宮澤トシ(とし子)年譜
1898(明治31年)
 11月5日、トシ誕生。賢治の誕生が1896(明治29)年で
 あるから、二つ違いの妹ということになる。


1905(明治38)年
 4月、花巻川口尋常高等小学校に入学。


1911(明治44)年
 3月、花城尋常高等小学校を卒業(花巻川口小は明治38年
 12月に、花城小と校名を改めている)。
 トシの成績は6学年を通して全甲で、
 4年生の時には模範生として表彰されている。
 4月、花巻高等女学校に入学。


1915(大正4)年
 3月、花巻高等女学校を卒業。1年次より卒業まで首席を
 つづけ、卒業式では総代として答辞を述べている
 父親自慢の才女であった。
 4月、日本女子大学校家政学部予科に入学。宮沢家一族は
 教育熱心な家風で日本女子大には何人も進学していたが、
 トシが入学した時には、祖父喜助の弟の末っ子である宮沢はるが
 在学していた。
 トシははると同じ責善寮(寄宿舎)に入り、予科で1年間主に
 語学を勉強してから本科に進むことになる。
 予科時代のトシが、自分の学校生活に疑問や不満を覚えていたで
 あろうことは、10月21日付の賢治がトシに宛てた手紙から
 推察することができる。


1916(大正5)年
 4月、日本女子大学校家政学部に進む(本科1年)。
 7月、詩人タゴールの自作詩「ギタンジャリー」の朗読
 (英語・ベンガル語)を聞く機会を得る。


1917(大正6)年
 1月16日に賢治がトシに宛てた手紙から、本科に進んだトシが
 落ち着きをとりもどして勉強をしている様子がうかがえる。
 4月、日本女子大学校家政学部2年。
 6月23日付でトシが病気の祖父喜助に宛てて巻紙にしたためた
 長文は、生と死について論じたものである。
 この祖父は同年9月に死去、トシは死の意義をさらに深く考える
 こととなる。


1918(大正7)年
 1月27日に母イチに宛てた手紙でトシは、「私は人の真似ハ
 せず、出来る丈け大きい強い正しい者になりたいと思ひます。
 御父様や兄様方のなさる事に何かお役に立つやうに、
 そして生まれた甲斐の一番あるやうにもとめて行きたいと存じて
 居ります。」と自分の進むべき方向を明らかにしている。
 4月、日本女子大学校家政学部3年。
 11月初め、スペイン風邪が流行し、トシも感染する。
 11月24日付の賢治に宛てた手紙には、賢治がトシの卒論の
 相談にのっていたこと、トシが賢治の職業問題に関して
 意見を述べ、励ましている様子があらわれている。
 12月9日、トシは父宛ての葉書で24日に帰省する旨を知らせるが、
 このあとに発熱、12月20日、永楽病院(東京帝国大学医学部付属
 病院小石川分院)に入院する。
 12月26日、責善寮寮監西洞タミノよりトシ入院の知らせが花巻に
 あり、賢治と母イチはこの夜に花巻を発つ。翌朝上野駅に到着、
 永楽病院近くの雲石館に宿をとり看病にあたる。賢治は東京滞在中、
 トシの病状を報告するため父に46通の書簡を出した。


1919(大正8)年 
 昨年より肺炎で入院していたトシはこの年の正月を病院で迎える。
 入院が長びいたのは、下肺部に一時的にではあるが小部分結核があった
 ため熱の下がりが悪く、また心臓も弱っていたためである。
 この入院の間、賢治が献身的に看護にあたった様子は、見舞いにきた
 親戚関徳弥の話によくあらわれている。

 
「病院で賢治がとし子さんを看病する有様をおぽろげにはいまも
  知っておりますが、便のしまつから服薬、またいちいちその日の
  状態を医師に問い合わせたり、青年のできないようなことを、
  実に克明にやられるのでした。…
 
   (関『随聞』 校本宮沢賢治全集 第14巻 筑摩書房より)

 2月下旬、退院。雲台館で休養する。1月中旬にいったん花巻に戻って
 いた母イチが叔母岩田ヤスとともに上京し、3月3日、トシは母、
 叔母、賢治とともに帰花し実家で静養をつづける。
 3月末、日本女子大学校卒業。トシは3学期は出席することが
 できなかったが、慣例により見込点がつけられた。トシの卒業証書は、
 責善寮寮監西洞タミノにより花巻のトシのもとに届けられた。
 この年、トシは、賢治の短歌662首を清書し一冊にまとめた。


1920(大正9)年

 3月、日本女子大学校時代の級友で学校に残っていた加用とき子に、
 上京できそうな旨手紙で知らせたが、実現はできなかった。
 7月、盛岡で洋服の講習を受ける。
 9月下旬、母校花巻高等女学校の教諭心得となり英語と家事を
 担当する。
 トシは子供の頃から父親の自慢であったが、新しい女性の生き方に
 理解のあった父は、母校に教諭として戻った娘を誇りにしていた。


1921(大正10)年
 3月、盛岡で英語の勉強をする。
 この頃より体調すぐれず、9月に入って喀血、
 9月12日付で退職する。
 賢治はトシ病気の知らせを受けて帰花、12月に稗貫郡郡立稗貫学校の
 教諭となる。トシの病室は、宮沢家が大正8年頃買いとった古くて
 陰気な隣家の一室あった。
 そこに屏風をたて蚊帳をつってすきま風を防いでいた。


1922(大正11)年

 7月、トシは下根子桜の別荘へ移る。母が本宅から食料を運び、
 妹シゲがまかないをした。賢治はこの別荘の2階に泊まり、
 そこから学校へ通った。そして学校から帰ると、その日あったことを
 面白おかしくトシに話して聞かせた。
 11月19日、本宅に帰る。トシは本宅の病室へ戻る時、


 
「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くていやな家だもな。」


 とつぶやいた。賢治もトシとともに本宅に戻り、トシの病室に
 やってきては
南無妙法蓮華経をとなえた。
 宮沢家の宗教は浄土真宗であるが、
 賢治は日蓮宗を信じて国柱会に入会していた。
 家ではトシだけが賢治と同じ信仰をもっていた。


 11月27日、朝からみぞれがふっていた。
 トシは
賢治に頼んでとってきてもらったみぞれを食べ、
 さっぱりしたと喜ぶ。その夜、いよいよ最期という時、父、母、弟、
 妹が見守り賢治が耳元で南無妙法蓮華教を叫ぶ中、トシは逝った
 (享年24歳)。


  賢治は押し入れに頭をつっこんでおうおう声を
 あげて泣いた。



 そして、膝にトシの頭をのせるとその乱れもつれた黒髪をゴシゴシと
 火箸ですいてやった。


 11月29日、鍛冶町安浄寺(浄土真宗)でトシの葬儀が行なわれる。
 賢治は宗旨が違うために出席しなかったが、柩を火葬場へ送り出す頃に
 なるとあらわれ、一緒に手をかけて運んだ。
 そして遺体が焼かれる間りんりんと法華経をよみつづけた。
 賢治は遺骨を二つに分けるといいはり、自分の持ってきた丸い小さな
 缶に入れた。この分骨は大正12年になってから国柱会の妙宗大霊廟
 (静岡県三保)に納骨された。



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