−日記帳(N0.1583)2006年04月17日−
タイタニック物語(4)
(細野正文氏の名誉回復の軌跡)
−日記帳(N0.1584)2006年04月18日−
2回目のメバル釣りも不調


細野氏の手記が公開されている横浜マリタイムミュージアム

細野家の人たちは細野日出男氏が、父正文氏が世間から批判されるような行動をとっていなかったことを正文氏の手記(上の写真参照)を基に訴えても無視され続けてきたことから、正文氏の名誉回復運動を半ば諦めたような状態の中で正文氏の孫娘の悠理子さんが、たまたま引き出しの中からその手記を発見し公表しましたが、やはり反響は有りませんでした。

しかし、映画「タイタニック」の公開前の盛り上がりのタイミングを見計らって1997年に再び発表したところ、アメリカのタイタニック号研究財団の目に触れ、検証の結果、正文氏の手記が正しいことが判り、85年ぶりに、細野正文氏の名誉が回復されたのでした。正文さんの汚名挽回、名誉回復までに85年の歳月がかかったことになります。このことは、アメリカの代表的な週刊誌「タイム」でも報道され、更には映画「タイタニック」のパンフレットにも記載され世界的に知られるようになりました。

「タイタニック」に関して最も世界的に権威のある情報収集資料は「ENCYCLOPEDIA TITANICA」です。このタイタニック百科事典では、タイタニックに乗船した乗客、乗員全員についてのプロフィル、死亡、救助された時の状況をいろいろな情報を収集して克明に記載しており、この中で細野正文氏に関するプロフィルが掲載されておりますが、正文氏の手記が殆んど原文のまま英訳されておりますので、以下抄訳してみます。

彼はタイタニック号唯一の日本人の乗客でした。彼は13(?10)番救命ボートで救出される前に船室でタイタニック号名入り便箋に英語で彼の妻に手記を書いておりました。「二等船室で就眠中ノックで起こされ、急いで外に出ましたが、外国人なので下の階に行ってボートから離れているように命令されました。救難信号弾が絶え間なく打ち上げられ、青くまばゆい光と音に恐怖を感じました。私は日本人として不名誉にならないように悠然と最後の瞬間を迎えようと心に決めました。

しかし一方では、何とか上のデッキに行って助かる見込みを探そうとしておりました。」と手記に書いております。そして、その助かる機会が彼に訪れたのです。「救命ボートを降ろしていた船員が 「もう二人ほど乗れるぞ!」と叫んだのです。タイタニック号と運命を共にしようと心に決めてから私は愛する妻や子供たちを見ることが出来ないものと考え深い悲しみにくれておりましたが、三等船客の一人の男性が救命ボートに飛び乗るのを見て、私はこれが最後のチャンスと思いました。」と続けております。

彼の手記の内容は、昨日触れました英国人船客、ローレンス・ビーズリー氏の証言内容と明らかに異なります。彼は日本人が無理矢理救命ボートに乗り込んできたと証言しておりますが、正文氏は船員の許可を受けて整然と乗り込んでおります。アメリカのタイタニック号研究財団がこの相違点について調査を続けたところ、確かにローレンス・ビーズリー氏が指摘するように彼が乗り込んでいた13番ボートに東洋系の男が無理矢理乗り込んできたことは事実でしたが、その男は日本人ではなくて Choong Foo と言う名の中国人であることが判明したのです。

彼は香港出身の32歳独身の消防夫で8人の同僚たちと一緒にニューヨークにいくところでした。当初彼等は密航者ではないかと疑われておりましたが、その後の調査で正規に3等のチケットを購入していたことが判りました。彼は無理矢理に13番ボートに乗り込んだため救出されましたが残りの8人の同僚は全員死亡しております。

更に調査の結果、正文さんが乗り込んだのはローレンス・ビーズリー氏やChoong Foo氏が乗り込んだ13番ボートではなく、その反対側にいた10番ボートで、このボートは65名定員のはずのところに婦人と子供が28人乗り終わると船員が「もう2人乗れる」と正文さんたちにに伝えたことも判明しました。そしてこのボートに居た男性は正文さんとその直前にに飛び乗ったトルコ人のNeshan Krekorianさん(25歳)とBertram Vere Deanちゃん(1歳) の3人だけでした。Neshan Krekorianさんはトルコに支配されていたアルメニア生まれでイスラム教からキリスト教に改宗したばかりでした。彼は後に米国のGMで働いた後、1978年に92歳で死亡しております。

