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| 名曲「群青」に寄せる思い | 戦艦大和沈没60年周年 |
私は、谷村新司さんのファンで、中でも「昴」と「群青」の2曲が大好きで、私のカラオケ愛唱曲でもあります。しかし、「群青」だけは泥酔状態では絶対に歌いません。東宝映画「連合艦隊」の主題歌としてラストシーンで歌われたこの曲に感動して涙したのは私だけではないと思います。戦争の悲惨さを、戦艦大和の乗組員として、その大和を援護する特攻機の操縦士として先に逝くわが子への思いにのせて切々と歌い上げるこの曲を、いい加減な気持ちで歌うことはどうしても私には出来ず、直立不動の姿勢でしっかりとマイクを握り締めて歌い上げるのが常でした。 本郷直樹(森繁久彌)は三高(現・京大)の教授で、彼には二人の息子、 本郷英一( 永島敏行)、本郷真二 (金田賢一)がおりました。時は、1945年4月7日、つまり丁度60年前の今日です。彼は、兄の英一が、沖縄に向けて最後の出撃すべくその前の日に徳山沖から出航した戦艦大和に乗組んでいることを、また弟の真二がその日にその戦艦大和を援護する特攻機に搭乗して出撃していることから、その日が息子たちとの永遠の別れになることを知っておりました。そして、真二が「出撃する時はお父さんによく連れて頂いたあの浜辺の上を飛んでいきますから見送って下さい」と言い残していたことから、彼はその日、その浜辺に佇んでいました。 その時、空の彼方から1機の戦闘機が飛来し、真上にきた時、浜辺にいる彼に合図をするかのように翼を振ってやがて雲の彼方に去っていきました。彼は、その戦闘機に息子の真二が搭乗していること、そして別れの挨拶をしていることを知り、浜辺の砂に腹這いになって慟哭するシーンは、森繁久彌の迫真の演技とともに今でも忘れられないシーンです。下のと「群青」の4番「君を背おい 歩いた日のぬくもり背中に 消えかけて泣けと如く 群青の海に降る雪 砂に腹這いて 海の声を聞く ♪」に老父の悲しい思いが込められております。 群青 作詞/作曲 谷村新司 (1981年) 空を染めてゆく この雪が静かに 海に積りて 波を凍らせる 空を染めてゆく この雪が静かに 海を眠らせ 貴方を眠らせる 手折れば散る 薄紫の 野辺に咲きたる 一輪の 花に似て儚なきは人の命か せめて海に散れ 想いが届かば せめて海に咲け 心の冬薔薇 老いた足どりで 想いを巡らせ 海に向いて 一人立たずめば 我より先に逝く 不幸は許せど 残りて哀しみを 抱く身のつらさよ 君を背おい 歩いた日の ぬくもり背中に 消えかけて 泣けと如く群青の海に降る雪 砂に腹這いて 海の声を聞く 待っていておくれ もうすぐ還るよ 空を染めてゆく この雪が静かに 海に積りて 波を凍らせる 空を染めてゆく この雪が静かに 海を眠らせて 貴方を眠らせる |
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| 公式試運転中と思われる戦艦大和(1941年) |
戦艦大和は建造された時から悲運を背負っていたように思われます。日本が戦艦を使わずに空母からの艦載機による爆撃だけでハワイの真珠湾で米・太平洋艦隊に大打撃を与えるなど大戦果を収めたことにより、戦艦のような巨艦を主体として艦砲攻撃による戦略よりも、空母を主体として艦載機からの空爆による戦略の方が効果的であることが実証された、そのた8日後に戦艦大和が進水したからです。その時点で悲しいことに戦艦大和の役割は終わっており、山本連合艦隊司令長官などは大和建造中止を進言したものの受け入れられなかったと言われております。米国は真珠湾で主力の戦艦を5隻も失いましたが、結果的にはこれによって空母建造に注力することが出来て空母主体の機動艦隊を編成して、ミッドウエー、レイテの海戦で大勝利を収めたのは皮肉なことでした。 戦艦大和はその後に建造された戦艦武蔵とともに日本海軍が世界に誇る最新鋭の巨艦で、排水量72,800トン、当時世界最大で射程距離は実に42キロメートルの46センチの巨砲9門以下計61の砲門を有し、その建造は最高の国家機密として極秘裏に行われ、建造中の呉海軍工廠(現在の石川島播磨重工・呉造船所)が国鉄呉線の車窓から見られないように、呉海軍工廠が見える区間に列車が差し掛かると車窓のシャッターを全車両とも下ろしたと言われているほどです。この石川島播磨重工・呉造船所に出張した折にこの話をしたところ、当時戦艦大和の建造に携わった方がおられまして、列車の車窓が下ろされたことなど懐かしそうに語られ、戦艦大和が建造された船台に案内して頂いたことが有りました。 