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戦艦大和の護衛駆逐艦物語(3) 戦艦大和の護衛駆逐艦物語(4)


全速で航行中の最新鋭駆逐艦「雪風」

戦艦大和が爆沈した時点で航行可能な駆逐艦は、雪風、冬月、初霜の3艦のみでした。既に、戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦朝霜、浜風は撃沈され、霞、磯風は航行不能、涼月は行方不明の状態にありました。航行可能のこの駆逐艦3艦は、一時的に指揮官となった冬月座乗の四十一駆司令吉田大佐の指示に従い、沈没艦の救助活動を開始することになりました。戦艦大和護衛任務が無くなったことから、後は沖縄に突入するだけになりましたが、波間に漂う多くの乗組員を見捨てることは出来ないとの判断で沖縄突入を断念し漂流者の救助を行うことになりました。

初霜は、指令により軽巡矢矧の乗組員の救助に向かう途中で大破しながらも辛うじて航行していた涼月を発見、更に軽巡矢矧に座乗していた二水戦司令官古村少将を洋上から救助した結果、古村少将が指揮をとることになり、初霜が指揮艦となって指揮権を冬月より継承し、沈没艦からの漂流者の救助、航行不能の霞に続けて磯風の砲撃処分、再び行方不明になった涼月の捜索に当たることになりました。

僚艦磯風の損傷程度が酷くて到底自力航行が望めず、曳航すれば速度が落ちて敵潜に攻撃されることから、古村少将は断腸の思いで初霜に砲撃を命じ、当時、日本海軍が誇った最新鋭の一等駆逐艦、磯風は僚艦に見守られながら沈んでいきました。こうして、冬月、雪風、初霜の3駆逐艦は、276名の生存者を救助し、再び行方不明になっていた涼月を捜索しながら佐世保に向かいました。涼月は大破しながらも自力航行可能でしたが、ジャイロ・コンパスが破壊されたため方角を何度か間違えながらも何とか佐世保に帰投しました。この結果、初霜には奇跡的に艦船被害なく、冬月、雪風も修復に1、2週間を要する程度の損傷、涼月だけが3ケ月を要する損傷を受けておりましたが、4艦とも無事、翌日に佐世保に帰投しました。そこで、この4艦のその後を以下に纏めてみました。

駆逐艦初霜のその後

初霜は、初春型駆逐艦として昭和8年に竣工、初春型特有の欠陥が露呈したため数々の改善が施されたものの旧式に属し航続距離が短かったため機動部隊直衛任務から漏れると言う不運をかこっていました。開戦当初は主に、キスカ、アッツ島周辺海域に配備され、奇跡のキスカ島撤退作戦にも参画しておりました。初霜は、坊ノ岬沖海戦で、奇跡的に艦船被害もなく、死者も僅か2名と、殆ど無傷にに近い状態で佐世保に帰投した後、6月には雪風と共に日本海の宮津湾に回航され砲術学校の訓練に従事することになりました。そして、7月のある日、B29が投下敷設した機雷に蝕雷して擱座したまま敗戦の日を迎え、その後浮揚され舞鶴にて解体されて激動の生涯を終えました。初霜の主錨は現在、東京の山田記念病院に展示されております。

駆逐艦雪風のその後

雪風は、1940年(昭和15年)に、最新鋭の陽炎型駆逐艦として竣工、その高性能故に太平洋戦争では常に同型艦19隻は最前線にあったため終戦まで生き残ったのはこの雪風ただ1艦だけで、まさに日本海軍、最高の幸運艦、武勲艦の誉れ高き駆逐艦でした。それが故に、1964年に松竹から、「駆逐艦雪風」(出演:長門勇/丹波哲郎/岩下志麻)として映画化されております。坊ノ岬沖海戦でともに戦った初霜とともに佐世保に帰投後、日本海の宮津湾に回航されそこで、7月に米・艦載機の攻撃を受けましたが航行可能の状態で終戦を迎えました。

坊ノ岬沖海戦で雪風を除く各駆逐艦の第1煙突には菊水のマーク(2度と帰らないという決意の表示)が描かれましたが、雪風の寺内艦長は描かせませんでした。最後の最後まで諦めないとの雪風の艦風がそうさせたのでした。戦後、復員船として活躍した後、戦後賠償に一環として台湾に渡った雪風は、名前を丹陽と変え、1966年に廃艦処分を受けるまで、現役を勤め、1969年に台風により破損し、解体されました。1971年に舵輪と錨のみが返還され、広島県江田島の海上自衛隊第1術科学校に展示されています。