Bertram Vere Deanちゃんはロンドン生まれで米国への移住を決めたフランス人の両親と妹の4人でサザンプトンから三等船客としてタイタニックに乗り込み、母と妹は助かりましたが父親は死亡しております。その後タイタニック救援財団からの奨学金でKing Edward's schoolを卒業後、主にSouthampton City Heritage’s offices で秘書をしながらタイタニック関連の仕事に従事し、1992年に81歳で死亡しております。

こうして、正文さんの名誉は回復されましたが、敢えて彼が当時の中傷を甘んじて受けて何らの弁解もしなかったのは遭難当時の状況をよく知る彼にとって止むを得ない行動だったのかも知れません。何故なら乗船していた全男性の約8割が婦女子の命を守るために犠牲になっていることから、例え正当な権利で救命ボートに乗船したとしても何か割り切れない思いが有ったのだろうと推察するからです。出来ることなら、間違った証言により一人の日本人と日本国の名誉を傷つけたローレンス・ビーズリー氏の遺族の方々が正文氏の遺族の方々にその非を詫びて両家の人たちがこれを機に親交を深め、日英両国親善の架け橋になってくれたら素晴らしいことと思うのですが如何がなものでしょうか。


ここしばらくは、雨が降ったり、風が強かったりして釣りに行けなかったのですが、今日は移動性高気圧がほぼ本州の中央に位置してきましたので、昨日までの強い北西風も収まり、南からの暖かい風が緩やかに吹く絶好の釣り日和になりました。潮高も中潮、潮時も満潮が午後9時半と申し分有りませんので、今年2回目のメバル釣りを先日と同じ渥美半島沿岸のポイント目指してルンルン気分で自宅を昼前に出発しました。

今日は晴天なのに、モヤがかかったように薄曇りになっているのは黄砂によるものと判りました。車にうっすらと細かい砂が付着しているので直ぐ判ります。明日はこの黄砂について触れてみたいと思います。メバルと言う魚は警戒心の強い魚ですので強い太陽光線の下よりもどんよりとした曇天の方が食いが立つと言われますのでその意味でも今日はメバル日和なのかもしれません。

しかし、そんな期待が空しいものであることを悟るのにさして時間は要りませんでした。一番のポイントには既に 先客がおりましたが一言挨拶してその横に入らせてもらい、二人で仲良く頃合を待ちました。漸く竿の先端に付けているケミボタルの青い光がはっきりと見えるようになった6時半過ぎに、私の置き竿の先のケミホタルが上下に大きく揺れました。竿を取ると、あのメバル特有の当たりが持つ手にこころよく伝わってきました。20cm前後の良型のメバルでした。

これで、「今晩はクーラーに収めきれないほどメバルが釣れそうだね」と隣の釣り人と話しながら意気込んだのも束の間、それから30分経過しても当たりすら出てきません。そして1時間経過した頃、魚探のディスプレーに水深2m前後で帯状の魚影が見られるようになったので、その辺りを探ってみるとピクピクと小さな当たりが有り、上げてみたら10cmに満たないリリースサイズの小メバルでした。そんなメバル釣っても意味無いので再び底まで落として徐々に上げては誘うことを繰り返しましたが一向に当りは出てきません。

やがて、隣の釣り人は、昼間アイナメとカサゴを結構上げていたこともあって早々に諦めて帰っていきました。私は、まだメバル1枚しか上げておりませんので、帰るわけにもいかずもう少し粘ってみることにしました。そして3本の置き竿をいずれも底から5、6mほど切っておいたところ、ポツポツと当りが出るようになりましたがいずれも中型サイズでした。こうしてその後2時間ほど粘って11時半頃、納竿しました。釣果は20cmオーバーの大型2枚、15cm以上の中型8枚の計10枚でした。翌日、女房殿がメバル好きな親戚に行く用事が有りましたので、2枚だけ残して残りを土産代わりに差上げました。




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