| −日記帳(N0.1705)2006年08月17日− |
| 石岡繁雄氏の氏を悼む(1) |
| −日記帳(N0.1706)2006年08月18日− |
| 石岡繁雄氏の氏を悼む(2) |
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| 石岡氏等が初登攀するまでは何人も寄せ付けなかった屏風岩 |
「・・・・・・画期的な新製品といわれたナイロン製ザイルを使いながら、それが切れ、大学生が転落死した。この学生の兄で、ナイロンザイルの欠陥を粘り強く追及した石岡繁雄さんが、88歳で亡くなった。ザイルの安全性を強調するメーカーや専門家の大学教授に対して、独自の強度実験などを重ねて、ナイロンザイルが岩角では切れやすいことを証明した。それがきっかけになって、事故から約20年後に、ようやく登山用ザイルを規制する国の安全基準が定められた。・・・・・・」 上の一文は、今日の朝日新聞の「天声人語」の一部です。 ここで紹介されていた石岡繁雄氏(88)が一昨日の8月15日、大動脈瘤破裂のため名古屋市中村区の病院で死去されました。 同氏は中部地区の山岳界ではよく知られた方で、日本で始めて北アルプス穂高岳の屏風岩の登攀に成功したことでも知られております。屏風岩は上の写真に見られるように、高さ 600m、幅 1,500mのほぼ垂直に近い1枚岩で、岩登りを志す人にとって憧れの的でしたが、当時は技術的にみて登攀不可能とみられておりました。 同氏は昭和22年(1947)旧制神戸中学校(現在の三重県立神戸高校)の教員をしていた29歳の時、母校の旧制八高時代の山岳部の仲間から雪が積もった屏風岩の1枚の写真を見せられ、ところどころに雪が積もっているのはそこに足先を支えられる木が生えていることを確信して仲間たちと何回かアタックを試みましたが、突き出した岩が頭の上を覆って先に進めなくなる、いわゆるオーバーハングのために登攀は無理であることを知ったのでした。 そして、オーバーハングを越えるには投縄しかなくそれを実行するには若くて身軽な者が最適と考え、彼が奉職しそこの山岳部長をしていた旧制神戸中学の生徒から松田、本田の2人を選抜し地元の鈴鹿連峰の藤内壁で岩登りのトレーニングを積んだ後、昭和22年(1947)7月24日、この2人の生徒と石岡氏の3人のメンバーが屏風岩にアタックし、延々2日間に渡って悪戦苦闘を繰り返した結果ついに屏風岩の登攀に成功したのでした。 石岡氏はこのことだけでも日本の登山史にその名を残しておりますが、ある事件をきっかけに山岳遭難防止のためにその半生を捧げたことも屏風岩初登攀に負けず劣らず、日本の山岳会に功績を残したことと思い、今日の日記に掲載させて頂きました。そのある事件とは、彼が屏風岩の登攀に成功した8年後の昭和30年(1955)1月2日、北アルプスの前穂高岳を登山中の彼の実弟の転落死でした。 昭和29年(1954)12月22日、石岡繁雄氏が主宰する鈴鹿の岩稜会の一行13人は、厳冬期の前穂高東壁を登攀するために奥又白池にベースキャンプを設置し、昭和30年(1955)1月1日より、彼の実弟で当時三重大1年生の若山五郎さん(当時19歳)、当時中央大学4年生の石原国利さん(当時25歳)、当時三重大4年生の沢田栄介さん(当時21歳)の3人は前穂高の頂上を目指して登山しておりました。その日のうちに東壁をほぼ登り前穂の頂上直下30m付近で日没となり仮眠を取りました。 翌1月2日に東壁の氷壁で、石原さんが先頭で登攀を開始しましたが、岩の上に出ることが出来なかったため若山さんがが交代し登り始めると若山さんの身体が50cm程滑りそして壁から離れて滑るようにして堕ちていったのです。 石原さんと若山さんはお互いにナイロン製のザイルを通して身体を繋ぎ合っておりますから、ザイルが切れない限り石原さんに若山さんがザイルでホールドされる瞬間の衝撃が伝わるはずです。しかし、その衝撃は石原さん伝わらず若山さんの姿は奥又白の谷に消えていきました。残された二人は翌日救助されましたが凍傷に冒されておりました。 石原さんの「ザイルは岩角のところで切れた」 との証言は信用されないどころか「アイゼンで踏んで傷をつけた」「ザイルが古かった」「結び目が解けた」との中傷が相次ぎました。 こうして、石原さんたち2人には友を失った悲しみに加え、こうした中傷と向き合う辛い日々が続いたのでした。このナイロンザイルは18歳も離れた弟の若山さんに石岡繁雄氏が買い与えたものでした。生き残った二人も同氏にとっては弟さん同様に可愛がっていた教え子のような存在で、弟さん同様に登山テクニックに長けており、世間から中傷されるような初歩的なミスを犯すことなど有り得ないことは誰よりも同氏自身が知っておりました。2人の証言を聞いた同氏は、切れるはずのないナイロンザイルが切れたことを確信するに至り、ナイロンザイルを買い与えた責任感、弟を失った悲しみを乗り越えて、ナイロンザイルが切れることを立証して生き残った二人の名誉挽回するだけでなく、二度とこのような事故が起こらないように再発防止策を確立させることの必要性を痛感しそのためには残りの生涯をかけることをも辞さないとの決意を固めたのでした。(明日の日記に続く) 本稿掲の掲載に際し、次のサイトの情報を参考にさせて頂きました。 ・若さの勝利、屏風岩の登攀成功(三重県史より) ・石岡繁雄氏のHP ・中部英傑伝 ・街角探検隊 ・日本山岳会・東海支部HP |
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| 問題の切れたナイロン製ザイルの実物 (大町山岳博物館の展示品より) |