そして、連合艦隊の指揮艦となった戦艦大和は、世界最大の46センチの巨砲が火を吹く機会も殆どないまま建造から4年の年月が流れ、60年前の昨日、1945年4月7日を迎えることになりました。その戦艦大和に出撃命令が下されました。「菊水作戦」の中の「天1号作戦」と呼ばれるもので、沖縄に突入して陸上を砲撃して敵上陸部隊を撃滅することにありましたが、沖縄周辺には強力な大機動艦隊が終結していましたから、この作戦が成功する確率は殆どゼロに近いことを司令部は充分判っていたはずですので、この作戦は当初から海上特攻として進められたとしか思えません。 戦艦大和は片道の燃料しか補給されないまま(実際は帰りの燃料を出航直前に積み込んだとの説有り)3,000余の将兵を乗せて、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻と船団を組んで徳山沖から、豊後水道を経由して沖縄に向けて出航しました。それが死出の航海を意味する海上特攻であることを出航後に告げられた将兵たちの思いは如何ばかりだったのでしょうか。戦艦大和撃沈後、護衛の駆逐艦に救助されて九死に一生を得て生還した(故)吉田満少尉は、名著とされる「戦艦大和の最後」の中で、戦艦大和の哨戒長・臼淵大尉の次の言葉でその思いを代表させておりますが、私にはどうも納得できません。 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ。日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、真ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。俺達ハソノ先駆ケトナルノダ」 戦艦大和の出撃は直ちに米軍に察知され、九州沖を航行中に米艦載機386機と潜水艦による波状攻撃を受けましたが、米軍側は戦艦大和の構造的特徴を知っており、その弱点をついてきたため不沈戦艦といわれた戦艦大和は、爆弾6発、魚雷10本以上の直撃を受け、午後2時23分、鹿児島県坊ノ岬沖160kmの地点で2,498名の乗組員と共に430メートルの海底深く沈没していきました。 戦艦大和の船腹は410ミリの分厚い鋼鉄で作られている上、1,147に及ぶ防水区画が有るため魚雷攻撃で浸水しても防水区画を閉鎖し反対側の防水区画に注水してバランスを採るという当時の最先端の注排水システムにより浮上し続けることが出来たのでした。 そこで、米軍は左舷に魚雷攻撃を集中させることで、注排水システムが効かなくなることを狙ったのでした。121時45分に魚雷が1本、左舷に命中、13時34分に雷撃機から放たれた6本の魚雷のうち3本が左舷に命中、13時44分に2本がまたに左舷に命中したため大和は左に傾いたもの注排水システムで平衡を取り戻しました。しかし、その直後に3本の魚雷が再び左舷にに命中して再び傾いた大和にはバランスを取り戻す余裕は残っていなかったのです。そして、14時17分に10本目の魚雷が左舷中央部に命中して大きく傾いた時点で、長官は、特攻作戦中止命令を下し、長官室に入って内側から鍵をかけました。14時22分大和は横転して大爆発を起こし、14時23分海底に沈んでいきました。 燃料不足に加えて戦力的価値が殆ど無く無用の長物と化した戦艦大和は、そのまま敗戦になれば自爆させるか米軍に引き渡すしかないはずです。持して死を待つより、陸軍に協力して沖縄の住民、兵士救援という名目で、所詮は成功の見込みの無い作戦をたてて、戦艦大和に死に場所を与えたと考えるのは勘ぐり過ぎでしょうか。不幸な運命の下で生まれ、期待された戦果を上げることなく死場を求めて九州沖に散った戦艦大和、せめてその死に際に、思う存分その巨大な砲門から思う存分46センチ砲弾を敵艦に向けて放って欲しかった。でも、最後のこの海戦では僅か37発を放っただけで海の藻屑と消えたのでした。 1999年8月、テレビ朝日にて、戦艦大和が沈んでいる状況を撮影することに成功しました。これによると、大和の象徴だった艦首の菊の御紋章がくっきりと見られ、大和とともに眠っている三千柱の英雄たちの遺族の方々はどんな思いでこれをご覧になったのでしょうか。改めて、戦艦大和とともに眠っている御霊に手を合わせたいと思います。(合掌) |
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