| −日記帳(N0.1579)2006年04月13日− |
| 東京湾での衝突・沈没事故 |
| −日記帳(N0.1580)2006年04月14日− |
| タイタニック物語(1) (今日はタイタニックの命日:重なる悲運) |
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| 東京湾で衝突して沈没していく大型貨物船 |
今日の午前5時20分頃、千葉県館山市沖の北西約9kmの東京湾入り口付近で、フィリピン船籍の大型コンテナ船「イースタンチャレンジャー号」(6182t)と青森市の船舶会社「笹井船舶」(笹井正人社長)所有の貨物船「津軽丸」(498t)が衝突し、大型貨物船は大きく傾いて衝突後約6時間後の正午過ぎに沈没しました。「イ号」の乗組員25人は沈没する前に救助されました。横須賀海上保安部の調べでは、大型貨物船の左舷の船首に近い側面と津軽丸の船首が衝突したとのことです。 津軽丸は衝突の衝撃で船首部分が大きく内側にめりこんだものの自力航行で神奈川県横須賀市の長浦港に辿り着いております。沈没の様子が昼過ぎのテレビで放映され、奇しくも明日が94年前タイタニック号が沈没した日であることから、マスコミはそのことに触れながら報道しておりました。上の写真は「イ号」の沈没寸前のテレビ画像ですが、常識では考えられない事故でした。何故なら10倍以上も軽い船と衝突した方が沈没し、軽い方が沈没しないで軽傷で済むことは通常では有り得ないからです。明日、触れる予定のタイタニック号も、今回の津軽丸のように正面衝突していたら恐らく沈没は免れたものと思われます。 以前、魚雷を撃ち尽くした潜水艦が半ば浮上した状態で自分より遥かに大きい敵艦に正面衝突して船腹に大穴を開けて沈没させた後に無事に母港に寄港したストーリーの映画を観たことが有りますが、今回のケースもこの潜水艦と同様にほぼ直角に津軽丸が「イ号」の船腹に衝突したのではないかと推定されます。従ってその場合には今回のようなケースは充分有り得ると思われます。どちらに非が有ったかはいずれ海難審判の場で明らかになると思われますが、直進中の「イ号」に回避行動を取らずに津軽丸がが衝突したのか、直進中の津軽丸の直前を「イ号」が横切ったのかによって大きく判断が変わるものと思われます。 津軽丸の乗員5人はいずれも経験豊かなベテラン揃いで、ここが世界屈指の超過密海域であることは充分承知していたはずで、ましてや事故当時、現場海域は濃い霧が立ちこめていて濃霧注意報が出ており視界は約150mとかなり悪い状態でしたから監視業務は怠りなかったと思われるだけに疑問が残ります。それに、この海域には現在は日本が世界に誇る「海上交通システム」が構築されておりますので、このシステムが今回の事故にどのように作動していたかも興味有りますが、その件については一切報道されておりません。 このシステムは以前、NHKの「プロジェクトX」でも採り上げられましたが、レーダー技術を駆使し、世界初の船の衝突予測システムを導入して空港の管制塔のように船の動きをコントロールし、衝突の恐れが有る場合は当該船に、このシステムを統括する「東京湾海上交通センター」から警告が発せられることになっております。今回は、津軽丸が小さすぎてレーダーで捉えきれなかったか、あるいは捉えたものの津軽丸や「イ号」に警告を発する術がなかったのかのいずれかと思いますが、せっかくのシステムがその機能を発揮できなかったことは残念なことです。 尚、「イ号」はスチール鋼材や中古車両、建築機材を積んで大阪から横浜港に入る途中で、津軽丸は大豆かすを積み千葉から苫小牧へ向かう途中でした。「イ号」は今年の1月に横浜港で拳銃や爆薬などを密輸したとして銃刀法違反容疑で逮捕された乗組員2人が乗船していたとの前歴が有り、今回の事故とは関係ないかも知れませんが、何か灰色の部分が見え隠れしているような気がしてなりません。いずれにしても、その責任の所在を明確にするとともに、何故「海上交通システム」がその機能を発揮出来なかったを徹底的に検証して欲しいものです。 |
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| 処女航海中のタイタニック号 |
