−日記帳(N0.1697)2006年08月09日−
オシムジャパン初戦飾るも問題多し
−日記帳(N0.1698)2006年08月10日−
長谷川良平氏の死を悼む


試合終了後、記者会見するオシム監督

今晩、オシムジャパンの日本代表は国立競技場でW杯ドイツ大会出場のトリニダード・トバゴと親善試合を行い、ジーコジャパンの時のDFからボランチのMFに転向した三都主が前半17分にFKから直接ゴールして先制し更にその5分後、再び三都主が駒野のパスを受け左足で絶妙のループシュートで技ありの2点目のゴールを決め、2―0で快勝しオシム監督新体制の初戦を白星で飾りました。

この試合、サッカーど素人の私の思い違いかも知れませんが、これまでと大きく違うところも無くこれと言った成果も感じ取れませんでした。2点取った後は攻めあぐみ、後半は足も止まってW杯での惨敗を彷彿させるような展開だったように思います。W杯ドイツ大会出場したとは言え、その時のメンバーが僅か5人しかいないトリニダード・トバゴを相手にしてのこの結果には不満を感じました。

オシム監督がロスタイムに入ってからトイレに行くと言って席を外し監督就任の初戦を勝ち取ったイレブンをベンチで迎えることを敢えてしなかったことに、オシム監督の無言の不満が窺われるように思えました。試合終了後の記者会見での「90分間走ることができない選手もいた。この試合で得たもっとも大事な教訓は走ることだ」の発言はその一端を表わしているものと思われます。

敢えて、収穫を挙げるとすれば、DFからボランチのMFに転向した三都主の動きと闘莉王と坪井の浦和DFコンビが後半相手の反撃を凌いだことと思います。反面、田中達、長谷部の動きが期待を裏切ったように私には思えました。特に、母校後輩で先発メンバーの中では最年少の長谷部が、前半に得意のドリブル突破を披露する場面も有りましたが後半、動きが鈍って交代させられたのは残念でした。

オシム監督は私には判らないことが多いのですが、彼が目指す「集団的インテリジェンス(知性)を作り上げたい」との基本方針には賛意を表したいと思います。このインテリジェンスはメンバーとシステムは固定せずに柔軟性を持たせることを可能にする手段と考えられます。相手によってメンバーを変え、起用選手によってシステムを変える戦術はプロ野球の世界では日常的に行なわれておりますがプロサッカーの世界ではそれほどでもないように思います。

攻撃のパターンは、左右のサイド、中央突破、セットプレーが有ると思いますが、これまでの日本はこのうち中央突破が少なく、有ったとしてもDFを起点にドリブル突破することが少なく、パスが繋がらなくなりそうになると苦し紛れにロングパスを相手陣内深く上げるのですがこれが裏目に出て高さで優位の相手DFにボールを奪われ反撃の糸口を与えてしまうシーンをどれだけW杯オーストラリア戦で見せ付けられたことでしょうか。こんな時、DFを起点にドリブル突破できたらと思うことしばしばでした。

そんな時に、W杯でDFの三都主が左サイドからドリブル突破したように、長谷部のようなドリブル突破力のある選手をDFにしてDFを起点にドリブル突破できたらいいなと何度思ったことでしょう。そんなポジュションが有るかどうか知りませんが、DFのボランチを置いて、ここからサイドアタック、中央突破ドリブル、ドリブルパス気味のロングパスにするかの指令を出させたらいいなと素人に思うのですが如何がなものでしょうか。

こうして考えていくと、DF MF FWのポジションとそのシステムは時には無視して、DFがより攻撃的に、 FWがより守備的になるなど変幻自在の戦術が、体力、体格で不利な日本選手に向いているように思え、その点オシム監督の「集団的インテリジェンス」の構築は極めて有効であると思うようになりました。選手に知性を植え付け、相手に恐怖を与える変幻自在の撹乱戦法で「東洋の神秘」を目指すオシム流に大いに期待したいと思います。


野球解説中の在りし日の長谷川良平氏

自宅から徒歩15分の同じ町内に愛知県立半田商業高等学校が有ります。昨年創立80周年を迎えたこの知多地域で唯一の商業高校 で地元では「半商」の名前で親しまれております。元々、男子校だったのですが現在では圧倒的に女子の比率が増えて女子高に近い存在になってしまいました。そのため、かっては甲子園出場経験こそ有りませんが、この地域の強豪高として君臨していた公式野球部も現在では部員がまともに集まらず夏の地方予選でも早々と消えていくほどに弱くなってしまいました。

