| −日記帳(N0.1581)2006年04月15日− |
| タイタニック物語(2) (沈没してからのこと) |
| −日記帳(N0.1582)2006年04月16日− |
| タイタニック物語(3) (恥ずべき行為と非難された唯一の日本人) |
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| 海底に眠るタイタニック号の船首 (2003年6月、ロシア潜水艇により撮影) |
昨日のタイタニック号の命日を機に、タイタニックブームが起こっているようです。テレビ局がいろいろな特集を組んでおりますが、中でもNHKが教育テレビの「は地球ドラマチック」の中で放映した「深海探索 ロマン− タイタニックを見つけた男 −」は見応えの有るものでした。タイタニック号については数々の後日談がメディアの世界で語られておりますが、ここではその中から謎めいたものを私なりの解釈でピックアップしてみたいと思います。 (1)何故、危険な流氷原の中を22ノットの高速で航行したのか? (2)何故、見張り番が普段使う望遠鏡を当日使わなかったのか? (3)何故、タイタニック号からの救難信号発信が遅れたのか? (4)何故、近くに何隻かの船がいたのに1隻しか急行しなかったのか? (1)の疑問は未だに謎に包まれており真相は解明されておりません。1833年に英国、カナダ間を結ぶ定期船が同じ北大西洋で氷山と衝突して215人が死亡した前歴も有り、流氷原域が存在する北大西を航行する船にとって氷山を警戒することは当然のことでありそのためには見張りを厳重にしながら氷山との衝突の危険が発生しても充分回避できる速度で航行することは当然の義務とされていましたから、例え、スミス船長の直接の指示でなかったとしてもそれを黙認した船長の責任は重大です。 ブルーリボン記録更新のためとの説も有りますが、ホワイト・スター・ライン社のブルーリボン記録よりも船内の豪華さを売り物にする方針、遭難現場到着の時点での経過時間から考えて記録更新は絶望的だったことなどを考えるとこの説は有り得ないと思います。また、突拍子もな説として「タイタニック」と瓜二つの姉妹船で再三にわたる事故のため損傷が目立つ「オリンピア」を「タイタニック」に偽装して、作為的に沈没させて高額の保険を詐取したとの説が有りますがとても信じられません。ただ「タイタニック」を所有するホワイト・スター・ライン社の実質のオーナーのJPモルガン社の社長が「タイタニック」の乗船予定を仮病を使って取り消していること、ホワイト・スター・ライン社の社長のJ・ブルース・イズメイ氏は乗船したものの生還していることが妙に気になるところではあります。 氷山を発見した見張り番のフレデリック・フリートは使いたくても無かったと後に証言しておりますが、後の沈没現場の調査で双眼鏡が見付かっており引き上げられております。結局、見張り室には無かったが船内のどこかに有ったか、彼の証言が偽証だったかのいずれかになりますが、彼は1965年に自殺しております。これも気になるところです。 スミス船長がCQD遭難を発信するように指示したのが4月15日 0:00AM とされておりますが、他船がこの信号を傍受したのは4月15日 0:15AM以降となっております。この15分間はどうなっていたのか私には判りません。もし、キールより4.2mまで浸水して沈没の恐れが有ることが判った4月14日11:50PMの時点で発信していたらカルパチア号の救援が25分も早まった可能性が有りそれによってかなりの人の命が助かったはずです。ただ、二等通信士の無線士のジョン・Gフィリップスはスミス船長からの退去命令を無視して沈没の10分前まで遭難信号を打ち続け結局逃げ遅れて死亡しております。これほど職務に忠実だった彼等無線士の怠慢行為とは到底思えません。 これは私の推測ですが、当時は救難信号としてCQD(Come Quick Danger)とSOS(CQDにならってSave Our Ship と後世こじつけられている)の二つが事実上、混在していたため、最初タイタニック号の無線士たちは使い慣れたCQDで発信したいたもいのの応答が鈍いことから1912年のロンドン条約でCQDに代わってSOSが正式採用されていることに気付いてたSOSに切り替えて発信したために他船が正式な救難信号として傍受するのに遅れが生じたのではないかと思います。その結果、世界で始めてSOSを発信したのはタイタニック号との説が有りますが、決して名誉なことではありません。 「タイタニック」の近くには、近いほうからカリフォルニアン号(10数海里)マウント・テンプル号(49海里)、カルパチア号(58海里)、バーマ号(70海里)、フランクフルト号(153海里)、ヴァージニア号(170海里)、バルチック号(243海里)などが航行中でした。カリフォルニアン号はタイタニック号の明かりが確認できる浮氷原の入り口で、氷山と衝突を恐れてエンジンを停止させ停泊していましたが、乗員がタイタニックからの救難信号灯を確認していた乗員がいたのにロード船長はそれを無視したことが後で判明し、ロード船長はマスコミから批判されております。マウント・テンプル号はタイタニック号の2度にわたる爆発音を確認しておきながら、ムーア船長は氷山を恐れたのか、タイタニック号に気付かれないように照明を消して停船していたことが後で判りやはり批判されております。 |
