政府の強硬姿勢の繰り返ししでは、チェチェン問題は解決どころか泥沼化していくと思います。


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