その半田商高出身のプロ野球選手が2人おりました。三井雅晴氏(52歳:元ロッテ)と長谷川良平氏(76歳:元広島)です。三井雅晴氏は1972年にドラフト2位でロッテに入団し2年後の1974年には6勝してその年の新人王を獲得しております。ロッテ在籍10年間での一軍通算成績は140試合、29勝28敗22S、防御率3.50の実績を残し1983年に引退しております。その後のことは判りませんが、このサイトの情報によれば、隣町の武豊町の名鉄知多武豊駅前で、"よっちゃん"と言う屋号でお好み焼きたこ焼き屋さんを開いておられたとのことですので、機会が有れば一度訪ねてみたいと思っております。

長谷川良平氏はご存知の方も多いと思いますが、1950年に広島カープに入団し、勝率3割を割るとチーム解散の危機に立たされていた同球団を、翌年の1951年に獅子奮迅の活躍の活躍でチーム全勝利数32勝の半分以上の17勝をあげ勝率3割以上の.333に貢献してチーム解散の危機を救った「伝説の広島の救世主」として語り継がれている方です。

その長谷川良平氏は9年前に心臓のバイパス手術を受けて以来、入退院を繰り返しておりましたが、今年6月に入って体調を崩し、肺炎と診断され先月24日に入院し29日に安定していた容態が急変し午前11時30分、肺炎のため広島市内の病院で逝去されました。同氏は1948年に半田商高卒業後、地元の社会人チームを点々としてプロ球団からの誘いを待っておりましたが、叶わなかったことから1950年に創設された広島カープの誘いに応じて同球団の入団テストを受け、打席に立った広島の主力打者にシュートを投げ続けバットをへし折っている光景を目撃した石本秀一監督に見込まれて即座に入団契約を済ませたのでした。

身長167cmの小柄な体ながら右横手の変則的なフォームからのシュートを武器に弱小時代の広島の孤高のエースとして1年目から15勝を挙げ8年連続で2桁勝利し、55年には30勝で最多勝に輝き「小さな大投手」と呼ばれ弱小球団の広島を支え続けたのでした。彼が広島に入団した翌年の1951年セリーグは7球団制を敷いており試合日程を組むのに難が有ることからセリーグ連盟は6球団に減らすために「勝率が3割を切ったチームの処置は理事会が決める」と1950年に勝率.299で唯一の勝率3割を割っていた広島に脅しをかけていたのでした。

創設2年目にして解散の危機に立たされた広島を救ったのがこの長谷川良平氏でした。彼は翌年の1951年、41試合に登板し17勝14敗、防御率3.48の成績を挙げることで上述のように広島解散の危機を救い、更に1952年は11勝にとどまったものの、広島は、37勝80敗3分で勝率.316に踏み留まって最下位を脱出できたため入れ替わって勝率.288で最下位に沈んだ松竹が大洋に吸収合併されて6球団制が実現されたことで広島の地位は安定しその23年後の1975年の初優勝に続く広島黄金時代の礎が築かれたのでした。

1951年に広島32勝中17勝、1953年に広島53勝中20勝、1955年の広島58勝中30勝、1956年の広島45勝中22勝するなど、球団創設からの8年間で広島の全勝ち星の約4割を一人で挙げ、1963年に引退するまでの14年間で通算197勝208敗、防御率2.65の成績を残しておりますが注目すべきは防御率2.65です。この数字は巨人上原投手の 2.94 、ソフトバンク和田投手の2.82を上まわっているのに敗数が勝数を上まわっているのです。彼が1952年に移籍を希望した中日に入団していたら300勝投手になっていたであろうとのの推測の根拠がここに有りますが、それ以上に広島での実績の方が輝いているように思います。 また、名球会入りの200勝を目前にして引退した決断も評価されるべきでしょう。

1963年の引退後は広島の投手コーチ、1965年から3シーズンにわたって広島の代理監督、監督を務め退団後は中日ドラゴンズのコーチを経て中国放送の野球解説者として活躍し、広島への愛着を電波を通じて語り、広島OB会長も長く務め2001年には野球殿堂入り、2002年には広島市の第一回市民賞を受賞し故郷の半田市からは市民栄誉賞が授与されております。広島ファン、広島球団関係者、野球関係者、故郷半田の人たちに惜しまれて天国に召された長谷川良平氏の逝去に改めて哀悼の意を表したいと思います。 合掌


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