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| タイタニック号唯一の日本人乗船者、細野氏の帰国を伝える記事 |
それまで軽視していた国がのし上ってくると今度は嫉みを伴ってその国を蔑視するようになるものです。タイタニック号が北太平洋で氷山と衝突して沈没した頃は、日本が日露戦争に勝利して7年後のことであり、列強の仲間入りを果たそうとしていた頃でもありました。それでなくても有色人種を蔑視するアングロサクソンがこうした日本をこころよく思っていなかったことは想像にかたくないところでした。そんなアングロサクソンにローレンス・ビーズリーという英国人がおりました。 彼は、ケンブリッジ大学の中のキーズ・カレッジを卒業後名門ダルウィッチ大学の教員をしていた典型的な英国の上流階級の出身者で、34歳の時に休暇を利用してカナダのトロントに在住していた兄を訪問するためにサザンプトンからタイタニック号に2等船室の乗客として乗船し、この事故に遭遇したのでした。彼は運よく13番の救命ボートの乗り込むことが出来た上、沈没の2時間後に救援に駆けつけたカルパチア号に救助されております。 彼が乗り込んだ13番ボートには婦女子が優先的に乗り込んでおりましたが、1人の東洋系の男が割り込むようにして強引に乗り込もうとしておりました。この様子を目撃したローレンス・ビーズリー氏は日頃から日本人をこころよく思っていなかったこともあって、この男が日本人であると確信し、帰国後、英国政府に「無理矢理救命ボートに乗り込んできた嫌な日本人がいた」と証言したのでした。英国政府は彼の証言内容が極めて詳細で現実味を帯びていたことからこの証言は信用に値するものと評価しました。 その結果、このことが英国中に知れ渡るようになり、婦女子を優先したためアングロサクソンの男性乗客は1等船客で7割、2、3等船客では9割も犠牲になっていたことから、当時のメディアはアングロサクソンの勇敢さを称え、日本人を卑怯者にすることでアングロサクソンを自画自賛したのでした。その日本人こそ、元YMO(イエローマジックオーケストラ)の細野晴臣さんの祖父にあたる細野正文さんでした。 彼は、新潟県上越市の出身で東京高商(現在の一橋大)を卒業後、鉄道院に就職したエリート官僚で、第一回鉄道院在外研究員として、ロシアとイギリスの鉄道施設の視察を終えて41歳の時に、ニューヨーク経由で日本に帰国するためタイタニック号に、ローレンス・ビーズリー氏と同じように2等船室の乗客として乗船したのでした。日本に帰った正文さんは、日本男児なら死んでくるべきだったと新聞で批判され道徳の教科書には非道徳的な日本人として取り上げられ、同僚からも中傷を受け、結局鉄道院の役職を辞めざるめざるを得なくなっております。 これに対して、細野正文さんは一切弁解せずにこの批判を甘んじて受け、この事件について一切語らないまま1939年68歳で亡くなりました。ところが、中央大学の教授を務めていた次男の細野日出男氏が遺品を整理していたところ、タイタニック号に備え付けられていた便せんに書き込まれていた妻宛ての手記を見付けました。それを読んでいくほどに日出男氏の目に涙が溢れ、手記を持つ手の震えを抑えることが出来ませんでした。それには、父が世間から非難されるような卑怯者ではなく、強引にボートに乗り込むどころか、婦女子を優先させてボートへ乗せ自らは日本男児として最後まで死を覚悟をして身近にあったタイタニック号の便せんに遺書として手記を書いていたことが判ったからでした。 日出男氏はこの手記を基に1942年「巨船タイタニック号の遭難日記」という論文を書き、タイタニック号が世間の話題になるたびに父親の手記を公表し、父の細野正文氏が世間で批判されるような行動をしていないことを訴えたのですが問題にされませんでした。そして事故から85年経過した1997年、タイタニックの関係遺留品管理(1985年9月2日に海底から大量の遺留品が発見された)を行っているアメリカRMS財団の調査によって「細野正文氏とビーズリー氏の乗った救命ボートは別の物だった」と言う事が判明し、日出男氏が訴えていたことが事実と判り、細野正文氏の汚名は晴らされることになりました。このことは明日の日記で触れてみたいと思います。 |
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