上海での引渡し式で、雪風を見た米英軍将校たちは、綺麗に磨かれたその船体に驚きの声を上げたと言われております。さらに、世界で最初に開発された逆探、13号電探(対空レーダー)と23号電探(射撃様レーダー)、ドイツの最新鋭の三式探信儀(新型水中ソナー)を搭載していた当時、最新鋭の駆逐艦だった雪風は台湾海軍でもきっと重用されたことと思います。日本海軍が誇った戦艦大和、武蔵、当時、世界最大の空母だった空母信濃、新鋭不沈空母大鳳など多くの連合艦隊主力級艦艇の最期を看取り、そして太平洋戦争最後の海戦、坊の岬では連合艦隊の最期を看取り、そして、異国台湾の主力艦として引き渡され二度と日本に戻ることはありませんでした。


地中海で独潜との戦歴を持つ駆逐艦「柳」(若松港の防波堤に)
(その横に駆逐艦冬月、涼月が防波堤基礎として埋められております)

駆逐艦冬月のその後

冬月は、1944年(昭和19年)に、秋月型駆逐艦として竣工しました。秋月型は雪風などの陽炎型の駆逐艦(甲)に対して駆逐艦(乙)と呼ばれておりました。航空機や潜水艦の性能向上により空中や水中からの脅威が高まったため、対空・対潜兵装を高めるように設計されたため、軽軽巡なみの大きさにサイズアップされておりました。

冬月は、坊ノ岬沖海戦でもその高度の対空兵装で多数の艦載機と交戦し「大和以外の護衛艦艇にも攻撃を分散させざるを得なかった」と米軍側に言わしめたことが記録から判明しております。この戦闘でロケット弾2発被弾しながら、 佐世保に帰投しました。その後、終戦まで本土防衛に当たり、米軍機を相手に対空戦闘を展開し、機種不明機2機、B29戦略爆撃機1機を撃墜する戦果をあげております。そして、1945年(昭和20年)8月20日に触雷し後部を切断、航行不能となったことから米軍が日本海に投下した機雷除去掃海作業に当たり、1948年(昭和23年)5月に解体され、船体は若松港の防波堤として、僚艦涼月とともに現在も使用されております。

駆逐艦涼月のその後

涼月は秋月型駆逐艦の3番艦として、昭和17年末に竣工し、同型艦冬月と同様に空母直衛艦としてその活躍を期待されましたが、その機会の無いまま内地〜南洋方面での輸送・護衛任務に当たっておりました。昭和19年1月、涼月はウェーク島への輸送作戦中、宿毛沖で米潜の魚雷2本を受けて沈没寸前までいったものの乗組員の尽力で浮力の保持に成功し何とか呉に帰り着くことが出来ましたが、この経験が後の坊ノ岬沖海戦で生かされました。

坊ノ岬沖海戦で戦艦大和を援護して対空砲撃中に直撃弾を右舷に受けて火災を発生、舵も電気も全て停止し、前部区画のほぼ全てに浸水した涼月は、缶室の隔壁が直接水圧を受けるという絶望的な状態に陥りました。このため前進をかけると、缶室の隔壁が水圧によって破れ、沈没する恐れが有るため後進して佐世保に帰投することを試みたのです。こうして、暗夜の微速後進を続けた涼月は、敵潜の攻撃を免れて翌日夕刻、佐世保に奇跡的な生還を果たしたのでした。敵潜に発見されたら格好の餌食になるとこころでしたが、涼月はこの時も絶体絶命の危機を乗り越えたのでした。

そして、佐世保に着いてドックに誘導されるとその場で力尽きたかのように沈んでしまいましたが、生存者救援という役割は果たしました。そして関係者は、涼月を浮上させて船内を点検して感動的な場面を目撃したのでした。 実は、涼月は缶室より前部の区画が全て浸水していましたが、その中でただ一室、浸水を防ぎ切った部屋が有ることが判ったのです。そして、その部屋から3人の乗組員の死体が発見されました。彼等は弾薬庫を誘爆から守るため、この部屋の入口を閉鎖し、更に浸水から守るために暗闇の中で隔壁を丸太で補強していたのでした。その作業を完遂した時、彼らが外部へ脱出する道は絶たれており、もし脱出を図れば、涼月は最後の浮力を失い、残る生存者もろとも沈んでいったものと思われます。彼等は自分たちの生命を犠牲にして涼月を沈没から守ったのでした。

涼月は応急的な防水措置を受けただけで出渠し、健在だった後部高角砲を活用すべく佐世保の近くの相浦へ曳航され、そこで浮砲台として繋留されることになりました。そこでこの高角砲でP51ムスタング戦闘機を撃墜しました。 そして、浮砲台として繋留されたまま敗戦のその日を迎え、若松港の防波堤として生涯を終えました。その傍らには、坊ノ岬沖海戦で共に戦った妹の冬月が寄り添うように眠っています。


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