| −日記帳(N0.1615)2006年05月19日− |
| 5月の長雨に思うこと(1) |
| −日記帳(N0.1616)2006年05月20日− |
| 5月の長雨に思うこと(2) |
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GW明けの5月8日(月) 頃からぐづついた天気が続いております。名古屋地方では、この間の12日間で青空を覗けたのは8、11、14、15の僅か4日間で、しかも1日のうち半分以上は曇っておりましたので、晴天率を計算すると17%にしかなりません。5月の日本の平均晴天率は45%程度ですから極めて異常な事態であると言えます。 女房殿は洗濯物を干せないとぼやいております。もっとも、晴天になっても今年は黄砂が酷いのでこれまた困るとぼやいております。私もシーズン真っ盛りのメバル釣りに行けないとぼやいております。天文好きの知人は目下接近中のシュワスマン・ワハマン第3彗星の観測が出来ないとぼやいております。株好きの知人はこのぐずついた天気に呼応するかのように5月8日以降、日経平均が続落しているのをぼやいております。 そう言われてみれば、GW明けの5月8日(月) から5月19日(金)までの10営業日のうち、7営業日が下げ、うち6営業日が100円以上の下げ、3営業日が200円以上の下げというように、これまた晴天率と同様に異常な事態であると言えます。 5月8日のGW明け寸前の日経平均株価17,153.77円は5月19日の大引け後には 16,155.45 円となり、実に10営業日で約1,000円、率にして5.8%も下げておりますから知人のぼやきも無理ないところです。私もまたデートレ対象で仕込んだ株が暴落して塩漬け状態になてしまい、ぼやきどころか悲鳴を上げております。 この5月の長雨を、菜種梅雨と考えておられる方がおりましたがこれは菜種梅雨ではありません。菜種梅雨は3月下旬から4月にかけて一時的に数日間降り続く雨を指し、高気圧が北に偏り本州南岸に前線が停滞するのが原因で、菜種 (ナノハナ、アブラナ)が咲くころに降るのでこの名があります。走り梅雨とは、本格的な梅雨に入る前の5月下旬ごろに数日間続くぐずつき模様の天気をいい、東日本に多いとされており、敢えてこの5月の長雨に名前を付けるおすれば、この走り梅雨が正しいように思います。 「奥の細道」に出てくる芭蕉の「さみだれをあつめて早し最上川」のさみだれ(五月雨)は菜種梅雨でもなければ、走り梅雨でもなく梅雨ののことを指しております。本来。5月のことを「風薫る5月」と言って1年のなかでも最も過ごしやすい時期のはずですが、今年の5月は友を亡くし、好きな釣りも出来ず、株で大損するなど碌なことはなくむしろ憂鬱な5月のように思います。しかも、6月早々から梅雨入りするとの予報が出ておりますので更に憂鬱になります。せめてもの救いはその梅雨の期間、北欧の旅を楽しむことができそうだということです。 |
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| 桶狭間の合戦で討たれた今川義元の墓 (この付近に本陣を構えたと推定されている) |
五月雨が5月の長雨でなことは、昨日の日記で芭蕉の句を事例にして説明したとおりですが、この五月雨 をうまく利用して形勢不利な戦いを一転して大逆転勝ちして天下取りの足掛かりを築いた武将がおりました。それは織田信長です。彼が軍勢1/10のハンデを見事な奇襲作戦により桶狭間の合戦で総大将、今川義元を討って勝利したのは446年前の昨日、5月19日のことでした。 と言っても、旧暦の5月19日は、現在の新暦では6月20日に相当しますから梅雨の真っ盛りの頃のはずで、双方とも梅雨の頃であることを承知の上で合戦に臨んだはずです。プロ野球で雨で試合中止になた場合、ホーム側とビジター側でどちらが有利かと言えば圧倒的にホーム側が有利です。ホーム側は地の利を得て家庭でくつろぐことも球団の施設で練習も出来ますが、ビジター側は宿泊先でくつろぐことぐらいしか出来ません。 今川軍は、まさにこのビジター側ですから進軍も道がぬかるんで思うようにいかない上、兵糧以外に雨よけのために陣営の設営に余分な資材を運ばねばなりません。そして、敵の織田軍の領地の尾張での進軍ですから、尾張の中にも大高城、鳴海城からの兵糧の支給は有ったとは言え、全軍が入城するわけにもいかず結局、合戦の有った当日はその大高、鳴海、沓掛の各城に囲まれた標高65m程度の小高い桶狭間山の山上に本陣を設営していたと推定されております。 合戦では出来るだけ敵陣の様子が見える見晴らしのいい高い場所に本陣を構えることは戦略の基本であり、決して間違いではなかったと思われますが、この状況下ではそれが雨が禍して結果的に命取りになったと考えます。信長は当日の早朝、丸根、鷲津、善照寺、中嶋、丹下の5砦で今川方の大高城、鳴海を封鎖しておりましたが、今川軍がこのうち丸根、鷲津の両砦を攻略したとの知らせを受け清洲城で「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」と敦盛の舞を舞った後、熱田神宮へ急行し戦勝祈願を行った後、丹下砦を経て善照寺砦に入っております。 こうして、善照寺砦と中嶋砦が織田軍の前進基地となりましたが、善照寺砦が今川軍に攻略され結局、中嶋砦が実質的にの織田軍の最後の砦となってしまい、この時の織田軍は3千程度と言われ、それに対し、この中嶋砦の周囲には2万5千の今川軍が展開しておりましたから、まさに織田軍は10倍もの敵軍と戦わざる得ない状況にあったわけで、もはや織田軍には奇襲作戦しか残されておりませんでした。 ここで、起死回生の二つの幸運が訪れました。一つは義元が5千の兵を引き入れて桶狭間山の山上に本陣を構えているとの情報に接したこと、作戦を思案していた昼過ぎに梅雨時特有の豪雨が降ったことでした。目標は山上ですからとにかく登ってさえ行けば必ず行き着きます。しかもその様子はスコールのような豪雨で視界が悪かったので、今川方の目を掠めて容易に今川方の本陣にたどり着き、不意を疲れて右往左往する今川旗本衆を尻目に総大将、義元を討つことができたわけです。まさに、情報と天候を味方にした織田軍の戦略の勝利でした。 合戦では、しばしば天候を利用して戦略をたてることがよく有ります。川中島の合戦では上杉軍が夜陰に濃い霧を利用して武田軍の本陣に迫っていますし、壇ノ浦の戦いでは潮流の方向が勝敗を支配しましたし、富士川の戦いでは天候ではないとしても水鳥の大群の羽音を敵軍の進攻と錯覚した平家軍が敗退しております。最も典型的な例は二度の元寇の役で日本軍に味方した台風でしょう。 |
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