1912年年4月月10日、英国のホワイトスターライン社が北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船で、当時としては世界最大の豪華客船だったタイタニック号(46,328総トン)が英国のサウサンプトンを出港してニューヨークに向かいました。まだ航空機が実用化されていなかった当時、米国と英国を結ぶ海上航路は世界最高の人気を誇る花形航路で、各社が客船の豪華さとブルーリボン記録と言われたより短い航海時間を競い合っておりました。 タイタニック号は、サウサンプトンを出港してからフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄港して米国ののニューヨーク港に向い、1912年年4月14日の23時40分、全航海距離のほぼ2/3強に相当する北大西洋のニューファウンドランド沖に達しました。この時点で既に4日近くを経過しておりましたので、当時のブルーリボン記録の4日10時間51分(1909年に英国のモレタニア号(31,938総トン)がクイーンズタウン⇒ニューヨーク間で記録) を破ることは無理な状態にありました。以前、タイタニック号の遭難がブルーリボン記録に挑戦するために無理な操船をしたとの見解を読んだことが有りますが上述の資料が正しいとすれば、その見解は正しくないことになります。 実際、ホワイトスターライン社は、航海スピードよりもゆったりと快適な船旅を売り物にしていたため、タイタニック号も設備の豪華さに重点を置いて設計されるとともに16もの防水隔壁が設けられ万一浸水しても船橋からの遠隔操作で即時閉鎖できるしくみの安全対策が施されていたため「不沈船」としてもPRされておりました。 ニューファウンドランド沖に達した時、見張り番が前方450mに高さ20m弱の氷山を発見しました。タイタニック号の船橋から見れば見下ろすほどの高さ20の氷山でしたが、氷の比重は0.920、海水の比重は0.1025ですからこの比重差から氷山の90%は海面下にあることになり、これから氷山の一角という言葉が生まれております。 この年、1912年は北大西洋上には50年来という大量の氷山が発生しておりました。 北大西洋の氷山は、グリーンランドの氷河が海面にまで押しだされてから砕けたもので、ラブラドル海流によって南へと漂流を続けておりました。そのため、当日はそのことが船舶間の無線通信として警告されており、タイタニック号も当日だけでも6通の警告通信を受理しておりましたが、タイタニック号の通信士たちはよくあることとしてそれほど重大視していなかったと言われます。これが事故の第一原因となりました。 氷山接近の情報を受けた船長は左舵を切ることと同時にエンジン逆回転を指示しました。その結果、舵の効力が低下したため鋭角に左転回できないまま船首の衝突は回避されたもののタイタニック号は右舷を氷山とかすめさせながら10秒間ほど接触させてから氷山から離脱して停船しましたが結果的にこれが事故の第二原因となりました。何故なら、かすめたことによって、氷山発見時の速度が22ノットと高速だったこともあって減速してもまだかなりの速度が出ていたため約10秒間かすめただけで右舷船首のおよそ90mにわたって線状に損傷しここから一気に浸水したからです。 この浸水量はタイタニック号が誇る防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ船首から船尾に向かって浸水が拡大し同船は船首よりゆっくりと沈没しはじめました。このようにタイタニック号が氷山と正面衝突しなかったことにより衝突時のショックがそれほど大きくなかったことが、乗員、乗客たちに事態を楽観視させて避難行動を遅らせたようにも思われます。もし、逆回転をかけていなかったらタイタニック号はその速度から計算すると氷山への衝突は回避できたという説も有り、例え回避出来ず正面衝突しても浸水した防水区画は一部の狭い範囲にとどまることになり、沈没を免れた可能性も指摘されております。 以上のように、通信士が氷山警報を軽視したこと、船長の逆回転による減速指示の2件が直接の事故原因となりましたが、タイタニック号からの救難信号の発信が遅れたことが遭難者を増やす結果を招いた点で第三の事故原因になったとみなしていいと思います。タイタニック号から当時普及していた遭難信号「CQD」が発信されたのは翌日4月15日0時15分で、キール(竜骨)より4.2mまで浸水して沈没の危険が迫っていた14日11時50分から実に25分も経過していました。もし、11時50分以前に発信していたらこの信号を傍受して現場に向かった救助船がモット多くの乗客を救助出来たはずでした。 以上、三つの悲運が重なってタイタニック号は衝突から2時間40分後の1912年年4月15日2時20分、轟音と共に船体は2つに大きく割れ海底に沈んでいきました。この事故で、乗員、乗客2,223人のうち1,513人が死亡しました。1989年にフィリピンのフェリーが沈没して4,375名が死亡するという大事故が起こるまでの75年間、平和時の海難事故として世界最大の海難事故となっておりました。 |
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