ここで、ナイロンについて少し触れてみたいと思います。 1930年代後半、アメリカは軍用パラシュートに日本産の絹を輸入して使用していましたが、日本との戦争の可能性があり、日本産の絹の供給が断ち切られる恐れが有ったことから絹に代わる繊維の開発が急務となっておりました。 1935年、米国・デュポン社の研究員のウォーレイス・カローザスはあるポリマー溶液から薄い繊維が出来ることを発見しました。この繊維は絹の透明性と綿やウールの強靭さを兼ね備えており、結果として絹に代わる合成繊維として実用化され、軍用パラシュートに採用され急場をしのぐことが出来ました。 そしてこの新製品の商品名は「NO RUN=ほつれない」をもじって名称をノラン(NORUN)、ヌロン(NURON)を経てナイロン(NYLON)になったものとばかり思っていたところ、絹の物性研究の権威で信州大学名誉教授の飯塚英策がある講演会で話された次のナイロン命名秘話は高分子化学を専攻した私にとってはとても興味あるお話でした。 「戦前から日本製の絹に悩まされていたアメリカの繊維産業が日本製シルク産業を指導している日本の農林省に反撃したかったところへナイロンが開発されたたため、農林「NOLYN」をひっくり返すという意味で「NYLON」と命名した」 ノーベル・化学賞を受賞した野依良治名古屋大学名誉教授は、ナイロンが石炭と空気と水から作られることに興味を持ったことが化学の道に入った動機だったと述懐されておりますが、このナイロンは戦後日本に輸入され日本の絹産業に壊滅的な打撃を与え、1950年代には靴下、衣類、釣り糸などに次ぎ次ぎに応用され、「戦後強くなったものは女性と靴下」と言われるほどに日本の社会に深く入り込んでいきました。登山用ザイルもまたたく間にそれまでの麻からナイロンに代わっていきました。この事件が起こった1955年はまさにその転換期で、麻ザイルより数倍強いとのメーカーのPRを信用して石岡繁雄氏が購入して厳冬期の前穂高東壁を登攀する弟さんにプレゼントしたものでした。そして、弟さんが前穂高東壁登攀中に切断したこのナイロンザイルは、東洋レーヨン(現在の東レ)製のナイロン糸を東京製網(現在の東京製網繊維ロープ)で加工したもので、8ミリ×40mでした。 彼は、早速母校の名古屋大学工学部にこのナイロンザイルを持ち込み、須賀太郎教授の協力を得て再現実験を試みたところ、簡単に切れたことを公表しましたが、当時の日本山岳会は肉親が関与した実験としてこれを無視しました。しかし、ナイロンザイルが切れて転落する事故がその後も続いたことから、ナイロンザイルの欠点を早く世間に知らせる必要があると考え、更に実験を続け、ナイロンザイルが尖った岩角にこすれると簡単に切れることを立証し、岩の鋭角の角度が66.5度であれば70キロから90キロの重さを静かにかけるだけでも切れることを立証してこれを公表しました。 メーカーの東京製網は、これに対抗して同社の蒲郡工場(愛知県)で、大阪大学工学部応用物理学教授、日本山岳会関西支部長で登山道具の権威として知られていた篠田軍治氏の指導により、登山関係者や報道関係者の立会い環視のもとで同様の再現実験が行なわれましたが、ナイロンザイルは圧倒的な強さを示し切れませんでした。この差は、名古屋大学側が岩場を鋭く設定したのに対して大阪大学側は鈍角に設定していることによるものでした。岩稜会と東京製網の争そいは名古屋、大阪両大学の論戦の様相を呈するに至りましたが、岩稜会としては、半年後に発見された若山さんの死体から彼の身体がザイルで結ばれていることが確認されたことから結び目が解けたとの疑いが晴れたこと、実験を通してザイルが岩角に弱いことが世間に伝わったことなどから若山さん等3人の名誉は守られたものと判断し、昭和34年8月31日に延々と続いていた論戦に終止符を打ったのでした。 その後、石岡繁雄氏は、日本山岳会発行の昭和31年版の『山日記』での「ナイロンザイルは90度の岩角でマニラ麻の4倍以上強く岩角でも13mの落下まで切れない」との記載は同氏等による実験結果と異なり、これを信用すると同類の事故が発生する恐れが有るとして訂正を求めましたが相手にされませんでした。しかし、その後の石岡繁雄氏等の粘り強い活動が実って、ザイルの強度を厳寒期、酷暑にも切れない基準にすべきとの石岡繁雄氏等の主張に沿って、通産省は昭和50年(1975)6月5日に登山用ザイルの安全基準を後年制定された製造物責任法(PL法)の精神を先取りした形で世界で初めて制定したのでした。実に若山五郎さんの死から20年経過しておりましたが石岡繁雄氏の永年にわたる念願がここに実り、ナイロンザイル切断による不慮の事故死が防がれるようになったのでした。 この事件をモチーフにして井上靖氏が「氷壁」を昭和31年に発表し映画化され、更には今年1月にNKKがザイルをカラビナ、前穂高をK2に置き換えてテレビドラマ化しております。私は当時、高分子化学を専攻しており、高分子のナイロンに興味を抱いていたこと、井上靖しの「氷壁」を読んで感動したことなどから、当時名古屋大学学生部に居られた石岡繁雄氏を訪ねたことが有りました。気軽に井上靖氏の取材を受けた時のことなどを話されたことを懐かしく思い出しながら氏のご冥福をお祈りしたいと思います。 あの時は有難うございました。安らかにお眠り下さい。 合掌 |
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