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| ローマ法王の葬儀 | 怨みに報いるに徳を以ってす |
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私の知る限り、これだけ多くの弔問客に見守られての葬儀は無かったように思います。葬儀には、米国からブッシュ現大統領と父親のブッシュ元大統領、クリントン前大統領と3代の大統領が参加したほか、ブレア英首相、シュレーダー独首相、アサド・シリア大統領、ハタミ・イラン大統領、アナン国連事務総長ら世界の要人約200人が出席。約30万人の一般信徒も参列する史上最大規模の葬儀となったと報じられ、広場に入れなかった信徒ら一般市民も含めると約200万人が葬儀に詰めかけたとも報じられております。そして、葬儀終了後に歴代法王が眠るサンピエトロ寺院の地下に埋葬されます。 日本、はキリスト教徒が100万にも満たない国ですので、キリスト教に関する知識が浅く、いろいろと誤解していることがまま有るようです。例えば、神父と牧師、ミサと礼拝、聖歌の賛美歌を混同する場合がよくあります。この場合、前者はカソリック、後者がプロテスタントで使われる言葉です。従って、ローマ法王の影響を受けるのはカソリックだけで、カソリック以外のプロテスタントや東方正教会などの他宗派には、ローマ法王は関係ない存在です。カソリックには厳格な資格制度が有り、法王に次ぐ高位聖職者の枢機卿は法王が任命します。以下、司教の上位食の大司教、教区の長の司教、地方教会の長の司祭、司祭の補助者の助祭と続いております。 葬儀の後、4月18日から新法王を選ぶコンクラーベがシスティナ礼拝堂で行われます。これは80歳以上の 枢機卿117名の有権者の中から1名を投票によって選ぶ選挙のことで、有権者が即候補者で、有権者の2/3を一人が獲得するまで投票が行われるわけですから、まさに「根競べ」です。「根競べ」がこの「コンクラーベ」からきているとの説が有りますが、真偽のほどは判りません。コンクラーベはラテン語で「cum clave」と表記し、英語の「with a key」に相当することから判るように、鍵をかけた密室で選挙が行われるわけです。そして選挙で使用した投票用紙は開票後直ちに焼却されますので無記投票に近い方式が採られるわけです。 選挙中、有権者は外部の人間との接触を禁じられます。投票は初日午後に1回行われ、この投票で決まらなければ続く2日目に、午前・午後2回ずつ行われます。3日間の投票で決まらない場合は、最大1日の祈りの期間をおいてから、同じような方法で選挙をし、7回の投票をしても決まらなければまた1日おいて7回行われます。それでも決まらない場合はまた1日おいて7回行われます。それでも決まらなければ、過半数の得票者ないし前回の投票の上位2名について行った決戦投票で過半数を得た者を当選とします。 まさに気が遠くなるようなコンクラーベです。 |
この言葉は、終戦後日本軍に命を狙われながらも生き延びた蒋介石総統の戦後の日本に対する言葉です。戦時中、国民政府の蒋介石総統は、日本軍に追われて南京から重慶に首都を移したところ、後世に、ドイツによるスペインのゲルニカ爆撃(死者約0.5万)、米軍による東京大空襲(死者約10万)とともに、通常兵器による世界三大無差別爆撃のひとつに数えられる重慶大爆撃を受けて散々な目に遭いながらも生き延び、さらに毛沢東率いる中国共産軍にも追われて台湾に落ち延びた後に語った言葉です。 この言葉は、古く儒教の聖典とされる『論語』や、儒教とは思想的対局をなす『老子』にも次のように説かれております。 或るひと曰く、 「徳を以て怨みに報いるは、何如」、子曰く、「何を以て徳に報いん。 直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん」 ー論語 憲問篇よりー 大小多少、怨みに報いるに徳を以てす。 ー老子 第六十三章よりー その意味するところは、「この世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みがやむことがない。怨みをすててこそやむのであって、これは永遠の真理である」であり、蒋介石総統は「残虐な仕打ちをした日本に対して中国は暴力で復讐しようとは考えない。中国人は日本に対する恨みを人間としての誇りをもって対応する」という意味で、被害者側の中国としては極めて寛大な態度として日本人をして感動させたものでした。 そして、それから年月が流れ、1972年に田中角栄首相が訪中して周恩来総理と会談して日中共同声明に署名しましたが、その折に、毛沢東主席、周恩来総理らの中国首脳はこの言葉を引用し、当時の中国国内には、日本に戦時賠償を求めよとの世論を押さえ、「戦争は日本国内の一部の軍国主義者によって発動されたものであり、大多数の日本国民も戦争の犠牲者であるとの認識を示して、戦争の被害者が同じ戦争の被害者に賠償を求めることはできない」との立場を取り、これが6年後の日中平和条約締結に反映され、中国は日本に対する戦後賠償の請求権を放棄したのでした。 当時、私もこのこころの広い寛容な中国側の態度に感動したものですが、昨今の中国国内での行き過ぎた反日運動での暴力事件とそれを容認するかのように、「その責任は誤った歴史認識を持つ日本政府にある」との見解を示す中国政府の態度をみていると、この言葉は何だったのかと首を傾げざるを得なくなりました。 |
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